『澁澤龍彦全集 12』

「とにもかくにも、体験の数を減らすことが急務ではあるまいか。」
(澁澤龍彦 「体験ぎらい」 より)


『澁澤龍彦全集 12』
ヨーロッパの乳房/エロティシズム/夢のある部屋/地獄絵/人形愛序説/補遺 1973年

編集委員: 巖谷國士/種村季弘/出口裕弘/松山俊太郎

河出書房新社 1994年5月2日初版第1刷印刷/同12日発行
637p 口絵
20.6×15.6cm 丸背布装上製本 貼函
定価5,800円(本体5,631円)
装幀: 菊地信義

月報12(16p):
インタヴュー「『サド裁判』前後 2」石井恭二(現代思潮社社主) 聞き手: 松山俊太郎/図版(モノクロ)6点


紀行文を含むエッセイ集『ヨーロッパの乳房』は1973年4月、立風書房刊。『澁澤龍彦集成』第VII巻に既出の「噴水綺談」は本巻では割愛されている。
雑誌「ユリイカ」臨時増刊号「特集: エロティシズム」(責任編集: 澁澤龍彦)を単行本化した『エロティシズム』は1973年8月、青土社刊。澁澤龍彦の執筆部分のうち、「男性および女性の夢魔について」は『悪魔のいる文学史』に収録されているので、本巻には「あとがき」のみが収められている。
エッセイ集『夢のある部屋』は1973年10月、桃源社刊。
『平凡社ギャラリー19 地獄絵』は1974年5月刊。
エッセイ集『人形愛序説』は1974年10月、第三文明社刊。


目次:

口絵 1973年(45歳) 自宅にて

ヨーロッパの乳房
  I
 バロック抄――ボマルツォ紀行
 昔と今のプラハ
 マジョーレ湖の姉妹
 狂王の城
 バーゼル日記
 エル・エスコリアル訪問
 骸骨寺と修道院
 奇怪な偶像
 優雅なスペイン、優雅なゴヤ
 神話の国を訪ねて
 イスパハンの昼と夜――アストロラーブについて
 砂漠に日は落ちて……
  II
 遠近法・静物画・鏡――トロンプ・ルイユについて
 ゴヤ あるいは肉体の牢獄
 シンメトリーの画家――谷川晃一のために
 三人の異色画家
  セバスティアン・シュトスコップフ
  アントワヌ・ヴィールツ
  ロメロ・デ・トレス
 紋章について
 日時計について
 洞窟について
 理想の庭園
 巨木のイメージ
 パリ食物誌
 鏡について
 匂いのアラベスク
 フローラ幻想
 あとがき

エロティシズム
 あとがき
 
夢のある部屋
  I
 飾るということ
 楽器について
 豪華な白
 額縁のなかの春
 振子の音
 窓
 ガラスの魅力
 鏡の魔法
 夜を演出する
 階段あれこれ
 扉をたたく
 煖炉のある暮らし
  II
 ミステリアスな女性について
 遊びの哲学
 愛のエッセイ
 アダムとイヴの匂い
 ナイルの魔女、クレオパトラ
 貞操帯あれこれ
 フランス文学にあらわれた吝嗇家
 北鎌倉の歳時記
 土筆の味
 合歓木と海ネコ
 あとがき

地獄絵
 地獄絵と地獄観念
 図版解説

人形愛序説
  I
 少女コレクション序説
 人形愛の形而上学
 ベルメールの人形哲学
 ファンム・アンファンの楽園
 アリス あるいはナルシシストの心のレンズ
 犠牲と変身――ストリップ・ティーズの哲学
 幻想文学の異端性について
 東西春画考
 セーラー服と四畳半
 インセスト、わがユートピア
 セックスと文化
  II
 アイオロスの竪琴――省察と追憶
 空想の詩画集
  上田秋成と銅版画
  日本の装飾主義とマニエリスム
  お伽草子と鏡男
  東と西の裸体像
 今日の映像
  映像とイメージ
  原点の探索
  怪獣とエロティシズム
 現代犯科帳
  自由としての犯罪
  ポルノと麻薬
  二つの小平事件
  盗みのディアレクティーク
 ある生物学者について
 私のエリアーデ
 翻訳について
 怪獣について
 わが夢想のお洒落
 幼時体験について
 体験ぎらい
 ギリシアの蛙
 終末論 あるいは宇宙のコロンブス
  III
 『錬金術』(R・ベルヌーリ著) 『薔薇十字の魔法』(種村季弘著)
 『文学におけるマニエリスム』(G・R・ホッケ著)
 『魔術師』(J・ファウルズ著)
 『ザ・ヌード』(ケネス・クラーク著)
 『大鴉』(E・A・ポオ詩 G・ドレ画 日夏耿之介訳)
 アントナン・アルトー全集のために
 『迷宮としての人間』(中野美代子著)の序
 『天使論』(笠井叡著)
 『ヨーロッパ歴史紀行』(堀米庸三著)
 池田満寿夫・全版画作品集のために
 ロイヤル・シェークスピア劇団を見て
 「マラー/サド」劇について
 パリ・オペラ座のバレエを見て
 笠井叡舞踏会を見て
 吉岡実の断章
 あとがき

補遺 一九七三年
 変身
 黒いダイヤモンドのごとく……
 愛の南下運動を記念して……
 ジョルジュ・バタイユ『エロティシズム』訳者あとがき
 バタイユを翻訳(「近況」)
 昔と今の鎌倉
 J・K・ユイスマンス『さかしま』第三版 あとがき
 鳥獣蟲魚
 ボリショイ・バレエ「スパルタクス」
 内田愃詩集『航海』跋
 シャルル・ペロー『長靴をはいた猫』あとがき
 マルキ・ド・サド『恋のかけひき』解説
 わが酒はタイムマシーン
 澁澤龍彦 自作年譜
 “劇作家”大庭みな子
 カナブンブンと青空――大駱駝艦公演「陽物神譚」拝見
 『新マルキ・ド・サド選集』再版のためのあとがき

解題 (巖谷國士・松山俊太郎)




◆本書より◆


「バロック抄」より:

「バロックとは、もとポルトガル語のバローコ barroco で、ゆがんだ真珠を意味する普通の言葉だったという。それが美術用語に転用されて、風変りなもの、不均等なもの、要するに反古典主義的なものの貶下的な呼称となったのは、十八世紀後半のフランスからであった。古典主義の概念が確立したとき、それから逸脱したものがバロックの名で呼ばれたわけである。現在でも、文芸用語として、あるいは日常の用語として、バロックは怪奇趣味、ごてごて趣味、芝居がかり、装飾過剰などといった悪い意味を含んでいることに変りはない。この長いあいだ蔑視されていたバロックなるものを、あらゆる時代と文明の根柢に、古典主義と対立して存在するところの人間精神の常数と見なし、いわば初めてバロックの復権を企図したのがスペインの碩学エウヘニオ・ドルスであった。こうして、バロックは単に、一七世紀から十八世紀にかけて、南欧および西欧に現われた時代的現象たるにとどまらず、いつの時代においても、またどこの国においても、繰り返し現われ得る人間の本質的な表現様式ということになった。
 考えてみれば、私たちが今日、バロックというカテゴリーに分類するところの芸術作品も、べつに作者が意識してバロック的なるものを作ろうとしたのでないことは、あまりにも明らかであろう。様式は、すでに名前をつけられる以前から存在していたのである。クロード・ロワによれば、インドのコナラク寺院の彫刻も、メキシコのマヤ文明の石像も、わが国の三十三間堂の一千一体の千手観音像も、いずれもバロックなのである。」

「クラシックとバロックの対立ということを考えてみると、私は、どうやら時代にも二つのタイプがあり、人間にも二つのタイプがあるのではないか、という気がしてくる。人間というよりも、人間の思想と言った方がよいかもしれない。」

「あたかも正午で、ひとびとは昼食のために引っこんでいるのであろう、町はしんと静まりかえり、道を通る人影も疎らである。ヨーロッパのどこの都会でも、お昼ごろには、こんな奇妙な静寂が訪れる。あの古代ギリシア人の怖れた「正午の幽霊」は、こんな時に出現するのであろうと思われた。
 市立美術館の僧院風の中庭には井戸があって、夾竹桃の薄紅色の花が咲き、二階の手すりから見おろすと、乾いた井戸の縁石に、きらりと光る蜥蜴が何匹もいたのを私は思い出す。」



「昔と今のプラハ」より:

「運転手たちは一刻も早く仕事を切りあげて、悠々と食事の時間を楽しみたいのであろう。労働意欲などといった、資本主義的疎外の産物である欲望とは、少なくとも彼らは無縁であるように見えた。」

「チェコ人の度外れた時計好きは、明らかにメカニックなものや魔術的なものに対する生来の嗜好のあらわれであろうと想像された。周知のように、人造人間小説の古典的傑作を書いたチャペックもチェコ人であり、マリオネット演劇や「ラテルナ・マギカ」のようなスペクタクルを何より愛好しているのもチェコ人なのである。そう思って見ると、プラハの町の塔には、やたらに時計が目立つのだった。もっとも、時刻が合っている時計はめったにない。」



「シンメトリーの画家」より:

「私はかつて、ドイツの生物学者エルンスト・ヘッケルの『自然の芸術形式』という本の挿絵にある、放散虫の珪石殻の写真を眺めて、心の底から驚嘆したことがある。この原生動物の細胞が造形する、ありとあらゆるシンメトリックなフォルムたるや、あたかもレース飾りのように繊細であり、スペインの銀細工のように巧緻であって、美しい自然の芸術作品を目のあたりに見る思いがしたからである。人間が造り出すあらゆる道具や工芸品のデザインの手本は、じつは何億年もの昔から、ひそかに自然のなかに、造物主の手によって隠されていたのではあるまいか、といった神秘的な感動に打たれたほどであった。」


「日時計について」より:

「ところで、世の中には変ったことを考える人間もいるもので、稀には月時計というものも造られたそうである。つまり、刻々に移動する月の光の影によって目盛りを読むわけだ。」
「それにしても、月時計とは、また何というロマンティックなイメージであろう! ひっそりとした夜の庭園の芝生に、蒼白い月光が降りそそいでいるところを想像していただきたい。古くから「月の光を浴びると狂気になる」という迷信があるが、この月時計も、やがて狂った時を刻みはじめるのではあるまいか。」


「洞窟について」より:

「どういうものか、私は、ヨーロッパの庭園にほとんど必ず見られる、グロッタ(「洞窟」と訳しておこう)というものが大好きなのである。」
「それは、(中略)私たちの深層心理に眠っている、ひそかな胎内回帰願望のためかもしれないのである。」
「私は子供のころ、地面の下に縦横に穿たれた、蟻の巣の断面図を描くことを大そう好んだものであるが、これなんかも、幼い夢想にあらわれた、一種のグロッタ願望と言えば言えないこともないような気がする。」



「理想の庭園」より:

「その点で、廃園というのは私の気に入った。そこでは管理と手入れを放棄した結果、樹木は伸び放題に伸び、蔦や苔は大理石の欄干や階段を覆い、池の水は淀んで藻を生じ、自然が人工を圧倒し、これを呑みこもうとしているかのごとき荒廃の風情を見せているのである。そういうデカダンスの情緒が、私の感覚に訴えるのだった。」

「ロマネスクの修道院の小さな中庭なども、私の好みのイメージに似合わしい庭の一つである。周囲には円柱の立ち並ぶ廻廊があって、まんなかに井戸があり、井戸のまわりには花壇や薬草園がある。糸杉のような樹が、その廻廊の白い壁に影を落している。井戸の縁石では、日向ぼっこをしていたトカゲが、突然、きらりと背中を光らせて走ったりする。いかにも静かな瞑想と憩いの場所といった感じがする。
 あまりにも広々とした空間よりも、むしろ閉じられた空間、中庭のように囲まれた空間の方が、落着いた気分をあたえることになるのかもしれない。」

「このパティオには、敷きつめられたタイルの中央に泉水や噴水があり、巨大な植木鉢がところ狭しと飾られており、椅子やテーブルなども備えつけてある。鉢植えの植物は、主として南国的な蔓草や羊歯類や蘭科植物で、植木鉢からあふれるように垂れ下がり、そのほかにアカシア、オレンジ、棕櫚、藤、蔓薔薇、葡萄などが植えられている。玄関には僧院風の柱廊があり、二階のベランダから下を眺めおろすこともできる。
 私はスペイン滞在中、町の人が午睡(シエスタ)を楽しんでいる頃、このひっそりした民家のパティオをのぞいて歩きながら、ひとり陶然たる気分を味わっていた。人類の考え出した「庭」という観念の原形が、このアンダルシヤの青空の下の、緑の植物と水の流れに覆われた、小さなタイル張りの中庭にあるような気がするのだった。それは全く、私の気質に何の抵抗もなく受け入れられる、自然と人工との調和した、一つの逸楽的な空間なのであった。」

「彼岸の世界を信頼せず、超越への努力を放棄して、ボードレールのいわゆる「秩序と美と、栄耀と静寂(しじま)と快楽(けらく)」の集約された、地上の楽園をひたすら真剣に求めたのは、ともするとイスラム文化圏の人々ではなかったろうか、と私は漠然と考える。そして私自身の楽園のイメージも、どういうわけか、ここに最も居心地の良さを発見するのである。」



「豪華な白」より:

「白は、すべての色のなかで、私のいちばん好きな色だ。」
「フランスの象徴派詩人マラルメの有名な詩句に、「わが船の帆の素白(ましろ)なる悩み」という言葉がある。白い船の帆は、無限の可能性を蔵して、まだ何も書かれていない真っ白な紙を象徴しているのである。詩人はこの白い紙の上に、文字を書かねばならないが、しかし一たび書いてしまえば、白の純潔、白の清浄はたちまち汚されてしまう。可能性は可能性でなくなってしまう。それでは、詩の創作はあきらめるべきか。――これが真っ白な紙に向い合った、書こうにも書けない詩人の悩みなのである。」
「黒は、すべての色を吸収してしまうが、白は、その反対に、すべての色を撥ね返してしまう。白と黒は、色のなかの最初と最後である。悪魔の色は黒であり、天使の色は白である。ダンテの『神曲』には、「天使たちの顔はみな生きている焔、翼は黄色、そしてその他は、どんな雪も及ばない純白だった」とある。白は豪華な色だと私は思う。」



「振子の音」より:

「ただ生活の便利のためにだけ道具を使い、使いすぎて寿命がくれば、ぽいと捨ててしまうという思想に、私は反対だ。私の好きな道具は、人が見ていない時にこっそり動き出すかもしれないような、あやしい霊の乗り移った道具なのである。」


「アイオロスの竪琴」より:

「妙なことにひっかかる性癖がある。」
「たとえば人の名前を忘れたり、ある熟知の文章が、どの書物のどのページにあったかを失念したりすると、べつにそれが差迫って必要だというわけでもないのに、これを徹底的に捜索して、最後に首尾よく発見するまでは、どうしても気が済まないということがある。
 そのためには、やりかけの仕事も一時中止しなければならず、かたっぱしから本をひっくり返さなければならないので、都合が悪いことおびただしい。
 また、それとは少し違うが、一つのことを考え出すと、どうしても途中でやめられなくなってしまう、ということもある。
 べつにむずかしいことを考えるわけではない。たとえば、私はよく口のなかで、次のように呟いていることがある。カササギ(鵲)、アララギ、ミササギ(陵)、ムササビ、マタタビ……
 まんなかの二字が同音で重なるような、四字の名詞を思い出すのである。もっとないだろうか、と一生懸命に考える。一つ見つかると、またさらに考える。」

「いまでもそうだが、私は手首が痛くなるほど鉛筆をぎゅっと握りしめて、紙の上にくっきりと濃く、明瞭な線を引かなければ気がすまないようなところがあった。紙の裏に、硬い鉛筆の芯の跡が、浮き出てしまうほどである。小学校に入学すると、しばしば先生から、「そんなに力を入れて書くものではない」と注意された。
 どんな絵を描いていたのかというと、私の気に入りのテーマは、およそ三つあった。すなわち海の底の図、蟻の家の図、墓場の図である。
 海の底の水中には、ありとあらゆる魚介類や、クラゲやイソギンチャクや、サンゴや海藻などを描きこむことができた。江戸中期の綺想画家伊藤若冲が、ミニアチュールのような「魚づくし」や「虫づくし」を描いているが、私の幼年時代の海底の図も、まあ、あれに似たようなものだと思っていただきたい。」



「今日の映像」より:

「おそらく、映像の氾濫する今日の日本において、私たちに希望をあたえる唯一の事実は、食い入るような目でテレビの怪獣を眺めている無邪気な子供の存在であろう。彼らこそ、ラスコーやアルタミラの洞窟で、壁に描かれた野獣の絵を、驚異の目をもって眺めた私たちの先祖の感情に、やや近い感情を共有している者たちにほかならないからだ。」

「私は必ずしも、この幼児退行の現象を憂えているのではない。おそらく、あらゆるユートピアは退行の夢である。」



「現代犯科帳」より:

「おれはね、新聞で犯罪の記事に接するたびに、きまってこう思うんだ、「どうしておれが犯人ではないのだろう。どうしておれは犯罪を犯さずに済んでいるのだろう」とね。」
「ところで、人間をして犯罪者たらしめない所以のものは、(中略)じつに小っぽけな自信、というよりもむしろ、社会に適応しているという卑小な満足の意識なんだな。こんなものは自己否定すべきだろう。」
「人間の自由の問題に思いをひそめた過去の小説家は、きまって犯罪者を主人公とした作品を書いたね。つまり、犯罪者に感情移入をしたね。」
「おれも人間だからね、テレンティウスが言ったように、人間的なものは何事によらず、おれにとって無縁ではないと思っている次第さ。」



「私のエリアーデ」より:

「私は昔から、学問の方法などというものには全く縁のない人間で、文学理論などというものも、それこそ生まれてから一度も考えたことがないような種類の人間なのである。私の目の前には、いつも作家と作品があるだけで、しかも私は、そのなかから気に入ったものだけを選び、その他のものには一顧もあたえない。いわばコレクションの方法で、それだけが私の気質にふさわしい唯一の方法だと言えば言えるかもしれないのだ。」

「私には、エロティシズムやユートピアやアンドロギュヌスや、さらには錬金術や悪魔学や自動人形や秘密結社や黄金時代などといった、前から自分の気に入っていた幾つかのテーマが、いずれは深いところで一つに結びつくのではあるまいか、という漠然とした予感がないこともなかった。この予感がなければ、いくら何でも学問の真似ごとはできないのである。よしんばディレッタントの遊びにしても、である。といって、なにしろ系統的な学問は好まないから、私はまるで玩具箱のなかにガラクタを集めるように、これらのテーマを闇雲にコレクションしただけのことである。そして、あるとき気がついてみると、私はエリアーデ理論によって、これらのテーマがすべて密接な関連のもとに、その根底で結びついているということを教えられていたのである。」



「幼時体験について」より:

「あらゆる大人の世界の禁止から解放された、自由なナルシシックな子供の世界、時間のない、永遠の現在に固着している子供の遊びの世界は、やはり私たちの想像し得る、最も理想的な黄金時代と言ってよいのではあるまいか。
 アメリカの心理学者ノーマン・ブラウン氏の意見によると、人間の芸術活動のひそかな目的は、「失われた子供の肉体を少しずつ発見して行くこと」だそうだ。この意味ふかい言葉を、私たちは何度も噛みしめてみる必要があるだろう。」



「体験ぎらい」より:

「体験を語るのは好きではないし、体験を重んじる考え方も好きではない。
 鬼の首でも取ったように、何かと言えばすぐ「体験の裏づけがない」などと批判したがる人間は、私には最初から無縁の人間だ。」

「とにもかくにも、体験の数を減らすことが急務ではあるまいか。」

「野暮を承知で言うならば、私たちがただ一つ、大事に守って行くべきなのは、ジョルジュ・バタイユのいわゆる「内的体験」というやつだけだろう。
 そのほかの体験は、せいぜい処世のための役にしか立たない、人間の生の絶対的側面とは、ほとんど何の関係もないものにすぎないのだ、と私は勝手に料簡している。」



「『迷宮としての人間』(中野美代子著)の序」より:

「私の大好きなニーチェの箴言に、「口の利けるある動物が言った、《人間性とは、少なくともわれわれ動物が陥っていない一つの先入見である》」というのがあるけれども、まさに私たちは、ヒューマニズムという一つの空虚な先入見に陥っているのではあるまいか」








































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本