『定本 久生十蘭全集 2』

「私はこの狂人の傍にゐると、少しづゝ精神が高められ、徐々に魂が浄められるやうな気がしてなりません、」
(久生十蘭 「刺客」 より)


『定本 久生十蘭全集 2』
編集: 江口雄輔・川崎賢子・沢田安史・浜田雄介

国書刊行会 2009年1月20日初版第1刷印刷/同23日発行
680p A5判 丸背布装上製本 貼函
定価9,500円+税
装幀: 柳川貴代
本文二段組
月報(8p): 皆川博子 他/写真2点



目次:

新版八犬伝
刺客
モンテ・カルロの下着
モンテカルロの爆弾男
キヤラコさん
 社交室
 雪の山小屋
 蘆と木笛(フリュート)
 女の手
 鴎
 ぬすびと
 海の刷画
 月光曲(ムウン・ライト・ソナタ)
 雁来紅(はげいとう)の家
 馬と老人
新しき出発
顎十郎捕物帳
 捨公方
 稲荷の使
 都鳥
 鎌いたち
 ねずみ
 三人目
 紙凧(たこ)
 氷献上
 丹頂の鶴
 野伏大名
 御代参の乗物
 咸臨丸受取
 遠島船
 蕃拉布(ハンドカチフ)
 日高川
 菊香水
 初春狸合戦
 永代経
 両国の大鯨
 金鳳釵(きんぽうさ)
 かごやの客
 小鰭(こはだ)の鮨
 猫眼の男
 蠑螈(ゐもり)

解題 (川崎賢子・沢田安史)




◆本書より◆


「刺客」より:

「かういふ醜い争闘を眺めてゐると、この三人の真人間どもに形容の出来ぬ嫌厭の情を感じ、反対に、小供のやうに純真で清楚なこの狂人の方に強く心が惹かれます。仮りにかうも言へるなら、私はこの狂人の傍にゐると、少しづゝ精神が高められ、徐々に魂が浄められるやうな気がしてなりません、この頃は、いろいろ口実を作つて一日中この狂人の傍にゐます。」

「それにしても、この男はなんと言ふ穏やかな眼差をしてゐるのでせう。それは小児の眼のやうに無心で、修道僧のそれのやうに限りない忍辱の影を宿してゐる。財産も愛人もこの世のさまざまな愉楽もまた人間としての権利さへも不条理に剥奪され、この荒涼たる風景の片隅で、嘗つて前例のないほどの、道化た、陰険な待遇を受けながら、悶(もだ)えるでもなく嗟嘆するでもなく、ひたすら閑寂な生活を送つてゐる。
 決して生優しいことではなかつたのでせう。この諦観を得るまでには、どの位ゐ懊悩したか苦しんだか、その劇しさは察するに難くない。」



「鴎」より:

「キヤラコさんは、レエヌさんと女学校の二年まで同級だつた。レエヌさんのお父さまは廿年も前にカナダから来たフランスの学者で、日本で結婚をしてそれから幾年もたゝぬうちに亡くなられたといふことで、レエヌさんは、学校では、母方の姓を名乗つて、木村礼奴(きむられいぬ)といつてゐた。
 その頃のレエヌさんはロオレンスの絵にある少女のやうに美しかつた。眼が深く大きくて海のやうに碧(あを)く、皮膚が冷たく冴えて、いつも月の光をうけてゐるやうなふしぎな感じを与へた。すばらしく勝気な、固苦しいほど熱心な勉強家で、いつもキヤラコさんと首席を争つてゐた。決してうちとけないひとで、こちらでどんなに愛想をよくしても、ちよつと微笑をかへすだけで、頑固に孤立をまもつて、いつも校庭の隅で、ひとりでブウルジエなどの小説を仏蘭西語で読んでゐた。
 家庭的にたいへん不幸なひとらしく、保羅(ぽうる)といふ、やはり混血の兄がひとりゐるといふことのほか、自分の家庭についてはなにひとつ話さなかつた。」
「級(クラス)では、礼奴さんがお母さんと二人で、横浜の海岸通りで酒場(バア)をやつてゐるのだといふ噂が伝説のやうに信じられてゐた。
 身振りや、言葉のちよつとした言ひ廻しのなかに、相手をどきつとさせるやうな、大胆な、人ずれのした調子があつた。いつも懶(ものう)さうにして、しよつちゆう遅刻したり休んだりした。」

「ピエールさんは、心の中のひそかな憂悶をおし隠さうといふふうに、わざとらしく微笑んで見せて、
 「私は、レエヌを気の毒な娘だと思つてゐます。誰からも愛されないし、誰れからも好かれない。自分で、嫌はれるやうに嫌はれるやうに仕向けてゆくのです。……なにびとをも愛さなければ、どんな親切をも受けつけない。奇矯で、廃頽的で、ひねくれてゐて、ひよつとすると、徳性(モラリテイ)といふものを全然持つてゐないやうにさへ見える。……どんなものにも満足しないし、どんな環境にも落着いてゐられない。しよつちゆう、何か刺戟と変化を求めてイライラしてゐる。このへんのことは、あなたもよくご存知でせう」
 キヤラコさんは、返事をしなかつた。答へようとすれば、ピエールさんの言つたことに同感するほかはないのが情けなかつた。」

「「レエヌ、お前のはうが悪いのだから謝りなさい。……キヤラコさんは、たつたひと言でいゝと言つてるぢやないか」
 レエヌさんは、踊りでも踊つてゐるかと思はれるやうな調子はづれな劇しい身振りで、地団駄を踏みながら、
 「誰れが、誰れが、誰れが! 誰れがあやまつてなんかやるもんか! 死んだつてあやまらない!……あたしは、子供のときから、こんな風にばかりして生きて来たんです!……どうせあたしは黄白混血児(ユウラジアン)さ! どつちみち、どちらの側からも好かれやしない。おとなしくなんかしてゐることはいらないんだ!……なまじつか、普通のお嬢さんのやうに、幸福(しあはせ)になんかならうと思つたばかりに、身につかない夜会服(ソアレ)なんかで締めつけられて、それこそ息のつまるやうな思ひをしたよ。(中略)……なんといふお笑草(わらひぐさ)だ。……あゝ、もう沢山! そんな茶番はあたしの性に合はないの。……あたしは、明日、快遊船(ヨツト)を降りて、淫売婦にでもなつちまふ。そのはうが、結局、人間らしい生活といふもんだわ」」

「レエヌは、調子を外した陽気な声で、
 「……あたし、むかしからあなたを嫌ひだつたのよ。どこもここも模範だらけのあなたが憎らしくて仕様がなかつたの。いつか、やつつけてやらうと思つて隙をねらつてゐたんだ。……ねえ、キヤラコさん、あなたのやうに、お腹の中にゐるときから、幸福(しあはせ)づくめのひともあるし、あたしたちのやうに、泥の中を這ひずり廻つてゐるやうな、こんなみじめな兄妹もあります。それに、こんどは、たいへんな財産を相続なすつたさうで、お目出たう。(中略)……それで、すこしお裾(すそ)わけしていたゞかうと思つて考へ出したことなの。……あたしたちのやうな憐れな兄妹の思ひつきさうなことでせう」」

「保羅は、時々、先生のところへやつて来ては、沈鬱な、典雅(エレガント)なやうすで、エリツク・サテイやダリウス・ミイヨオやオーリツクなどを弾いてゐた。近代仏蘭西の音楽にたいする理解と感受性にかけては、この日本にあの内気さうな無口な青年に及ぶものはひとりもないのです。ルビンシユタイン先生がいつもさうおつしやるの、とその友達が話してきかせた。
 音楽にすぐれた才能をもち、どの青年よりも謙譲で優雅だつたといふその保羅さんが、市井の無頼漢のやうに、床の上に酔ひつぶれてゐるのは、あさましいといふよりは、なんともいへないはかなさがあつた。
 (このごろは、もう、ピアノなんかもよしてしまつたのにちがひないわ)」

「レエヌさんは、熱が出てきたのらしく、眉の間に竪皺をよせ、苦しさうにあへぎながら、おぼろな声で囈言(うはごと)を言つてゐた。
 「……お兄さん、……お兄さん、……また、陽が暮れかゝつてきたわ。……情けないわねえ。……あゝ、なんて淋しいんだらう。……胸の空洞(うつろ)の中へ潮がさしてくるやうな。……闇が魂を包み込んでしまふやうな、この、淋しい不安な感じ。……子供のときから、いくど悩まされたことだつたでせう。……ねえ、お兄さん、あなたもさうだと云ひましたね。……なんといふ、あはれな兄妹……」
 キヤラコさんは、レエヌさんの手を執つて、そつとゆすぶつて見た。
 「レエヌさん、……レエヌさん……」
 レエヌは、ぼんやりと薄目をあけた。すつかり熱にうかされてしまつて、譫妄状態に近いやうなやうすになり、空(うつろ)な視線をあてどもなく漂はせながら、のろのろした声で、切れ切れに呟きつづけるのだつた。」
「……日本のキモノを着ても日本人ではない。フランス語で話してもフランス人ではない。……このやるせなさを誰れも知らない。誰れも、察してはくれない。……気がちがはないのはまだしものことだつたわ。……もう、どうなつたつてかまはない。なにか心の痺(しび)れるやうな出鱈目(でたらめ)でもやらなければ、呼吸(いき)がつまりさうだ。……ねえ、お兄さん、キヤラコさんに、さう言つてやつて、ちやうだい。……お金なんか欲しいんぢやないんだ、つて。あたしたち兄妹は、せめてこんなことでもしなければ生きてゆかれないんです、つてね」
 とつぜん、嗚咽にむせびながら、
 「キヤラコさんなら、察してくれると思つた。……あんないゝひとですもの。きつとわかつてくれると思つた。……でも、キヤラコさんも、やつぱり知つてくれなかつた。……お兄さん、お兄さん、……キヤラコさんは、あたしに、あやまれと言ひました。(中略)……あゝ、あの優しいひとまでが!……悲しいわ。死んだはうがましだ。……もう、生きてなんかゐたくない。あまり、辛すぎますもの……」」
「「……お兄さん、あたしね、ヴアンクウヴアにゐるとき、夕方になると、いつも、スタンリーの波止場へ出かけて行つて、岩壁に腰をかけて鴎を眺めてゐましたの。……渚に引上げられた破船の船尾(とも)や潮で錆びた赤い浮標(ブイ)の上を、たくさんの鴎が淋しさうに飛び廻つてゐます。……鴎にも故郷がない。……海も故郷ではない、陸も故郷ではない。……空の下をあてもなく飛び廻つてゐるばかり……。あたしたちも、この鴎と同じやうなものだと思つて、なつかしくてたまらなかつたの。……この鴎たちも、せつない郷愁(ノスタルジア)を運んで行くところがないのだと思つて、眺めてゐるうちに悲しくなつて、いつも、泣き出してしまふの……」
 これが、レエヌさんのこゝろの秘密だつた。自棄も、反抗も、無信仰も、みな、このやるせない絶望の中で熟成した不幸な気質なのだつた。レエヌさんの意地悪も、強がりも、孤立も、奇矯(エクサントリツク)なさまざまな振舞ひも、今こそ、そのいちいちの意味がはつきりとわかるのである。
 キヤラコさんの、心はしみじみとうなだれる。この気毒なレエヌさんを睨みつけて、立ちはだかつてゐた、自分のすさまじいやうすを恥辱(はぢ)と慙愧の感情で思ひかへす。
 キヤラコさんは、手も足も出ないやうな心の無力を感じながら、低く、つぶやいた。
 「……あやまらなければならないのは、あたしのはうよ、レエヌさん……」」



「馬と老人」より:

「秋が深くなつて、朝晩、公園に白い霧がおりるやうになつた。
 低く垂れさがつた灰色の空から、眼にみえないやうな小雨がおちてきて、いつの間にかしつとりと地面を濡らしてゐる。樹々の幹も、灌木も、草も、みな、くすんだ煤黝(ピチユーム)色になり、小径の奥の瓦斯(ガス)燈が、霧のなかで蒼白い舌を吐いてゐる。
 風の吹いたあくるあさは、この小さな公園はすつかり落葉で埋まつてしまふ。桐や、アカシヤや、赤垂柳(あかしで)などの葉が、長い 葉柄(え)をつけたまゝ小径やベンチの上はうづたかくなる。
 公園の看手が箒をもつてやつてきて、それを掃きあつめていくつも小山をこしらへる。落葉を焚く火で巻煙草をつけ、霧のなかに紛れこんでゆく白い煙をながめながら、間もなく冬がくる、とつぶやくのである。」




この記事をよんだ人は、こんな記事もよんでいます:
内田善美 「ひぐらしの森」 (「ぶーけ」 1979年8月号)























































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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