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ボルヘス 『伝奇集』 篠田一士 訳 (ラテン・アメリカの文学)

「夢みる男の夢の中で、夢みられた男がめざめた。」
(ボルヘス 「円環の廃墟」 より)


ボルヘス 
『伝奇集』 

伝奇集/エル・アレフ/汚辱の世界史
篠田一士 訳
ラテン・アメリカの文学 1

集英社 
1984年9月15日 第1刷発行
333p 口絵(モノクロ)2p
四六判 丸背紙装上製本
本体ビニールカバー 貼函
定価1,800円
装幀: 菊地信義

月報〈15〉 (8p):
ボルヘス断章(辻邦生)/ラテンアメリカの美術(1)――時間と空間について(加藤薫)/訳者略歴/次回配本/図版(モノクロ)1点



本書は、折からのラテン・アメリカ文学ブームに乗って企画された文学全集「ラテン・アメリカの文学」シリーズ(全18巻)の第1巻として刊行されました。収録内容は集英社版「世界の文学」第9巻ボルヘス編(1978年)と同じです。


ボルヘス 伝奇集 01


本書には、以下の三冊の短篇集が収録されています。
『汚辱の世界史 Historia universal de la infamia』(1935年)――中村健二による訳が晶文社から刊行されています(『悪党列伝』)。
『伝奇集 Ficciones 1935-44』(1944年)――鼓直訳が岩波文庫から刊行されています。
『エル・アレフ El Aleph』(1949年)――土岐恒二訳が白水社から刊行されています(『不死の人』)。


目次:

伝奇集
 第一部 八岐(やまた)の園 (一九四一年)
  プロローグ
  トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス
  アル・ムターシムを求めて
  『ドン・キホーテ』の著者 ピエール・メナール
  円環の廃墟
  バビロンのくじ
  ハーバート・クエインの作品の検討
  バベルの図書館
  八岐の園
 第二部 工匠集 (一九四四年)
  プロローグ
  記憶の人・フネス
  刀の形
  裏切り者と英雄のテーマ
  死とコンパス
  内緒の奇跡
  ユダについての三つの解釈
  結末
  フェニックス宗
  南部

エル・アレフ
 不死の人
 死んだ男
 神学者たち
 戦士と囚われの女の物語
 タデオ・イシドロ・クルスの生涯(一八二九―一八七四)
 エンマ・ツンツ
 アステリオーンの家
 もうひとつの死
 ドイツ鎮魂曲
 アヴェロエスの探求
 《ザーヒル》
 神の書跡
 アベンハカーン・エル・ボハリー、おのれの迷宮に死す
 ふたりの王とふたつの迷宮
 待つ
 敷居の上の男
 アレフ
 エピローグ

汚辱の世界史
 初版の序
 一九五四年版の序
 汚辱の世界史
  恐怖の救済者 ラザラス・モレル
  真(まこと)とは思えぬ山師 トム・カストロ
  鄭(てい)夫人 女海賊
  不正調達者 モンク・イーストマン
  動機なしの殺人者 ビル・ハリガン
  不作法な式部官 吉良上野介
  仮面の染物師 メルヴのハキム
 ばら色の街角の男
 エトセトラ
  死後の神学者 (エマヌエル・スウェーデンボリ)
  彫像の部屋 (「千夜一夜物語」)
  夢を見た二人の男の物語 (「千夜一夜物語」)
  お預けをくった魔術師 (アラビヤの物語『四十の朝と四十の夜』を出典とするドン・フヮン・マヌエル王子の『パトロニオの書』より)
  インクの鏡 (リチャード・F・バートン)
  マホメットの代役 (エマヌエル・スウェーデンボリ)
  寛大な敵 (H・ゲリング『ヘイムスクリングラ補遺』)
  学問の厳密さについて (スワレス・ミランダ)

解説――ボルヘス JORGE LUIS BORGES(一八九九~ ) (篠田一士)
著作年譜



ボルヘス 伝奇集 02



◆本書より◆


「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」より:

「その夜ビオイ=カサーレスがわたしと夕食をともにし、一人称小説の雄大な構想について長々としゃべっていた。その小説のナレーターは事実を抜かしたり、形をかえたり、矛盾をおかしたりするので、少数の読者――ほんの一にぎりの読者だけしか、小説の背後にかくされた、恐ろしい、あるいは平凡な真実を読みとることができないだろう、ということであった。廊下のはるか奥から、その鏡はわたしたちを凝視していた。わたしたちは、(そういう発見は夜中には避けがたいものなのだが)鏡というものは、なんとなく怪奇なものを漂わせていることに気がついた。するとビオイ=カサーレスが、ウクバールの教祖のひとりが言ったことを思いだした。鏡と性交は、人間の数をふやすがゆえに忌わしいものだと。」

「トレーンの一学派は時間を否定するにいたった。現在は無限である、未来は現在の希望にほかならず、過去は現在の記憶にほかならないというのがその理由である。また、ある学派は、全時間(引用者注: 「全時間」に傍点)はすでに起こってしまったものであり、われわれの人生はやり直しのきかない経過の漠然たる記憶、あるいはおぼろげな反映であって、疑いもなく偽のきれぎれの断片なのだと断定している。」

「トレーンにおいては、すべての知識の源泉は単一で永遠であることを、われわれはすでに知った。
 文学上の問題においてもまた、支配的な概念は、あらゆるものは唯一の作家の作品であるというものである。本は滅多に署名されない。剽窃(ひょうせつ)の観念は存在しない。すべての本は唯一の作家の作品であり、その作家は時も名も限定されていないということが確立している。(中略)批評家は二つの異なる作品――たとえば、『道徳経』と『千夜一夜物語』にしてもよい――をとりあげ、それらを同一の作家のものとみなし、そして心からこの興味深いひとりの文人の心理を探索するだろう……。」



「『ドン・キホーテ』の著者 ピエール・メナール」より:

「メナールは(おそらく自ら望まずして)、新しい技術によって、停頓(ていとん)した未発達の読書術を豊富にしたのだ。その技術とは、意識的なアナクロニズムと作品をちがう作者に帰属させることである。」


「バベルの図書館」より:

「図書館はその正確な中心が任意の六角形であり、その周囲には到達しえないところの一個の天体である。
 五つの棚が各六角形の壁の各面に相当する。それぞれの棚は同型の三十二冊の本をもつ。それぞれの本は四百十ページから成る。各ページは四十行、各行はゴチックの八十字ばかりから成る。」
「図書館は、永遠をこえて存在する。理性ある心の持主ならばだれもこの真理を疑うことができない。その真理の直接の必然的結果は世界の未来の永遠性である。不完全な図書館員である人間は、偶然の、または悪意ある造物主(デミウルゴス)の作品であろう。」

「これらの争う余地のない前提から、彼は図書館がばらばらでなく総体であって、その本棚は二十あまりの字形のあらゆる可能な組み合わせ(その数は厖大ではあるが無限ではない)を蔵していると推論した。言いかえれば、あらゆる言語で、およそ表現しうるものはすべてである。そこにはあらゆるものがある。未来の細密な歴史、大天使の自伝、図書館の信ずべきカタログ、何千という偽のカタログ、これらのカタログの虚偽性の論証、真実のカタログの虚偽性の論証、王たちのグノーシス派の福音書、この福音書の注解、この福音書の注解の注解、きみの死の真実の記述、それぞれの本のすべての言語による翻訳、すべての本の中でのあらゆる本の書きかえ。」

「当時のもうひとつ別の迷信も知られている。「本の人」である。どこかの六角形のどこかの棚に、残りのすべてに対する完全な概要である本が存在するにちがいないと人びとは推定した。ある図書館員がそれを精読し、今や神に相似している。その遠い役人崇拝の痕跡は、この地域の言葉にいまだに持続している。多くの巡礼が彼を探ねて歩いた。一世紀のあいだ彼らはきわめて雑多な道を空しくさ迷った。彼のすみかである秘密の六角形をいかにしてつきとめられよう?」

「人類は――唯一無二の人類は――絶滅への途上にあり、他方図書館は永遠につづくだろうと思われる。輝き、孤独で、無限に、完全に不動で、貴重な書物にみち、無用で、無窮に、ひそやかに。」

「図書館は無限でしかも周期的である。もし永遠の旅人がどの方向かにそれを横切るとすれば、数世紀の後に、同じ本が同じ無秩序でくり返されているのを見出すだろう。(その無秩序は、くり返されて、秩序を構成するだろう。秩序そのものを。)わたしの孤独は、この風雅な希望を喜んでいる。」



「八岐の園」より:

「彼らにわたしはこの忠告を与える、「だれでも、なにかすさまじい事業に従事するものは、あたかもそれがすでに成就されたかのように行動し、未来が過去のようにとり返しのつかないものとして自分に課するべきだ」と。このようにわたしは進んだ。すでに死んだ男の眼で、おそらくは最後となる日の動揺を凝視し、夜がひろがってゆくのをみつめながら。」

「わたしは迷路の中の迷路を、うねうねとたえずひろがってゆき、過去と未来を含み、なんらかの意味で星々をも包括するような迷路のことを考えた。このような幻想にわれを忘れて、わたしは自分の運命――追われるものという運命を忘れていた。ぼんやりしていた時間のあいだ、わたしはこの世から切りはなされて、抽象的な傍観者になった気がした。」



「記憶の人・フネス」より:

「われわれは一目でテーブルの上の三つのワイン・グラスを知覚する。フネスはぶどうの木のすべての若枝、房、粒を見る。彼は一八八二年四月三十日の明け方の南の雲の形をおぼえており、それらを、追憶のなかにある、たった一度みたことのある皮表紙の本の大理石模様のデザインと比べることができた。また、それを、ケブラーチョの戦いの前夜に、舟のオールがネグロ川にえがいたしぶきの縞(しま)模様とも比べることができた。(中略)彼はすべての夢やすべての幻想を再現することができた。二、三度、彼は一日全体を再現してみせた。彼は、「わたしは自分ひとりの内部に、この世がはじまって以来すべての人間がもっていた以上の記憶をもっています」と言った。」

「十七世紀に、ジョン・ロックは、個々の物体、個々の石、個々の鳥や枝が個々の名前をもつという不可能な語法を仮定し(そして廃棄し)た。フネスもいったん類似の語法を考案したが、それではあまりに概括的で漠然としているというのでやめてしまった。実際、フネスは、どんな森のどんな木のどんな葉もおぼえているばかりか、それを見たり想像したりした折々の一つ一つをもおぼえていた。」
「彼には普遍的、プラトン的な観念をもつことはほとんど不可能だったことを忘れてはなるまい。「犬」という属名が、さまざまな大きさと異なる形の、それほど多くの一様でない実例を包含するということを理解するのは、彼にとってむずかしかったというだけではない。三時十四分の(横から見た)犬が三時十五分の(前から見た)その犬と同じ名前をもつという事実に悩まされたのである。」



「刀の形」より:

「彼は、濁った黄と緑と赤の菱形に区切られた木々と空とを見ていた。少し寒さを感じた、そして、個人的でない、ほとんどだれのものともしれぬ悲しみをも感じていた。すでに夜になっていた。埃っぽい庭から、鳥のむなしい鳴き声がおこった。」


「ユダについての三つの解釈」より:

「『キリストかユダか』の初版には、つぎのような明確な題辞が付いていた。その題辞の意味は、数年後、ニールス・ルーネベルクそのひとによって途方もない敷衍(ふえん)をほどこされることになった。すなわち、これまでイスカリオテのユダに対して付された伝統的解釈は、一つならず、すべて誤りである(ド・クィンシー、一八五七年)。」
「ルーネベルクはこれについて形而上的な証明を示している。(中略)彼は、ユダの行動がいかにむだなものであったかを指摘することからはじめている。彼は(中略)、ユダヤの教会で毎日説教をしたり、何千人もの集会の前で奇跡を行なったりした主を確認するのに、使徒の裏切りなどは必要でなかったと述べているのである。そあれにもかかわらず、裏切りはおこった。聖書のなかに誤りを想像するのはしのびないことである。また、この世界の歴史においてもっとも貴重なドラマのなかに、単なる偶然があったと認めるのもたえがたい。かかるがゆえに、ユダの裏切りは偶然ではない。それは、救いという営みにおいて、神秘的な地位をしめる予定の行為であった。ルーネベルクはつづける。御言葉は肉となったとき、偏在から限定へ、永遠から歴史へ、無限の至福から変転と死へと変わったのであった。こうした犠牲に対応するためには、ひとりの人間が全人類の代表として、それにふさわしい犠牲を払う必要があった。イスカリオテのユダこそ、まさしくその人間であった。使徒たちのなかで、ユダひとりが、イエスのかくれた神性と恐ろしい目的とを直観していた。御言葉が死すべき人間にまで身をおとされたのである。御言葉の弟子たるユダは、(恥辱が待ち受けている最悪の罪である)密告者という役割に身をおとし、永劫に消えることのない火を、甘んじて身に浴びることができたのである。(中略)ニールス・ルーネベルクのユダの謎解きの次第は以上のごとくであった。
 すべての宗派の神学者が彼に反駁した。」
「これらのさまざまな論難はルーネベルクに影響を与えたので、彼はその否認された本を部分的に書き直し、信条を修正した。(中略)彼は、「全能なる神が提供されたかなりな資源にたよることのできる」イエスは、すべての人間を救うために一人の人間を利用する必要はなかったことを認めた。(中略)われわれは知っているではないか。彼が使徒のひとりであり、(中略)えらばれた者のひとりであることを(中略)。救い主がこのように区別された人間は、その行為について最上の解釈をわれわれから受けるに価する。彼の罪を貪欲のせいにするのは(中略)もっともつまらない動機に従うことになる。ニールス・ルーネベルクはその反対の動機を提示した。途方もなく、無限とさえいえる禁欲主義である。禁欲主義というものは、神の、より大きな栄光のために、肉体をおとしめ抑制するものである。ユダは同じことを精神の面で行なったのであった。彼は名誉、善、平和、天国をすて、(中略)恐ろしい平静さをもって、彼はおのが罪を計画した。(中略)殺人には勇気がある。瀆神や不敬には、ある種の悪魔的な光輝がある。ユダはいかなる美点にも見舞われない罪をえらんだ。すなわち信頼の悪用(中略)と密告である。彼は巨大な謙虚さをもって行動した。自分は善には価しないと思ったのである。」
「一九〇七年の終わりごろ、ルーネベルクは原稿を仕上げ校訂した。(中略)一九〇九年十月に、その本は(中略)このはっきりしない題辞をつけてだされた。彼は世にあり、世は彼に由りて成りたるに、世は彼を知らざりき(『ヨハネ伝』一章十節)。結論は奇怪なものであっても、全体の論旨は別に複雑ではない。ニールス・ルーネベルクはこういう。神は人類の救いのために、おのが身を人間にまでおとしめられた。それゆえ、彼によって提供された犠牲は完全であって、なんらかの遺漏によって、無効にされたり減じられたりするものではないと仮定すべきである。ある午後の十字架上の苦悶(くもん)において、神が悩んだ事柄を、いたずらに局限するのは不敬である。(中略)ケムニッツは、救世主も疲労や寒さ、あるいは、困惑や空腹や渇きをおぼえることはできると認めている。ゆえに、彼が罪を犯し罰を受けることも可能だということを認めるべきであるという。(中略)神は完全に人間になられた。破廉恥にいたる人間、非難と地獄にいたる人間に。われらを救うためならば、彼は歴史の不確かな網の目を共に織りあげる数々の運命のどのひとつでもえらぶことができたはずであった。彼はアレクサンダーかピタゴラス、あるいは、ルーリックかイエスかになることもできたはずであった。しかるに、彼は恥ずべき運命をえらばれた。彼こそユダなのだ。」



「結末」より:

「平原がなにか語りかけようとする午後の一刻がある。それはけっして語らない、いや、無限に語りつづける、いや、たぶんわれわれにはそれがわからない。いやいや、わかっても、それは音楽のように翻訳できないものなのだ……。」


「南部」より:

「彼はたちまちブラジル街の喫茶店(中略)に、まるで横柄な神様のように、愛撫されるにまかせる大きな猫がいたことを思いだした。彼は喫茶店に入った。その猫が眠っていた。彼はコーヒーを注文し、ゆっくりと砂糖をかきまわし、すすり(中略)、それから、猫の黒い毛並みをなでながら考えた。この接触は幻想にすぎず、人間と猫という二つの存在はガラスでへだてられているようなものだ、なぜなら人間は時間のなか、つまり、連続のなかに生きているのに対して、その魔性の動物は現在、すなわち、瞬間の永遠性のなかに生きているのだからと。」


『汚辱の世界史』「一九五四年版 序」より:

「大乗仏教の哲人たちは、宇宙の本質は空(くう)であると説いている。同じ宇宙の一小部分であるこの本に関する限り、彼らの言うところはまったく正しい。絞首台や海賊たちがこの本をにぎわわしており、標題の「汚辱」という言葉は大仰だが、無意味な空騒ぎの背後には何もない。すべては見せかけに過ぎず、影絵に等しいのである。(中略)これを書いた男は、当時少しく不幸であった。しかしこれを書くことによってまぎらすことができた。」


「仮面の染物師 メルヴのハキム」より:

「われわれの住む世界はひとつの誤謬(ごびゅう)、無様なパロディーである。鏡と性交とは、パロディーを増殖し確認するが故に忌むべきである。嫌悪こそ第一の徳である。」



『エル・アレフ』に関しては、こちらもご参照ください:

ボルヘス 『不死の人』 (土岐恒ニ 訳)









































































































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Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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