『定本 久生十蘭全集 1』

「こんな幸福さうな死顔つてあるものだらうか。唇のはしをすこし曲げ、まるで笑ひをこらへてゐるやうなあどけない顔つきをしてゐた。のぼりかけた朝日が、その横顔を桃色に染める……」
(久生十蘭 「金狼」 より)


『定本 久生十蘭全集 1』
編集: 江口雄輔・川崎賢子・沢田安史・浜田雄介

国書刊行会 2008年10月6日初版第1刷印刷/同9日発行
693p A5判 丸背布装上製本 貼函
定価9,500円+税
装幀: 柳川貴代
本文二段組
月報(8p): 中野美代子 他/写真2点



久生十蘭全集1


「凡例」より:

「一、本全集は、久生十蘭の全作品を収録した。
 ①第一巻~第九巻には、小説・戯曲を収録した。原則として初出の発表年月順に作品を配列し、長篇および連作長篇は、その発表の開始時を基準として配列に加えた。
 ②第十巻には、エッセー、ラジオドラマ、日記等をジャンル別に類纂し、初期作品および改稿の著しい小説作品の異稿を合わせて収録した。
 ③第十一巻には、翻訳を収録した。」
「一、底本には、その作品が掲載された、著者生前最後の単行本・雑誌を用いることを原則とし、適宜本文の信頼度を考慮して判断した。」
「一、漢字は、常用漢字表に含まれるものは、原則としてその字体を用いた。仮名遣いは、作品ごとに底本に従って歴史的仮名遣いまたは現代仮名遣いに統一し、(中略)一部、著者の慣用的表記を残した。」



久生十蘭全集2


目次:

ノンシャラン道中記
 八人の小悪魔――大西洋孤島の巻
 合乗り乳母車――仏蘭西縦断の巻
 謝肉祭の支那服――地中海避寒地の巻
 南風吹かば――モンテ・カルロの巻
 タラノ音頭――コルシカ島の巻
 乱視の奈翁――アルル牛角力の巻
 アルプスの潜水夫――モン・ブラン登山の巻
 燕尾服の自殺――ブウルゴオニユの葡萄祭の巻
つめる
名犬
黄金遁走曲
義勇花白蘭野(ぎにいさむはなのしらの)
金狼
天国地獄両面鏡
黒い手帳
湖畔
魔都
妖術
お酒に釣られて崖を登る話
戦場から来た男
花束町壱番地

解題 (江口雄輔)



久生十蘭全集3



◆本書より◆


「金狼」より:

「新宿は憂ひあるひとの故郷ではない。このなかへ自分をかくすことも、このなかで悲しみを忘れることも出来ない。新宿は浅草がするやうに、ひとを抱いたりしない。用をすましたら、さっさと出てゆかなくてはならない。新宿は近代的な立て場(ルレエ)にすぎないのだ。」

「山瀬は起きあがつて、草の上にあぐらをかくと、微笑をうかべながら、
 「君がなにを言ひたいのか、よく判つたよ。……俺に言はせると、危険なのは君の情況(シチュエション)でなくて、君が本気で妻君(フラウ)を愛しはじめたことなんだ。君がひとりで逃げようとするなら、それは実に易々たる問題なんだからな。……むかし、虚無(ニヒル)の向ふに何があるかといふ幼稚な議論をしたことがあつたな。……君は虚無(ニヒル)の向ふには虚無(ニヒル)の深淵だけだ、といつた。僕は虚無(ニヒル)の向ふに愛がある、といつた覚えがある……。覚えてゐるか」」

「「どうしたといふんだ、藪から棒に。鶴(チル)」
 「わけ? わけはかんたんよ。……あたし、久我に惚れちやつたんだ。(中略)もうどうにも手に負へないんだ。この頃は一日に十ぺん位ゐ泣きたくなる」
 「驚いたなあ」
 さういつて、ふゝんと笑つた。チルは肩をぴくんとさせて、
 「驚いたよ、あたしも。……よく考へて見たら、はじめて逢つたときから惚れてたんだ。……二人の間を割かうと思つてれいの(中略)手紙を送りつけたりしたんだから、あたしも とろい ねえ。かうまで たはけ になるものか。……驚いたてのはこのことなんです。……もう、首つたけなんだ。いのちまでも、さ。……このごろは朝から晩まであとをくつついて歩いてるんだよ」
 「ほう、なんのために」
 キツと乾の眼を見かへして、
 「離れられないのさ。それにはちがひなからう。が、ありていいへば、じつは保護してるつもりなのさ。一旦緩急があつたらなんとかして切りぬけさせるつもりなんだ。……もう、だいぶ危くなつてきてるからねえ、ご存じの通り」
 「おい、逃がすつもりか」
 急に唇をへの字に曲げると鶴(チル)は子供のやうにすゝり泣きをはじめた。
 「……逃がしたい。逃がしたい……。でもあんたをさしおいて勝手なことはしない。あんたに抗(さか)らつても無駄だつてことはよく知つてる。……だから、かうして降参してるんぢやないか。……助けてやつてくれとたのんでるんだ。」」

「久我は微笑しながらその顔をのぞきこんだ。こゝろがしみじみとして、たとへやうもなく愉しかつた。こゝに自分を愛するためにだけ生きてゐるものがゐる。自分の肩に頭を凭らせ、しづかな寝息をたてゝゐる。
 久我は、はじめ葵を愛してゐなかつた。東京での孤独な生活の娯楽として彼女を求めたのだつた。そして、愛もなく結婚した。結婚するのに愛情なんか必要でないと考へてゐたのである。しかし、いまは違ふ。長い間刻苦して鍛へあげた自我的な精神も自由もすてゝ甘んじて平凡な家庭のひとになり切らうとしてゐる。彼女のためならどんなことでもやつてのけようと身構へてゐる。これが愛情といふものなのか。久我にとつてはじつに驚くべきことだつた。こんな変異が自分のうちに起きようとはたゞの一度も考へたことはなかつた。
 久我は葵の手をとりあげてそつと唇をふれた。葵がぱつちりと眼をあけた。
 「あたし、眠つてしまつたのね。……もう出かけなくてはならないの?……もうすこしかうしてゐたいんだけど……」
 「いゝとも。……いゝころに起してやる。……葵、僕がいまなにを考へてゐたか知つてるか?」
 葵はうつすらと眼をとぢると、夢からさめきらないひとのやうな声で、こたへた。
 「あたしのこと……」
 久我が声をたてゝ笑つた。
 すぐ間近で鋭い呼子の音がした。」

「こんな幸福さうな死顔つてあるものだらうか。唇のはしをすこし曲げ、まるで笑ひをこらへてゐるやうなあどけない顔つきをしてゐた。のぼりかけた朝日が、その横顔を桃色に染める……」



「黒い手帳」より:

「黒いモロッコ皮の表紙をつけた一冊の手帳が薄命(はくめい)なようすで机の上に載っている。一輪挿しの水仙がその上に影を落している。一見、変哲もないこの古手帳の中には、ある男の不敵な研究の全過程が書きつけられてある。それは象徴的ともいえるほどの富を彼にもたらすはずであったが、その男は一昨日鋪石を血に染めて窮迫の孤独のうちに生を終えた。」

「彼は頭を抱えて長椅子に仰臥していた。その顔には苦悩の影がやどっていたが、不吉を感じさせるようなものは見られなかった。彼はチラリと目だけうごかして自分のほうを見ると、
 「おれはみょうなことになったよ」
 と、とつぜんにいった。
 「おれは熱烈にあの細君を愛するようになってしまった。これだけは君にも告白しないつもりだったが、苦しくて我慢できないからいう……どうしてこんなことがはじまったか説明は出来ない。おれは過去にこんな経験を持たぬので、これを恋愛だと認めるのにさえ、だいぶ暇がかかった。(中略)率直にいうが、おれはあの細君に愛されたい。おれのものにしたい。あこがれ、渇望して、いまにも気が狂いそうになる。しかし、それはもとより不可能だ。芸術と賭博と、二つの愚かなもののために、恋愛する資格を消耗してしまった。おれには青春も健康も精力も残っていない。のみならず、彼女は人の妻だ。これは厳粛なことだ。おれの道徳はどんな理由があろうと、それを侵すことはゆるさぬ……苦痛だが、なんとかしてこの感情を圧し殺してしまうつもりだ」
 自分はついにひと言でも発することができなかった。低調な精神をもって、壮烈な魂になにを言いかけようというのか。そして、ここに運命の明瞭な初徴を見た。意估地なまでに無器用なやりかたを。」



「湖畔」より:

「俺の四十年の人生は、あたかも旧道徳と封建思想の圏囲内(けんゐない)を彷徨するイルンショー製「クロノメートル」の指針のごときもので、自己一身のほか、なにものをも愛さず、思料(しれう)せず、体面を繕ふことばかりに汲々たる軽薄浅膚(せんぷ)な生活を続けてゐた。最近、測らざる一婦人の誠実に逢着し、俺の過去はあまりにも虚偽に満充ちて居たことを覚り、新生面を打開しようと決意したが、俺は薄志弱行の徒で、実社会に身を置くかぎり、因習に心を煩はされて到底自己に真(しん)なることができぬと思ふから、一切の夤縁(いんえん)を断切ッて無籍準死の人間となり、三界乞食(さんがいこつじき)の境涯で、情意のおもむくまゝ、実誼無雑(むざつ)の余生を送る所存なのである。」

「人々は俺の醜悪な面相を恐れ忌み、様々に嘲笑するのが感じられるものだから、わづかに悲愁を支(ささ)へ、寂寥を慰めてゐた自己心までが残りなく崩壊しつくし、恋愛はおろか、他人の親和愛眷(あいけん)をまつたく期待せぬようになり、顔を見られるのを厭つて、毎日、家に閉籠つてゐた。のみならず、それ以来、妄覚に悩まされ、白昼、幻を見るやうな不安な容態になつたので、本意ではなかつたが一旦帰国することにし、(中略)馬耳塞(マルセイユ)から船に乗つた。航海中、一時、快方に向いたが、印度洋の暑気にやられて譫妄(せんまう)状態に陥り、横浜入港と同時に、手足を縛つて脳病院に送り込むといふ狂人同様の取扱ひを受けた。」

「少女は俺の面相を別になンだとも思つては居らぬ。俺にとつては実に望外なことで、久しく心に蟠(わだかま)ッてゐた鬱懐が一時に晴れあがるやうな気がした。生涯を通じてこの時ほど天空海闊な思ひをしたことがない。率直な男だつたら、少女の手をとつて押戴いたこッたらうが、なにしろ因果な気性なもンだから、むしろ毒々しい口調で、
 「仲々、親切なことを言ふな。フン、お前は随分と愛想のいゝはうだ」と捻ぢくれたことを言つた。」



「魔都」より:

「そもそもどういふ動機からこの重大な過失をおかすに至つたか。既に閣下も喝破された通り、それは一般に恋愛と呼ぶ情緒が私の心情を燃やし、冷理の道を踏み誤らしたのでありました。」
「このやうな低劣な性格にして猶(なほ)検察官たるに耐へるでありませうか。況(いは)んや捜査課長といふ重職に於てをや。(中略)真名古明は即座にその椅子から放逐すべきであります。」
「私は只今限りお別れいたします。最後に感懐を述べることを許して頂けますなら真名古は今非常に幸福だといふことであります。」



「妖術」より:

「外交官は確然たる物質の世界に住み、その限界の向うは荒唐無稽の世界だとして歯牙にもかけることがなかつたが、黒谷山の奥で大江博士に逢つてから、この現実世界のほかにもう一つ、顕然たる形而上の世界があることを感じた。この現実世界の向う側に、霊魂や精霊や悪鬼に属する広大もない領土があることを悟つた。」

「この世にはこのやうな、まるでホフマンの物語にでもあるやうな奇怪(バロック)な事実が有り得るのであらうか。」

「これは人の真実や愛情をあまり軽率に見すごして来たものが当然受くべき報いだつた。
 たうとうその罪劫が罰せられたのだ。かうして愛するものを失つて見ると、今までの自分の冷淡の仕打がいちいち、つらつらに思ひあたるのだつた。」



「戦場から来た男」より:

「小娘の出鱈目(でたらめ)に乗る方が頓馬(とんま)だと言はれればそれまでの話。正直に物を信じるのがいけないとなれば、須藤はこの人間社会から引き退るより仕様がない。さういふ男は浮世の掛引と不正直を戦場へ置き忘れて来た人間なのだから、この社会で生活する資格はないのである。」















































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本