ウォールター・ペイター 『享楽主義者マリウス』 (工藤好美 訳)

「母はあるときマリウスをじっと見つめながら言った――そなたの魂は白い鳥に似ています。その鳥を胸に抱いて、そなたは人びとの群がっている広場をこえて運んでゆかねばなりません。鳥をじらせたり、汚したりすることなく、向うがわにいる守護神の御手に渡しますように、と。」
(ウォールター・ペイター 『享楽主義者マリウス』 より)


ウォールター・ペイター 
『享楽主義者マリウス』 
工藤好美 訳


南雲堂 昭和60年6月25日第1刷発行/昭和63年3月25日第2刷発行
538p 口絵(モノクロ)1葉
A5判 丸背布装上製本 貼函
定価10,200円(本体9903円)
Walter Pater : Marius the Epicurean, 1885



工藤好美訳『享楽主義者マリウス』改訂版。


ウォールターペイター マリウス1


目次:

二十世紀小説の原点 (篠田一士)
     *
第一部 
 第一章 「ヌマの宗教」
 第二章 「白夜」
 第三章 転地
 第四章 知識の樹
 第五章 黄金の書
 第六章 華麗文体
 第七章 異教徒の最期

第二部
 第八章 さまよう小さき魂
 第九章 新キュレネ主義
 第十章 途上にて
 第十一章 「世界でもっとも宗教的な都」
 第十二章 王をとりまく神々しさ
 第十三章 国母陛下
 第十四章 男らしい娯楽

第三部
 第十五章 宮廷のストア哲学
 第十六章 再考
 第十七章 恵まれし都
 第十八章 「投槍の祭」
 第十九章 直観としての意志

第四部
 第二十章 二つの奇妙な家
  一、賓客(まろうど)たち
 第二十一章 二つの奇妙な家
  二、チェチリア家の教会
 第二十二章 「教会の小さな平和」
 第二十三章 礼拝式
 第二十四章 幻ならぬ会話
 第二十五章 もののあわれ
 第二十六章 殉教者たち
 第二十七章 マルクス・アウレリウスの凱旋式
 第二十八章 生れながらにキリスト教徒の心


解説
あとがき



ウォルターペイター マリウス2



◆本書より◆


「第一章 「ヌマの宗教」」より:

「キリスト教が勝利を得たとき、古い宗教はもっとおそくまで田舎に残り、おしよせるキリスト教会の勢におされて、ついにそこで単なる異教として――村人たちの宗教として滅んだ。それゆえ、世紀をさかのぼって、もっと早いころ、異教そのものより古い純粋な形態がもっとも長き生きのこったのは、都の生活から遠く距たった草深い地方であった。ローマで亡びゆく古い宗教のまわりに、新しい宗教が人をとまどいさせるほど、いりまじって起っていたとき、それよりも前の、もっと素朴な、古老たちの宗教――ひとびとがなつかしんで「ヌマの宗教」と呼んだものが、田園の生活のなかに、昔のまま、ほとんどなんの変化もしないで、残っていた。」

「家族だけで行うアンバルワーリアの小さい祭の日がきた。この日のために組織された大きな僧侶団(Fratres Arvales)が、ローマで国家全体のために祭典を行うように、おのおのの家族がすべての仕事をやめ、道具をかたづけて、花輪をかける。そして主人も僕(しもべ)もいっしょになって、おごそかな行列をつくり、生贄の動物をつれて、ぶどう園と麦畑のかわいた小道をすすんでゆく。この動物たちは彼等が「歩いてまわった」土地のあらゆる自然ならびに超自然のけがれをはらい浄めるために、やがてその血を流されることになっている。行列が進んでゆくとき唱えられる祝詞(のりと)の古いラテン語は、その正確な意味は久しい前からわからなくなっていたけれども、日ごろは一家の記録とともに、広間の彩色した箱のなかにおさめてある。挿絵のついた巻物から読誦(どくじゅ)される。祭の朝ひろい柱廊玄関(ポーチコ)では農場の乙女たちが、その頃いたるところに咲きほこっていたりんごと桜の枝から短くつんだ花を、大きな籠にもるのにいそがしかった。それらの花はケレースやバッカスや、それよりもさらに神秘なデア・ディーアの奇妙な神像が、白衣をつけた若者たちの肩にのせられた小さな龕子(ずし)におさめられて、畑をとおってゆくとき、その前にまかれるのである。神輿(みこし)をかつぐ若者たちは完全な斎戒をまもり、初夏の晴天に呼吸する空気のように、身も心も清浄でなければならなかった。きよらかな浄めの水と香料のつまった香炉が彼等のうしろから運ばれていった。祭壇はやがて生け贄の火に投げこまれることになっている羊毛の花輪や、祭式用として別にしてあった古い花園の特別な場所から今朝つみあつめられたばかりの豪奢な花や緑の草で、はなやかに飾られていた。ちょうどそのころ草木の若葉は花のようにかぐわしく、豆畑のにおいはここちよく香のけむりとまじりあった。見なれぬ、こわばった、古風な衣を身にまとい、緑の麦の穂を風にひらめく白い紐で頭にまきつけた僧侶たちが唱える単調な祝(のりと)がきこえるばかりで、行列はもの音ひとつたてないで、しずしずと進んだ。すべての人びとは、子供にいたるまで、言葉をつつしめ(Favete linguis)! 沈黙! 幸福をもたらす沈黙! という司祭の唱える、きまった聖句の後は、ものをいうことをさしひかえた。その場にふさわしからぬ言葉が祭典の功徳を妨げるおそれがあったからである。」



「第二章 白夜」より:

「生れつき真面目なマリウスの性質は、彼が幼年時代をすごした住居(すまい)の影響によって、一層まじめになった。人目を避けるように、ひきこもった、この場所を初めて見るとき、人は、このような場所では、どんなことでも、たしかにどのような出来事でも、深いもの思い、ゆたかな幻想をともなうにちがいないと感じた。この住居の古いラテン名(Ad Vigilias Albas)は「白夜」と訳することができよう。(中略)そこで白夜とは、思うに、(中略)まったく何もない忘却の夜ではなく、ただ半ばだけ眠りにつつまれて、夢に夢みる夜であろう。もしそうだとすれば、この場所はその変った名にそむかず、人はこれに対するとき、ここでは白日の夢さえも単に空しいそらごとでは終るまいと感じた。」

「マリウスの少年時代はこのようにして過ぎていった。それはおおよそ行動よりも観照の生活であった。以前は財政的にもっと豊かであろうと思われるふしもあったが、実際はそれほどでもなく、ひとつにはそのため熱心に読書し、理解のすすむにしたがって、過去のもろもろの伝統によって心の孤独をなぐさめ、すでにおおく想像の世界に住み、はやくも瞑想の力によって、自分みずからの世界を大部分内部から構成する一種の理想家になり、その態度は生涯変らなかった。人の世に処してゆく彼の知的計画には、つねに個人をいっさいのものの基準とする主観的な考えかたがあって、彼は他人の評価をそのまま受けいれることができなかった。彼の気質のうちにこのような特殊な要素が生れた初めをたずねてみると、生活が彼にとってはさながら物語でも読んでいるようにみえた時代にまでさかのぼることができた。ローマ人には「超俗的」という語に相当する言葉があったのであろうか。あの美しいラテン語 umbratilis ――陰にとどまる――がおそらくこの意味にもっとも近いのであろう。たしかにこの言葉こそ、マリウスが彼の家に代々つたわってきた僧職につこうとして準備していたときの気持を正確に言いあらわし、このような準備にふくまれた物忌みや、きびしい克己と精進(ascêsis)にたいする彼の神秘的なよろこびを説明する。」

「この少年のあまりに緊張した心をいくらかときほぐしたのは、野原で心ゆくまで遊ぶことだった。わけても彼の好きなのは浜辺を散歩することで、小さい薔薇や野生のラベンダーの咲きみだれる沼地をこえてゆくと、捨てられた舟や、こわれた水門や、海鳥の群など、海の近いことを知らせるうれしいきざしがつぎつぎに現れて、ながい夏の日もそこはかとないものの香りやもの音のなかに、のどかにすごされる。そして彼が草木のゆたかに繁りみだれるイタリアの風光のなかにあって、フランス風あるいはイギリス風の魅力ともいうべき、おちついた、地味な北方的色調を特に好んだということは、彼の性質をよくあらわしている。」



「第七章 異教徒の最期」より:

「   恋しらぬ人も明日は恋せよ、
     恋しれる人も恋せよ明日こそは。
――フラヴィアンはふるえながら、なお一節を口授(くじゅ)して、かく繰りかえした。」

「病人が死んで、これまで心をこめてせわをしていた仕事が急におわると、どんなにやさしい看護人でも、何かしら看病のこまかな点で親切がたりなかったのではないかという気がして、自責の念におそわれることがあるものであるが、マリウスが感じたのはその予感であった。彼は病人の苦しみをかるくする方法をもっとよく理解するために、同じ苦しみをわけもちたいとさえ思った。
 燭の光が病人をなやますように見えたので、マリウスはそれを消した。雷がひねもす丘陵地帯にきこえて、日中はフラヴィアンにとって好もしい暑気をともなったが、夕方には激しい雨になった。突然の寒さにかすかにふるえているフラヴィアンを自分の体温で暖めてやるために、マリウスは闇のなかで友のかたわらに添い寝をした。ほかの人たちは伝染することをおそれて病人のいる家のそばさえ通らなかったが、マリウスはそんなことは気にしなかった。」



「第八章 さまよう小さき魂」より:

「彼は反省した――われわれの知識はわれわれが感じるものに限られている。われわれが感じることについては証明を要しない。しかし事物がわれわれの感じるとおりであるかどうかということは確かでない。われわれの認識器官のわずかな特殊性も、鏡の表面の小さなでこぼこのように、それが映すものの像(すがた)をいかにゆがめることであろう。他人についてはわれわれはその感情さえ真に知ることができず、人おのおのの個性がことなる以上、同じ言葉をつかっても、はたしてどの程度まで同じ考えをあらわすものか確かめることはできない。確実さの充分な根拠としてときどき人のあげる「共通な経験」も、結局、ことばの固定にすぎない。しかしわれわれ自身の印象はどうであろう! ふり仰ぐ空の光と熱! 世の常のものをおおう幕とは似もつかぬ、天つみ空にひろがる青いヴェール! 真理の相争う規準についてながながと議論したあとで、直接の感覚にたより、知識にたいするあこがれをその感覚に制限することの、いかに心づよく、安心感をあたえることであろう。マリウスの時代はなお物質的にさかえ、この世のものを芸術的にあつかうことが巧みで、感覚的な能力もおとろえず、古典の詩と美術が威容をほこり、目に見、耳に聞くものがありあまるほど豊かに存在していたが、このような時代にもっぱら感覚的事物にたよって生きようと決心することが、いかに自然なことであろう。感覚的事物こそはそれについてわれわれを欺かず、われわれもまたそれについてわれわれ自身を欺くことができない。
 存在しなくなった過去と、来ないかもしれない未来との間に現在というこの小さな点だけが実在するという抽象的な思想は、このようにしてマリウスにとっては実際的な教義となり、いたずらに過去の悔恨におぼれたり、未来への空しいあこがれにふけったりすることをできるだけ避けて、まったくとらわれない自由な心をもって現在の改善につとめるという形式をとるにいたった。」

「人生のための人生」という格言から、その実際的な結論として、われわれは内外の直感に関係するあらゆる器官を洗練し、その全能力を発達させ、みずからそれらの能力をはたらかせて自己を試練しなければならなくなる。そしてその結果、われわれの心身全体がこの世の現実の経験の幻(中略)を受けとる一つの複雑な媒介物になるであろう。自己あるいは他者を教育する真の目的は、抽象的な真理あるいは原理の体系を伝えることではなくて、それぞれの個性で或る程度ことなる生き方を伝えることである。人は誰しも「全然他人と同一」ではないのであるから、各人の特殊な性質、特別な成長の事情によって、人生に処してゆく技術にも相違があるのは当然である。」



「第二十五章 もののあわれ」より:

「しかし今日は、私自身の疲労感、自分自身にたいする憐憫の情が強くはたらいて、他人にたいするやさしい気持を私の心に呼びおこした。全世界が一瞬、病院のようにみえた。多くの病人は心の病気にかかっている。これらすべての人びとをいたわり、なぐさめてやらないのは、残酷なことのように思われた。」
「私が自分の気まぐれなもの思いをまぎらすために出かけるとき、そうしたものおもいを一層つのらせるような出来事に会うのはなぜであろうか。(きっと私のふしあわせな守護天使が私をなやますために、遠くからそれをまねきよせたにちがいない。)一群の人たちが街の通りをやってきた。彼等は立派な競馬用の馬をひきつれていた。それは見かけのよい馬だったが、競技場で体のどこかをひどく傷つけて、ものの用にたたなくなっていた。そこで人びとは馬を屠殺場につれてゆくところだったが、馬はそのことを知っているらしかった。彼は行きあう人びとに狂気じみた訴えるようなまなざしを投げながら、彼の以前の所有者が彼をひきわたした見知らぬ人びとにとりかこまれ、美と誇りのさなかにある身を、ただ一つの不幸な過失のために、屠所に歩いてゆくのだった――朝の空気はなお爽やかに、鼻をならして嗅ぐのにかくも心地よいのに。私はなんとなくこの生きもののなかの人間の魂が、運命にたいする反抗で一杯になるのを感じることができるような気がした。そして私がたまたまこの出来事にあったとき、その時の特殊な気分から、それは私にとって不幸な人類の象徴であるように思われた。われわれ人間は苦痛を受けるようにできていて、招きもしないのに不運にみまわれ、心を寄せあおうと思っても共感の能力に欠けるところがある。われわれの悲しみがわれわれ自身のものとして痛感されればされるほど、それを語って他人にうったえることができなくなる。まことにわれわれは苦しむように造られている。その証拠は人が注意して歩けば、ただ一日でありあまるほど得られるであろう――数珠玉をつまぐって唱える秘教儀式のもの悲しくも長い祈り!「涙することのみ多く、もののあわれいとど身にしむ」(Sunt lacrimae rerum et mentem mortalia tangunt.)」



「第二十八章 生れながらにキリスト教徒の心」より:

「すぐれた音楽は空中に消えてゆくときにも、よく訓練された耳には、それだけで満ちたりたよろこびをあたえるものであるが、人生もそうあって欲しいというのが彼の願いであった。」

「たしかに真の哲学の目的は、われわれが生まれあわせた周囲の事情に自己を完全に適応させようとする無益な努力にはなくて、もっとも高い人生の業績にたいしても卒直な不満をもちつづけ、すべてのものを曇りない心をもって素直に受けいれ、いよいよこの世を去るときにも、最初この世に生れてきたときに持っていた清新な驚異をそこなうことなく維持し、未来になお何かがある保証として、よろずのもののなかには深い謎があるとの意識をもって、よみじの旅にのぼることにある。」







































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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