トーベ・ヤンソン 『誠実な詐欺師』 (冨原眞弓 訳/ちくま文庫)

「わたしとわたしの犬はあの人たちを軽蔑する。わたしと犬は共有しあう秘密の生のなかに匿われ、うちに秘めた野性のなかに隠されている……。」
(トーベ・ヤンソン 『誠実な詐欺師』 より)


トーベ・ヤンソン 
『誠実な詐欺師』 冨原眞弓 訳

ちくま文庫 や-29-2

筑摩書房 2006年7月10日第1刷
211p 文庫判 並装 カバー
定価740円+税
装幀: 安野光雅
カバーデザイン: 祖父江慎
装画: トーベ・ヤンソン
Tove Jansson : Den ärliga bedragaren, 1982

「本書は、一九九五年十二月、『トーベ・ヤンソン・コレクション』(全八冊)の第二巻として、筑摩書房から刊行されたものを大幅に改訳したものです。」



ヤンソン 誠実な詐欺師


カバー裏文:

「雪に埋もれた海辺に佇む〈兎屋敷〉と、そこに住む、ヤンソン自身を思わせる老女性画家。彼女に対し、従順な犬をつれた風変わりなひとりの娘がめぐらす長いたくらみ。しかし、その「誠実な詐欺」は、思惑とは違う結果を生み……。ポスト・ムーミンの作品の中でもNo. 1の傑作として名高い長編が、徹底的な改訳により、あざやかに新登場。」



◆本書より◆


「人びとはそろそろ起きだして噂する。また雪だ。ほら、カトリがまた狐の襟巻をして犬とでかけていく。自分の犬に名前をつけないなんて変だよ。」
「カトリ・クリングは数字と弟のことしか頭にない。それにしても、あの黄色い眼はだれからうけついだのか。(中略)カトリの眼はあの犬の眼と似たような黄色だ。眼を細めてみる癖があるので、あのふしぎな眼の色、灰色よりは黄色に近い眼の色に気づく者は、めったにいない。カトリの猜疑心はいつでもすぐに頭をもたげる。(中略)あの眼はひどく不安な気持をかきたてる。カトリ・クリングは人を信じない。六歳から守り育ててきた弟と自分自身にしか関心がないみたいで、どうにも近よりがたい。それに、名前もない犬が尻尾をふるなんてみたことがない。おまけにカトリも犬も人の好意をうけつけない。
 母親が死んでからは、カトリが雑貨店の仕事をひきつぎ、店の帳簿もつけるようになった。とても利口な娘なのだ。だが、その勤めもこの十月にやめた。店主はカトリを屋根裏部屋から追いだしたかったのだが、いいそびれている。弟のマッツときたら数にも入らない。姉より十歳年下の十五歳で、上背があって力は強いが、すこし頭がたりない。」

「わたし、カトリ・クリングは、しばしば夜中に考えごとをする。(中略)とくにお金、たくさんのお金のことを考える。すみやかに手に入れたい。賢明に、誠実に、蓄える。お金のことなんか考えずにすむように。ありあまるお金がほしい。(中略)なによりもまずマッツにボートを与えたい。(中略)毎晩、わたしは窓にあたる雪の音に耳をすます。雪のやわらかい呟きが聞こえる。海風に運ばれて窓ガラスを叩く雪だ。そう、雪が村を覆いつくし消しさってくれればいい。そうすればきれいになるのに……。長い冬の暗闇ほど静かで果てしないものはない。いつまでも、いつまでも、つづく。あるときは厚みをまして夜となり、あるときは夜明けの薄闇となる。すべてから匿(かくま)われ、守られて、人はふだんよりさらに孤独になる。そしてじっと待って、樹のように身を隠す。」
「あの犬はわたしが好きじゃない。でも、わたしと犬は互いを尊重する。わたしは秘密めいた犬の生活、本来の野性をいくらかはとどめている大きな犬の秘密を尊重する。だからといって信頼しはしない。自分をじっと観察する大きな犬をどうして信頼できよう。(中略)どうしてだれも自分の犬を怖がらないのか。野生だった動物が自分の野性をいつまで拒んでいられるものなのか。だれもが自分の飼い犬を理想化する。そのくせ犬の自然な生を軽蔑する。からだの蚤を掻いたり、腐った骨を埋めたり、ごみ溜めのなかを転がったり、うつろな樹にむかって夜じゅう吼えたてたり……。だけど、あの人たち自身はどうだというのか。(中略)わたしとわたしの犬はあの人たちを軽蔑する。わたしと犬は共有しあう秘密の生のなかに匿われ、うちに秘めた野性のなかに隠されている……。」

「カトリは屋敷をみつめる。これまでも毎朝、灯台への道すがら、こうして眺めてきた。あそこにアンナ・アエメリンがひとりで住んでいる。たったひとりで、お金に埋もれて。」
「村びとはこの屋敷を〈兎屋敷(カニンフセット)〉と呼ぶ。」

「アンナ・アエメリンは親切な人といえるかもしれない。そもそも悪意を剥きだしにする必要に迫られたことがない。いやなことは忘れる尋常ならぬ能力をもちあわせているので、ぶるっと身体をふるわせてから、掴みどころなく、そのくせかたくなに、自分の流儀をつらぬきとおす。(中略)彼女が真剣に生きるのは、描くためにその稀有な能力を傾けているときだけで、いうまでもなく描いている最中はひとりきりだ。アンナ・アエメリンには一途な人間に固有の強烈な説得力がある。たったひとつのことしか眼に入らず、たったひとつのことしか理解できず、たったひとつのことにしか興味がない。森の情景、森にひろがる土壌がそうだ。アンナ・アエメリンは森の情景を忠実に詳細に描くことができる。針葉樹の葉一枚もおろそかにしない。彼女の描く水彩は小さく、どこまでも自然主義的で、はかない植物や苔に覆われたしなやかな大地のように美しい。ところが人はうっそうと茂る森のなかを歩いても、この大地の美しさをほんとうにはみていない。アンナ・アエメリンはこの美しさを気づかせてくれる。人びとは森の本質(イデー)を眼にし、忘れていたものを思いだし、なごやかで希望にみちた郷愁をふとおぼえる。残念なことに、アンナは兎たちを描きこんで絵を台なしにする。兎のパパ、兎のママ、兎の子の三羽だ。(中略)いつだったか、児童書の批評欄でこの兎たちが槍玉にあがった。アンナは傷つき自信をなくしたが、どうしろというのか。子どもたちのためにも出版社のためにも、兎を描かないわけにはいかない。」

「スキーにむかない天気よねとか、(中略)そのうち街が除雪車をよこすわよとか、とにかく関心を示すなり示す振りをするなりして、だれもが場をつくろうためにすることを、カトリだってできるだろうに。いやいや、カトリ・クリングはそんなことはしない。ただじっと立って煙のむこうからみている。机の上に身をかがめると、黒髪がたてがみのように顔にまとわりつく。寒いので毛布にくるまり、両手でしっかりと押さえている。魔女みたいだ、とエドヴァルド・リリィエベリは思った。」

「姉と弟はめったに話をしない。ただ、仲間うちでかわす沈黙、やすらかで自然な沈黙を共有していた。」

「マッツには秘密がない。だからこそ秘密にみちている。あの子の心を乱すことは赦されない。あのまま単純で純粋な世界にいるべきなのだ。」

「日常めったに起こらない難題をかくも易々と理解できるくせに、難題をもちこんでくる当人たちとは折りあえないというのも、じつに奇妙だった。カトリの沈黙には気まずくさせられる。実務的な質問には答えるが、お喋りをしない。たまたま顔をあわせたときだって、にこりともせず、愛想もいわず、相手の意を汲もうともしない。」
「そんなわけで、人びとは用があるときだけカトリをたずね、用がすめばそそくさと退散するのだった。」

「「ああ、そうかもねえ」とアンナはあいまいに答える。「きまって花を育てていると思われるのは、どうしてかしら……」
 「わかりますよ。花に子どもに犬」
 「は?」
 「花や子どもや犬が好きだと決めつけられる。でも、そんなもの、あなたは好きじゃない」
 アンナは顔をあげ、するどく視線を走らせた。」

「「気を悪くしないでくださいね、クリングさん。ただ、人が期待することはぜったい口にしないあなたの対応のしかたが、なんだか気にいってしまって。いわゆる――そのう――礼儀正しさの片鱗すらなくて……。礼儀正しさはときに欺瞞だったりする、そうでしょう? わかっていただける?」
 「ええ」とカトリは答える。「わかります」」

「マッツは窓と下水を修理した。雪をかき、薪を挽(ひ)き、アンナの美しいタイルストーヴに火をおこす。しかし、たいていは本を借りにやってくる。マッツとアンナのあいだには友情が芽生えつつあった。遠慮がちで、むしろ照れくさそうに。本の話しかしない。」

「「契約というのは」とカトリは真顔でつづける。「想像をはるかにこえる驚くべきもので、ただ人と人をむすびつけるだけではないのです。契約のもとで生きるほうが人間にとって楽なのだということに、わたしは気づきました。不決断と困惑から解放され、もはや選択せずにすむのですから。」」

「「そうはいっても」とカトリは反論する。「人間は群れたがります。できるだけ人と同じになろうとして。だれもが五十歩百歩の動きをすると知って慰められるのです」
 「個人主義者だっているわ!」
 「たしかに。その場合、もっと必死で群れのなかに身を潜めなければならない。知っているのです、人と異なる者は狩りたてられることを」」

「あの犬はどこへ走りさったのか、夜なのに、いったいどこへ。あの犬はもうだれも信じない。だから狼のように危険な存在になった。しかし狼たちはもっとしたたかだ。群れている。はぐれた孤独な狼だけが、狩られて、殺される……。」




































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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