阿部良雄 『群衆の中の芸術家』 (中公文庫)

「正当であるためには、つまり存在理由をもつためには、批評というものは、偏向的で、情熱的で、政治的でなければならない、つまり、排他的な観点、だが最も多くの地平を開く観点に立ってなされなければならない。」
(ボードレール)


阿部良雄 
『群衆の中の芸術家
― ボードレールと十九世紀のフランス絵画』
 
中公文庫 あ-21-2

中央公論社 1991年3月25日印刷/同年4月10日発行
334p
文庫判 並装 カバー
定価600円(本体583円)



初版は1975年5月、中央公論社刊。本書はその文庫版。
本文中図版(モノクロ)多数。


本書「文庫版あとがき」より:

「『群衆の中の芸術家』は一九七九年に重版した際に若干の訂正を施したが、今回文庫本収録に当ってさらに誤りを正し、また、ボードレールからの引用は、拙訳『ボードレール全集』(中略)の既刊分についてはそれに合せた。註の訂正は最小限に留めたが、文献への参照に関してはその後に刊行されたものも若干考慮に入れて読者の便宜をはかることとした。」


阿部良雄 群衆の中の芸術家


カバー裏文:

「一部の有閑階級の独占物であった絵画を、広く“ブルジョワ公衆”のものに転化させようという、十九世紀中葉の美術革新期にあって、その最も尖端的なイニシアチヴをとったのが、美術批評家ボードレールであった。批評家の任務とは、芸術家の創造する美をその享受者たるべき公衆に啓蒙することである、との考えに基づくボードレールの批評活動を、ドラクロワ・クールベ・マネらとの交渉を軸にして詳細に論考する。」


目次:

一 群衆の中の批評家 シャルル・ボードレール
 1 展覧会の群衆
 2 「ブルジョワ」と「ブルジョワ芸術家」
 3 芸術享受システムの変革とユートピア
 4 行為としての美術批評
 5 〈近代〉と〈現代〉

二 ダンディ、それとも芸術家? ウージェーヌ・ドラクロワ
 1 大画家と若き批評家
 2 批評における理解と表現
 3 ダンディの生活と恋愛
 4 「幸福の約束」としての美
 5 ダンディスム・ひとつの象徴
 6 伝統とロマン主義

三 ナルシスと民衆 ギュスターヴ・クールベ
 1 ナルシシスム・自己認識
 2 詩人の肖像
 3 「民衆芸術」と新しい「大絵画」
 4 政治と芸術
 5 想像力とレアリスム
 6 ナルシス失墜

四 〈現在〉の発見 エドゥアール・マネ
 1 テュイルリーの音楽界――ボードレール
 2 色彩の解放
 3 詩人の「無理解」
 4 〈錯覚〉kらの解放・〈現実〉の明徴性
 5 オペラ座の仮装舞踏会――マラルメ

五 風景の中の芸術家 シャルル・ボードレール
 1 田園・都市・海景
 2 グラフィスム・記号性への志向
 3 不幸なコレスポンダンス・「美との決闘」
 4 エチュードと作品
 5 腐蝕銅版画(エッチング)家協会から印象派へ
 

図版註

一九七五年版あとがき
文庫版あとがき



阿部良雄 群衆の中の芸術家2



◆本書より◆


「一 群衆の中の批評家」より:

「だがボードレール自身の考えていた批評とはそのようなものではなかった。批評家とは「憎しみ」をもち「愛情」をもって働きかける主体、その「気質(タンパラマン)」が時として激発することもあり得る主体だ。」
「「本来の意味での批評はといえば、これから私の言おうとするところを哲学者たちは理解してくれるだろうと私は期待する。正当であるためには、つまり存在理由をもつためには、批評というものは、偏向的で、情熱的で、政治的でなければならない、つまり、排他的な観点、だが最も多くの地平を開く観点に立ってなされなければならない。」
 言い換えれば、「本来の意味での批評」とは、自らの選択を鮮明に掲げる、ポレミックな批評のことだ。」



「三 ナルシスと民衆」より:

「歌謡・民謡との接触による抒情詩革新の試みは、ボードレールの孤立した企てではない。ヴィクトール・ユゴーを中心として、ジェラール・ド・ネルヴァル、テオドール・ド・バンヴィルから、ヴェルレーヌ、ランボーそしてラフォルグに至るさまざまな試みは、フランス十九世紀詩を貫く大きな創造性の軸である。
 絵画の領域でこれに対応する作業を試みたのがクールベに他ならなかった。《オルナンの埋葬》の着想ないし構図が、フランス東部ヴォージュ山中の田舎町エピナルなどで印刷され行商人の手で全国津々浦々にもち運ばれる民衆版画(イマジュリー)に負うところ大きいことが、一九四〇年代初頭メイヤー・シャピロによって明らかにされたのは、レアリスム研究史上の画期的な出来事である。クールベ描く人物や動物の、木彫り人形めいた素朴さ、無骨さも民衆版画と無関係ではなく、同時代人の目には粗野あるいは拙劣なものに見えて、漫画の材料にもされやすかった。アカデミックな芸術に飽き足りぬ芸術家が、民衆芸術にしろ〈ラファエルロ以前〉の芸術にせよ〈未開人〉の芸術にせよ、「素朴」なものとの接触に新たな芸術の原点を見出すという一つの図式が、ここに典型的に見られるわけだが、そこには、「民衆芸術」から汲み上げたものを中心にして、万人に理解可能であるべき新たな記号体系(コード)を作り出そうとする試みが見られることを忘れてはならない。《オルナンの埋葬》だけではなくて、ブリュイアスとの対面を描いた《出会い――今日は、クールベさん》は「さまよえるユダヤ人」の民衆版画(イマジュリー)を下敷きにしているし《石割り人夫》や《花嫁の化粧》は民謡をふまえている。宗教や古典的な教養の基盤を民衆的・土着的なものの基盤で置きかえようとした点でも、クールベのレアリスムは革命的とみなされて当然である。」



「四 〈現在〉の発見」より:

「一八四五年のサロンを機会に美術批評家としてデビューした二十四歳のボードレールが、無名の新人ウィリアム・オスーリエの、一言で言って稚拙なタブロー《回春の泉》に文字通り「激烈な讃辞」を送り、「歴史画」の章の中でドラクロワの次に最も重要な扱いをしたのは、同時代人をおどろかしただけでなくて、その後も、ボードレールを論ずる人々にとって、謎というよりはむしろ、絵画に関する詩人の判断のしろうと性を証する例であり続けた。」
「《回春の泉》について言うならば、他の批評家にとっては「技法上の欠陥」と見えたものが、ボードレールの目には、当時の官展派の、技法の完璧を第一義とする傾向からの脱却のいとぐちとして積極的な意味をもった。色彩の「生々(なまなま)しさ」 crudité は、他の批評家から見れば欠陥だが、見方を変えれば、半濃淡の技法、キアロオスクーロ技法に忠実のあまり色そのものの輝きを消してすべてを褐色あるいは紫がかった暗いものにしてしまったような絵のずらりと並ぶ官展(サロン)の真中に、新鮮な光景の風穴をひとつ開けることに他ならなかった。
 「この油絵には、われわれの思うところ、きわめて重要な、特に美術館では重要な特質がある――きわめて人目につき易いことだ。(中略)もう一つの巨大なる特質……それはこの絵が信念をもっていることだ――自らの美しさに対する信念をもっている、――これは絶対の絵画、確信をもち、こう叫んでいる絵画だ――私は、私は美しくありたい、私の思っているように(引用者注: 「私の思っているように」に傍点)美しくありたい……」(傍点訳者)」
「オスーリエもカトリンも拙劣さゆえに嘲笑の的になった画家であり、「素朴さ」に積極的価値を認めるのは美術批評家ボードレールの終始一貫した主張であって、(中略)技法上の欠陥を指摘されたり嘲笑されたりしても苦にせず、ひたすら、「自らの気質の誠実な表現」に徹せよ、という考え方、わけても、人々がどぎつい、生々しい、と非難するような彩色法、それがオスーリエやカトリンの場合ほとんど無意識的な所為でありながら、ひとつの独創への可能性をはらんでいる、という発見――それは、若いマネが、色彩それ自体の解放を通じて自分自身であろうとする努力に、大きな示唆と励ましを与えたに相違ない。」

「六六年七月、半身不随のままパリへ連れ戻されたボードレールはデュヴァル博士の病院で水治療法を受けるが、その病室の壁を飾るものはマネの二枚の絵(一枚はゴヤの《アルバ公爵夫人像》の模写)だった。(中略)失語症の詩人の口を衝いて出ることばは「畜生(クレノン)!」だけだったとも言われるが、六六年秋にナダールがマネに書き送った手紙によれば、その頃まだ金曜日ごとにナダールのところの会食へ連れて行ってもらえば行くだけの元気はあったボードレールは、なぜマネが来ていないのかと悲しがり、その時ばかりは「畜生(クレノン)!」に代って「マネ! マネ!」と叫ぶ声が迸(ほとばし)り出たという。」
























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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