『澁澤龍彦全集 21』

「なるほど自分は目が見えない。ただし自分の見えない目のまぶたの裏には、あらゆる物の本当のかたち、本当の色がまざまざと映って見える。それは現実の物のかたち、物の色とは大いにちがうかもしれない。もしかしたら自分の内部から出てきたものかもしれない。それだって一向にかまわない。少なくとも自分にとっては、自分の内部から出てきた物のかたち、物の色こそが本当の現実なので、その現実から自分なりのコレクションをつくり出していればよいからだ。」
(澁澤龍彦 「髑髏盃」 より)


『澁澤龍彦全集 21』
うつろ舟/私のプリニウス/フローラ逍遥/補遺 1985年

編集委員: 巖谷國士/種村季弘/出口裕弘/松山俊太郎

河出書房新社 1995年2月1日初版第1刷印刷/1995年2月10日発行
489p 口絵
20.6×15.6cm 丸背布装上製本 貼函
定価5,800円(本体5,631円)
装幀: 菊地信義

月報21(16p):
インタヴュー「次元が違う 2」池田満寿夫(版画家・作家) 聞き手: 巖谷國士/図版(モノクロ)3点



短篇集『うつろ舟』は1986年6月、福武書店刊。
連作エッセイ『私のプリニウス』は1986年12月、青土社刊。
連作エッセイ『フローラ逍遥』は1987年5月、平凡社刊。本全集では図版および八坂安守による図版解説は割愛されています。


目次:

口絵 1979年(51歳) 撮影: 酒井猛

うつろ舟
 護法
 魚鱗記
 花妖記
 髑髏盃
 菊燈台
 髪切り
 うつろ舟
 ダイダロス

私のプリニウス
 迷宮と日時計
 エティオピアの怪獣
 セックスと横隔膜
 海ウサギと海の動物たち
 薬草と毒草
 カメレオンとサラマンドラ
 琥珀
 畸形人間
 鏡
 世界の不思議
 磁石
 鳥と風卵
 アネモネとサフラン
 頭足類
 スカラベと蝉
 宝石
 誕生と死
 地球と星
 天変地異
 真珠と珊瑚
 香料
 象
 あとがき

フローラ逍遥
 水仙
 椿
 梅
 菫
 チューリップ
 金雀児
 桜
 ライラック
 アイリス
 牡丹
 朝顔
 苧環
 向日葵
 葡萄
 薔薇
 時計草
 紫陽花
 百合
 合歓
 罌粟
 クロッカス
 コスモス
 林檎
 菊
 蘭
 あとがき

補遺 一九八五年
 サド(『大百科事典』)
 デカダン派(『大百科事典』)
 ブランビリエ侯爵夫人(『大百科事典』)
 宝石の文化史(『大百科事典』)
 目に見えるノスタルジア――アンドリュー・ワイエス
 ベジャール讃――モーリス・ベジャール20世紀バレエ団

解題 (松山俊太郎・種村季弘・巖谷國士)




◆本書より◆


「エティオピアの怪獣」より:

「動物学的に正しいとか正しくないとか、そんな段階の話ではない。結局のところ、ここでもプリニウスは先人の説を無批判にアレンジして、ちょっぴり自分の創作をつけ加え、自分なりに編集し直したにすぎないもののようである。(中略)あきれてしまうくらい、プリニウスは独創的たらんとする近代の通弊から免れているのであった。
 どうも私はプリニウスの法螺吹きである点や、剽窃家ないし翻案家である点を強調するあまり、彼の大著執筆にあたっての真面目な意図を無視しがちであるような気がするが、いずれは彼のすぐれた観察眼や洞察力を示す機会もあることと思う。(中略)私自身の興味がどうしても、幻想文学としての『博物誌』に向いがちであるのだから、当分は心おきなくプリニウスの嘘八百に付き合っていきたいと考える。考証などと大げさなことはいわないが、むしろ彼がどんなふうに嘘八百をならべたり、でたらめを書いたりしているかという、そのからくりを解き明かすことに私の興味の中心があるといってもよいくらいなのだ。」



「誕生と死」より:

「プリニウスの基調はペシミズムである。こんなに好奇心旺盛な、こんなに逸話好きな、こんなに勤勉な文筆家が、どうしてペシミスティックな思想の持主だったのかと、ふしぎな気がするくらいである。(中略)しかし誕生や生命や死に関する話題、つまり人間の条件に関する話題が出てくると、それまでの熱中がさめて、とたんにプリニウスがしらけた口調になるのは事実である。第七巻第一章は人間の誕生を扱っているが、すでにここにプリニウスのペシミスティックな基調があらわになっている。一部を引用してみよう。
 「自然が人間にとって、やさしい母であるか残酷な母であるかは軽々に判断しえないだろう。まず第一に、人間はあらゆる生きものの中で、他の生きものから借りたものを身にまとわねばならぬ唯一の生きものである。自然は人間以外のすべての生きものに、それぞれ自分の身を守るものをあたえた。すなわち甲殻、貝殻、皮革、とげ、毛皮、剛毛、たてがみ、綿毛、羽毛、鱗、羊毛などである。樹の幹だって、ときには二重の樹皮によって暑さ寒さから守られている。人間だけが、生まれおちると同時に裸の土の上に裸のままでほうり出され、ただちに泣き声をあげなければならないのだ。多くの生きものの中で、こんなに涙をながしやすい生きものはないし、人生の第一歩から泣きわめく生きものなんて聞いたことがない。笑いについていえば、どんなに早くても生後四十日以前に笑う子どもはいない。こうして光に浴してからも、私たちを待っているのは、家畜にさえも課することをためらうような束縛であり、私たちの全身はそれによってがんじがらめにされてしまう。だから、幸福な新生児などといっても、要するに彼らは手足を縛られ泣き濡れて寝かされているにすぎない。すべての生きものに君臨すべき人間が、このざまなのである。この世に生まれたという唯一の過ちによって責苦を課せられて、彼らは人生をはじめなければならないのだ。ああ、こんな人生の第一歩を踏み出した人間が、人間としての誇りをもつなんて狂気の沙汰であろう!」」
「しかし見方を変えれば、このようなプリニウスの人間に対するペシミスティックな見解は、当時のストア哲学風の常套句だったともいえるわけで、それが証拠には、たとえばルクレティウスの『物の性質について』第五巻に次のような記述がある。すなわち「幼児は荒波の上に投げ出された水夫のように、裸のまま地上に横たわり、物もいえず、生きてゆくのに役立つものは何一つもたず、初めてこの世の光の中に飛び出したとき、あたりを悲しい泣き声でみたす」と。」

「次に第五十三章を引用しよう。
 「もっとも不思議でもっともよく起る現象は、突然の死である。これこそ人生において起りうる、もっとも大きな幸福だ。それが自然の原因をもっていることを次に示そう。数かぎりなき例がウェリウスによって報告されている。(中略)まず喜びのあまり死んだ者には、私が前に語ったキロンのほか、コロノスのソポクレスとシシリアの僭主ディオニュシオスがある。ふたりとも、悲劇のコンクールで優勝したという知らせを聞いて死んだのだった。誤報に反して、カンネーの戦いから無事に帰ってきた息子を見て死んだ母親も、同じ部類に属するだろう。恥辱のあまり死んだ者には、スティルポンの出した謎に即答することができなくて死んだ論理学教授ディオドロスがある。はっきりした原因もなく死んだ者には、朝、靴をはきながら死んだ二人のカエサルがある。」
「クイントゥス・アエミリウス・レピドゥスは外出しようとして、足の親指を部屋の敷居にぶつけて死んだ。ガイウス・アウフィディウスは外出して元老院に行こうとしているとき、コミティウム広場で足をすべらして死んだ。元老院でロドス島のために弁じて満場をうならせた同国の大使は、議事堂の敷居をまたごうとして、その場でぽっくり死んだ。これも前法務官グナエウス・バエビウス・タムフィルスは、奴隷に時間をききつつ死んだ。アウルス・ポンペイウスはカピトリウムの丘で、神々に敬意を表してから死んだ。執政官マニウス・ユウェンティウス・タルナは、犠牲をささげている最中に死んだ。ガイウス・セルウィリウス・パンサは朝の七時、弟のプブリウスの腕にもたれて、広場の一軒の店の近くに立っているときに死んだ。判事のバエビウスは、執行猶予をいいわたしているときに死んだ。マルクス・テレンティウス・コラクスは、広場でメモをとっているときに死んだ。つい昨年、ローマのある騎士は、アウグストゥス広場の象牙のアポロン像の前で、ある前執政官の耳に何事かをささやいている最中に死んだ。もっとも奇妙な例は医者ガイウス・ユリウスのそれだろう。彼はからだに油を塗っている最中、自分の目に探り針を突きさして死んだ。前執政官アウルス・マンリウス・トルクアトゥスは夕食のとき、菓子を食べようとして死んだ。医者ルキウス・トゥッキウス・ウァラは、蜂蜜酒をのみながら死んだ。アッピウス・サウフェイウスは公衆浴場からの帰り、蜂蜜酒をのんでから卵を一つ吸って死んだ。プブリウス・クインティウス・スカプラは、アキリウス・ガルスの家で食事中に死んだ。書記のデキムス・サウフェイウスは、自宅で昼食中に死んだ。前法務官コルネリウス・ガルスとローマの騎士ティトゥス・ヘテレイウスは、ウェヌスの快楽にふけっている最中に死んだ。近ごろスキャンダルのたねになった二人の騎士階級の人物も、同様に当代随一の美男たるパントマイム役者ミスティクスを相手にたわむれながら死んだ」
 よくまあ、ずらずらと書きならべたものである。こういうところにこそ、プリニウスの本領が遺憾なく発揮されていると考えるべきだろう。もはやここにはペシミズムの基調は消えてしまっている。すでに作者は死の蒐集家になってしまっているからだ。(中略)足の親指を敷居にぶつけて死んだ人物からはじまって、男や女を相手に情事にふけりながら死んだ人物にいたるまで、ほとんどナンセンスすれすれな理由づけとともに展開される、この死のリストは私にはじつにおもしろい。」



「天変地異」より:

「シシリア島のエトナ山の記述があるのに、ヨーロッパ大陸唯一の活火山たるウェスウィウス山の記述がここにないのは、この山が遠く紀元前八世紀ころ噴火して以来、久しく死火山と見なされてきたためにほかならぬ。(中略)やがて紀元七九年八月二十四日、この山の突然の大爆発とともにプリニウスは死ぬが、まさか(中略)将来の自分が火山のために死ぬことになろうとは夢にも思っていなかったにちがいない。」


「真珠と珊瑚」より:

「真珠貝が空の露を吸って真珠を孕むという物語は、荒唐無稽であるが、いかにもプリニウスらしいということができよう。(中略)この部分を読むと、どうやらプリニウスは真珠を植物における果実のごときものと考えていたらしいことが分る。第十一巻の昆虫の部に、キャベツの葉の上におりた露から毛虫が誕生するという説が述べられていることも、ここで参考のために思い出しておいてよいだろう。古代人は、空の露には動物を自然発生させる力があると考えていたのかもしれない。いずれにせよ、こういう部分が私のいちばん好きなプリニウスなのである。」

「ゴルゴンの目には、見られた者を石化してしまう魔力がある。サンゴもまた、ゴルゴンの魔力によって石化させられた海の植物にほかならぬ。これが古代人の考えた、きわめて合理的な空想植物学であった。」



「桜」より:

「『今昔物語』でも『太平記』でも能でも歌舞伎でもよいから、ちょっと参照してみれば、もともと桜の花とは幻妖なものであったということがすぐ分るだろう。花の雲の下からは、いつでも盗賊だの狐だの白拍子だの狂女だのといった、あやしげなものが飛び出してくる可能性があったのだ。
 現在の私は、そういう目で桜を眺めるようになっているし、また、そういう目で眺める桜こそ、真に日本の風土に育まれた桜ではないかと思っている。」



「牡丹」より:

「花妖ということばがある。花の怪あるいは花の妖精の意味で、むかしから中国の詩文によく出てきた。日本にも読者の多い清代の怪異小説集『聊斎志異』なんかにも、花の精が人間の女のすがたとなって、人間の男と情を交わすという、いかにも中国らしいエロティックな物語がいくつかある。
 じつをいうと、私はこの花妖ということばが大好きなのだ。」

「 牡丹切(きつ)て気のおとろひし夕かな

 この蕪村の句にはべつにエロティックな意味はないだろうが、『聊斎志異』に出てくる花妖の物語なんぞを読むと、なにか官能的なニュアンスをそこに付会したくなってくる。そんなあやしい感じの句だ。そういえば、これも名高い蕪村の句、
 
  ちりて後おもかげにたつぼたん哉

 これは花の幽霊となって詩人の前にあらわれた花妖そっくりではないだろうか。唐突だが、私はこの句を思うたびに、現代フランスの詩人シュペルヴィエルの次の詩をつい連想してしまう。
 
  昼も小暗い森の奥の
  大木を伐り倒す
  横たわる幹のかたわら
  垂直な空虚が
  円柱のかたちに残り
  わなないて立つ。

 すでに花そのもの、樹そのものは存在していないのに、その視覚的イメージだけが幽霊のような存在感とともに、そこに執拗に残存している。網膜に焼きついている。(中略)この「わなないて立つ円柱のかたち」と蕪村の「おもかげにたつぼたん」とは、本質的に同じ一種の残像のようなものではないだろうか。」



「罌粟」より:

「ヨーロッパのヒナゲシのように群生しているわけではないが、日本の農家の庭などにも、かつてはケシの花がよく見られたものだ。いや、戦前の東京の山ノ手にも、庭にケシの花の咲いている家がよくあったのは、西條八十の童謡「肩たたき」のなかに、「真赤な罌粟(けし)が笑ってる タントン タントン タントントン」という一節があるところを見ても分るであろう。私の少年時代の記憶にも、真赤なケシの花は残像のようにぼんやり浮かんでいる。
 ケシといっても、ヒナゲシやオニゲシやアイスランドポピーの果実にはモルフィンがふくまれていないから、べつに栽培が禁止されているわけではない。しかし西條八十の童謡に出てくるケシは、ヒナゲシでもオニゲシでもなく、ケシそのものではないだろうか。
 阿片のおかげでケシがすっかり悪者扱いされるようになってしまったのは、マリファナのために麻がへんな目で見られるようになってしまったのと同様であろう。日本古来の麻は、そもそも由緒正しい植物であった。室町時代に渡来し、宗達や琳派の画家たちによって好んで描かれたケシにしても同様であろう。
 
  けしを見て外出(そとで)ごころをしづめけり

 江戸中期の俳人大島完来の句だが、ほほえましい味があっていい。」
「散るのも早いし、またその真紅が血の色を思わせるからか、ヨーロッパではケシは縁起のわるい花とされているようだ。ケシが殺された者の血から生えるという俗信も、ほとんど全世界共通だそうで、そういえば中国の虞美人の伝説も、同じパターンのものだということが分る。」



「『フローラ逍遥』あとがき」より:

「庭つくりどころか、私はろくろく土をいじったこともなく、自分で草木を植えたことも数えるほどしかないのである。そういう人間が『フローラ逍遥』と称して、(中略)花のことを書いてきたのだから、厚顔無恥もいいところだといわれるかもしれない。
 しかし、このことは単に植物に対する場合のみでなく、およそ森羅万象に対する私の基本的な態度でもあるので、私は根っからの観念的な人間だとしかいいようがないであろう。ともすると書物の中で出会ったフローラ、記憶の中にゆらめくフローラが、現実のそれよりもさらに現実的に感じられる私の気質にとっては、あえていえば、個々のフローラに直接に手をふれることなどはどうでもいいのである。」




こちらも御参照下さい:
澁澤龍彦 『うつろ舟』
澁澤龍彦 『フローラ逍遥』


























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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