グスタフ・ルネ・ホッケ 『新装版 迷宮としての世界』 種村季弘+矢川澄子 訳

「わたしの歓びは憂鬱(メランコリー)、わたしのいこいは憂悶だ。」
(ミケランジェロ)


グスタフ・ルネ・ホッケ 
『新装版 迷宮としての世界
― マニエリスム美術』 
種村季弘+矢川澄子 訳


美術出版社 
1987年8月10日 第1刷
1990年8月15日 第2刷
442p 口絵(カラー)i 図版(モノクロ)102p 
A5判 並装 カバー
定価4,500円(本体4,369円)
装丁: 早瀬芳文



Gustav René Hocke: Die Welt als Labyrinth - Manier und Manie in der europäischen Kunst, 1957

邦訳初版は1966年2月刊。
モノクロ図版254点、カラー図版1点。


ホッケ 迷宮としての世界 01


カバーそで文:

「未聞の世界ひらく………………三島由紀夫
二十世紀後半の藝術は、いよいよ地獄の釜びらき、魔女の厨の大公開となるであらう。
今までの貧血質の美術史はすべて御破算になるであらう。
水爆とエロティシズムが人類の最も緊急の課題になり、あらゆる封印は解かれ、
「赤き馬」「黒き馬」「青ざめたる馬」は躍り出るであらう。
この時に當つて、マニエリスムの再評價は、われわれがデカダンスの名で呼んできたものの
怖るべき生命力を發見し、人類を震撼させるにいたるであらう。
圖版も目をたのしませ、譯文はきはめて的確、一讀われわれは未聞の世界へ導き入れられる。」



目次:

凡例

序――ヨーロッパ芸術におけるマニエリスム


 緒言
 1 最初の衝撃
 2 優美と秘密
 3 蛇状曲線的-痙攣的
 4 〈イデア〉と魔術的自然
 5 綺想異風派(コンチェッティスモ)
 6 没落のヴィジョン


 7 美と恐怖
 8 不安と好奇
 9 天使城
 10 時間の眼としての時計
 11 人工の自然
 12 奇妙な神話


 13 迷宮(ラビリンス)としての世界
 14 抽象的隠喩法
 15 キュービスムの先達と後裔
 16 イメージ機械
 17 古今の構成主義
 18 円と楕円


 19 ルドルフ二世時代のプラーハ
 20 アルチンボルドとアルチンボルド派
 21 擬人化された風景と二重の顔
 22 夢の世界
 23 装飾癖
 24 狂気


 25 汎性愛主義
 26 倒錯と歪曲
 27 一角獣、レダ、ナルシス
 28 ヘルマフロディトゥス
 29 マニエリスムと衒奇性(マニリールトハイト)
 30 神の隠喩

あとがき

著者紹介
文献解題

訳者あとがき (種村季弘)

索引――人名・事項・図版




◆本書より◆


「緒言」より:

「それが発いてみせるのは、当時政治的混沌の只中にあったヨーロッパの、この歴史的時代を生きた幾世代の注目すべき諸傾向である。すなわち、孤立への、排他的集中への、荒唐無稽(エクストラヴァガンツ)への、肉体的〈自然的〉現実の彼方と内奥にひそむものへの衝動であり、また社会からの逸脱へ、貴族的隔離へと向かう衝動なのである。この傾向は〈鋭敏な〉才能によって嫡生を認められ、そしてこの才能はもはや自らを古典主義的規範(カノン)に拘束されているとは感じていない。
 直接的なものを忌み嫌い、暗黒を好み、感覚に訴える映像作用を変幻する錯綜した隠喩の中でしかはたらかせず、驚異的な(meraviglia)超現実をひとつの極度に様式化した言語の知的形象体系の中にとらえようとする、この人間タイプは、歴史的にも社会学的にも、孤立者でもなければまして畸人でもない。こうした人間像は、問題化していくある宗教的・政治的価値の秩序と関連しつつ、ヨーロッパ精神史の特定の局面のうちにくりかえし浮び上るのであり、しかもしれはきまって宮廷、ブルジョワ・サロン、ボヘミアンの秘密集会のような、多少とも〈アレクサンドレイア的な〉文化の内部に登場するのである。エルンスト・ローベルト・クルティウスは、十六世紀にヴァザーリがミケランジェロ晩年の芸術的表現様式を特徴づけるためにもちいたマニエリスム概念(手法(マニエラ))を――それが古典的調和観念から偏倚するものであるところから――歴史的に拡張した。その道しるべの役をなしている研究(「ヨーロッパ文学とラテン的中世」の〈マニエリスム〉の章)の中で、クルティウスは、〈古典主義以前であると、古典主義以後であると、あるいはなんらかの任意の古典主義と同時期であるとを問わず、古典主義に背馳するあらゆる文学的傾向〉を指すために、マニエリスム概念をもちいることを提案している。その意味で〈マニエリスムはヨーロッパ文学のひとつの常数〉、〈あらゆる時期の古典主義への相補―現象〉である、というのである。」

「テサウロは(中略)、鋭い明察にめぐまれた者は、おのずと凡人とは区別される、と説いている。彼はまず切り離し、しかるのちに結び合わせるのである。(中略)真の詩人とは、〈最もかけはなれた関係にあるものをたがいに結びつける〉才のあるものである。(中略)テサウロのこのような方式によって、いわば当時のヨーロッパの文学上のマニエリスムのもっとも普及したもっとも普遍的な様式特徴のひとつが、さまざまな呼称の下に――すなわちスペインの Conceptismo (感覚派)もしくは Gongorismo (ゴンゴラ風)、イタリアの Concettismo (綺想異風派)、Marinismo (マリノ風)(詩人ジァンバッティスタ・マリノによる)、イギリスの Euphuism (美文体)、wit (機智)、conceit (奇想)、フランスにおける préciosité (気取った文体)、ドイツにおける Sinnspiel (エピグラム)のような名の下にあらわれるのである。テサウロのこの discordia concors (不一致の一致)は、当時イギリスではこう説明されていた――〈似もつかないイメージ同士の組合せ、もしくは一見まったくちがったものとみえる事物のうちの隠された相似の発見〉と。」
「ここで、現代との比較をもちださないわけにはゆかない。アンドレ・ブルトンは「超現実主義宣言」のなかでつぎのように書く――〈驚異というものはつねに美しい、いかなる種類の驚異であれ、それは美しいものであり、驚異だけが美しいのだ、とさえ言いうる〉と(〈Merveilleux〉は、ここで異様に不思議なもの、驚愕的なものの意味で使われている)。(中略)ブルトンは、その僚友のひとり、ピエール・ルヴェルディの言葉を引用しているが、それはテサウロの言葉とほとんど一字一句符合する――〈イメージは精神の純粋な創造である。それは比較によってではなく、むしろ、互いに多少ともかけ離れた二つの現実を接近させることによって生まれる。これらの現実がかけ離れた関係にあればあるほど、イメージはそれだけ強力なものとなるのである〉と。」

「ミケランジェロの、この時代の未来主義者風な宣言は簡にして要をえている、曰く〈絵は手で描くのではない、頭で描くのだ〉 Si pinge col cervello, non con la mano。彼は晩年の詩で、挫折者、乞食、ローマの貧民窟に住む零落して屈辱にさらされた男として、自分の姿を描いている。彼は周囲の世界を、その騒音、その華美、その自己満足を憎悪する。ポントルモ、ロッソ、パルミジァニーノのようなより若い世代たちと同様に、ミケランジェロは、ありあまる名声にもかかわらず、自分が、ルンペン、ジプシー、愚かな古狸、道徳的にすくなからぬ点でいかがわしい人間であると感じている。」
「こうして、一五一五年から一五二五年の間にすでにフィレンツェでは、これらの最初の〈近代的〉前衛(アヴァンギャルド)たち、このエピクロス的な調和衝動と魔術的な世界公式を求める知的飢渇との間に絶望的に引き裂かれた芸術家集団が、はやくも活動しはじめる。」



「最初の衝撃」より:

「ポントルモが憂鬱家だったこと、月遊病患者=夢遊病気質の男 temperamento lunatico、サトゥルヌスの徒であったことがわかるが、その点は同時代の逸話蒐集家ジォルジォ・ヴァザーリが彼に関して報告している逸話からも知られている。なおラファエルロの死(一五二〇年)の前に最初の作品を描いたこの呪われた画家 peintre maudit は、そのみすぼらしい、容易なことでは中に入れないアトリエに梯子を使ってよじのぼっては、ひとが中に入れないようにその梯子を引上げてしまう、気難かしい厭世家であるという噂がもっぱらだった。ヴァザーリは、そこで彼を〈空想的で孤独な男〉 un uomo fantastico e solitario と呼んだ。レオナルドと同じように、彼は屍体愛好(ネクロフィリー)のかどによって告発された。曰く、あながち研究の目的ばかりではなく、墓場で屍体を掘り出していたというのである。〈魔法使〉にされたレオナルドにせよ、宣伝屋といわれたアレティーノにせよ、はたまたアウトサイダー呼ばわりされたポントルモにせよ、世人の怖れのまとであった人間にはこうした攻撃がさし向けられた。ポントルモの日記には、断わるまでもなく女性の話題は一切出てこない、おそらくこれが、あの告発のひとつの理由でもあるのだろう。」
「フィチーノはサトゥルヌス的なタイプを、つぎのように定義している。すなわち――〈性格運命ともに凡庸であることは稀で、余人とは異なり、神的であるか動物的であるか、いずれかであるような人、幸運に恵まれているか、もっとも深い禍にうちのめされているかであるような人〉。彼自身、自分がこの種の性格の持ち主であると思っていた。彼の誕生星による星占いではサトゥルヌス(土星)が、彼の星位である水がめ座に影響していたからである。フィチーノはある友人に宛てて、〈この頃ではわたしはまるで自分が何をやりたいのか全然分りません。おそらく分っていることでも全然やりたくないのです。そして自分には分らないことをやってみたいと思っています〉と書いたことがある。ここでは、自分の荷厄介なサトゥルヌスのことを歎いているのだ。ポントルモ型の独創的で、メランコリックで、主観的で、怪異な、〈マニエリスム的人間〉の心理学的特徴が、ここでは、一種逆説的な、文学的-マニエリスム的綺想体(コンチェット)の模範的形式において叙述されているのである。」



「美と恐怖」より:

「エウヘニオ・ドールスは美しい記念碑的な言葉をのこしている。――(最上の)マニエリストたちは〈失われた楽園(パラダイス)に憧れる〉と。しかも彼らにとってはいまわしいかぎりの戦争と直面しながら、それをこころみようとするのである。」


「夢の世界」より:

「ここ数年のおそらくはもっとも意義のある発見、別して超現実主義の先達、一六〇〇―一六五〇年間のヨーロッパにおけるもっとも〈謎につつまれた〉画家――その名はデジデリオ・モンス。」
「いまやヨーロッパではすでに伝説的存在となっている、このデジデリオ・モンスとは、いったい誰であろう?(中略)彼は〈幻想建築〉の画家、〈破局(カタストロフ)〉の画家といわれる。(中略)この種の作品の〈破局論(カタストロフィク)〉がいかに戦慄的であろと、それはデューラーやレオナルドらの具体的な終末像とは何の関係もない。これらの作品は、幻覚喚起的な夢の破局(カタストロフ)、あるほとんど分裂症的-夢幻的な悪夢の模写である。要するに、それは明らかにある時代の政治的社会的歪みの〈寓意〉ではないのであって、出口なしという完全に特殊な心理的状況のための、ある個人的な悪夢のための、すなわち、より正確には夢の幻想的な(幻想構図 Disegno fantastico)譫妄性-性格を(超現実的な意味で)発見していた一人の芸術家のための〈寓意〉にほかなるまい。そしてその場合、この芸術家、デジデリオ・モンスにとっては、おそらく、誰と誰とが戦争しているところなどということは、ほとんどどうでもよいことだったにちがいないと思われる。」



「倒錯と歪曲」より:

「マニエリストは、しかし、世界の〈憂欝(メランコリア)〉のうちに立っている。それは彼が主観主義者だからだ。〈不条理な〉〈エロティックな〉狂気にすらおちいるほどに、〈イデア〉における、また〈空想〉裡における反対物の〈狂気的〉統一をすらなしとげるほどに、主観主義者たり得るからだ。」
「たとえ、この(まるで問題児の群れみたいにこんな不運な名前に甘んじてきた)〈マニエリスム〉が、現に失寵者であるとしても、(ボードレールのいわゆる)呪われたる者 Maudit、(サトゥルヌス的な)罪人の種族の一員だとされているにしても、マニエリスムにはともかく、閉塞や硬直化や石化を打破る一種の〈魔〉力がそなわっている。(楕円の種族、月の種族である)〈偏窟な〉人間は、(円の種族、太陽の種族の)〈調和的な〉人間に対して不可欠の補角をなす。(中略)マニエリスムは概して倒錯から発生しながら、形象を……あらゆる限界を超越した形象を、産出しつづけてやまない。」




ファビウス・フォン・グーゲル 「夜の中の死」
Fabius von Gugel: Der Tod in der Nacht


本書より:

「廃墟の光景、ヤヌスの双面を装った死、逃げまどうひとびと、鼠、墓石とデスマスクのある物影を宿したウインドーの前には、子供の手をひいた原爆防空マスクの亡霊。子供は硝子の中に自分の顔が死人の首のように映っているのをながめている。そしてグリューネウァルト風の指がさししめしているのは――若い世代の宿命であろうか?」















































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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