J・L・ボルヘス 『ボルヘスの「神曲」講義』 竹村文彦 訳 (ボルヘス・コレクション)

「『神曲』のような偉大な書物は、ある一人の個人の孤立した、偶発的な気まぐれではない。(中略)その先駆者を調べることは、(中略)人間精神の運動を、試行錯誤を、冒険を、直覚を、予感を探ることなのだ。」
(J・L・ボルヘス 「ダンテとアングロ・サクソン人の幻視者たち」 より)


J・L・ボルヘス 
『ボルヘスの「神曲」講義』 
竹村文彦 訳

ボルヘス・コレクション

国書刊行会 
2001年5月21日 初版第1刷印刷
2001年5月23日 初版第1刷発行
203p 図版(カラー)8葉
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,400円+税
装幀: 柳川貴代
装画: 星野美智子「ボルヘスの言葉――神曲」



訳者解説より:

「本書は、Jorge Luis Borges, Nueve ensayos dantescos (Madrid, Espasa-Calpe, 1982) の全訳である(ただし、原本にはボルヘスのテクストに先立ち、二人の批評家の手になる「導入」と「紹介」が付されているが、これらは訳していない)。原題を直訳すれば、「ダンテをめぐる九つの論考」となる。」


ボルヘスの神曲講義


帯文:

「私が空想してみたのは魔法の作品、
ひとつの小宇宙でもあるような版画である。
ダンテの長詩は、宇宙にまで舞台を広げた
この種の版画なのだ。
ウィリアム・ブレイクによるカラー挿絵入り」



帯背:

「ダンテをめぐる
九つのエッセー」



カバー裏文:

「〈あらゆる文学の頂点に立つ作品〉
とボルヘスが讃える、
ダンテの『神曲』をめぐる九つの随想。
『神曲』全編のなかでも最も名高い
フランチェスカの悲劇と
オデュッセウスの冒険の挿話を論じた
「慈悲深い死刑執行人」「オデュッセウスの最後の旅」。
ダンテとベアトリーチェの再会と別離について語る
「夢の中の出会い」「ベアトリーチェの最後の微笑」。
ペルシャ神秘詩人と
ダンテとのえにしを探る
「スィーモルグと鷲」ほか。
〈文学の専門家ではなく、一介の読者、
作品を楽しみ、自分の読者たちにも一緒に楽しんで
ほしいと願っている、まさに快楽主義的な読者〉
の〈心の震え〉をあますところなく伝える
著者晩年の隠れた傑作。」



目次 (初出):

序章 (『神曲』スペイン語訳(1949年)の「序説」)
第四歌の高貴な城 (「ラ・ナシオン」紙、1951年4月11日)
ウゴリーノをめぐる贋の問題 (『神曲』スペイン語訳(1949年)の「序説」)
オデュッセウスの最後の旅 (「ラ・ナシオン」紙、1948年8月22日)
慈悲深い死刑執行人 (「スール」誌、1948年5月)
ダンテとアングロ・サクソン人の幻視者たち (「アルス」誌のダンテ特集号、1957年)
「煉獄篇」第一歌一三行 (本書)
スィーモルグと鷲 (「ラ・ナシオン」紙、1948年3月14日)
夢の中の出会い (「ラ・ナシオン」紙、1948年10月3日/『続審問』)
ベアトリーチェの最後の微笑 (本書)

訳註
ボルヘスの中のダンテ――訳者解説 (竹村文彦)

     *

図版(ウィリアム・ブレイク画)
 ダンテとウェルギリウスを地獄の底へ降ろすアンタイオス
 高貴な城 ホメーロスと古代の詩人たち
 わが死にざまを語るウゴリーノ
 炎に包まれるオデュッセウスとディオメーデース
 愛欲者の圏谷 フランチェスカ・ダ・リーミニ
 地上楽園 凱旋車上のベアトリーチェにダンテ、マテルダ
 グリフォンの引く凱旋車 ダンテを叱責するベアトリーチェ
 天国の薔薇 栄光の天の元后




◆本書より◆


「慈悲深い死刑執行人」より:

「ダンテは(中略)フランチェスカを地獄に落としながら、彼女の過ちの物語は限りない同情をもって聞く。この矛盾は、どのように緩和したらよいのか? どうしたら正当化できるか? 私には可能性のある推論が四つ、ほの見える。」
「四番目の推論はあまり明快ではなく、理解してもらうには前提となる議論が必要になる。二つの命題を考えてみよう。ひとつは、殺人犯は死刑に値するというもの、もうひとつが、ロジオン・ラスコーリニコフは死刑に値するというものだ。二つの命題の意味が同じでないことは疑い得ない。逆説的ではあるが、なぜ同じでないかというと、殺人犯が具体的な存在で、ラスコーリニコフが抽象的ないし架空の存在だからではなく、反対の事情からなのだ。殺人犯という概念は、単なる一般性を指し示している。ラスコーリニコフは、彼の物語を読んだ者にとっては本物の人物である。現実の世界には、厳密にいえば殺人犯なるものはいない。いるのは個人、言語の不手際ゆえにこうした漠然とした集合体に取り込まれた個人である(中略)。言い換えれば、このドストエフスキーの小説を読んだ者は、何らかの形でラスコーリニコフになったのであり、彼の「犯罪」が自由に選び取られたものではなく、網のように張りめぐらされた不可避の状況にあらかじめ定められ、強要された行為であるのを知っている。殺人を犯した人は殺人犯ではない、盗みを働いた人は泥棒ではない、嘘をついた人は詐欺師ではない。このことは、有罪判決を受けた者がよく知っている(というより、感じている)。それゆえ、不当でない刑罰はない。法律上の虚構としての殺人犯は、十分死刑に値するかも知れないが、自分の過去の歴史に、そしてもしかすると(中略)世界の歴史に押し立てられて人を殺した不運な人間は、そうではない。スタール夫人が、このような論旨を有名な文句で要約している――Tout comprendre c'est tout pardonner. (一切を理解すること、それは一切を許すこと)
 ダンテが繊細この上ない憐れみの情を込めてフランチェスカの過ちを物語るので、われわれはみな過ちが避けられなかったのを感じる。「煉獄篇」(第十六歌七〇行)で、ある神学者が、「かりに人間の行為が星々の影響力に左右されるとすれば、われわれの自由意志は無に帰してしまい、善行に報い、悪行を罰するのは不当な行ないとなってしまうだろう」と論じているにもかかわらず、詩人自身もそのように感じていたに違いない。
 ダンテは理解しながらも、許さない。これが解消しがたい逆説である。私の推察では、彼は論理を越えたところでそれを解決したのだ。人間の行為を必然的なものと感じ(理解したのではなく)、同時に、それらの行為が結果としてもたらす至福なり破滅なりの永生を不可欠と感じたのだ。スピノザ哲学の徒やストア派もまた、自由意志を否定した。スピノザ哲学の徒やストア派もまた、道徳律を広く解いた。」
「ご覧のとおり、四番目の推論は問題を解きほぐしてはくれず、それを力強く提起するに留まっている。他の三つの推論は論理的であるが、論理的ではないこの第四の推論が、私には真実を捉えているように思われる。」



「夢の中の出会い」より:

「人に恋をするとは、誤りを犯し得る神をもとに、ひとつの宗教をつくり出すことだ。ダンテがベアトリーチェに盲目的な崇拝の念を抱いていたことは、誰にも反駁できない真実である。彼女があるとき彼を嘲(あざけ)り、またあるときは彼をつっぱねたことも、『新生』に明記されている。」
「ダンテにとってベアトリーチェは、果てしなく存在した。ベアトリーチェにとってダンテは、ごくわずかしか――もしかすると全く――存在しなかった。(中略)私は、アリギエーリが夢に見た二人、第二の圏谷の嵐の中にいる恋人たちのことを考える。この二人は、詩人自身は気づいていないにせよ、あるいは認めたがらないにせよ、彼には叶(かな)わなかった幸福のおぼろげな表徴なのだ。私が考えているのは、地獄でとこしえに結ばれたフランチェスカとパオロのことだ(《questi, che mai da me non fia diviso...》私から二度と離れることのないこの人は、「地獄篇」第五歌一三五行)。恐ろしいほどの愛をこめて、切なる願いをこめて、賛嘆をこめて、羨望をこめて、ダンテはこの詩句を認(したた)めたに違いない。」























































































































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