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ホルヘ・ルイス・ボルヘス 『砂の本』 篠田一士 訳 (現代の世界文学)

「彼は「ウンドル」という言葉を発した。それは「驚異(ワンダー)」の意である。」
(ホルヘ・ルイス・ボルヘス 「ウンドル」 より)


ホルヘ・ルイス・ボルヘス 
『砂の本』 
篠田一士 訳

現代の世界文学

集英社 
1980年12月10日 第1刷発行
1981年2月28日 第2刷発行
169p 著作年表1p 
口絵・図版(モノクロ)3葉
四六判 ソフトカバー カバー 
定価850円
装幀: 杉浦康平+赤崎正一
イラスト: 渡辺冨士雄
版画: 星野美智子(「ボルヘスの鏡」「為:〈会議〉」「為:〈砂の本〉」)



訳者による「あとがき」より:

「『砂の本』(El Libro de Arena)は一九七五年に刊行された、ボルヘスの四冊目の小説集である。」


ボルヘス 砂の本 01


カバー文:

「変幻
これは真実だと主張するのが、いまや、あらゆる架空の物語の慣例である。しかしながら、わたしの話は、本当に本当なのである……印刷は、人間の最大の悪のひとつでした。なぜなら、それは、いりもしない本をどんどん増やし、あげくのはてに、目をくらませ……わたしの分身は、新奇な比喩の発明や発見を信じていた。わたしはといえば、身近で、自明な相似に対応する比喩、そして、われわれの想像力がすでに受け入れているような比喩を、信じていた。人間の老境と落日、夢と人生、時の流れと水……表題作ほか、粒よりの名短篇」



ボルヘス 砂の本 02


カバー裏文:

「「夜の引きあけに」と詩人は語った。「最初自分にも分らぬ
言葉を口にしながら目ざめました。それらの言葉は一篇の詩でございました。
私は罪を犯したかのように感じました。恐らく、聖霊の許したまわぬ罪を。」
「その罪を、今こそ予もそちと分かち合おう」と王は囁いた。
「美を知ってしまったという罪、それは人間には禁断の恵みなのじゃ。
今われらはその罪を贖わねばならぬ。予はすでに鏡と黄金の仮面を汝に与えた。
さて、ここに、第三にして、最後をかざる贈り物がある。」
王は、詩人の右手に一振りの短剣をおいた。――〈鏡と仮面〉

……ページをめくってみる。裏面には、八桁の数字がならぶ番号がうたれていた。よく辞書に使われるような小さな挿絵があった。
子供がかいたような、まずいペンがきの錨だった。
見知らぬ男がこう言ったのはその時だ。
「それをよくごらんなさい。もう二度と見られませんよ。」
声にではないが、その断言の仕方には一種の脅迫があった。その場所を
よく心にとめて、わたしは本を閉じた。すぐさま、また本を開いた。一枚一枚、
あの錨の絵を探したが、だめだった。狼狽をかくすためにわたしは言った。
「これはインド語訳の聖書ですな、ちがいますか?」
「ちがいます」と彼は答えた。それから、秘密を打ち明けるように声をおとした。――〈砂の本〉」



目次:

他者
ウルリーケ
会議
人智の思い及ばぬこと
三十派
恵みの夜
鏡と仮面
ウンドル
疲れた男のユートピア
贈賄
アベリーノ・アレドンド
円盤
砂の本

後書き (J・L・B)

訳者あとがき



ボルヘス 砂の本 03



◆本書より◆


「他者」より:

「「もしこの朝とこのめぐり合いが夢であるならば、わたしたち二人は、めいめいが、自分こそ夢見る人だと信じねばならない。もしかしたら、わたしたちは夢見るのをやめられるかもしれないし、やめないかもしれない。それはそれとして、ともかく、わたしどもが守るべき明らかな義務は、その夢を受け入れることです。わたしたちが宇宙を受け入れてきたように、われわれが生まれ、目で見、呼吸することを受け入れているように。」
 「じゃあ、もし夢がつづくとすれば?」彼は不安気にたずねた。
 彼の不安、そして、わたしの不安をしずめるために、しかと感じてもいない確信を装って、わたしは言った。
 「わたしの夢はもう七十年も続いているんだよ。結局のところ、思えば、自分自身に出会わない人間はひとりとしていないのだ。それが、いま、われわれに起っている――われわれが二人いるということを除いてはね。ところで、わたしの過去を、なにがしか知りたいとは思わないかね。君の未来になるわけだが。」」

「「われわれのお祖母さんも同じ家で死んだんだ。死ぬ数日前に、一同を呼び集めてこう言ったものだ。『わたしは、もう年も年だから、ゆっくり、ゆっくり死ぬんだよ。だから、ごく当りまえのありふれたことで、騒ぐ必要はないんだよ』とね。」」

「「日に日に、わが祖国は偏狭な地方性をましつつある。ますます偏狭で、ますますひとりよがりになって、まるで目をしっかりつぶっているようなものだ。」」

「彼は、自分の詩集は全人類の兄弟愛の頌歌なのだと説明した。現代の詩人は、時代に背を向けることはできないのだと。
 わたしはしばらく考えてから、本当にあらゆる人間に同胞愛を感じているのかとたずねた。たとえば、あらゆる葬儀屋、あらゆる郵便配達夫、あらゆる潜水夫、偶数街に住んでいるあらゆる人間、さらに、あらゆる失声症の人たちに感じることができるのか。彼は、自分の本は、抑圧され、疎外されている大衆のことを問題にしているのだと言った。
 「君のいう、抑圧され疎外されている大衆なんて、たんなる観念にすぎないんだよ」と、わたしは答えた。「いやしくも存在するものがあるとすれば、個人のみが存在するのだ。(中略)この、ジュネーヴだか、ケンブリッジだかのベンチにすわっているわれわれ二人が、おそらくその証拠なんだ。」」

「いま思いだしたが、彼はそのまえに、ウォルト・ホイットマンの短い詩を熱烈にくりかえしていた。詩人が、心から幸福であった海辺の一夜を、よび起している詩だ。
 「ホイットマンがその夜をうたっているとすれば、それは彼が望んだだけで果たさなかったからだ」とわたしは言った。「詩というものは、現実の記録ではなくて、憧れの表白と見定めてこそ、はじめて、その真価があらわになるのだ。」」



「ウルリーケ」より:

「わたしが彼女の姿を見たのは、このときだった。ウィリアム・ブレイクの詩の一行は、柔媚な銀の、あるいは、猛々しい金の乙女たちを語っているが、ウルリーケには、金と柔媚さとが同居していた。ほっそりと背が高く、とがった顔立ちと灰色の目をしていた。その顔ほどではないが、わたしは彼女の謎めいた物静かさに打たれた。すぐほほえむ、するとその微笑が、彼女を遠ざけるようだった。」

「「オックスフォード・ストリートで」と彼女は言った。「ロンドンの群衆にまぎれたアンを探すド・クィンシーの足跡をたどるのよ。」
 「ド・クィンシーは」とわたしは答えた。「彼女を探すのをやめた。ぼくは生涯、探しつづける。」」



「会議」より:

「わたしは、ちょうど、七十歳といくつかになろうとしており、(中略)優柔不断のせいか、無精のせいか、それとも他の理由からか、結婚歴はなく、ずっと、ひとりである。孤独に悩むことはない。自分と、自分のくせ(引用者注: 「くせ」に傍点)とに折り合ってゆくので精一杯だ。自分が刻々と年とってゆくのは分っている。そのまぎれもない徴候は、新奇なものに対して、もはや興味をもつことも、目をみはることもない、という事実である。多分、そうしたものには、本質的な新しさなどなにひとつなく、小心なバリエーションにすぎないことに気がついているからだろう。若い頃は、黄昏や場末や悲運に魅かれた。今は、都心の朝や静穏の方がいい。」


「人智の思い及ばぬこと」より:

「ここの住人とは、いったいいかなるものだろうか。われわれにとって彼がおぞましいと同様、彼にとっておぞましいはずのこの地球上に、彼はなにを求めているのか。天文学、あるいは、時間の、いかなる謎の地域から、いかなる蒼古の、今となっては測り知れぬ薄明のなかから、この南米の郊外、しかもほかならぬこの夜に、それは到達したというのか。
 わたしは自分が混沌への侵入者のような気がした。戸外では、雨はすでにやんでいた。」



「三十派」より:

「私がかくも多くの恩恵を蒙っている神意は、この教派の名前の、真正にして秘密の由来を発見せしめたもうた。どうやらその教派の発生地点とおぼしいケリオスに、「三十の銀貨」と呼ばれる秘密集会が今なお存続している。これは原名であって、われわれに鍵を与えてくれるものである。十字架の悲劇には――私はこれをしかるべき崇敬の念をこめて書いているのだが――自覚する、しないとにかかわらず、いずれも不可欠、かつ、いずれも宿命的な役者たちがいた。銀貨を渡した祭司たちも自覚してはいなかったし、恩赦の対象に盗賊バラバを選んだ民衆も、ユダヤの総督も、主の受難の十字架をたて、釘を打ち、主の衣をくじ引きで分けたローマの兵士たちも、自覚していたわけではない。はっきりと自覚していた役者はただ二人―― キリストとユダである。後者は、魂の救いの代償である三十枚の銀貨をなげうち、直ちに首をくくった。このとき、彼は、「人の子」と同じく三十三歳であった。その教派は、両者をひとしく崇(あが)め、他のすべての者を赦(ゆる)す。罪ある者はひとりもいない。知る、知らざるを問わず、神慮にもとづく計画の遂行者でない者はいなかったのである。思えば、すべての者が、栄光を分かち合っているのだ。」


「鏡と仮面」より:

「「その罪を、今こそ予もそちと分かち合おう」と王は囁いた。「美を知ってしまったという罪、それは人間には禁断の恵みなのじゃ。今われらはその罪を贖わねばならぬ。」」


「疲れた男のユートピア」より:

「「しかし、事実を話すことはやめましょう。事実は、もはや、だれにとっても問題にはなりません。そんなものは、発明と推理への、たんなる出発点に過ぎません。われわれは、学校で、懐疑と忘却術を教えられる。とりわけ、個人的、ならびに地方的なものを忘れる術です。われわれは、連続的な時間のなかに生きています。しかし、『永遠の相の下に』生きようとしているのです。過去については、まだいくつかの名前が残っているが、言語はそれを失いかけている。われわれは無用の細部を回避します。年代も歴史もない。統計もありません。あなたはエウドーロという名だとおっしゃいましたね。ところが、わたしの方は、名乗ることができないのです。なにしろ、『ある者』と呼ばれているんですから。」
 「では、父上のお名前は?」
 「名はありませんでした。」」

「「二千冊もの本を読める者はいません。わたしも、今まで生きてきた四世紀のあいだに、半ダースの本も読んではいません。それに、大事なのは、ただ読むことではなく、くり返し読むことです。今はもうなくなったが、印刷は、人間の最大の悪のひとつでした。なぜなら、それは、いりもしない本をどんどん増やし、あげくのはてに、目をくらませるだけだからです。」
 「わたしのおかしな過去には」とわたしは言った。「毎日、夕方から朝にかけて事が起り、それを知らないでいるのは恥だ、という迷信がはびこっていました。(中略)やれ、最近の教育者会議の末端の細目とか、さし迫った外交関係の断絶とか、秘書官の秘書官が、そのジャンルにふさわしい周到な曖昧さで練り上げた大統領布告とかとなると、みな、実によく知っていたのです。
 こういうものは、すべて、忘れるために読まれるのです。なぜなら、いずれも、まもなく、別の些事がそれをかき消してしまうのですから。」」

「「百歳になると、人間はもう、愛だの友情だのをなしですますことができます。悪や、不本意な死も、もうこわくない。芸術、哲学、数学のどれかを実践したり、チェスのひとり勝負をしたりする。自殺したければしてもいい。人間はおのれの生の主人であり、また、おのれの死の主人にもなります。」
 「それはなにかの引用ですか?」とわたしは訊ねた。
 「たしかに。もはや、われわれは引用しかしないのです。言語とは、引用のシステムにほかなりません。」
 「で、わたしの時代の大冒険、宇宙旅行は?」とわたしが言った。
 「そういった旅行は、もう何世紀も前にとりやめられました。それはたしかにすばらしいものでした。しかし、われわれは、決して、『ここ』と『いま』とから逃れることはできませんからね。」
 微笑をうかべながら、彼はこうつけ加えた。
 「それに、どんな旅行でも宇宙的です。一つの天体から別の天体へ行くのは、向いの農場へ行くようなものだ。この部屋に入ってこられたとき、あなたは、ひとつの宇宙旅行を成し遂げたのですよ。」」



「アベリーノ・アレドンド」より:

「平屋根をうつ雨の音が、いつも彼の友だった。囚人や盲人にとって、時間は、さながらゆるい勾配を下る川のように流れる。幽居の半ば頃には、アレドンドも、一度ならずそのような時外の時を経験した。第一の中庭に天水桶があって、その底に一匹のがま(引用者注: 「がま」に傍点。以下同)がいた。しかし、永遠と境を接しているがまの時間が、彼の求めるものだったとは、ついぞ思いおよばなかった。」


「砂の本」より:

「わたしは何気なくその本を開いた。知らない文字だった。粗末な印字の、古びたページは、聖書によく見られるように二列に印刷されていた。テクストはぎっしりつまっており、一節ごとに区切られているページの上の隅には、アラビヤ数字がうってあった。偶数ページに(たとえば)四〇五一四という数字があるとすると、次のページは九九九になっているのが、わたしの注意を引いた。ページをめくってみる。裏面には、八桁の数字がならぶ番号がうたれていた。よく辞書に使われるような小さな挿絵があった。子供がかいたような、まずいペンがきの錨(いかり)だった。
 見知らぬ男がこう言ったのはその時だ。
 「それをよくごらんなさい。もう二度と見られませんよ。」」

「「わたしは、平原の村で、数ルピーと一冊の聖書と引きかえに、それを手に入れたのです。(中略)彼が言うには、この本は『砂の本』というのです。砂と同じくその本にも、はじめもなければ終りもない、というわけです。」」
「「この本のページは、まさしく無限です。どのページも最初ではなく、また、最後でもない。なぜこんなでたらめの数字がうたれているのか分らない。多分、無限の連続の終極は、いかなる数でもありうることを、悟らせるためなのでしょう。」
 それから、あたかも心中の考えごとを口にのぼせるように、「もし空間が無限であるなら、われわれは、空間のいかなる地点にも存在する。もし時間が無限であるなら、時間のいかなる時点にも存在する。」」




◆感想◆

「他者」は分身(過去の自分)と出会う話です。「相手は夢のなかでわたしと会話したのであって、それ故にこそ、わたしを忘れることができたのだ。一方、わたしの方は、目ざめた状態で彼と会話したので、現在にいたるまで、その記憶に悩まされているのだ。」とありますが、講演録『七つの夜』では「未開人や子供にとって夢は目覚めているときの挿話ですが、詩人や神秘主義者にとっては目覚めの状態がすべて夢だということもありえないことではない。」と言っています。

「ウルリーケ」が「わたしはフェミニストです」といい、「男性のまねはしたくありません」というのを、ボルヘスが「こういう科白(せりふ)」は「彼女らしからぬものだ」と評しているのは、ウルリーケが「ヴォルスンガ・サガ」の「ブリュンヒルト」(ブリュンヒルデ)であることが判明するからですが、シーグルト(ジークフリート)がブリュンヒルトと出会ったとき、ブリュンヒルトは男のように甲冑を身にまとっていました。

「会議」は、チェスタトン『木曜の男』の変奏ですが、チェスタトンの楽天主義とは異なり、すべては「この世の空しさ」に解消されてしまいます。

「人智の思い及ばぬこと」は、ボルヘス自身もコメントしているようにラヴクラフトの模作あるいはパロディですが、ボルヘスはほかのところ(対談)でラヴクラフトを「bogus (いんちき、にせもの)」であると断言し、読むに値しないと一蹴しています。しかしボルヘスとラヴクラフトには資質的にかなり近いものがあるのではないでしょうか。本作はまた、『ボルヘス怪奇譚集』にも収録されているチェスタトンの短篇「いかにしてわたしは超人を見つけたか」を連想させます。チェスタトンのブラウン神父物にも「ダゴン」が登場するし、ラヴクラフトとチェスタトンにも資質的に近いものがあるのではないでしょうか。

かつて「ユダについての三つの解釈」でグノーシス派の「ユダの福音」を発展させたボルヘスは、「三十派」で、ふたたび汚辱にまみれた人々の救済を試みます。『ボルヘスの「神曲」講義』所収のエッセイ「慈悲深い死刑執行人」でボルヘスは、地獄にいる人々が犯した罪は運命によって定められた必然的なものであって「自由に選び取られたものではなく、網のように張りめぐらされた不可避の状況にあらかじめ定められ、強要された行為である」「それゆえ、不当でない刑罰はない」と言い、にもかかわらず不当な刑罰を甘んじて受け入れる汚辱にまみれた人々のことを書きました。暗殺者「アベリーノ・アレドンド」も、そのような人々の一員ですが、大統領を暗殺したアベリーノは死刑になることも自殺することもなく穏やかな余生を送ります。前著『ブロディーの報告書』にも、世間から卑劣漢や卑怯者と呼ばれるような行動をとりながらも余生を穏やかに過ごした人々が登場していました。「若い頃は、黄昏や場末や悲運に魅かれた。今は、都心の朝や静穏の方がいい。」と本書「会議」にありますが、ユダを主人公に小説を書いたとしたら、ユダにも穏やかな余生を過ごさせたことでしょう。文学の使命のひとつは、そのような汚辱にまみれた人々を歴史の悪夢から救い出すことにあります。

「疲れた男のユートピア」は、何世紀にもわたる穏やかな余生を過ごした後で、自らガス室に赴いて穏やかに自殺する未来の人々の話です。「この本のなかで、もっとも正直、かつメランコリックな一篇だ」(ボルヘスによる「後書き」より)。

晩年の紀行文集『アトラス』では、俳句という「たった一行」の詩を発明した功徳によって人間は神々による破滅を免れますが、「鏡と仮面」では、「たった一行」の詩を発見してしまったゆえに詩人は「美を知ってしまったという罪」を贖わねばならなくなります。

「円盤」は「片面だけしかない」円盤、「砂の本」は無限のページをもつ一冊の本という、不可能なオブジェを主題としたオブジェ小説です。




















































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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