『澁澤龍彦全集 17』

「私なんぞは、社会的視野を広めたいとは少しも思わないし、つねづね「社会とのつながり」なんか糞くらえと思っている人間だ。」
(澁澤龍彦 「専業について」 より)


『澁澤龍彦全集 17』
城と牢獄/妖精たちの森/太陽王と月の王/城/補遺 1980年

編集委員: 巖谷國士/種村季弘/出口裕弘/松山俊太郎

河出書房新社 1994年10月3日初版第1刷印刷/同12日発行
515p 口絵
20.6×15.6cm 丸背布装上製本 貼函
定価5,800円(本体5,631円)
装幀: 菊地信義

月報17(16p):
インタヴュー「『夢の宇宙誌』から『夢の博物館』まで」 雲野良平(編集者) 聞き手: 巖谷國士/図版(モノクロ)5点



エッセイ集『城と牢獄』は1980年6月、青土社刊。
『妖精たちの森』は野中ユリ画集、澁澤龍彦・文、1980年9月、講談社刊。澁澤龍彦による文章11篇のうち、本巻には新たに書きおろされた2篇のみを収録。
エッセイ集『太陽王と月の王』は1980年9月、大和書房刊。既刊『玩具館』所収「玩具のための玩具」は本巻では割愛されている。
紀行エッセー『城』は1981年11月、白水社刊(「日本風景論」シリーズ)。


目次:

口絵 1977年6月8日(49歳) ラ・コストのサドの城にて

城と牢獄
  I
 城と牢獄
 サドの論理
 サド侯爵とジャンヌ・テスタル事件
 サドとマゾッホ――種村季弘『ザッヘル=マゾッホの世界』を読む
 精子派としてのサド
 フランス版『サド侯爵夫人』について
 惑星の運行のように――ルノー/バロー劇団『サド侯爵夫人』を見て
 ラコスト訪問記
 ラウラの幻影
  II
 ポルノグラフィーをめぐる断章
 近親相姦、鏡のなかの千年王国
 エレアのゼノン あるいはボルヘスの原理
 『イタリア紀行』について
 アリアドネの日記
 ヴァルーナの鎖
 一冊の本――コクトー『大胯びらき』
 バイロスについて
 ヴィスコンティ「家族の肖像」について
  III
 金魚鉢のなかの金魚――埴谷雄高について
 稲垣足穂さんを悼む
 美しい笑顔――瀧口修造さんを悼む
 呉茂一さんの翻訳について
 堀口大學氏の翻訳
 思想の良導体――齋藤磯雄氏の翻訳について
 超低空を飛ぶひと――川崎長太郎
 不真面目人間の栄光と悲惨――種村季弘『詐欺師の楽園』
 観念の動物園――「唐版犬狼都市」のために
 加山又造 あるいは豪奢な禁欲主義
 宝石のようなイメージ――野中ユリのこと
 銅版画のマニエリスト――山本六三
 潜在意識の虎――『動物の謝肉祭』序
 あとがき

妖精たちの森
 妖精について
 風について

太陽王と月の王
  I
 知られざる発明家たち
 人形雑感
 太陽王と月の王
 宇宙論について
 植物界のイカロス
 ホログラフィ頌
 北斎漫画について
 お化け屋敷の光源氏
 化けもの好きの弁――泉鏡花『夜叉ケ池』公演に寄せて
 魚の真似をする人類
 パイプ礼讃
 説話好きの弁
 パリの昆虫館
 神話と絵画
  II
 嘘の真実――私の文章修業
 冷房とエレベーター
 古本屋の話
 パイプの話
 機関車と青空
 空前絶後のこわい映画
 読書日録
 望遠鏡をさかさまに――『記憶の遠近法』について
 ビブリオテカについて
 今月の日本
  宗達の犬
  専業について
  流行について
  ディジタル反対
  すべからく
  元号について
  ワイセツについて
  ムクロジの実
  神話の復活のために
  鎌倉今昔
  虎よ、虎よ
  手紙を燃やす
 架空対談・サド
 あとがき

城――夢想と現実のモニュメント
 I
 II
 III
 あとがき

補遺 一九八〇年
 『太平記』(「私と古典」)
 金子國義「アリアドネ」
 すたすた歩く堀内さん
 ロワールの三つの城
 矢野真君のこと
 北鎌倉だより あるいは永遠の幼虫
 『サド侯爵の手紙』あとがき

解題 (巖谷國士)




◆本書より◆


「城と牢獄」より:

「サド文学の逆説的性格を短い言葉で、しかも生き生きしたイメージによって見事に表現した文章として、私がよく頭に思い浮かべるのは、(中略)ジャン・フェリーという作家の、次のような散文詩あるいはアフォリズムふうの文章である。すなわち、
 「獄中のサド侯爵は、仕事の邪魔をされたくなかったので、独房の扉がぴったり閉まっているかどうかを確かめに行った。扉は外部から二重の閂で閉ざされていた。侯爵はさらに内部から、典獄の好意で取りつけてもらった掛金を下ろすと、さて安心して机の前にもどってきて坐り、ふたたび筆をとり出した。」
 サド文学の逆説的性格というよりも、むしろこれは牢獄というものの逆説的性格を示したものだ、と言えるかもしれない。」

「サドは現実には獄中に閉じこめられた、あわれな体制と権力の犠牲者にすぎなかったのに、その小説の世界では、逆にあらゆる権力を自由に行使する専制君主だったのだ。牢獄が夢想の場所でもあるということを、ここでふたたび強調しておく必要があるだろうか。」



「サドの論理」より:

「もっとも、サドの独自性は、(中略)むしろ彼個人の性行動から由来しているのだと考えるべきだろう。異常と判断され断罪された性行動が一種の起爆装置の役割をはたして、彼をその家族、その属する階級、ひいては社会全体と対決させるにいたる。前に私が語った、社会と気質とのぶつかり合い、和解させることのできない二律背反というのが、これである。最も重大な罪として社会の非難する性癖が、彼にとっては自分の生存の本質のようにも思われたので、彼は自分の総力をあげて、その社会の基礎にあるあらゆる価値を検討し、それが根拠薄弱なものであることを証明しようと試みるのだ。そのとき、彼の用いる唯一の武器が論理であり、論理以外の武器を彼は何一つ持たないのである。もちろん、この闘いは終りのない、永久につづく泥沼のような闘いである。(中略)一切のごまかしを許さない闘いである。」

「サドがあれほどの執拗さをもって社会の常識に反抗したのは、みずからの無罪性を信じていたにもかかわらず、社会によって有罪を宣告されたためと考える以外にはあるまい。」

「その最も大胆不敵な作品をもふくめて、サドのすべての作品は、世人が道理に外れたものとして非難する一つの行為を、論理の上に基礎づけようとする合理主義的な試みにほかならなかった。簡単にいえば、異常な行動を異常でないと証明するのが彼の目的だったわけだ。」



「宇宙論について」より:

「もしかしたら、あらゆる宇宙論というのも、客観的な現実世界を扱っているように見えながら、じつは人間の頭のなかにしか存在しようのないものではないのだろうか。インドのヴェーダーンタ学派の唱えるマーヤーのように、客観世界などというものは存在せず、一切の現象世界は人間の頭が生み出す一つの幻にすぎないのだということを、あらゆる宇宙論が証明しようとしているのではないのか。――そんなことも考えられるのだ。」


「望遠鏡をさかさまに」より:

「『記憶の遠近法』と名づけてしまった以上、好むと好まざるとにかかわらず、一つのトーンに全体が染め出されてくるのはやむを得ないだろう。それは何か。
 ずばりと言えば、現在の私がしきりに求めているのは、何か具体的なものである。自己検証というより、物に対する感覚の飢餓だ。そのために、時には記憶をさかのぼるというような、過去追慕的な目を向けたりもするし、時には博物誌家のように、コレクションの真似事をしたりもする。
 しかし具体的なものを求めれば求めるほど、ますます観念論者としての自分を深く意識しなければならなくなるのが、どうやら私という人間の宿命でもあるらしいので、この私の遠近法は、思わず知らず、具体的な個物の背後にイデアの形を透視する、あのプラトンの遠近法に近づいてしまうのではないか、とも思っている。」
「体験とはすべて一種のジャメ・ヴュ(未視感)にすぎない、という印象を私は最近にいたって、ますます深めつつある。」



「専業について」より:

「勤めに出て一日中、オフィスにすわっていたからといって、社会的視野が広まるものでもあるまい。職場の歯車になったところで、どこが面白いのだろうという気もする。
 私なんぞは、社会的視野を広めたいとは少しも思わないし、つねづね「社会とのつながり」なんか糞くらえと思っている人間だ。」
「正直にいって、私は「社会とのつながり」とか「社会的視野」とかいうことの意味がよく分らない。それを求めるひとの気持が分らない。戦時中アメリカに亡命したトーマス・マンは「私のいるところにドイツがある」といったが、私もそれにならって、「私のいるところに社会がある」といいたい気持である。たとえ妻と二人きりで家に閉じこもっていようと、私のいるところに社会がないなんて、いったい誰がいえるだろうか。」



「虎よ、虎よ」より:

「私は、脱走した虎の子供が四週間近くものあいだ、警察や猟友会の必死の捜索にもかかわらず、山のなかへ逃げこんだまま、杳として行方が知れなくなると、だんだん、この虎の子供に声援を送りたいような気分になってきたものであった。
 「がんばれよ。つかまるな。うまく逃げるんだぞ。人間どもに思い知らせてやるがいい。野生の牙をむき出してやれ。思いきり暴れまわってやれ。お前は山の王者になるんだぞ。自由の天地を駈けめぐるんだぞ。いいか。がんばれよ。」
 しかし虎は八月二十八日、ついに発見されて射殺されてしまった。それでいいのである。私は涙なんか決してこぼさないだろう。「虎よ、よくやった。えらいぞ」と思うだけである。「虎よ、虎よ」と歌ったウィリアム・ブレイクのように。」



「城 III」より:

「これら反社会的な人物も、城に住んでいるかぎり、その身は安泰なのである。
 閉じこもることによって力を凝集する、――これがおそらく、城というものの本質的な機能ではないかと私には思われる。城の内部に我が身を限定するのは、一見したところ、その欲望の範囲をせまく限ることのようにも思われるだろう。しかしながら、城というミクロコスモスの内側には、かえって凝集された無限の欲望を感じさせるものがあるらしいのだ。」

「お水取りの火の行事に、ペルシアの拝火教の反映を見るひともいるらしいが、おそらく、火の行事にも水の行事にも、世界の民俗にストレートに結びつくものがあるにちがいない、というのが私の意見である。せまい特殊のなかに跼蹐しているのはもうたくさんだ、ひろびろとした普遍性のなかで日本を見直そう、というのが私の意見である。」



「金子國義「アリアドネ」」より:

「私は生まれつき固陋頑冥な人間だから、ひとたび自分がえらんだ立場を変えることを潔しとしない傾向がある。ひとたび自分が好きになった芸術家には、好きなままで、とことんまで付き合いたいという願望がある。よしんばその芸術家が堕落して、ぼろぼろになろうとも、である。」


「北鎌倉だより あるいは永遠の幼虫」:

「今年は記録的な冷夏だというので、東京などでは蝉の声もほとんど聞かれなかったそうだが、円覚寺の裏山につづく我が家の庭では、樹が多いせいか、例年なみに蝉の声がかまびすしく、八月にはいると、もうみんみん蝉やつくつく法師が鳴きはじめた。
 庭に出ると、蝉の抜け殻がたくさん見つかる。しかしそのなかに、おそらく寒さのせいであろう、完全に脱皮することができず、幼虫のすがたのままで、樹にしがみついて死んでいる蝉を見つけたのは痛ましかった。
 私は、その幼虫のすがたのままで、永遠に羽化するチャンスを失った、あわれな蝉の二三匹をひろって、客間のサイドテーブルの上に飾った。永遠の幼虫という観念に共感をおぼえたからである。」




























































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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