ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『異端審問』 中村健二 訳

「不幸なことに世界は現実であり、不幸なことにわたしはボルヘスである。」
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス 「新時間否定論」 より)


ホルヘ・ルイス・ボルヘス 
『異端審問』 
中村健二 訳


晶文社 
1982年5月30日 初版
1988年12月10日 5刷
320p 索引xxi
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,860円(本体1806円)
ブックデザイン: 平野甲賀
カバー: ピラネージ銅版画「幻想牢獄」より



本書は『続審問』として改訂版が岩波文庫から刊行(2009年)されています。


ボルヘス 異端審問


訳者解説より:

「本書は Jorge Luis Borges : Otras Inquisiciones, 1937-52 (Emecé, 1960) の全訳である。翻訳にあたっては英語版 Other Inquisitions, 1937-1952, tr. Ruth L.C. Simms (The University of Texas Press, 1964) を用い、随時原著を参照した。原著は一九五二年に初版が出ている。(中略)原題は「続審問集 一九三七―一九五二」といい、「続」は一九二五年に出されたボルヘス最初のエッセイ集『審問集』(中略)に対応するものであり、(以下略)」


帯文:

「“世界は一冊の書物だ”
待望のボルヘス文芸論集」



カバーそで文:

「20世紀文学に屹立する〈迷宮の作家〉ボルヘスの、まさに驚くべき強靭な論理性によって構築された「知の意匠」の全貌を浮彫りする。時間と夢が織りなす〈同一性〉のテーマの提示と変奏を、ホーソン、ワイルド、チェスタトン、カフカ等を論じながら、あるいはまた「ドン・キホーテ」や、ヒトラーや、アルゼンチンを語りながら見事につかみだしていく。これまで断片的にしか知り得なかった、ボルヘスの魅惑に充ちた批評世界を、はじめて一冊の書物として訳出した、待望の本である。」


目次:

城壁と書物
パスカルの球体
コウルリッジの花
コウルリッジの夢
時間とJ・W・ダン
天地創造とP・H・ゴス
アメリコ・カストロ博士の驚き
カリエゴ覚書
アルゼンチン国民の不幸な個人主義
ケベード
『ドン・キホーテ』の部分的魅力
ナサニエル・ホーソン
ウォールト・ホイットマン覚書
象徴としてのヴァレリー
エドワード・フィッツジェラルドの謎
オスカー・ワイルドについて
チェスタトンについて
初期のウェルズ
ジョン・ダンの『ビアタナトス』
パスカル
夢の邂逅
ジョン・ウィルキンズの分析言語
カフカとその先駆者たち
亀の化身たち
書物崇拝について
キーツの小夜鳴鳥
謎の鏡
二冊の本
一九四四年八月二十三日に対する註解
ウィリアム・ベックフォードの『ヴァセック』について
『深紅の大地』について
有人から無人へ
伝説の諸型
アレゴリーから小説へ
ラーヤモンの無知
バーナード・ショーに関する(に向けての)覚書
歴史の謙虚さ
新時間否認論
エピローグ

原注
訳注

ボルヘス――同一性の神話 (中村健二)

人名・書名索引
主題・用語索引




◆本書より◆


「コウルリッジの花」より:

「最初のテクストはコウルリッジのものであるが、彼がそれを書いたのが十八世紀の末なのか十九世紀の初めなのか、わたしはしかとは知らない。「ある男が夢の中で楽園を通りすぎる。男はその魂がたしかにそこに行ったというしるしに、一本の花を授けられる。男は目を醒まして、手の中にその花を見る(中略)」」
「わたしが引用する二番目のテクストは、一八八七年に最初の版が書かれ、七年おいた一八九四年の夏に書き直されたウェルズの小説である。(中略)ウェルズの主人公は未来にむかって物理的な旅をする。(中略)帰還した主人公の頭髪は白くなっていたが、その手には未来の萎れた花が握られていた。」



「コウルリッジの夢」より:

「ことによると、夢の連鎖は尽きないのかもしれない。それとも、最後に夢を見る者が全ての鍵を握っているのかもしれない。」


「時間とJ・W・ダン」より:

「ダンはベルグソンが非難したあの悪しき知的習慣――つまり、時間を空間の第四次元とみなす悪弊――の見事な犠牲者なのだ。未来は既に存在し、われわれはそれに向かって移動しないわけにはいかない、と彼は仮定する。」
「神学者たちの規定によれば、永遠とは全ての瞬間の同時的で鮮明な所有であり、神的属性の一つでもある。ダンは驚くべきことに、永遠が既にわれわれのものであること、またわれわれが夜毎見る夢はそのことを確証しているとかんがえる。彼の言うところによれば、直前の過去と直後の未来は、われわれの夢のなかで同時に流れている。目ざめているとき、われわれは継続する時間のなかを一定した速さで進む。ところが夢のなかでは、極めて厖大な領域を一気に跳び越える。」
「(ショーペンハウアーは書いているが、人生も夢も一冊の本に変りはない、ただ違うのは、生きるとはページに従って順序正しく読むことであり、夢を見るとはそれを出鱈目に読むことなのだ。)
 死後になれば、永遠の上手な処理の仕方が必らず見つかるとダンは言う。人生の一瞬一瞬を回収し、それを好きなように組み合わせることができると言うのである。」
「このような素晴しい議論に接するとき、著者の犯す誤りなど問題ではない。」



「カリエゴ覚書」より:

「どんな人の人生も、(中略)実際は一つの瞬間からなりたっているのではないか――わたしはかつてそう思ったことがある。人が己の何者なるかを永久に知るあの瞬間のことだ。わたしが右に再現をこころみた、誰も知らない啓示の一瞬から、カリエゴはカリエゴになる。」


「アルゼンチン国民の不幸な個人主義」より:

「北アメリカ人やほとんど全てのヨーロッパ人とは違って、アルゼンチン人は自分を国家の一員とは考えない。(中略)アルゼンチン人は市民であるまえに一人間であるというのが真相なのだ。「国家は道徳観念の実現である」といったヘーゲルのアフォリズムは、彼らには性(たち)の悪い冗談にしか聞こえないだろう。ハリウッド製の映画は、後で警察に引渡すはらで犯人と仲良くなろうとする男(ふつうは新聞記者)をさも立派な人間であるかのように、くりかえし描くが、この「英雄」はアルゼンチン人には、わけのわからぬ卑劣漢と映る。彼らにとって、友情は真心からの熱狂であり、警察とはマフィアのようなものだから。」
「アルゼンチン文学のある一夜がこのことを十二分に確証してくれる。それは、一人の勇敢な男を見殺しにする罪を犯す訳にはいかないと叫びながら、脱走兵マルティン・フィエロに加担して、警備隊長が自らの部下と戦うあのむこう見ずな一夜のことだ。
 ヨーロッパ人にとって世界は一つの調和体(コスモス)であり、各個人は己の果たす役割にぴったりとつりあっている。しかるに、アルゼンチン人にとって、世界は一つの混沌なのである。」
「総じて、アルゼンチン人は懐疑派なのだ。人類のなかには常に三十六人の正義の味方いること――お互い相手のことを知らないけれど、ひそかにこの世界を支えているあの「跛足のヴォヴニクたち」のことだ――をたぶん知らないだろうし、かりにこの寓話をきいて、これらの義士の一人一人が世に知られぬ無名人であることを知っても、彼らは驚かないだろう。彼らの英雄は多勢を相手に独りで戦う男である――」
「わたしがすでに挙げたアルゼンチン人の特質は否定的ないしアナキズム的傾向のもので、政治的効用をもたないと主張する人もあるだろう。その逆こそ真実なのだとわたしは言いたい。現代の最も緊迫した問題は(中略)、個人の行動に対する国家の漸次的干渉である。この悪弊(中略)との闘争のなかに、アルゼンチン人の個人主義はその存在理由と積極的価値を見出すであろう。これまでは無用の存在であり、おそらくは有害ですらあったであろうが。」



「ケベード」より:

「ケベードは誰とくらべてもひけをとらないが、大衆の心をつかむシンボルだけはついに発見することができなかった。(中略)シンボルを創り出さないで世界的名声をかちえた作家はいないのだ。」
「哲学史のなかには、おそらく誤っているのであろうが、なぜか人間の想像力を強く惹きつけて止まぬ教理がある――魂が数多の肉体を転移するというプラトンとピュタゴラスの輪廻説。また、この世は悪意ある、未熟な神によって創られたとするグノーシス説、など。哲学の一初学者であるケベードは、こうした魅力にまるで不感症である。」



「ナサニエル・ホーソン」より:

「一八三七年、彼はロングフェローにこう書き送っています――「……わたしは世間と没交渉で暮らしてきました。もともとそう意図した訳ではありませんし、またこういう人生を送りたいとかつて夢見た人生があった訳でもありません。いまのわたしは、自分で自分を囚人に仕立て、土牢に押し込めてしまったようなものです。外に出る鍵はまだ見つかりません。」
 ホーソンは長身で美貌、ほっそりとした体つきで髪は黒かった。また歩くときは、船乗りのように体をゆする癖がありました。」
「これという理由もなく妻の許を蒸発し、隣町に部屋を借り、そこで二十年間、誰にも怪しまれずに隠れて暮らしたあるイギリス人の話――ホーソンはその記事を新聞で読みました。あるいは、物語に仕立てる都合上、新聞で読んだことにしたのかもしれませんが。二十年という長い間、男は一日も欠かさず自分の家から通り一つ離れた街で過ごすか、街角から自分の家を眺めて暮らしたのです。(中略)人が彼のことをとうに死んだものと諦め、妻の方も長年の後家ぐらしに馴れてしまった時になって、ある日男は玄関の戸を開け、家の中に入る――まるで数時間留守をしただけだという感じで。(中略)ホーソンはこの奇異な話を読み、胸騒ぎを覚えました。彼はそれを理解し、想像しようとして、このテーマを熟考しました。「ウェイクフィールド」はこの蒸発についての憶測に基づく物語です。」
「物語の最後の部分を引用します――「この不思議な世界は、一見混乱しているようにも見えよう。しかし、個人は一つの組織に、また組織は相互の間で、あるいはさらに大きな体系にじつに見事に適合している。その結果、人は一瞬でもそこからはみ出ると、自らの居るべき場所を永遠に失うという恐ろしい危険に身を曝らすことになる。(中略)彼は言わば《宇宙の追放者》になってしまうかもしれないのである。」
 一八三五年に書かれたこの短い不気味な譬話を読むとき、私たちはすでにハーマン・メルヴィルやカフカの世界、謎のごとき罰と理解不能の罪からなる世界に入っています。」
「翻訳家・批評家マルカム・カウリーは、「ウェイクフィールド」のなかにナサニエル・ホーソンの不思議な隠遁生活のアレゴリーを見ています。(中略)ナサニエル・ホーソンはあの特異にして無二なるウェイクフィールド物語を、多様性こそその目的なるやもしれぬこの宇宙に存在せしめるため、長年の間人間世界との交渉を絶ったと憶測することは、あながち的はずれとは言えないでしょう。この物語を仮りにカフカが書いていたとすれば、ウェイクフィールドは決して家には戻らなかったでしょう。ホーソンは家に帰らせるのですが、彼の帰宅は彼の長い不在以上に、悲劇的であり、また残酷なことです。」
「ホーソンが長い孤独な時間を紛らせるためにつけていた日記(中略)に(中略)、数々のささやかな印象、小さな具体的観察(にわとりの動きとか、壁に映った木の枝の影とか)を記したたくさんのノートが含まれています。(中略)ナサニエル・ホーソンが何年にもわたってこれらのこまごました印象観察を書きとめた理由は、自分が現実世界の人間であることを自らに思い知らせるためではなかったか、彼につねに憑きまとっていた非現実感、亡霊意識――そういうものから何とかして自らを解き放とうとする手だてではなかったかと私には思えるのです。
 一八四〇年のある日、彼はこう書いています――
 
 子どものころから棲みなれた同じ部屋に、今もこうして坐っている。わたしはここで多くの物語を書いた(中略)。部屋は自ら幻影の間と呼ばれることを求めているが、それは幾千という幻影がこの部屋にいるわたしの眼前に浮かんできたからである。その一部は姿形(すがたかたち)を装って世に送りだされたことであった……。時として、わたしは、すでに墓の中にいるような気がすることがある。すでに生気は尽き、あとは体が冷え、感覚が薄れるのを待つばかりなのだ。(中略)この孤独な部屋に、かくも長い年月なぜわたしが閉じ込められてきたのか、目に見えぬ桟と閂をなぜうちこわすことができなかったのか、いまわたしはそれがやっとわかりかけている。それは、わたしがここから外に逃げ出したら、たちまちのうちにわたしの体はごつごつと固くなって塵でおおわれてしまうからだ。わたしの心臓が冷えてこわばってしまうからだ……。じっさい、われわれは亡霊のごとき影にすぎない……」



「オスカー・ワイルドについて」より:

「ワイルドを何度も読みかえしているうちに、彼の讃美者たちがおそらくは思ってもみなかったような一つのことに、わたしは気づく。それはワイルドの言うことはほとんどつねに正論であるという立証可能な初歩的事実である。」
「彼の名声は敗訴と牢獄につながっている。けれども、彼の作品を貫通する根本的精神は喜びである(中略)。他方、肉体的精神的健全さの範例とも言うべき力強いチェスタトンの作品は、つねに悪夢と紙一重の世界である。夢魔的で怖ろしいものが彼のページのいたるところに潜んでいるし、ごくありきたりの主題がすさまじく怖ろしい物語に変じることもあるのだ。チェスタトンは幼年時代を取り戻そうとしている大人であり、ワイルドは悪徳と不運にまみれながら、侵すべからざる無垢を保ちつづけた大人である。」
「ワイルドは批評家の承認など必要としない(時には読者の承認すら必要としない)幸運な作家の一人である。」



「チェスタトンについて」より:

「チェスタトンはエドガー・アラン・ポウやカフカたらんとすることは自制していたが、彼の個性のなかには、夢魔的なもの、何か隠微で盲目で求心的なものを志向する要素があった。(中略)この矛盾、悪魔的意志のこの不安定な抑圧がチェスタトンの本性を規定している。(中略)ブラウン神父の一連の活躍こそこの内的苦闘を象徴するものであるが、神父はどの場合にも、説明不可能な事件をもっぱら理性によって説明しようとする。このエッセイの冒頭の一節で、これら一連のブラウン神父ものがチェスタトンを解く鍵であり、チェスタトンの象徴・反映であるとわたしが述べた理由はここにある。チェスタトンが幻想よりも優先させた「理性」は、厳密に言えば理性ではなく、カトリック信仰である、より正確には、プラトンやアリストテレスに征服されたヘブライ的幻想の集成であるという一点を除けば、チェスタトンについて言うべきことは、これに尽きる。」


「ジョン・ダンの『ビアタナトス』」より:

「『ビアタナトス』の公言された表面の目的は自殺罪悪説を緩和することであるが、背後の真の狙いはキリストが自殺したことを示すことである。」
「ここまで書いたエッセイを読みかえしながら、わたしはあの悲劇の人フィリップ・バッツのことを想った。彼は哲学史のなかでは、フィリップ・マインレンダーと呼ばれている。わたしと同じように、彼はショーペンハウアーの熱狂的愛読者であったが、その影響を受けて(たぶんグノーシス派の影響もあったであろう)マインレンダーはこう想像した、在ることを欲せざる故に時間の始まりに自らを滅ぼした神――われわれはこの神の断片である。世界史はこうした断片に過ぎぬ人びとの名もなき苦悶である。マインレンダーは一八四一年に生まれた。一八七六年、彼は『贖罪の哲学』を公刊し、同年に自殺した。」



「夢の邂逅」より:

「人を恋することは、過(あやま)つこともある神をいただくところの一宗教を創りだすことである。ダンテがベアトリーチェに対する偶像崇拝を告白していることは(中略)真実であり、彼女がかつてダンテを嘲弄したことがあり、また肘鉄砲を喰らわせたこともあることは、『新生』に記録された事実である。」
「わたしは彼ら二人の幻の出会いの成りゆきを読みかえす度に、(中略)ダンテが手に入れられなかった幸わせの陰画的象徴になっている(中略)二人の恋人のことを思う。地獄において永遠に結ばれたあのフランチェスカとパオロのことを思うのだ。'Questi, che mai da me non fia diviso.' (「私から永遠に離れることのないこの人」)。狂おしい恋心をこめて、不安をこめて、讃嘆をこめて、羨望をこめて、ダンテはこの一行を書いたにちがいない。」



「カフカとその先駆者たち」より:

「かつてわたしは、カフカの先駆者たちの全体的展望を思いたったことがある。彼のことを初めのうちは、伝説の鳥不死鳥のように、類例を見ない独自の存在だと思っていたが、彼をよく知るにつれ、様ざまな文学、様ざまな時代のテクストのなかに、彼の声、彼の癖を認めるような気がしたからである。」
「わたしがとりあげた異質のテクストは、どれもカフカの作品に似ている。(中略)テクストどうしは必ずしも似ていないが、これは重要な事実である。程度の違いこそあれ、カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然と現われているが、カフカが作品を書いていなかったら、われわれはその事実に気づかないだろう。すなわち、この事実は存在しないことになる。(中略)「先駆者」ということばは批評の語彙には不可欠であるが、そのことばに含まれている影響関係の論証とか優劣の拮抗といった不純な意味は除去されねばならぬ。ありようを言えば、おのおのの作家は自らの先駆者を創り出す(引用者注: 「創り出す」に傍点)のである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ。」



「書物崇拝について」より:

「セルバンテスは、おそらく人の言うことなどなに一つ耳を貸さなかったであろうが、書いてあるものなら、「通りに落ちている紙きれ」でさえ拾って読んだのだ。」


「キーツの小夜鳴鳥」より:

「イギリスの抒情詩を読み猟ったことのある人なら、ジョン・キーツの「小夜鳴鳥(ナイチンゲール)に寄せる詩」を憶えているだろう。(中略)いま耳にしている鳥の声は、遙か古えの午後、モアブ人(びと)ルツがイスラエルの畠で聴いたのと同じ声だと詩人は思う。」
「このスタンザを解く鍵、正確な鍵は、この詩を読んでいないショーペンハウアーのある形而上学的一節に見出すことができる、とわたしは思う。
 『小夜鳴鳥に寄せる詩』は一八一九年に書かれた。『意志と表象としての世界』続篇は一八四四年に書かれた。その四一章のなかに、われわれは次の文章を読む。

 この夏の燕は本当に昨夏の燕とは違うのか、無から有を生みだす奇跡が両者の間に過去何百万回となく繰りかえされ、全き絶滅によってその営みが同じ回数だけ嘲けられてきたと考えるべきなのかを真剣に問うてみてほしい。いまここで遊んでいる猫は、三百年前同じ場所でじゃれていた猫と同じものだと言えば、人は私を気狂いだと思うだろう。けれども、両者を全く違ったものだと想像することは、それに劣らず狂気の沙汰だ。

換言すれば、個体は(中略)種であり、キーツのナイチンゲールはルツのナイチンゲールでもあるのだ。」

「かつてコウルリッジは、人は全て生まれながらにしてアリストテレス的であるかプラトン的であると言った。後者は直感的に種や類を現実と見なし、前者はそれらを一般概念と見なす。後者にとって言語は恣意的記号の体系であるが、前者にとっては宇宙の地図である。プラトン派は宇宙がともかくも一つのコスモス、すなわち秩序であることを知っているが、アリストテレス派にとっては、それは謬見である、ないしはわれわれの偏頗な知識が作りあげた虚構である。場所と時代の推移に応じて、この永遠不滅の二つの敵対者は名前と言葉を変える。一方はパルメニデス、プラトン、スピノザ、カント、フランシス・ブラッドレーであり、他方はヘラクレイトス、アリストテレス、ロック、ヒューム、ウィリアム・ジェイムズである。(中略)唯名論者は全てアリストテレスであり、実在論者は全てプラトンなのだ。」
「英国精神について言うなら、それは生まれながらにしてアリストテレス的であったと言うことができる。この精神にとって、現実的なものとは抽象観念ではなく個々の観念であり、類としてのナイチンゲールではなく具体的なナイチンゲールなのだ。イギリスで『小夜鳴鳥に寄せる詩』が正しく理解されないのは、けだし当然であり、おそらく避けがたいことであろう。」



「有人から無人へ」より:

「一つの物であるということは、無情にも、それ以外の全ての物ではないということである。この真理を朧ろげながらも直感したとき、人々は非在が何物かであることにまさり、(中略)存在しないことはあらゆる物であることに同じであると想像するようになった。」


「バーナード・ショーに関する(に向けての)覚書」より:

「書物はそれと読者との間に交わされる対話であり、その声に読者が付与する独自の抑揚であり、読者の記憶に焼き付けられる変化し残存する影像なのだから。(中略)文学の意味を究めつくすことはできない。(中略)たった一冊の書物の意味でも究めることはできない(中略)。書物は孤立した「もの」ではない。それは一つの関係、いや無数の関係が集まる軸なのだ。(中略)一つの文学が別の文学と違うのは、作品(テクスト)の違いというより、作品の読み方の違いによるのである。現代に書かれた一ページ――たとえば、この本のこのページ――を、紀元二〇〇〇年に読まれるであろうように読むことができれば、紀元二〇〇〇年における文学がどのようなものかをわたしは知ることができるだろう。」


「新時間否定論」より:

「時間の連続を否定し、自我を否定し、天文学の宇宙を否定することは、あからさまな絶望とひそやかな慰めである。」
「不幸なことに世界は現実であり、不幸なことにわたしはボルヘスである。」





























































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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