『澁澤龍彦全集 16』

「おれにとっては、そもそも体験なんていうものは何の意味もないのだから。」
(澁澤龍彦 「体験」 より)


『澁澤龍彦全集 16』
幻想博物誌/悪魔の中世/玩物草紙/世界幻想名作集/ビブリオテカ澁澤龍彦 I~VI/玩具館/補遺 1978~79年

編集委員: 巖谷國士/種村季弘/出口裕弘/松山俊太郎

河出書房新社 1994年9月2日初版第1刷印刷/同12日発行
569p 口絵
20.6×15.6cm 丸背布装上製本 貼函
定価5,800円(本体5,631円)
装幀: 菊地信義

月報16(16p):
インタヴュー「兄の力」四谷シモン(友人) 聞き手: 巖谷國士/図版(モノクロ)3点



連作エッセイ『幻想博物誌』は1978年12月、角川書店刊。
美術エッセイ『悪魔の中世』は雑誌「みづゑ」連載(1961年)に加筆、1979年2月、桃源社刊。
連作エッセイ『玩物草紙』は1979年2月、朝日新聞社刊。
澁澤龍彦編『世界幻想名作集』は幻想文学(翻案)と幻想絵画(図版)のアンソロジー。1979年、世界文化社刊。本巻には澁澤龍彦による「フランケンシュタイン」翻案と解説文2篇を収録。
『ビブリオテカ澁澤龍彦 I~VI』は1979年10月から1980年3月にかけて白水社から刊行された著作集。本巻には「あとがき」のみを収録。
澁澤龍彦編『玩具館』は1980年5月、日本ブリタニカ「遊びの百科全書」第7巻として刊行。本巻には澁澤龍彦による巻頭エッセイ「玩具のための玩具」のみを収録。


目次:

口絵 1977年5月(49歳) 安土城にて (撮影: 井上修) 

幻想博物誌
 スキタイの羊
 犀の図
 スキヤポデス
 クラーケンとタッツェルヴルム
 ドードー
 蟻の伝説
 スフィンクス
 象
 毛虫と蝶
 人魚の進化
 大山猫
 原初の魚
 ゴルゴン
 フェニクス
 貝
 ミノタウロス
 火鼠とサラマンドラ
 グノーム
 海胆とペンタグラムマ
 バジリスクス
 鳥のいろいろ
 虫のいろいろ
 ケンタウロス
 キマイラ
 あとがき(初版)
 あとがき(文庫版)

悪魔の中世
 はしがき
 悪魔像の起源
 悪魔の肖像学
 冥府とアポカリプス
 最後の審判
 地獄と刑罰
 コントラ・トリニタス
 ドラゴンの幻想
 誘惑図
 死の恐怖と魅惑

玩物草紙
 裸体
 虫
 沼と飛行船
 ミイラ取り
 枕
 蟻地獄
 星
 神のデザイン
 家
 反対日の丸
 ポルノ
 変身
 花
 ピストル
 体験
 テレビ
 猿の胎児
 天ぷら
 美術館
 書物
 劇場
 童話
 地球儀
 猫と形而上学
 男根
 カフスボタン
 輪鼓
 夢
 燃えるズボン
 衣裳
 あとがき(初版)
 加山さんのこと(特装版あとがき)
 あとがき(文庫版)
 あとがき(新編ビブリオテカ版)

世界幻想名作集
 幻想文学について
 フランケンシュタイン――シェリー夫人
 幻想美術の流れ

ビブリオテカ澁澤龍彦 I―VI
 あとがき(ビブリオテカ澁澤龍彦 I)
 あとがき(ビブリオテカ澁澤龍彦 II)
 あとがき(ビブリオテカ澁澤龍彦 III)
 あとがき(ビブリオテカ澁澤龍彦 IV)
 あとがき(ビブリオテカ澁澤龍彦 V)
 あとがき(ビブリオテカ澁澤龍彦 VI)

玩具館
 玩具のための玩具――私の玩具論

補遺 一九七八―七九年
 肉体の内部の風景(推薦文)
 ラコスト詣で
 マルキ・ド・サド『州民一同によって証言された不可解な事件』解説
 リリシズムの鍼師
 種村季弘『山師カリオストロの大冒険』(書評)
 酒井潔『愛の魔術』解説
 ポツダム文科の弁
 『堂本正樹の演劇空間』(推薦文)
 歳月の流れに感慨(「近況」)
 歌うシモン
 笠井叡『神々の黄昏』(推薦文)
 愕然と呆然(推薦文)
 ペトリュス・ボレル『解剖学者ドン・ベサリウス』あとがき
 A・P・ド・マンディアルグ『ボマルツォの怪物』あとがき
 A・P・ド・マンディアルグ『ボマルツォの怪物』(「私の訳した本」)
 変幻自在(推薦文)
 線の美しさ
 ジュール・シュペルヴィエル『ひとさらい』あとがき
 神話のインターナショナリズム(推薦文)

解題 (種村季弘・出口裕弘・巖谷國士)




◆本書より◆


「誘惑図」より:

「誘惑とは、疑問のうちに成立するものである。疑問の噴出こそ悪魔の誘惑である。自然は不動なものであるべきなのに、聖者のまわりにうごめく怪しげな者らは、たえず自然を動揺させ、たえず疑問の種をまき、聖者に解答を迫る。理解を迫る。悪魔によって惹起された無秩序な現実を、聖者は理解したい思いに駆られるであろう。しかし、解釈しようとすること、世界に対して懐疑することは、信仰放棄の第一歩ではないか。もし信仰を堅持したいと思うなら、世界解釈の意志を棄て、現実から目をそらさなければならない。無秩序な現実を遮断しなければならない。見る者は破滅するだろう。懐疑家は地獄に落ちるだろう。聖者はそれを知っている。
 十五世紀後半から十六世紀初頭にいたるドイツ、フランドルのほとんどすべての誘惑図が、なにか無関心な、投げやりな、判断中止の表情を浮かべたアントニウスを描いているのは、このためである。「怪物どもがじつにのびのびと、あらん限りの力をふりしぼって威勢よくあばれているのに対して、聖アントワーヌの表情はまったく気がぬけている。彼はまるでこの情景に無関心であるかのようだ」と東野芳明氏が書いているのは(『グロッタの画家』)正しい指摘というべきだろう。
 聖者は聖性に到達するためには、悪魔にさいなまれている最中においても、不感不動の魂を堅持しなければならぬ。逃げてはいけない。反抗してもいけない。非存在(悪魔)を相手に逃げたり反抗したりすることは、悪魔憑きの状態にみずから落ちこむこと、虚無の淵に足をふみ入れることを意味するだろう。逆に、幻影の現実を認めさえしなければ、いかに棍棒の乱打を受けても、聖者はかすり傷ひとつ負わずにいられるはずである。なぜなら、相手はすべて虚無なのだから。恩寵は、この解体した現実を現実と認めることを頑強に拒否するとき、おのずから聖者のもとを訪れるだろう。――中世末の宗教美術の図像学がわたしたちに示す隠者の表情は、すべて、こうした事情を熟知している者の表情である。」



「虫」より:

「あれは私が小学校の二年くらいだったろうか、何でも日のよく当った、休み時間の校庭だったようにおぼえている。(中略)一人でぼんやりと花壇の縁の石に腰をおろしていた。ふと顔をあげると、私の前に、当時の担任の教師だった女の先生が立っていた。
 先生は神秘的な微笑を浮かべると、私の額に指を一本押し当てて、いやにしみじみした口調で、
 「あんたは疳の強い子だからねえ」とつぶやいた、「今度、先生が虫封じをしてあげましょうね。それはよく利くのよ。ここんところに護符(先生はゴフウと発音した)を貼っておくとね、悪い虫がどんどんどんどん出てくるの。虫がぜんぶ出てしまったら、あんたは素直ないい子になるわ」
 虫封じとは何のことか、護符とは何のことか、私にはさっぱり分らなかったが、私はこの女の先生から、額に虫を追い出すための孔をあける、へんな外科手術のようなものを受けている場面を頭のなかに思い描いて、そのとき、戦慄的と言ってもよいような甘美な感覚を味わっていた。
 先生の指の押し当てられた自分の額から、羽蟻のような透き通った小さな虫が、わらわらと群をなして、いっせいに飛び立つシーンをも私は頭のなかに空想した。小さな虫は日の光にきらめきながら、煙のように空気中に拡散してゆくのである。」



「蟻地獄」より:

「しかし、それよりも私にとって面白いのは、このウスバカゲロウの幼虫が決して前方に進まず、つねに螺旋を描きながら後じさりするという習性である。岡山でアリジゴクがコマコマと呼ばれるのは、コマのように回転するためではないか、とも言われている。」
「後じさりしながら旋回するという傾向があるのは、どうもこの虫が、ウスバカゲロウに成長するのを好まず、いつまでも穴のなかでぬくぬくしていたいという、退行願望をいだいているためではなかろうか。私には、そんな気がしてならないのである。」



「神のデザイン」より:

「何らの予備知識もなく、いきなり動物園に連れていかれた子供は、やがて神経症者になってしまうかもしれない、とアルゼンティンの小説家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが書いているが、私もまた、幼時、しばしば動物園で、奇妙に割り切れないような思いを味わわされたことがある。」
「たとえば、ナマケモノという貧歯目の獣がある。(中略)一日の三分の二以上、樹の枝から爪でぶらさがって、うつらうつら眠っているという図々しいやつだ。
 神さまはうっかりこんな獣をつくってしまって、困ることにはならないのだろうか、と私はよく考えた。もしナマケモノが怠け者でなくなり、突然、昼間もぱっちりと目をあけて、活溌に運動し出したり、せっせと働き出したりするようになったら、いったいどうなるのだろうか。そのとき、ナマケモノという獣の本質は、有名無実のものとなり、神さまの創造の仕事は、支離滅裂なものとなってしまうのではあるまいか。
 「ねえ、お父さん、もしナマケモノが怠けていないで、働き出したらどうなるかしら?」
 「うん、おもしろいね。でも、そんなことはないさ。ナマケモノだもの。昼間はいつも、ああして樹にぶらさがって眠っているものときまっているんだ」
 「ナマケモノは、ナマケモノだから働かないの? それとも働かないからナマケモノなの?」
 「さあ、どっちだろうね。たぶん両方だろうさ」
 「もしナマケモノが、ナマケモノだから働かないのだとすると……」
 「うるさいね。理窟ばかり言っていないで、動物園へきたら動物をよく見ていればいいんだよ。ほら、次はオオアリクイだ」
 私の父は、どうやらプラトン主義者ではなかったようである。つまり、時空を超えた非物質的な、永遠の実在としてのナマケモノのイデアを、父は信じていなかったらしい。」
「さて、ナマケモノの檻の前から、次にオオアリクイの檻の前に行ってみよう。考えてみると、こいつもまったく変な獣だ。動物園で一、二を争う珍獣だと言ってもよい。
 一般に信じられているところでは、オオアリクイの口先が極端に長く伸び、その舌の唾液に強い粘着性があるのは、地面のアリを吸い取るのに便利なため、ということになっている。しかし、もともと歯がなく、アリしか食えないような身体的構造をもって生まれてきたオオアリクイ自身にとっては、便利もへちまもないであろう。彼は、道楽でアリを食っているわけではないからだ。
 「ねえ、お父さん、オオアリクイは、アリしか食べないの?」
 「そうらしいね」
 「アリ以外の食べものを、たまにはオオアリクイに食べさせてやりたいような気もするけれど、そうなると、オオアリクイがオオアリクイでなくなってしまうよね」
 「…………」
 オオアリクイはたえず檻のなかを右往左往しながら、長い舌をぺろぺろ、地面のほうへ出したり引っこめたりしている。時には爪で地面を掘ったりしている。その細長い顔とふさふさした尾は、とても獣のものとは思えないほどである。
 これも要するに、神さまがオオアリクイという一つのテーマに固執して、このテーマを満足させるようなエヴィデンスを集積した結果、やむを得ず誕生してきた獣ではないか、と思われるほどの奇態な獣である。オオアリクイ自身には何の責任もないのだ。」
 動物園のおもしろさは、神さまのデザインのいかに気まぐれで、いかに恣意的で、いかに残酷なほど美しいかを感じるところにあろう。合目的性だの適応だのというのは、人間のまことに勝手な判断で、動物たちはただ可もなく不可もなく生きているだけのことなのだ。」



「反対日の丸」より:

「反対日の丸というのは、私の発明した概念で、要するに「白地に赤く」の反対、「赤地に白く」である。アンティ日の丸である。(中略)私は新機軸を出したつもりで、得意満面になる。」
「小学校にあがるようになって、最初の図画の時間に、クレヨンで日の丸の旗を描くことを教師に命ぜられた。私は画用紙の一方の側に、普通の日の丸を描き、もう一方の側に、反対日の丸を描いた。左右対称で、絶妙のアイデアだと自分では思っていた。(中略)教師が教室をまわってきて、私の机の前に立った。
 「なあに、この旗?」
 「反対日の丸」
 私は無邪気に(自分で言うのも変だが、ほんとうに無邪気に)答えて、教師の顔を下から見あげた。教師がほめてくれるか、笑ってくれることを期待していたのだった。ところが、女の先生はにこりともせず、眉根を寄せたけわしい顔で、
 「こんな旗があるものですか。これは支那の旗ですか、え?」
 中華民国の旗が青天白日旗であることを私は知っていたから、何という馬鹿なことを言う先生だろう、無知もはなはだしいではないか、と思った。しかし、そんな私の不満顔も無視されて、反対日の丸の描かれた画用紙は荒々しく教師の手に奪いとられ、別の新しい一枚の画用紙が私の前に置かれた。もう一度描き直せ、という意味であった。私は泣きながら、普通の日の丸だけを描きあげた。」
「当時の小学校教育の根本方針の一つは、現実に存在しないものを表現してはいけない、ということらしかった。作文においても図画においても、しかりである。私はそれを知らなかったので、最初のうち、いろいろなことで小さな失敗を繰り返した。そして、だんだんと順応していった。」
「ふたたび大げさな言葉を使わせていただくとすれば、反対日の丸というのは、私の快感原則のストレートな表現であって、それが学校という小さな社会の現実原則と衝突したのであった。たぶん、そのように考えて差し支えないだろう。
 何度も衝突し何度も挫折したおかげで、私はせめて自分の内部に、ひそかに反対日の丸を守り抜いていこうという、根強い願望を育てあげるにいたった。今にいたるも、それは変っていないようである。」



「猿の胎児」より:

「私が母の胎内から出されても、容易に産声を発しようとしなかったのは、もしかすると、この世に出てゆくのを好まなかったためかもしれない。ふてくされて、みんなを困らせてやろうと思ったためかもしれない。それとも暖かく居心地のよいトンネルの奥の個室から、外の世界へ出てゆくのが億劫だったのかもしれない。
 どっちにしても、お産婆さんという余計なお節介をする商売のひとがいたために、私はこの世に生まれ、成長し、快感原則と現実原則に揉みくちゃにされる羽目になってしまった。」



「地球儀」より:

「十七世紀イギリスの名エッセイスト、トマス・ブラウンが次のように述べている。
 「私が興味をもつ宇宙は私自身であり、私が目をやるのは私自身の肉体というミクロコスモスである。もう一つの宇宙(すなわちマクロコスモス)はといえば、私はそれを室内に置いて、ときどき楽しみにくるくる廻転させる地球儀のようにしか用いない」
 ブラウンにとっては、広大無辺な宇宙というのは自分自身のことなのであって、かえって天体などというものは、机の上の地球儀にもひとしいちっぽけなものでしかないのだ。しかしこれはブラウン一流の逆説で、コペルニクスの革命以来、膨大にふくれあがった無限宇宙という不安な観念を、彼がレトリックによって、何とかして逃れようとしているようにも見えないことはない。」



「衣裳」より:

「もしかしたら、私はてっきり物をもてあそんでいるつもりで、じつは観念を、あるいはシンボルを、もてあそんでいるにすぎなかったのかもしれないのだ。」


「フランケンシュタイン」より:

「「そう言うだろうと思ったよ」と怪物は言った、「人間は不幸な者を憎むのだ。だから、あらゆる生きもののなかでいちばん不幸なおれが憎まれなければならないのだ。お前だけは、おれの創造者だから別だと思ったが、やっぱり同じか。しかしお前には、おれに対する義務があるはずだぞ。まぞその義務を果してくれ。そうすれば、おれも人間全体に対する義務を果してやってもいい」」
「「おれがどんなに苦しんだか、お前のおかげでこの世に生み出されたために、どんな不当な迫害に堪えねばならなかったか、少しは考えてもらいたいものだ。(中略)おれにだって、もとは慈悲心もあったし、おれの魂だって、かつては愛と人道に燃えていたんだ。ところが、おれは一人ぼっち、みじめな一人ぼっちだ。みんなに憎まれ、しりぞけられて、ひと気のない山にかくれて住むしかない。お前にだけは、同情してもらえるかと思ったのに……」」
「「おれがこの世に生み出されたころのことは、よくおぼえていない。目や耳や鼻のいろんな感覚が、一度に押し寄せてきて、最初のうちは区別もつかなかった。だんだん、微妙な感覚の違いが分るようになり、手足で運動したり、頭で物事を考えたりすることができるようになった。
 お前の部屋をとび出してから、おれはインゴルシュタットの近くの森へ行った。小川のほとりに横になって、疲れを休めたり、地面に落ちている木の実を食べたりした。寒い時には、火を起こして暖まることもおぼえた。
 あるとき、森を出ると、羊飼いの小屋が見つかった。老人が朝食の仕度をしており、パンを焼くいい匂いがただよっていた。おれは空腹だったので、ついふらふらと小屋のなかへ入ってゆくと、老人はおれを見たとたん、大きな叫び声をあげて、あとも振り向かずに逃げ出すのだった。そういうことが何度かあって、おれはどうやら人間には嫌われているらしいということが分った。女はおれを見ると気絶してしまうし、子供は泣きわめく。男たちのなかには、石や棒きれを投げつけて、おれを追っぱらおうとする者さえいる。
 そこで、おれは人目を避けて暮らすようになった。とある一軒のみすぼらしい物置小屋に、昼間のうちはかくれていて、夜になると、森のなかへ食べものを探しに出かけるという生活だ。
 この小屋に接した母屋には、貧しいけれども幸福そうな、愛すべき三人の家族が住んでいた。盲目の老人と、その二人の子供、兄と妹だった。彼らの生活をこっそり観察しているうちに、おれは彼らと友達になりたくてたまらなくなった。おれは彼らのために森から薪を集めてきて、だまって戸の前に置いておいてやったりした。ある日、盲目の老人が家にひとりでいるのを見すまして、おれは戸口をノックした。
 『おはいり。どなたです?』
 『旅の者ですが、ちょっと休ませていただきたいと思いまして』
 『どうぞどうぞ。あいにく子供たちが留守で、おかまいできませんが……』
 おれは腰をおろし、しばらくだまっていたが、やがて思いきって言った。
 『私は不幸な身の上です。身寄りもなければ友達もありません。すべてのひとが私に対して偏見をもっています。ああ、私は忌むべき怪物と見られているのです』
 『絶望なさるな。友達がいないのは不幸なことですが、希望をすててはいけません。私は盲人で、あなたの顔を見ることはできませんが、あなたの言葉を聞いていると、あなたが真面目な方であることはすぐ分ります。私でお役に立つことなら……』
 おれは初めて聞いたやさしい言葉に、老人の膝に取りすがって涙をこぼした。
 そのとき、おれがあんなに友達になりたいと願っていた、この家の兄妹が帰ってきたのである。おれの顔を見るなり、妹は悲鳴をあげて気絶した。兄はおれにとびかかってくると、おれを老人の膝から荒々しくもぎはなした。
 おれは絶望して逃げ出した。森のなかへ走りこみ、絶望の破壊衝動にとらわれて、木々を引き裂いたりへし折ったりした。おれは呪われた生きものなのだ、この地上に存在する無数の人間のなかには、おれに憐れみをかけてくれる者は一人もいないのだ、と思った。」



「あとがき(ビブリオテカ澁澤龍彦 VI)」より:

「私はサンダルを突っかけて、日あたりのよい庭に出ると、パイプを吹かしながら梅の花を見る。梅の樹を見る。梅の樹の幹の空洞には、軒しのぶが付着している。乾燥してちぢんだ軒しのぶの葉の裏には、茶色の胞子嚢が二列にならんでいる。近づいて、この胞子嚢を見るともなく見ると、私はまたビブリオテカを思い出してしまう。書物のなかに言葉がつまっているように、胞子嚢のなかには胞子がつまっているからだ。しかも、言葉と胞子とはよく似ており、いずれも母体から離れて飛んでいって、思いがけないところで発芽するのである。この胞子が死に絶えることのないように、私は柄杓で軒しのぶに水をやる。丹念に水をやる。なにしろ冬は乾燥しているのだから。……」


「玩具のための玩具」より:

「ここで、この私のエッセーの基本的な主題ともいうべきものを、ずばりといっておこう。すなわち、玩具にとって大事なのは、その玩具の現実模倣性ではなく、むしろそのシンボル価値なのである。この点については、いくら強調しても強調しすぎることにはなるまい。玩具は、その名目上の使い方とは別に、無限の使い方を暗示するものでなければならぬだろう。一つの遊び方を決定するものではなく、さまざまな遊び方をそそのかすものでなければならぬだろう。」

「このカレイドスコープもそうだが、私のいわゆる玩具のための玩具、玩具至上主義の玩具のなかには、独楽、ヨーヨー、ディアボロ、竹とんぼなどのように、みずから回転する物体が多いということも注意しておいてよいだろう。私はここで、どうしてもニーチェを思い出さないわけにはいかない。まず『ツァラトゥストラ』のなかの一節を引用しよう。

 幼児は無垢であり、忘却である。一つの新しい発端、一つの遊戯、一つの自転する車輪である。一つの第一運動、ひとつの聖なる肯定である。

 ニーチェにとっては、遊戯する幼児という観念が、精神発展の窮極の最高段階をあらわす観念なのである。幼児の遊戯は役に立たぬもの、無用のもの、無償のものだからである。芸術と同じように、役に立たないという点が遊びの最高の価値をなす。(中略)そしてニーチェはしばしば、この遊戯する幼児なる観念を、みずから回転する車輪によって表象しようとした。みずから回転する車輪は、自己目的で自己生産的でしかあり得ず、動機や目的がまったくない、純粋な遊びにほかならないからである。こうしたニーチェ的な考え方からすれば、回転する車輪をそのまま具体的なイメージに化せしめたかのような、独楽だのディアボロだのといった玩具こそ、もっとも崇高にして力強い玩具だということができるだろう。実際、一本足で立って、一心不乱にくるくる回転している独楽のすがたは、私には、何か健気なもの、一途なものを感じさせずにはおかないのである。」



「酒井潔『愛の魔術』解説」より:

「一般に、魔術や神秘学やエロティシズムのような領域に属する知識は、それがアカデミックな学問の体系に併合されてしまっては、興味も半減するといったような性質のものなのである。猟奇的ディレッタンティズムとすれすれのところで、私たちはこの領域にアプローチしなければならない。玩物喪志あるいは好事の精神と言ってもよい。」


「歌うシモン」より:

「感覚。感覚のよくない人間はダメである。(中略)ごちゃごちゃ小むずかしい理窟をならべる人間は、頭のわるい人間にきまっているのだ。」






























































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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