『澁澤龍彦全集 9』

「無意識とは、けだし自然の謂なのである。」
(澁澤龍彦 「マックス・エルンスト」 より)


『澁澤龍彦全集 9』
エルンスト/澁澤龍彦集成第I巻~第VI巻/補遺 1969~70年

編集委員: 巖谷國士/種村季弘/出口裕弘/松山俊太郎

河出書房新社 1994年2月1日初版第1刷印刷/同12日発行
539p 口絵
20.6×15.6cm 丸背布装上製本 貼函
定価5,800円(本体5,631円)
装幀: 菊地信義

月報9(16p):
インタヴュー「澁澤君のこと」堀内路子(友人) 聞き手: 巖谷國士/図版(モノクロ)5点



画集『エルンスト』は1970年3月、平凡社「ファブリ世界名画集」第58巻として刊行された。本巻では図版15点はモノクロで掲載されている。
『澁澤龍彦集成』は1970年2月から10月にかけて桃源社より刊行された。本巻には既刊単行本未収録の文章のみを収める。


目次:

口絵 1971年9月23日(43歳) イラク、サマラットにて

エルンスト
 マックス・エルンスト
 図版解説

澁澤龍彦集成 第I巻
 あとがき

澁澤龍彦集成 第II巻
 サドは裁かれたのか――サド裁判と六〇年代の精神分析
 『サド=マラー』について
 犯罪文学者考
 あとがき

澁澤龍彦集成 第III巻
 エロス、性を超えるもの
 現代のエロス
 苦痛と快楽――拷問について
 もう一つの死刑反対論
 ジャン・ジュネ論
 文学的ポルノグラフィー――A・P・マンディアルグの匿名作品について
 造形美術とエロティシズム
 現代日本文学における「性の追求」
 絶対と超越のエロティシズム
 黒魔術考
 悪魔のエロトロギア――西欧美術史の背景
 ジャン・ジュネ断章
 「血と薔薇」宣言
 エロティシズムを生きた女性たち
 あとがき

澁澤龍彦集成 第IV巻
 魔的なものの復活
 からくりの形而上学
 A・キルヒャーと遊戯機械の発明
 妖怪および悪魔について
 ヨーロッパの妖怪
 密室の画家
 画家と死神
 浮世絵と私
 見る欲望
 パウル・クレー展を見て
 ロメーン・ブルックス――アンドロギュヌスに憑かれた世紀末
 ジル・ランボオ あるいは永遠の裸体について
 つねに遠のいてゆく風景――中村宏のために
 花咲く乙女たちのスキャンダル――金子國義について
 太陽はどこに……――高松潤一郎について
 『絵金 幕末土佐の芝居絵』評
 責め絵の画家・伊藤晴雨
 泳ぐ悲劇役者――大野一雄頌
 肉体のなかの危機――土方巽の舞踊について
 踊る『形而情学』
 梨頭――石井満隆について
 渇望のアンドロギュヌス――笠井叡のために
 悪魔憑きと悪魔祓い――細江英公『鎌鼬』評
 「死の谷」のスフィンクス――篠山紀信『NUDE』評
 あとがき

澁澤龍彦集成 第V巻
 あとがき

澁澤龍彦集成 第VI巻
 あとがき

補遺 一九六九―七〇年
 ヒグラシとテントウムシ
 魔女について
 魔界入り難し
 女ぎらいの異端の王さま――ルドヴィヒ二世
 バルザック『セラフィータ』――天使についての神学の書
 著作集刊行を予定(「近況」)
 マルキ・ド・サド『悪徳の栄え』 解説
 貞操帯の効能
 マルキ・ド・サド『ジュスチイヌ(美徳の不幸)』あとがき
 ロマネスクの香気
 ジャン・コクトオ『ポトマック』あとがき
 デカダンスとカトリーヌ・ドヌーヴ
 古いシャンソン――みゅうじっくたいむ 1
 流行歌あれこれ――みゅうじっくたいむ 2
 クラシック音楽談義――みゅうじっくたいむ 3
 マルキ・ド・サド『閨房哲学』 あとがき
 ダニエル・ゲラン『エロスの革命』(書評)
 [フランス短篇名作]解説
  シャルル・ペロー「赤頭巾ちゃん」
  レオノラ・カリントン「最初の舞踏会」
  シャルル・ペロー「仙女たち」
  シャルル・ペロー「捲き毛のリケ」
  アルフォンス・アレ「奇妙な死」
  シャルル・ペロー「サンドリヨンあるいは小さなガラスの上靴」
  シャルル・ペロー「猫の親方あるいは長靴をはいた猫」
  フランシス・ジャム「パイプ」
  ジェラール・ド・ネルヴァル「緑色の怪物」
  グザヴィエ・フォルヌレ「草叢のダイヤモンド」
 堂本正樹『男色演劇史』(推薦文)
 マルキ・ド・サド『美徳の不幸』解説
 『佐伯俊男画集』(推薦文)
 モーリス・ブランショ『ロートレアモンとサド』(書評)
 遊びと労働の一致
 ジルベール・レリー『サド侯爵――その生涯と作品の研究』あとがき
 インテルメッツォ――悪魔のいる文学史 その四
 ジュール・シュペルヴィエル『ひとさらい』あとがき

解題 (巖谷國士)




◆本書より◆


「マックス・エルンスト」より:

「パラケルススの哲学のように、エルンストの絵画哲学もまた、自然のうちに隠された事物の秩序を明るみに出すことであった。その実験報告ともいうべきものが、彼のフロッタージュ集『博物誌』であろう。ここにおいて、エルンストは、みずから自然と親近し、自然の声を聞き、自然のリズムと同化しようとした、あの十九世紀のロマン主義者たちと近しい関係を結ぶ。「あらゆる真正の作品は、ある聖なる時間に胚胎する。内部の衝動が、しばしば作者さえ知らぬ間に、これを生み出すのである」と述べたのはフリードリヒであるが、エルンストもまた、「私は自分の作品の誕生に観客として立ち会う」と書いたのであった。無意識とは、けだし自然の謂なのである。無意識の探求と自然の探求、内部の探求と外部の探求とは、すぐれた芸術家の作品活動において、ぴたりと一致すべきはずのものだったのである。そして幻視とは、たぶん、内部を通して外部を見ること、あるいは外部を通して内部を見ることにほかならなかったのだ。」


「もう一つの死刑反対論」より:

「もともと私は、アンジェリスム(天使主義)か野獣主義か、どちらかを信じるだけで、ヒューマニズムにはさっぱり縁のない“人間”(言葉の矛盾だが)らしいのである。」


「肉体のなかの危機」より:

「エロティックとはメタモルフォーズの理論である、と断定してよいかもしれない。それは土方巽の人間観とも一致するだろう。奇妙な言い方に聞えるかもしれないが、エロティシズムとは、まさに人間が人間でなくなる時に発現するものなのである。」


「ヒグラシとテントウムシ」:

「終戦の年から数えて二十年以上、鎌倉に住んでいる私は、季節の移り変りをいつも身近に感じている。毎年、ヒグラシの声を初めて聞いた日を、忘れずに手帳につけているが、一九六六年は七月十五日、一九六七年は七月十日であった。初夏の夜のしらじら明けに、徹夜の仕事を終えて風呂に入ると、やがて(川端康成風にいえば)悲しいほど澄み切ったヒグラシの声が聞えてくる。最初は一匹の声であるが、次第にそれが波のように拡がり、ついには一大合唱になる。去年の夏は異常に涼しかったせいか、八月に入るまでヒグラシを聞かず、私は何となく物足りなかった。晩秋になると、また私の家には、テントウムシが大挙して侵入してくる。白い壁や天井に一塊りにびっしり密集して冬を越すが、ストーブを焚くと、目をさまして元気に飛びまわる。私はこのテントウムシたちを、私の家にきた可愛いお客さんだと思って、春がくるまで、そのままにしておく。」
























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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