ピエール・クロソフスキー 『ディアーナの水浴』 (宮川淳・豊崎光一 訳)

「出来事は予感の中ではまだ表現可能であったものを吸収してしまうのだ。わたしが見ていたこと、それが何であったかわたしには言い表わせない。(中略)アクタイオーンは、伝説の中では、彼の見るところのものを言い表わしえないゆえにこそ見るのである。もし言い表わすことができたら、彼は見ることをやめるであろう。(中略)けれども実際の体験はこういう荒唐無稽な命題に還元されるだろう、わたしはそこにいるべきだった、そこにいるべきでなかったゆえに、と。」
(ピエール・クロソフスキー 『ディアーナの水浴』 より)


ピエール・クロソフスキー 
『ディアーナの水浴』 
宮川淳・豊崎光一 訳


発行: 書肆 風の薔薇/発売: 白馬書房
1988年3月15日初版第1刷印刷/同25日発行
118p 口絵1葉 図版4葉
21×13.6cm 並装(フランス表紙) 
本体カバー 機械函
定価2,000円



「再刊へのあとがき」(豊崎光一)より:

「本訳書の初版は、一九七四年、美術出版社より刊行された。底本は Pierre Klossowski: Le Bain de Diane (Jean-Jacques Pauvert 初版一九五六、再版一九七二)である。」
「再刊にあたり、少数の明白な誤りや脱落を正した他は(中略)手を加えていない。」



クロソフスキー ディアーナの水浴1


本体カバー文:

「ディアーナ(アルテミス)の水浴する裸身を盗み見たゆえに鹿に変えられ、自分の猟犬たちに噛み裂かれてしまうアクタイオーン――この神話の註釈の形をとった本書『ディアーナの水浴』は、クロソフスキーの他の諸著、とりわけ小説作品の解読の鍵を秘めている。「ディアーナは神々と人間との中間にいる守護霊(ダイモン)と盟約を結んで、アクタイオーンに顕われる。ダイモンは空気のような身体によって、ディアーナのテオファニーの模像となり、アクタイオーンに女神を所有しようという向こう見ずな欲望と希望を吹きこむ。ダイモンはアクタイオーンの想像となり、ディアーナの鏡となるのである。」鹿に化しつつあるアクタイオーンにディアーナが投げたという挑発の言葉――「さあ語れ、衣を脱ぎすてたわたしを見たと、もしお前にできるものなら、してみるがよい」、神話の中のアクタイオーンには答えるすべもなかったこの言葉に、もう一人の瞑想するアクタイオーンであるクロソフスキーが答えた言葉、それがこの本である。」


函文:

「われわれにとって
ブランショとバタイユのそれと
同じに肝要な言語………
クロソフスキーの言語は
アクタイオーンの散文、
侵犯の言葉
なのである。
◆ミシェル・フーコー

神学とポルノグラフィーの合一
………クロソフスキーの全作品は
唯一無二の目標に向けられている、
すなわち個人的自己同一性の
喪失を
実現し、
自我を解消すること、
それはクロソフスキーの
作中人物たちが
狂気のふちへの
旅から持ち帰る
光輝燦然たるトロフィーなのである。
◆ジル・ドゥルーズ

クロソフスキーの作品は文学に、
ロートレアモン以来、
いやはるかに昔以来、
欠けているものをもたらす。
それを私は真面目さの
可笑しみと
名づけよう。………
◆モーリス・ブランショ

クロソフスキーは
フランス散文の
最大の
芸術家の
一人である。
◆ミシェル・ビュトール

ピエール・クロソフスキーは1905年パリに生まれた。
リルケの庶子であり、画家バルテュスの兄である。
若いころ、ジッドの知遇を受け、
その秘書をつとめたことがある。
1934年にはバタイユと知り、
彼を通じてブルトンなどのシュルレアリストにも近づく一方、
バタイユの主宰するコレージュ・ド・ソシオロジーの活動に加わる。
その後一時聖職者を志して、パリとリヨンでカトリック神学を学ぶが、
1945年以後は俗生活に戻る。
1947年に刊行された『わが隣人サド』(改訂新版1967年)は
第二次大戦後におけるサド研究の飛躍の先駆となった画期的著作であるが、
これによって彼は一挙に高名になる。(以下略)」



クロソフスキー ディアーナの水浴2


内容:

ディアーナの水浴

解題
 アルテミス/ディアーナ
 アクタイオーンの神話
 アタランテー
 カリストー
 カドモス

原註

再刊へのあとがき (豊崎光一)



クロソフスキー ディアーナの水浴3



◆本書より◆


「この消え去った人類、消え去ったということば自体――われわれのあらゆる民族学、あらゆる博物館にもかかわらず――もはや意味をなさないほどに消え去ったこの人類はそもそも存在することさえどうやってできたのだろうか。にもかかわらず、この人類が歩きながら夢見たこと、アクタイオーンの眼を夢見るまでに醒めた夢の中でこの人類がアクタイオーンの眼によって見たものは、われわれにとっては光を消し、永遠に遠ざかってしまった星座の光として、われわれのもとにまでとどいている。ところで、この砕け散った星辰が閃光を放つのはわれわれのうちでである、それはわれわれの記憶の暗闇の中、われわれが胸中に抱きながら、われわれの偽りの白日の中でのがれる大いなる星座の中でなのだ。白日の中で、われわれはわれわれの生きた言語に頼っている。しかし、ときとして、日常使われていることばの合間に死んだ言語のいくシラブルかがすべり込む、白昼の炎の、蒼天の月の、あの透明さをもつ亡霊である語。だが、ひとたびわれわれがこれらの語をわれわれの精神の薄暗がりの中にかばってやるや、それらは強いかがやきを帯びるのだ、こうしてディアーナとアクタイオーンの名が一瞬、樹々に、渇いた鹿に、波、この触れえない裸身を映し出す鏡に、それらのかくされた意味をとり戻してやらんことを。」


「アクタイオーンには、宇宙のこの完全無欠さがひとりの単一な神性に依存しうることも、女性の神性は、どんな男性の神性をも排して、閉ざされた本性の単一性のうちに自らを表現し、純潔の中にその本質の充溢を見出すことも、まさしく分らなかったのである。運命のかなたの女神、どんな人間も、彼女とは結びつくめぐり合わせになることを主張しえないのだ。」

 《神々には人間の女をめとることが許され、人間には女神を所有することが禁じられているとは。むごい、というかむしろ信じがたい境遇だ》と、異教の神々の名高い侮蔑者は叫んだ。しかしアクタイオーンは彼に先んじてそうひとりごちていた。おそらく彼は女性を侮蔑していたのだろう、しかし人間からの類推を彼の不信にあてはめ、自分の守護神の盈虧に狂(ふ)れて、やがてルナティックな天性にもとづいてひとつの宗派を設立する決心をし――エペソスの正統のさなかで偏狭な異端開祖の大役をつとめようとのぞむほど野心的になって、彼は犬が月に吠えるという陳腐ないいまわしの中にひそかな真実の跡のようなものをあばき出した。その結果、狩猟術と占星術は、それぞれ別個の知であって、ただともに実用的な性格のゆえに認められているにすぎないにもかかわらず、唯一の同じ、口に出していうことができない対象をもつことを洩らしたのであった。(中略)なぜなら、あるときは三日月はアルテミスの額を飾る王冠であり、あるときは彼女の髪から突き出る角を形づくるからであり、にもかかわらず、女神は決して満ちた状態における月のイメージを高々と掲げることがないからだ。実際、三日月のかたちの下で、なまぬるい夜の中にその銀の魅惑を拡げる間、月は彼女のもっとも純潔な色香と見分けがつかない、ついで姿が見えなくなって、月はこれらの色香の奥まったひだのもっとも奥深くに身を退く、と、そこ、アルテミスのうちで、彼女の犬たちのうちもっとも秘儀に通じたものが、ふたたび月を満ちさせるだろう。」


「ディアーナはつぎつぎと二本の樹、楡と樫を射る、そしてこの二重性(生命の樹と知ないし死の樹)は彼女の二重の本性にかかわる、すなわち死矢を射る者であり、光輝く者、あるいはむしろ、死矢を射るがゆえに光輝く者。それは彼女の二重の状態にかかわる、すなわち、孕ったことがなく、しかも孕りうる者、あるいはむしろ、孕ったことがないゆえに多産にする力のある者。この完全無欠さの状態は外部の男性機能の死にもとづいている(中略)。自らは処女でありながら、にもかかわらず、彼女は多産化の原理として働く、なぜなら彼女が外部において射る男性機能は彼女自身の内部でよみがえるからだ、死のさなかの生の原理として、あるいは存在のさなかの死の原理として。

 ディアーナはついで動物を射る、動物は欲望の夢と目ざめさせられた男性機能との中間状態である。事実、動物は、短気さがわれわれの血管の中をめぐるように、森の中を徘徊する。しかし、それが人間の心で猛威をふるい、人間の想念をいら立たせ、暴行にまで走らせる前に、ディアーナはそれを、彼女の神性で刺し貫くまさにその瞬間に、自分に同化する。こうして、霊性によって射止められた動物的エネルギーは人間からとりあげられ、天上の力となるのだ。」


「しかしディアーナが自分の倒した動物たちを食べるという話はかつて聞いたことがない。彼女は自分の獲物でオリュンポスのあれらの《プロレタリアたち》、キュクロープスであり、彼女に弓と矢を供給した者たちを養うのである。彼女が自分の狩りで養うこれらの片眼の怪物は何者なのか。いやしいエネルギーたちだ、いやしいというのは神々の遊び、笑う存在に仕えさせられた営々として勤勉なエネルギーだからである。(中略)こうして、これらのエネルギーは完全に無用なオリュンポスの神々(彼らは自分たちなしですますことができるだろうほど無用なのだ)のために労働することによって、自分たちが必要欠くべからざるものと思い込むのである。(中略)ディアーナの獲物とは、女神によって手なずけられ、これらの勤勉なエネルギーによって消費されるわれわれ自身の盲目のエネルギーである。どちらのエネルギーにしても欲求、有用性の口実の下に――晴朗な無用性の《役に立つ》ために――狩りによって、労働によって、わき道にそらされるのだ。たしかにこの晴朗な無用性はこれらのエネルギーなしですますことも充分できよう。無用性はこれらのエネルギーの原理なのだ――しかしこれらのエネルギーは無用なエネルギーとして甘んじることはできない、自分たちが無用だという感情はそれらを不幸におとし入れるだろう。ひとり神であることだけが自分の無用性に至福を味わえるのである。

 だがディアーナは狩りのあと身体を洗う、(中略)ディアーナは流された血から、盲目のエネルギーや地上的欲求との接触から身を浄めるのである。彼女は有用な活動から身を浄めるのだ、彼女は波の中で自分の無用な晴朗さをふたたび見出す、そして、一見有用な身体のこの裸身がアクタイオーンにとってわれとわが身の破滅の動機となるのはそのためである。彼はあくまでも祭祀的なこういった細部すべてを字義どおりの意味にとる、その結果、彼はそこに策を弄する手段を見出す、つまり牡鹿に変装すること。」


「アクタイオーンは牡鹿として生きようと試みる、そして、牡鹿が牝鹿におどりかかる時期である《プレドロミオン月とメマクテリオン月にアルクトゥーロスの星が昇る》のをひそかに待って、宮殿を出、ひとりで森に行き、鹿の動き、跳ね方、とび方を研究し、やがてまねようと努力する。走り、突然とまり、鳴いてみる。頭を鹿のように樹にこすりつけ、額や顔が土で汚れるまで地面に穴を掘る。(中略)自分の犬たちをわざわざ訓練して、自分を追わせる。自分が水浴中のディアーナの不意を襲い、彼女が変身のことばを口にするのをきいたところを空想する。」


「アクタイオーンは従者と猟犬の群れを従えて、馬にのる、彼は森の中深く分け入り、以来だれも二度と彼を見ることはなかった。」


「もっと誘惑的で、もっともらしく思えるのは、アクタイオーンの振舞いの中にディオニューソス信仰の次第に拡まった影響を見る者たちの意見であって、アクタイオーンはデーロスの女神の信仰にディオニューソスの祭祀を混ぜようと考えたというのである。アクタイオーンはどのようにしてディオニューソスと出会うのか。答えは簡単だ。葡萄と狂乱の神、死んでよみがえる神はほかならぬこの高名な狩猟家の一族の出なのである。」


「セメレー、アガウエー、アクタイオーンは脱我の恍惚という同じ情熱に駆られた。どうやらそれはカドモスの種族の先天的な情熱、遺伝的な病いであるらしい。この種族の血の中には神々が流れていたのだ。そこから(中略)既成の典礼に対する軽蔑が由来する。既成の典礼は神々の永遠性との日常生活の中での接触を加減し抑えて、過度に走らないように予防するが、彼らにとっては、信仰は運命と一体化するのであって、彼らの宗教とは神あるいは女神のうちに破滅することなのだ。」
「わが主人公は重い遺伝を背負わされた姿であらわれる、すなわち、彼は自分の守護神であるアルテミスの甥ではないだろうか。とすれば、彼の罪の本性はなんだろうか、自分の力にあまる二つの矛盾した切望を折り合わせようとする絶望的な努力なのではないだろうか。彼は近親相姦的であると同時にミスティクな業火に焼かれているのではないだろうか。」


「このような行為は、古い制限の外へ出ることである以上、必らずや涜聖たらざるをえない。つまり、それを企てたからには、当然アクタイオーンは正気を失っていた、正気を失う術を知り、狂乱を識っていたことになる。ひとりディオニューソスだけが彼を導き、彼を支え、彼を免罪することができたのである。彼は自分の罪をアルテミスへの彼固有の供犠として準備する。彼は女神の罰をひとつの啓示として受けとる。牡鹿となって、彼は神性の秘密にわけ入り、自分の犬たちに喰いちぎられて――彼はオルペウスの教えの先きぶれをするのだ。」


































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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