若桑みどり 『クアトロ・ラガッツィ ― 天正少年使節と世界帝国』

「この世紀は、十六世紀にはじまる、世界を支配する欧米の強力な力と、これと拮抗する異なった宗教と文化の抗争が最終局面を迎える世紀になるだろう。人類は異なった文化のあいだの平和共存の叡知(えいち)を見いだすことができるだろうか。それとも争い続けるのだろうか? それこそはこの本の真のテーマなのである。」
(若桑みどり 『クアトロ・ラガッツィ』 より)


若桑みどり 
『クアトロ・ラガッツィ
― 天正少年使節と世界帝国』


集英社 
2003年10月30日 第1刷発行
2003年12月30日 第2刷発行
550p 
A5判 丸背紙装上製本 カバー 
定価3,800円+税
装丁: 渡辺和雄



本書「エピローグ」より:

「しかし、私が書いたのは権力やその興亡の歴史ではない。私が書いたのは歴史を動かしてゆく巨大な力と、これに巻き込まれたり、これと戦ったりした個人である。(中略)時代の流れを握った者だけが歴史を作るのではない。権力を握った者だけが偉大なのではない。ここには権力にさからい、これと戦った無名の人びとがおおぜい出てくる。これらの少年たちは、みずから強い意志をもってそれぞれの人生をまっとうした。したがって彼らはその人生においてヒーローだ。そしてもし無名の無数の人びとがみなヒーローでなかったら、歴史をたどることになんの意味があるだろうか。なぜならわたしたちの多くはその無名のひとりなのだから。」


本文二段組。
小説ではなく、史料に基づいた歴史書ですが、著者は時々個人的なことを書きます。あと、最後の数行だけ小説風になります。文庫版(二冊本)も出ています。


若桑みどり クアトロラガッツィ 01


帯文:

「「四人の少年(クアトロ・ラガッツィ)の運命は
日本の運命にほかならない」
ローマ、ヴァティカン、ゴア、マカオに取材して八年。
若桑みどりが世界史的視野から日本の歴史を問い直す!
世界帝国の波濤が押し寄せる信長・秀吉の時代、鮮烈に生きた美しい若者達がいた。
遥か世界へと船出した四少年の悲劇の向こうにあたらしい日本が見える!」



帯裏:

「私はずいぶん旅をしてきた。でもこれでほんとうに私がやりたかったこと、知りたかったことが書けた。この主人公は私と無縁ではなかった、ローマの輝く空の下にいた四人の少年のことを書くことは、まるで私の人生を書くような思いであった。なぜならこの四人の少年の運命は日本の運命にほかならないからである。そのことはこの本の最後のページを措(お)かれたときに読者にはおわかりになるであろう。
若桑みどり」



目次:

地図 (世界を行く天正少年使節)

プロローグ
第一章 マカオから大きな船がやってくる
第二章 われわれは彼らの国に住んでいる
第三章 信長と世界帝国
第四章 遙かに海を行く四人の少年
第五章 ローマの栄光
第六章 運命の車輪
第七章 迫害
第八章 落日
エピローグ

謝辞



若桑みどり クワトロラガッツィ 02



◆本書より◆


「第一章 マカオから大きな船がやってくる」より:

「もともと福音書ではキリストはなんどもハンセン病患者を救っている。というのはそのころにはこの病気は不治の病いと思われていたので、また世間の人からとくに嫌われ、恐れられ、隔離され、打ち捨てられていたので、キリストはほかのだれよりもそういう人を救ったというふうに書かれたのである。だから中世からハンセン病病院は教会によって建てられてきた。宣教師がそれをアジアにも建てたのは必然のなりゆきだった。でも日本でそれができたのが、ひとりのもと商人の財産によってだったということはなりゆきではない。だれかがやらなければならないと思わなければなにごともできないのである。」
「しかし、おどろいたことには、一五八三年には、早くも、こういうほんとうの慈善はイエズス会自身によって歯止めがかけられた。日本ではハンセン病患者や梅毒の患者が非常に嫌われていたので、彼らが教会やその病院施設におおぜい集まってきたことで、そういう人たちを忌み嫌う日本人たちのあいだでカトリック教会の評判がひどく落ちたのだと歴史家は言う。
 貧しい人や病気の子供をもった人びとが遠くから来て病院の評判があがったという話は嘘ではないが、そのいっぽうで、カトリック教会全体のイメージが悪くなって、この宗教は病人や貧民のものだからということで、「りっぱな」人たちがよりつかなくなり、大名や武士などの支配階級を改宗させなければ日本をキリスト教化することはできないとする考えからみれば、このような事業が本来の布教に支障をきたすようになったというのだ。」
「これは、ルイス・デ・アルメイダがはじめた慈善の心とはまったくちがうものであった。しかし、本部はこれを認めた。」

「このように、近代以前の社会では、この世で財もなく力もない病人や孤児や寡婦や老人は、いつでも他人への愛と奉仕を本来の仕事としている宗教に救いを求めるほかはなかったし、また宗教は、利益(りやく)や名声を追求する強い人間たちばかりが勝ち抜いていくこの俗世間のなかで、まさに利益も名声も求めず他人への愛ややさしさを与えるものだからこそ、社会にとって非常に必要なものであった。もしそういう集団やそういうことを専門にやってくれる人間がいなかったならば、この世はほんとうに弱肉強食の動物のような世界になって、結局人類は滅びてしまったかもしれない。
 このように他人へのあわれみを教えのなかの重要なものとして、実際にそのような働きをしていた仏教寺院も、戦国時代には、みずからが分裂抗争して衆徒を巻き込む一揆(いっき)や戦争の場となり、戦火に巻き込まれてその慈悲の役割の多くを失ってしまった。」

「前にも書いたように、キリストが基本的に貧しい者のための宗教を説いたということは真実である。」
「仏教では、『日本霊異記』などに書かれているように、「わが重き病いを得しは、殺生の業(ごう)によるゆえ」、つまりこの世で病気になったのは前世で殺生をしたせいだという業の考えがあったので、病人とそれにともなう廃物は、忌(い)み嫌われ、打ち捨てておかれたものとみえる。それでも仏教はそれをあわれむ思想をもっていたはずであったが、このような乱世になり、朝廷が統一権力で仏教的政策を行うことのできた奈良朝などとはちがって、宗派は多く、力は抗争に注がれているとすれば社会福祉は手薄になり、いっぽうではこのような前世の業という考えで病いをみることによって、ある意味ではしかたのないことだと諦めを得ることができたし、そうしなければならなかったのだろう。それゆえにこそ、病いをもつ人や、その家族や親、そしてあわれみぶかい人びとには、キリスト教がほんとうに救いであったにちがいない。」

「(一九九二年に教皇はガリレオに対して教会がまちがっていたことを認めてその名誉回復をした。ガリレオは生きていないが、霊魂は不滅だとキリスト教徒は考えているのでそういうことにも意味が出てくるし、生きているときに迫害されたり、理解されなかったりした人にとっては、死後に名誉回復されるという希望は非常にだいじなことだ。しかし、そういうことが信じられないわれわれは、結局だまって、なにも期待せずにみずからの信じる道を行くしかない)」



「第二章 われわれは彼らの国に住んでいる」より:

「日本の布教を視察したヴァリニャーノは総会長への報告にこう書いている。
 「日本人の性格、風習、挙動は、われわれのそれとははなはだしく異なり、彼らはヨーロッパのほかの諸修道会が有する慣習を受け入れることができない……このことは、われわれの心を日本人の心に、日本人の心をわれわれの心に合致させることが多いに困難であることによって、明白に認められ、証明される。この困難の原因は、ここにあらゆる矛盾があるからである。(中略)もしわれわれが順応しなければ、彼らの信用を失ってなんらの成果もあげることはできないであろう」
 これが巡察師の書いたことのなかでおそらく一番だいじなことばである。なぜなら彼は、日本文化と西洋文化の非常な違いに気づき、相互の理解がほとんど不可能、まるで正反対で、しかも日本人はそれを固守しているということに気づいたからである。しかし、彼は「アジアは野蛮で未開」「西欧は高く文明化されている」「だから高い文明を教えて彼らをしつけてやろう」という考えはまったく書いていない。「おそろしくちがう」「相手を変えるのではなく、こっちが合わせよう」と書いているのである。じつはこのような考えをもつ西洋人はこの時代では非常に稀(まれ)で、しかも画期的なことだった。」

「善行にはたくさんのカリキュラムがあってそれを行うのは容易なことではない。一番むずかしいのは、自分のように他人を愛することである。パウロは「コリント前書、十三章」で、たとえ信仰のために自分の命を投げ出しても、愛がなければその行為にはなんの価値もないと言った。殉教しても、愛がなければ価値がないとはどういうことだろう? あるいは、人は誇りのためや、絶望のためにも殉教するのだろうか? 日本は膨大な数(おそらく数え切れない)の殉教者を出した国である。古代ローマ以来最大であると言われている。この本の最後の章では史上最大の殉教が展開される。しかし何十万人が殉教しようとも、ひとりひとりがみなひとりひとりの死にかたをしたのである。
 私はキリスト教徒ではない。ただ中学のときに、キリスト教の授業のある学校に通っていた。そこでこのパウロの教えを読んだのだが、そのとき、ある女性教師が、私に向かって、「あなたにはとくにこのことばがだいじです」と言った。自分を愛するようには他人を愛することのできない人間だと先生は見抜いたのだろう。そしてそれは正しい。それはきびしすぎる。でもいかに困難でも、人は、けわしい道を行けば救済の光が見えると教えられる。」
「いずれにしても、熱心な仏教徒は、じつは熱心なキリスト教徒になる可能性が高い。理屈で言えば、その逆も可である。現世のみを信じ、物質のみを信じ、それで満足し、霊魂の死後の救済などをそもそも考えない人びとよりは、このころの日本人は潜在的にキリスト教徒たりうる条件を備えていたということになる。」

「私は自分が女だから、たいへん興味をもってキリスト教が来たころの仏教が女性の救済をどのように教えていたかという話に紙数を割いてしまった。なんら自分の罪ではなく、女に生まれただけのために最初から地獄に行くという話はどうしても納得できない。そのこともあって、熱心なキリスト教徒になった人に、いかに女性が多かったかという理由が推測できる。
 ただし、ここでぜひ断わっておきたいのは、キリスト教もりっぱな女性蔑視の宗教であったということである。」
「両方に共通しているのは、人間はなにか自分ではあずかり知らない罪を負って生まれてくる、そしてこの世のあらゆる苦労はおおかたその結果だという考えである。」
「どこがちがうかといえば、キリスト教は永遠に生きるのは霊魂だと考えているので、性のちがいは肉体にだけくっついているから、霊魂には関係ない、霊魂には性はないと思っている。だから霊魂に関係する救済では男女平等である。」

「私が何年も前にイエズス会歴史研究所で宣教師の手紙を読んでいるとき、いちばん感動したのは、ゲレイロ師が一六〇三年から四年に書いた報告のなかのひとつの挿話である。それは、肥後(ひご)の国の十五歳の娘の話である。名前は書いていない。その改宗の原因は、父親の母親への暴力であった。法華宗信徒の父は、激しやすく凶暴な性格で、母親に暴力を振るうのが常だった。娘は十歳ごろから、父の母に対する暴虐を見てあらゆる仏に願をかけて、父がそれをやめるように祈った。彼女は「愛宕(あたご)に信心したが、どのように願をかけてもなおらないので、キリシタンに望みをかけた」
 彼女の友人にキリシタンがいて、彼女は友人から「最後の裁き」について聞き、キリスト教の掟を聞いて泣いた。しかし両親が法華なので、隠れて教会にきて洗礼を受けた。帰って母親にそれを打ち明けたが、親類に暴露され棄教するように脅迫された。それは父親が深く法華宗を信仰していたから、娘になにをするかわからなかったからである。そこでみなは父親が彼女に暴力を振るうことを恐れて娘からコンタツ(ロザリオを唱えるための珠数(じゅず))とアグヌス・デイ(神の子羊。キリストを象徴する彫物)を取り上げた。しかし、彼女はひそかに隠れてマリアの聖画像を拝んだという話である。
 この話には解決がない。それで父親が暴力をやめたとか、両親もキリシタンになりましたとさ、という落ちがないのである。(中略)この世で、十五歳の庶民の娘ができることはほとんどない。世のなかも変えられないし、荒涼たる家庭も、暴力的な父も、泣き叫ぶ母も変えられない。家を出るなどは論外である。ただこの世にはやっていけないことがあり、それをやった人間が、いますぐにではないにしても、必ず罰せられ、正しいものは正しく、悪いものは悪く、すべてが裁かれるときがくる、このことが少女を慰めたのにちがいない。いかなる歴史にも登場するはずがない無名の少女、大名の妻でも娘でもない、五百年前に生きていたこの少女こそ、私がもっとも身近に思う人である。」



「第五章 ローマの栄光」より:

「彼らはようやく十三日にシエナに向かい十七日までそこにいた。十七日にシエナを出て、サン・クイリコの町で、待ち受けた教皇が遣わした使者に会った。
 この使者はいったいなにをしに来たのであろうか。」
「ダニエッロ・バルトリはこう書いている。」
「「一行はローマに入るまでは残りたる最後の数日は徐行せるが、これは彼らのひとりドン・ジュリアーノが激しき高熱に冒されたると、また夜に入りて最初の入市をなし、何人(なんびと)にも見られず、迎えられざるを期したるがためなりき」
 いやそれは妙だ。なにかがにおう。」
「ジュリアンが病気だったというのはほんとうは言いわけにすぎなかった。」
「フロイスは、彼らはローマに着くとすぐにイエズス会の誓願修舎(カーサ・プロフェッサ)に行き、総会長や多くの神父、修道士に歓迎されたと書いている。(中略)そこで総会長はひとりひとりを抱擁したと書いており、ジュリアンが寝ていなければならないほどだったようには書かれていない。」
「ところが、突然、翌日三月二十三日、サーラ・レージアでの枢機卿公開謁見の当日になって、「ジュリアンはローマへ着く四日前から熱病を患(わずら)っていた。それゆえに、医者から絶対に外出してはならない、寝台から起きてはならないと勧告され、パードレもそう言った。しかし、彼はどうしても教皇聖下の謁見の栄を賜(たまわ)りたいと熱望し、ほかの少年と同行すると言ってきかず、ラテン語で『もし教皇猊下のもとに行けば、その声を聞けば、必ず治る』と言うありさまだった。」」
「ジュリアンの身になってみよう。彼は海浜で育った海の子で、旅行中みなが病気をしたのに、彼だけはまったく健康だった。それがよりによってまさにそのために来たローマ教皇の晴れの謁見式の日に、急に寝台から起きてはならないということになったのだ。いったいなんのために、今まで命がけで何年もかけて、こうしてやってきたのか。どうしても行きたい(中略)と泣いてすがるものを、人はどうしてとめたのか?」
「こうして一行のいやがうえにも晴れやかな行列や祝砲、歓呼を聞いていたときのジュリアンの気持ちは思っただけでもやりきれない。歓呼も祝砲も、みな自分のためではない、さっきまで自分といっしょだった仲間のものなのだ。いったいどうしてこれほどまでにむごい処置をしたのか。本当に死ぬほどの病気だったのか。」
「どうしても教皇庁はジュリアンを重病にした、どうしても、枢機卿謁見式に出したくないのだとしか思われない。もし私の推測が正しいとしたら、それは東方から来た公子が四人では困るからだ。東方から来た公子は三人でじゅうぶんだ、いや三人でなければならない!
 すべてのキリスト教徒はすぐに気づくだろう、アジアから馬に乗ってイエスを礼拝しにきた三人の王がここに再現されたことを。そしてグレゴリオの聖なる世界支配が生きた主役たちを人びとの目の前に現出したことを。だからこそ、彼らは「馬に乗っていなければならない」。だから三人の少年は、この日、馬に乗って行ったのである。そして馬に乗った王は三人でなければならない。」
「マンショとミゲルは大名の親戚であり、正使である。マルティーノは利発でラテン語がうまく身分が高い。ジュリアンは四人のなかで、一番身分がはっきりしない。なにかあったときのために最初からスペアだったのかもしれない。」
「いまここで、この四人のなかで、穴吊りの処刑によって殉教し、もっとも壮絶にその信仰を貫いたのがこのジュリアンであったことを思ってみることがわれわれには必要だろう。(中略)大きな権力は無力な個人を平然と踏みにじる。そして、今私が言っていることには珍しく「史料がない」。策略や陰謀にはすべて史料がない。その顔は見えない。しかし、史料のないところで、人間は、その人間にふさわしい行為をし、語られない歴史を作っているのだ。」
「このように、少年たちは、シエナからローマに来る道のなかばで、教皇庁によってイエズス会の神父たちの手から取り上げられ、別の次元に入った。それは計画者ヴァリニャーノのまったく予期しない規模のものであった。(中略)教皇庁にとってだいじなことは、使節を、宗教改革に対抗するカトリック教会の勝利を証言する証言者、「東方からの三人の王」に祭り上げ、カトリック教会の世界における中心性、その支配圏の拡大を示すこの上ない広告塔にすることだったのだ。」

「少年たちが見たもの、聴いたもの、望んだものを押し殺したのは当時の日本である。」
「それでも、彼らは、自分たちの信ずることを貫いて生き、かつ死んだ。このあとの章でわれわれはその壮絶な後半生を見るであろう。
 人間の価値は社会において歴史において名前を残す「傑出した」人間になることではない。それぞれが自己の信念に生きることである。」



「第七章 迫害」より:

「このような信仰の堅さは、一朝一夕にできたものではないから、最初私が「英雄的ではない」と彼らを呼んだのはたいへんなまちがいだったかもしれない。たしかに社会的な身分は低く、教会においても司祭でもなければ修道士でもない、とるにたりない信者であった。しかし、彼らの物静かな殉教の受け取りかたのなかに、しだいしだいに、どのような大身(たいしん)のキリシタン武士よりも、どのような大司教よりもまさって、このとるにたりない弱小の信者の姿が、かぎりなく偉大になって行くような気がする。キリストが言ったことばはこういうときに生きてくる。「汝らのなかで大きいとされている者が天国では小さくなり、小さい者が大きい者となるであろう」」


「第八章 落日」より:

「彼らはみなコレジオで教育を受け、マカオでさらに勉学し、日本のキリスト教会を支えるべく教育されみずからも勉学に励んだ者たちである。そして彼らの運命は、迫害の前に病死したふたりをのぞけば、ふたつしかなかった。日本を亡命するか、または殉教である。」
「マンショは四十二歳で病死した。マルティーノは国外追放となりマカオで死んだ。そしてジュリアンは潜伏し、長崎で殉教した。ミゲルがいつ死んだかはわからない。彼は棄教者となった。四人の生涯は四枚の葉のように別れていった。」

「一六三三年(寛永十年)小倉でジュリアンも捕まり、長崎に送られた。ジュリアンが処刑されたのはこの年の十月十八日であった。」
「同じときに、イエズス会のジョン・マテオ・アダミ、アントニオ・デ・ソーサ、クリストバル・フェレイラ、ドメニコ会のルカス・デ・スピリト・サントとひとりの修道士が穴吊りの拷問を受けた。穴吊りもまた竹中采女正が考案した拷問である。この一六三三年には彼は悪政と汚職で免職されていたがこの拷問は継続していた。これは深さ二メートル直径一メートルほどの穴を掘って、上に吊り台を付け、キリシタンをこの吊り台に吊って穴の中に逆さに吊る拷問である。頭に血が充血してあまり早く死なないように、こめかみに小さい穴をあけて血が出るようにし、内臓が逆転しないように胴を縄で巻く。丸い穴を二つあけた板を二枚に割って腰にはさみこみ、それが穴の蓋(ふた)になるようにする。したがって地上に出ているのは腰から下だけになる。穴の中は暗黒である。またそこに汚物を入れたり、騒音が反響するようにがんがん叩く。
 転ぶという合図をするまでこのまま放置され、転ばない場合にはそのまま死ぬ。絶命するまでに数時間から一週間くらいの時間がかかった。拷問のなかでももっとも苦しいもので、転ぶ者もいた。イエズス会のフェレイラは五時間で転んだ。」
「しかしフェレイラ以外の神父および修道士は穴吊りを耐えた。ルカス神父は九日間という長い苦しみを耐えた。六十歳に達していたジュリアンは、処刑を見ていた証人たちの証言によれば五日間耐えた。」
















































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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