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フェルナンド・ペソア 『不穏の書、断章』 (澤田直 訳編)

「私の人生に対する興味は、謎解きをする人の興味だ。」
(フェルナンド・ペソア)


フェルナンド・ペソア 
『不穏の書、断章』 
澤田直 訳編


思潮社 2000年11月1日初版第1刷/2002年2月20日第3刷
237p 四六判 
丸背紙装上製本 カバー 
定価2,400円+税
装幀: 井原靖章

栞: フェルナンド・ペソアへのオマージュ
ホルヘ・ルイス・ボルヘス/オクタビオ・パス/アラン・ボスケ/ジル・ドゥルーズ/ローマン・ヤコブソン/ジョゼ・サラマゴ/ミシェル・ドゥギー/アントニオ・タブッキ/イタロ・カルヴィーノ/え: Miguel Yeco



本書「解題」より:

「『不穏の書』はリスボン在住の会計助手、ベルナルド・ソアレスの手記という体裁をとった、フェルナンド・ペソアの散文作品の中心に位置する作品だ。」

本書はその、ペソアの別人格、というか「異名者」によって書かれた『不穏の書』からの87篇の断章と、『不穏の書』も含めたペソアの(及びその複数の別人格による)詩・散文・書簡等から訳者が選んだ断片(「断章」)99篇によって構成されている。

本文中図版(モノクロ)6点(写真5点、署名1点)。


フェルナンド ペソア 不穏の書 1


帯文:

「彼は文字通り、20世紀が最後まで秘匿してきた巨匠である。
――四方田犬彦」



カバー文:

「もうずいぶんまえから、私は私ではない。」


帯裏は四方田氏による推薦文。


フェルナンド ペソア 不穏の書 2


目次:

断章
 詩と詩人について
 私と自己について
 神と世界の神秘について
 読書と精神世界について
 ポルトガルについて
 人生と夢について

ベルナルド・ソアレス著 不穏の書

止みがたき敗北への意志――ベルナルド・ソアレス『不穏の書』解題 (澤田直)
訳者あとがき (澤田直)

参考文献
日本語で読めるペソア関連の本



フェルナンド ペソア 不穏の書 3



◆本書より◆


「断章」より:

「詩人はふりをするものだ
そのふりは完璧すぎて
ほんとうに感じている
苦痛のふりまでしてしまう」

「ふりをすることは、自分を知ることだ。」

「詩人であることは、私の野心ではない。
それは、一人でいようとする私のあり方にすぎない。」

「ニュートンの二項式には、ミロのヴィーナスに劣らない美しさがある。
ただ それに気づく人がほとんどいないだけ。」

「私は自分自身の風景
自分が通るのを私は見る
さまざまにうつろい たったひとりで
私は自分がいるここに 自分を感じることができない」

「私は自分の少年時代を懐かしんだことは一度もない。ほんとうを言えば、私はなににしろ懐かしんだことなどないのだ。」

「自然は全体のない部分からなっている。
おそらくこれこそが自然の神秘なのだ。」

「あらゆるものがわれわれとはちがっている。だから、すべては存在する。」

「もしほんとうに賢ければ、ひとは椅子に座ったまま世界の光景をそっくり楽しむことができる。本も読まず、誰とも話さず、自分の五感を使うこともなく。魂が悲しむことさえしなければ。」

「あらゆるラブレターは滑稽だ。滑稽でなければ、それはラブレターではない。」

「私の人生に対する興味は、謎解きをする人の興味だ。」

「私たちには誰でも二つの人生がある
真の人生は 子どものころ夢みていたもの
大人になっても 霧のなかで見つづけているもの
偽の人生は 他の人びとと共有するもの
実用生活 役にたつ暮らし
棺桶のなかで終わる生」

「偉大であるためには 自分自身でなければならない
なんであれ 誇張せず 排除しないこと」



「不穏の書」より:

「脈絡のない印象や、相互に関係もなく、関係をつけようともしない印象を書き連ねながら、私は無関心に、事実のない私の自伝を、生のない私の物語を語ろうと思う。これは実は告白なのだが、そこでなにも明らかになることがないのだとすれば、それは私に言うことなどないからに他ならない。」

「われわれのひとりひとりが多様で、多数で、自己自身の増殖なのだ。」

「今日突然、不合理ではあるが正しい感覚に、私は達した。私は稲妻のうちで悟った。私は誰でもない、絶対、誰でもないのだ。(中略)世界が存在する前にすでに、私は存在する可能性を奪われてしまったのだ。」
「私はたえず考え、たえず感じる。しかし、私の思考には筋道がないし、私の感情には感情がない。私は、果てしなく落ちていく。非常に高いところにある落し穴から、無限の空間を通って、方向もなく、無限で、多数で、空虚な失墜のなかを落ちてゆく。私の魂は黒い大渦巻、真空のまわりをまわる巨大な眩暈(めまい)、虚無のなかの穴のまわりをうねる無限の大海原の動き。そして水よりも激しく旋回するこれらの水のいたるところで、私がこの世で見たり聞いたりしたあらゆるイメージが泳ぎまわっている――さまざまな家や顔や本や箱や音楽の切れ端やとぎれたシラブルが、終わりのない不吉な渦巻のなかで過ぎ去ってゆく。
 そして、私はといえば、ほんとうの私はといえば、それらすべての中心である。実在しない中心、思念の幾何学によってのみ存在する中心である。周囲にこれらのものが回転するこの虚無が私なのだ。回転すること以外に目的もなく、それ自体は存在しないのだ。どんな円にも中心があるという意味でしか、私は存在していない。私は、ほんとうの私は、岩壁はないが、壁のぬるぬるした感じだけはする井戸、あらゆるものの中心であり、そのまわりにはなにもない。」

「私は思考によって自分を、残響(エコー)に、深淵に創りかえた。私は自分を深めながら、複数になってゆく。」
「自分のものではない印象を私は生きる。(中略)私は自分自身であることのうちでさえ、他人なのだ。」

「今日は軽く靄がかかり、生暖かく、湿っぽく、わけもなくもの寂しく、意味もなく単調な日だ。私はある感情を切実に感じているのだが、その名前がわからない。(中略)私の神経には意志がない。私の悲しみは意識の下で感じるのだ。(中略)言いたいことなどなにもない。(中略)私は少しずつ、ゆっくりと、まるまった鉛筆で(削る気持ちがないのだ)ぐにゃりとした文字で、カフェでもらったサンドイッチの白い包装紙に書いている。(中略)そして私は満足している、と思う。私はゆったりと椅子にもたれかけている。夕暮れどきだ。単調で、雨も降らず、陰気で不確かな色調の光のなかに暗くなってゆく……。こうして、私は書くのを止める。理由はない。ただ書くのを止めるのだ。」

「私は不可能な景色が好きだ。けっして行くことのない荒涼とした高原の無限の広がりが好きだ。過ぎ去った太古の時代は、私がそこにいることなど想定すらできないから、ほんとうに素晴らしい。」

「でも、私は、習慣や象徴を恥じるし、道端でものを買うのが恥ずかしい。きちんと包装してくれないかもしれないし、私がしかるべき仕方で買わないために、しかるべき仕方で売ってくれないかもしれない。値段をたずねるときの声がおかしいと思われるかもしれない。生きるという危険を冒すよりは、ものを書いているほうがよいのだ。」

「私の感受性は、新しいものに不安を覚える。自分が行ったことがある場所でしか落ち着けないのだ。」

「夢もまた外部から突然私に現われるのだ。曲り角から突然出てくる路面電車や、夜になると聞こえてくるアラブ風の物売りのよくわからない声や日暮れの単調さのなかで突如として吹き出す噴水のように。」

「私は逃げたい。知っているものから逃げ、自分の所有物から逃げ、愛するものから逃げたい。」

「倦怠とは、なにもすることがないという不満からくる病ではない。むしろ、もっと重症なものであって、なにをしてもしかたがないと確心しているひとの病なのだ。そうであってみれば、するべきことが多ければ多いほど、直面せざるをえない倦怠もより深いものとなる。」
「いっそ無気力であって、なにもせず、なにもできなければどんなによかったかしれない。そうだったなら、この現実の倦怠を味わうこともできただろうから。私がいま感じている倦怠には、休息もなければ、高貴さもなく、存在にたいする嫌悪感の混ざった快感もない。私がなさなかった行為の潜在的な疲労ではなく、ただ、なしてしまったあらゆる行為の、巨大な消滅だけがあるのだ。」

「もうずいぶんまえから、私は私ではない。」

「私はなにかを完成してしまうと、いつも呆然としたものだ。呆然とし、がっかりする。私がものを完成することができないのは、完璧癖のせいにちがいない。じつは、そのせいで始めることすらできないのだ。ところが、ついうっかりして、行動を起こしてしまうことがある。私の仕事は意志の結果ではなく、意志の弱さの結果なのだ。私が始めるのは、考える力がないためだし、私が終えるのは中断する勇気がないからだ。つまり、この本は私の怯懦(きょうだ)の結果なのだ。」

「ときどき――それはいつもほとんど突然なのだが――感覚のまっただなかで、人生の恐ろしい疲労感が私を襲う。それはあまりにも強烈で、それに打ち克つ方法など思いつかないほどだ。自殺したからといって確実に快癒するという保証はないし、たとえ意識がないにしても、死などなにほどのものだろう。この疲労感は、存在することをやめたいという願いではなくて(中略)それよりもおぞましく、遥かに深淵なこと、つまり、かつて存在したということさえも止めてしまいたいという願いであり、それはいかなる方法によっても不可能なことなのだ。」

「つねに――私の、(中略)真の意味で私自身である部分にとっては、美しい一本の樹よりも、人間の方が重要であったことはない。」

「私は、集団行動に誠実さを認めるのにつねに困難を覚える。なぜなら、孤独のうちの個人だけがほんとうに感じる存在なのだから」
「真に苦しんでいるものたちは、俗悪な群れに集ったりしないし、集団を形成することもない。苦しむとき、ひとは独りで苦しむのだ。」

「他人がいると――それがたったひとりでも――私の思考はすぐ麻痺してしまう。普通のひとにとって、他人との接触は彼の表現や言うことにとって刺激であるのに、私の場合は、もしこんな造語が許されるとすれば、反刺激なのだ。私は自分自身と向き合って、才知に富んだ言葉を無数に想像し、想像上の論証に素早く返答し、周りに誰もいないのに知的で精彩にとんだ社交性を示すことができる。ところが、肉体を備えた誰かがそこにいるだけで、こういったものすべてが消え失せてしまう。私は知性も、話術も失ってしまい、僅かな時間で、うとうとしはじめる。そう、誰かと話すと眠気を催すのだ。ただ、想像上の友人たちだけが、霊の世界に住む彼らと交わされる夢のなかの会話だけが、私にとっては真の実在とたしかな輪郭をもっている。」
「それに、誰かとつき合わなければならないと想像するだけで嫌になる。友人とちょっとした夕食の約束があるだけで、定義し難い不安に駆られる。どんな社会的義務であれ(中略)、考えただけで一日の思考がすっかり台無しにされてしまう。時には、もう前の晩から良く眠れない。それが実際にはまるで些細なことだとわかっていても、私の懸念は消えない。こうして、いつも同じことが繰り返され、私はけっして学ぶということを学ばないのだ。「私の習性は、孤独の習性であり、人間たちのものではない」と、ルソーだったか、セナンクールだったかが、言っていた。いずれにしろ、それは私と同種の精神だ――あるいはこう言ってよければ、同じ種族の精神なのだ。」

「私の道徳は非常に単純だ。――それは、誰にたいしても悪も善もなさないこと。」

「私たちがみなそれぞれ違うということ、これこそが人間本性の公理である。」

「旅をするだって? 旅をするためには存在するだけで十分だ。私は日々を、駅から駅へと移動するように過ごす。」
「想像すれば、私には見える。わざわざ旅などして、それ以上なにをするというのか。感じるために移動しなければならないのは、想像力が極度に脆弱な人間だけだろう。」
「旅行したからといってなにになろう。マドリッドで、ベルリンで、ペルシアで、中国で、北極や南極で、自分自身ではないどこに、私はいるのだろうか。どこにいても、自分の感覚の特徴や特性はついてまわるのだ。」

「他人を理解することは誰にもできない。詩人が言ったように、われわれは人生という大海に浮かぶ島なのだ。われわれのあいだには海が流れ、われわれを限定し、隔てている。」

「すべてを延期すること。明日やってもかまわないようなことをけっして今日やらないこと。
 今日でも明日でも、どんなことであれするには及ばない。」
「真理にあっても誤謬にあっても、快楽にあっても倦怠にあっても、本当の自分自身であれ。それは夢みることによってしか到達できない。なぜなら現実生活は、世間の生活は、自分自身に属しているどころか、他人のものであるからだ。だから、人生を夢で置き換え、完璧に夢みることのみに腐心せよ。」
「他人の目に、不条理なスフィンクスになれ。音をたてずに扉を閉め、象牙の塔に閉じこもるのだ。そして、この象牙の塔とは自分自身のことだ。
 もし誰かがそんなことはすべて嘘で不条理だと言っても、信じるな。しかし、私が言うことも信じるな。なにも信じてはいけないのだから。」









































































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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