石田幹之助 『増訂 長安の春』 (東洋文庫)

「雑戯といふのは奇術・軽業・見世物の類をいふのであるが、これまたすでに漢代以来、西域から各種のものが入つて来てをり、隋・唐に至つて初めて傳はつて来たものではないが、この頃になつてそれが大いに盛になつたとは云ふことが出来よう。呑刀(どんたう)・吐火・弄丸・舞剣の諸技を始め、繩技(じようぎ)(綱渡り)・竿技(長竿の頂上で軽業を演ずるもの)など、いづれも西域の特技か西域風の濃いものかで、上下各階級を通じて広く歓ばれ、西域出身の名手が多數入り込んでゐたことは詩文・随筆類に散見してゐる。いづれも興行的のもので、特に貴人の邸内で演ぜしめたこともあり、また長安市中の盛り場であつた大慈恩寺・青龍寺・永寿尼寺等の境内や門前などには常設の戯場があつたといふからその辺でもこれを演じてゐたことゝ思はれる。」
(石田幹之助 「隋唐時代に於けるイラン文化の支那流入」 より)


石田幹之助 著/榎一雄 解説
『増訂 長安の春』
 
東洋文庫 91

平凡社 昭和42年5月10日初版第1刷発行/昭和53年7月1日初版第15刷発行
344p 序・目次7p 折込(地図)1葉
18.4×11.6cm 角背布装上製本 機械函
定価1,200円
装幀: 原弘



本書「序」より:

「拙著「長安の春」(昭和十六年、創元社)が絶版となつてから二十六年ばかりになる。今では殆ど市場にも跡を絶つてゐるので、平凡社の「東洋文庫」シリーズの一冊としてまた世に出したいとのことである。數年前同社の「世界教養全集」の一巻として鳥山・松岡・武田諸氏の著と一緒に再刊したことがあるが、(中略)これは再刊とはいふものの、(中略)初版とはかなり體裁の違ふものとなつた。今度は印刷の都合で舊字體を少々使ひ得たほか略體の文字で満足することにした以外、初版に採録したものを全部そのまま収め、それに「唐史叢鈔」(中略)からも七篇を採つた上、初版にも再版にも無かつたものを二三加へ、本文と注とに新たに補筆訂正して社の希望に應ずることとした。謂はゞ増訂新版である。」


著者・石田幹之助は明治24年(1891)生、東洋史学。芥川龍之介とは高校の同窓生。
本文中図版(モノクロ)多数。


石田幹之助 長安の春1


目次:

序 (昭和42年)
初版 序 (昭和16年)

長安の春
「胡旋舞」小考
當壚の胡姫
唐代風俗史抄
 一 元宵観燈
 二 抜河(綱引き)
 三 縄技(綱渡り)
 四 字舞
 五 長安の歌伎(上)
 六 長安の歌伎(下)
唐史襍鈔
 一 闘歌
 二 「落花時節又逢君」
 三 王之渙
唐史関係諸考補遺
 一 闘歌
 二 永新
 三 元宵観燈
唐代燕飲小景
唐代北支那に於ける一異俗
無題二則
 一 驪山温泉
 二 陸羽の陶像
唐代の婦人
唐代図書雑記
唐代雑事二則
橄欖と葡萄
西域の商胡、重価を以て寶物を求める話――唐代支那に広布せる一種の説話に就いて
再び胡人採寶譚に就いて
胡人買寶譚補遺
隋唐時代に於けるイラン文化の支那流入
長安盛夏小景

書後

解説 (榎一雄)



石田幹之助 長安の春2



◆本書より◆


「長安の春」より:

「京城東壁の中門、春明門のあたりに立つて見渡すと、西北に方(あた)つて遠く三省六(りく)部の甍(いらか)を並べた「皇城」が見え、その北には最初の「宮城」(皇宮)が殿閣の頂を見せ、更にその東北には其後の天子の居であつた東内(とうだい)諸宮の屋頭が龍宮のやうに浮び、盛唐の頃ならば玄宗が新(あらた)に営んでその常居となした興慶宮の一角が黄瓦丹墀(ち)を映発して勤政殿や花萼樓(くわがくろう)の画棟朱簾(ぐわとうしゆれん)が眉に迫る。西南には朱雀(すざく)大路に沿うて薦福寺の小雁塔が民家の間に尖つた頂を抜き、南の方遙か遠くには慈恩寺の大雁塔が靉靆(あいたい)たる金霞(きんか)の底に薄紫の影を包む。このあたりはこの上都(じやうと)長安と東都洛陽・北都太原等とを繋ぐ孔道の都に入つて来る処とて、車馬の往来は殊の外にはげしい。地方へ赴任の官吏も出てくれば駱駝を率ゐたキャラヴァンも出てくる。海東槿域の名産なる鷹を臂(ひぢ)に載せて城東の郊野に一日の狩を楽しむ銀鞍白馬の貴公子も来る。唐廷の儀仗に迎へられて、きらびやかな行列に驊騮(くわりゆう)の歩みも緩く西に向ふのは、大和島根のすめらみことのみこともちて、遙に海を越えた藤原ノ清河などの一行でもあらうか。外国の使臣の入朝するものもその東よりするものはすべてこゝから都へ入つた。日本・新羅(しらぎ)・渤海(ぼつかい)の如き遠き国々から、学を修め法を求めんとして山河万里笈(きふ)を負うて至るものも皆この門をくぐる。我が空海も円仁も、円珍も宗叡も、みなこゝから都へ足を入れた。〓(漢字: 髟+卷)髪高鼻(けんぱつかうび)、紫髯緑眼(しぜんりよくがん)の胡人(こじん)の往来も亦稀ではない。春明門のほとりで西域の胡人に會つたといふ話は、唐の世には珍しい傳へではなかつた。熱沓の区、東市の所在もすぐ近いこととて、たとへ西市に一籌(いつちゆう)を輸(ゆ)するとしても、流寓(るぐう)の外人はこのあたりにも少くはなかつたらう。所謂タムガチの都クムダンの城(長安城の胡名)に大唐の天子を天可汗と仰いで、商販の利に集ひ寄る西胡の數はかなり多いものであつた。――往来の盛(せい)はまた路上ばかりではない。門の南には龍首渠(りゆうしゆきよ)の運河が繞(めぐ)り、江浙(かうせつ)の米を運び南海の珍貨を山と積んだジャンクを浮べ、林立する檣(ほばしら)の間に錦帆が風を孕(はら)んで、水上の舟楫(しうしふ)もまた賑はしいものであつた。王貞白の「長安道」に「暁鼓人已(すで)に行き、暮鼓人未だ息(や)まず。梯航万国来り、先を争つて金帛を貢す、……」とあるのは、特にこのあたりの景物を詠んだものかとさへ思はれる。」


「唐代風俗史抄」より:

「北里は大中年間(八四七―八五九)以前は頗る「不測之地」、即ち危険なところであつたと云つてあります。即ち歓楽境が同時に諸々の罪悪の温床であり、多くの暗黒面を有することもいづこも同じでありますが、ここもその例外たるを得ませんでした。姦悪凶暴の徒が入込んで思はぬ惨案を起したり、不慮の危害が遊客に及んだりしたやうなことが珍しくなかつたやうであります。「志」の記すところに金吾の職に在つた王式と、博士令狐滈との実見談と称するものがありますが、前者は偶々犯人が他人を以て王と間違へ、幸に難を免れたのでありましたがもうすこしで首を梟(けう)せらるるところであつたといふのであります。後者は憲宗皇帝の頃の名臣令狐楚の子である滈が受験生時代にこの巷に出入してゐた頃の話でありますが、滈が或る日馴染みの一妓館に登ると、急に今日は親戚の聚會があるから休みにさせてくれといふので隣の家へ上つて様子を窺つてゐると、前の家の妓とその母とが共に一酔漢を殺して之を室の後に埋めてゐるのを見たといふのであります。さうして翌日何気なくまた訪ねて来てその日はそこに泊り、夜中女に問うて見ると女は驚いてやにはに滈の喉(のど)を扼し、その母を呼んで二人で彼を斃さうとしたのでありましたが、母が幸に之を宥めて止めさせたので事無きを得たといふのであります。」


































































































































































































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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

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好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

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尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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