『澁澤龍彦全集 18』

「十年も暗い土の中で生きていて、ついに成虫となることができずに死んだ蝉は、私の目の前で、永遠の幼虫として荘厳(しょうごん)されている。」
(澁澤龍彦 「日記から」 より)


『澁澤龍彦全集 18』
唐草物語/魔法のランプ/補遺 1981~82年

編集委員: 巖谷國士/種村季弘/出口裕弘/松山俊太郎

河出書房新社 1994年11月2日初版第1刷印刷/同12日発行
506p 口絵
20.6×15.6cm 丸背布装上製本 貼函
定価5,800円(本体5,631円)
装幀: 菊地信義

月報18(16p):
インタヴュー「「血と薔薇」の頃 1」内藤三津子(編集者) 聞き手: 松山俊太郎・種村季弘/図版(モノクロ)8点



短篇集『唐草物語』は1981年7月、河出書房新社刊。泉鏡花賞受賞。
エッセイ集『魔法のランプ』は1982年6月、立風書房刊。


目次:

口絵 1977年6月8日(49歳) ラ・コストのサドの城にて (撮影: 堀内誠一)

唐草物語
 鳥と少女
 空飛ぶ大納言
 火山に死す
 女体消滅
 三つの髑髏
 金色堂異聞
 六道の辻
 盤上遊戯
 閹人 あるいは無実のあかし
 蜃気楼
 遠隔操作
 避雷針屋
 あとがき
 新編ビブリオテカのためのあとがき

魔法のランプ
  I
 錬金術夜話
  錬金術とは何か
  錬金術師の仕事場
  賢者の石について
  精神面と物質面
  錬金術と化学
  中世社会における錬金術師
  錬金術と造形美術
 宝石変身譚
 処女生殖について
 裸婦について
 疑わしき美
  かぶらのウェヌス
  ゴッホの耳
  美と時間の作用
  自然、美のモデル
  ボール紙の兜
 日記から
  YGブロンズ
  弾丸力士
  アルバイト
  落書き
  突っぱり
  ディスコ
  ダンチヒ
  幼虫
  マヨラナ
  バビロンの鶯
  方向痴
  明月谷にて
 八〇年ア・ラ・カルト
  サルトルと文学賞
  消費社会における物と人間
  バイロス事件をめぐって
  映画あれこれ
 タランチュラについて
 空洞化したワイセツ概念
 読書生活
  浦島伝説と玉手箱
  両性具有の夢
  東京モダン風俗
  高山寺展を見る
  枝のある椰子の樹
 一頁時評
  イカロス・コンプレックス
  回転する円
  観念小説の伝統
  メルヴィル頌
  日本のなかのペルシア
  楽しい悪循環
  未来のセックス
  謎の病気を追って
  物語は不可能か
  独断と偏見
  無垢な想像力
  現代の博物誌家たち
 私と推理小説――情熱あるいは中毒
 クレタ島の蝸牛
  II
 デュシャン あるいは悪循環
 コクトーと現代
 コクトーの文体について
 ルードウィヒ二世とその時代
 フェリーニ『カサノバ』を見て
 ブリキの太鼓 あるいは退行の意志
 天上界の作家――泉鏡花
 玉三郎讃
 『サド侯爵の手紙』について
 中井英夫『幻想博物館』解説
 推薦文六篇
  ミショー全集
  ワイルド全集
  メルヴィル全集
  日本児童文庫
  ボナ個展
  四谷シモン個展
 あとがき

補遺 一九八一―八二年
 「愛」という言葉――或るマトリストの解釈
 「大きなポプラ」――クリムト展
 中世の学者の如く死に親しむ
 制服、そのエロティックな秘密
 イタリア酔夢行
 ルードウィヒとその城
 ルードウィhいとその「奇妙な友情」
 建長寺・円覚寺(「古寺探訪」)
 吉原さんについて
 わたしの好きなジョーク
 ベアリュ讃(推薦文)
 ユルスナール『三島あるいは空虚のヴィジョン』解説
 神話的な名前
 ある雨の日
 『佛蘭西短篇翻譯集成 I』ノート
 『佛蘭西短篇翻譯集成 II』ノート
 マンディアルグ『城の中のイギリス人』訳者あとがき
 『ことば遊び辞典』『紋切型辞典』
 女・物・記号
 トロワイヤ『ふらんす怪談』訳者あとがき
 夜毎に繰り返されるたったひとりの深夜の祝祭
 モーリス・ベジャール「20世紀バレエ団」
 鶉舞いを見さいな
 デルヴィル「トリスタンとイゾルデ」
 『ロドリゴ あるいは呪縛の塔』ほか 解説
 ヴェルレーヌについて――その好色詩篇

解題 (種村季弘・巖谷國士)




◆本書より◆


「鳥と少女」より:

「信じがたいほど貧乏な暮らしをしていたらしいパオロの家には、部屋の壁という壁に、いろいろな種類の鳥や獣を描いた絵がおびただしく並べてあたっという。彼がフィレンツェのひとびとからウッチェロ(イタリア語で鳥の意)という渾名で呼ばれていたのも、この鳥好きのためだったのである。(中略)ただ、伝記作者の主張するように、彼が本物の生きものを飼うだけの金銭的な余裕がなかったために、やむをえず本物の似すがたで我慢していたのだとは、私にはとても考えられない。奇矯な意見かもしれないが、パオロにとってはむしろ、本物よりも絵のほうがはるかに現実的な価値を有していたのではなかったか、と私は思うのだ。」

「かくてパオロは錬金道士さながら、日夜、紙の上にまっくろになるほど線や図形を描きこんだり、解決すべくもない幾何学や比例の問題に頭を悩ませたりしながら、遠近法の研究三昧に明かし暮らしていた。髯や髪はのび放題、家のなかは埃と蜘蛛の巣だらけで、まさしく隠者の生活であった。めったに家から外へ出ない。ともすると寝食も忘れがちになる。後代のピエロ・ディ・コシモは画業に専念するとき、卵をいっぺんに五十個ばかり茹でて籠のなかに入れておき、右手で絵筆をとりながら、左手で一つずつ食っていったというが、パオロにいたっては、そもそも彼が物を食っているのを見たひとさえいなかったというから、上には上があるものである。」

「猫のように画家の家に居ついてしまったセルヴァッジャは、ともすると一日中、鳥や獣の絵の描いてある壁の前で、じっと丸くなってすわっていた。あたかも彼女自身、すすんで壁のなかの鳥や獣の仲間になってしまったかのようであった。」

「それでは、パオロの喜びはいかなる源泉から生じていたか。それはなによりも、特定したり局限したりすることを好まない喜びだったから、宇宙のありとあらゆる事物に、均等にそそがれる愛に由来していたはずであろう。人工衛星に積まれたカメラのように、彼は地上を離れて飛翔しながら、眼下に見える場所のすべてを洩れなくキャッチしようとしていた。セルヴァッジャの唇も目も髪の毛も、こうしてキャッチされた鳥や獣の一つ一つの姿態、樹木や岩石の一つ一つの線、雲や波の一つ一つの影と、なんら異るものではなかった。パオロはこれらすべてをまったく同等に眺め、まったく同等に愛していたのである。そういう性質の男だったのだから仕方があるまい。」

「さて、とかくするうちに、パオロの貧困はいよいよどん底状態に達したようであった。家には食べるものがなに一つなくなってしまっていた。せめて美術家仲間に相談して援助を仰げばよいものを、パオロ自身がなにもいわないものだから、セルヴァッジャもまたなにもいわなかったらしい。そしてなにもいわないままに、彼女は飢えて死んだのである。」

「いくら世間知らずの画家であったとはいえ、人間の死ということを彼が知らなかったはずはなかろうとも思う。これは私の意見である。」



「空飛ぶ大納言」より:

「こうしたいくつかのエピソードに共通して見られるのは、成通が若いころから鳥のように身が軽く、あたかも重力の法則を無視したかのように、虚空にあそぶ能力を身につけていたという点であろう。それには先天的なものもあったにちがいないが、同時に絶えざる習練によるところも大きかったはずだ。おそらく、彼は重力の支配をのがれて、大地から足を離してしまうということに、幼時から異常な執念を燃やしていたような人物ではなかったろうかと私は思う。」

「だから成通にとって、鞠とは飛翔願望のシンボルであり、とりも直さず、自分自身と同一視されるべき鍾愛のオブジェにほかならなかった。鞠に運動をあたえるのは自分の足だが、その自分はむしろ、鞠の力によって上方へひっぱりあげられているような気がしていた。鞠のおかげで、地上を軽々と飛び立つことができるような気がしていた。鞠と一緒でさえあれば、あの清水寺の舞台の欄干のような、どんな危険きわまりない目くるめく深淵の上でも、安んじて渡ってゆけるような気がしていた。そういう確信をあたえてくれるのが、自分の分身といってもよい不思議な物体、すなわち鞠だったのである。」



「火山に死す」より:

「「なるほど、海胆には目もないし耳もない。それどころか、手足もないし頭脳もないのです。一見したところ、ほの暗い海の底で、彼はまったく受動的な、活気のない、夢のような生を営んでいるようにも見えるでしょう。しかし彼を下等な動物だなどと思ったら、それはとんでもない間違いですね。よく観察してみると、彼は自分の小さな領分のなかを、何ヵ月もかかって旅をしています。ひとが考えるほど、不活溌な生きものではないのですよ。ただ、その必要がないから、やたらに動きまわったりしないだけの話です。たえず旅をつづけながら、たえず餌をとらえて食いながら、彼は周囲の世界にはほとんど関心をもたず、いつも自分のことだけに夢中になっています。」
 「きっと哲学者なのですね。」
 「その通り。少なくともストアの連中なんぞよりは、ずっとしたたかな哲学者ですよ。この海胆にとって、自分の生きている理想と現実が矛盾するというようなことは絶対にないのですからね。それに、この単純な、この精巧な、海胆の殻を見てごらんなさい。彼の生活態度と同じように、これは一つの自然の傑作といってもいいでしょうな。」」

「人間にくらべれば途方もなく古い時代から、この地球上に海胆は出現していたのである。それはいまから約五億年以上も前の、古生代カンブリア紀の終りごろだというから、せいぜい三百万年ないし四百万年の地上における歴史しかもたぬ人類にくらべたら、まさに気の遠くなるほどの長い時間の集積だということになる。そして、古生代タイプの動物は多くほろびたが、海胆のみは繁栄と絶滅を繰りかえす地球の歴史とともに、この漠々たる時間の集積をつらぬいて生きつづけ、げんにいまなお、地中海のなかのカンパーニアの岸辺ばかりでなく、極地から熱帯にわたる世界中の海で、黙々として一類の繁栄を誇っているのだ。しかも、さらに驚くべきことは、すでに五億年前の海底で、海胆が現在とまったく同じような海胆だったということだろう。(中略)海胆は早くも五億年前の昔から、進化の極限としての現在のかたちに到達し、その後はほとんどなんの変化もなかったらしいのである。これを高等動物といわずしてなんといおうか。……」



「三つの髑髏」より:

「もし純粋天皇という観念が日本の歴史上のどこか一点で成立するものとすれば、この花山院こそ、まさにそれにふさわしい観念の体現者ではなかったろうかと私は考える。つまり、自分で天皇をやめてしまった天皇、天皇でありながら、自然に天皇の地位からはみ出してしまった天皇である。十九歳で剃髪してしまってからも、院はなお二十年、権力とはまったく縁のない法皇として生きつづけるが、その短い生涯はどこから見ても申し分なく滅茶苦茶であった。その滅茶苦茶な行動がまたいかにも天皇らしいといえば、それも一つのパラドックスになるだろうか。ともあれ、その狂気、その奇行、その好色乱倫、その風流、そのひたむきな仏道修行、すべてが院をして、いわば天皇以上に天皇らしい一つの無垢な人格の具現者たらしめるのに十分なのである。」

「輪廻の鎖をたぐってゆくと、はたして自分はどこまで遠く存在から存在へ旅しつづけているのか、まるで想像もおよばず、そらおそろしいような気がしてくるほどではないか。」

「院の記憶には、こんなシーンが切れ切れのフィルムのように、前後の脈絡もなしに、際限もなくつづいているような気がするのである。どこまで行っても雨また雨で、全体がぼうと水気に煙っているようでさえある。」



「金色堂異聞」より:

「「生あるものは人間のみではないということを、私はいいたかったのです。もともと私には、なにか普遍的なもの、包括的なものを求めようとする性質があったのですね。」」


「六道の辻」より:

「「篁というひとは、眠るのが大そうお好きで、ふつうのひとよりも多く眠ったといいますが、眠っている時には、その魂があの世へ行っていたのだそうですね。その魂が生六道にもどってきて、この世のひとになったとたん、篁はふかい眠りの底から、ぽっかりと目をさましたと申しますよ、あの世というのは、眠りのことなのでしょうか。」」


「閹人 あるいは無実のあかし」より:

「プラトンは『饗宴』のなかで、原初の人間に男と女と両性具有者の三種類があったということを述べているが、この性の順列組合せのなかに、プラトンの忘れていたか、さもなければ気がつかずに落してしまったタイプが一つあった、と私は見ている。それはなにかといえば、いうまでもなく無性者である。」


「蜃気楼」より:

「「徐君のお住いになる宮殿は、この島の反対側の小さな入江にあります。低い山を越えて行かねばなりませぬ。あたしが御案内いたしましょう。」
 士人が童女のあとについて行くと、やがて三方を山に囲まれた小さな入江に出た。しかし小さな砂浜があるにはあるが、どこを見ても宮殿などの立っているけしきはない。ふしぎに思って、しきりにきょろきょろしていると、童女が熊手のようなものを手にして、いきなり波打ち際に近い砂浜をがりがりと引っかき出した。水をふくんだ砂のなかから、貝がいくつも飛び出してきた。その貝のなかで、たぶん蛤であろうか、ひときわ大きな二枚貝の蓋がぱっくり開いたかと思うと、そこから小さな白髪の老翁がちょこちょこ出てきたので、士人はあっとばかりに驚いた。 
 童女がにこやかに老翁に笑いかけて、
 「徐君さま、今日はめずらしいお客さまをお連れいたしました。」」



「日記から」より:

「もともと出不精な私だが、近ごろではそれがますます嵩じて、東京へ出かけるのはせいぜい一ヵ月に一度か二度である。あとは毎日、家のなかでうろうろしている。寝たい時にいつでも寝られるように、パジャマの上にガウンを引っかけたすがたで、一年三百六十五日を過ごしているのだから、私という男は、衣食住の衣に関するかぎり、まことに経済的な男だと思わざるをえない。
 毎日、私は家でなにをしているのか。まあ、本を読んでいるということにしておこう。」



「デュシャン あるいは悪循環」より:

「ニーチェ思想といっても、この場合のそれは、遊戯する幼児という観念を好んだニーチェ後年の思想だ。幼児の遊戯は役に立たぬもの、無用のもの、無償のものだから、ニーチェにとっては精神の最高段階をあらわす観念にほかならなかった。役に立たないからこそ、それが最高の価値をなすのである。そしてニーチェはしばしば、この遊戯する幼児という気に入りの観念を、みずから回転する車輪によって表象しようとした。みずから回転する車輪は、自己目的でしかありえず、動機や意図がまったくない、純粋な遊びにほかならないからだ。」


「ルードウィヒとその城」より:

「王の計画では、この三つの城のほかにも、まだいくつかの新しい城を建てるつもりだったらしい。しかし国が財政困難におちいったために、子供のような王の希望をかなえてやるのが、むずかしくなった。(中略)王は落胆し、絶望し、「城が建てられなければ、もう余は生きていられない」と手紙に書いている。「バイエルンの国を売ってでも城を建てたい」と悲痛な声をあげている。たいへんな王さまもあったもので、これでは、側近の者が王を狂人扱いするのも、あながち無理はなかったかもしれない。
 まるで我がままな子供のような、この現実ばなれしたロマンティックな気質の王にとっては、莫大な費用を要する城も、いわば玩具のようなものだったのかもしれない。王さまでなければ、とてもこんな馬鹿げた遊びはできないのである。
 しかし、それだけに私たちは、理性や常識をはるかに越えた、ルードウィヒ二世の城への情熱に、ふかい興味をおぼえるのだ。彼こそは、王さまらしい最後の王さまだった。世の中はすでに十九世紀の半ばを過ぎ、産業革命や進歩の思想がヨーロッパを風靡し、ロンドンやパリでは万国博覧会がひらかれ、どこの国の君主だって、ナショナリズムの富国強兵に狂奔していたのである。そんなとき、時代おくれの城の造営にひたすら執念を燃やしていたルードウィヒ二世は、やはり並み大抵の君主ではなかった。よしんば精神分裂病者だったとしても、狂人だったとしても、少なくとも彼の生き方は、王さまなりに徹底していたのである。」




































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本