ジョルジュ・バタイユ 『沈黙の絵画』 (宮川淳 訳/ジョルジュ・バタイユ著作集)

「今日、聖なるものは公言されえない。聖なるものは今や無言なのだ。この世界は内的で、沈黙した、いわば否定的な変容しか知らない。それについて私が語ることはできる、しかし、それは決定的な沈黙について語ることだ。」
(ジョルジュ・バタイユ 「マネ論」 より)


ジョルジュ・バタイユ 
『沈黙の絵画 ― マネ論』 
宮川淳 訳

ジョルジュ・バタイユ著作集

二見書房 1972年2月28日初版発行
258p(うち図版80p)
四六判 丸背クロス装上製本 
本体ビニールカバー 貼函
定価1,600円
装幀: 村上芳正



カラー及モノクロ図版(別丁)多数。


本書「訳者あとがき」より:

「ここに集められているのは、いずれも画家について書かれたバタイユのエセーである。
 『マネ論』はスキラ版の叢書《Le Goût de Notre Temps》の一冊として刊行されたモノグラフィー(一九五五年)の本文である。原著では、本文のほか、この叢書の体裁に従って、伝記的年譜および主要図版に解説が付けられているが、訳書では図版解説のみ再録した。
 その他の短いエセーはいずれも『クリティク』誌に書評の形で発表されたものであり、現在までのところ単行本には収録されていない。それぞれの原題と初出はつぎのとおりである。
 L'Impressionnisme, 一九五六年一月(第一〇四号)
 L'oeuvre de Goya et La lutte des classes (Note sur F.D. Klingender: Goya in the democratic tradition), 一九四九年九月(第四〇号)
 Note sur 《Dessins de Goya au musée de Prado》, 一九四八年二月(第二一号)
 Léonard de Vinci (Vue d'ensemble) 一九五一年三月(第四六号)」

「バタイユの著作の中でこれらのエセーが占める位置ないし興味は、直接的にはアンドレ・マルロオの美術論に対する一種アンビヴァレントな関係であり」「実際、これらのエセーは、一見、マルロオが『沈黙の声』その他の著作で壮麗に公式化した近代絵画論の影の下にあるかに見えかねない。そしてバタイユにしてもマルロオへの負債を否定しようとはしないのである。にもかかわらず、マルロオにはバタイユを常に苛立たせるものがあったように思われる。」「マルロオは文明のかたち、かたちの文明という壮大な体系を打ち立てる。」「それに対して、バタイユが強調せずにいられなかったのはまさしく文明に還元しえず、にもかかわらず文明の動きのなかに見失われてしまう芸術の根源的な否定性、不可能性、あの《熱病》であった。」



バタイユ 沈黙の絵画


帯文:

「印象派の巨匠にバタイユ独自の論理を投影し、絵画の本質と至高性に肉迫した「マネ論」、それに「ゴヤ論」などの絵画論を一挙収録、カラー口絵多数併載」


帯背:

「独自の論理で迫
るマネ、ゴヤ論」



目次:

マネ論
 マネの気品
 非人称的な転覆
 主題の破壊
 『オランピア』のスキャンダル
 秘密
 疑惑から至高の価値へ
印象主義
ゴヤ論
レオナルド・ダ・ヴィンチ論

訳者あとがき



バタイユ 沈黙の絵画2



◆本書より◆


「マネ論」より:

「マネは叫ばなかった、高ぶることを望まなかった。彼は正真正銘の意気銷沈の中で探し求めたのである。なにものも、だれも彼を援けることはできなかった。この探究において、わずかに非人称的(引用者注: 「非人称的」に傍点)な苦しみだけが彼を導いた。」

「このブルジョワ化された世界は、それが約束事でなければ、ポエジーを最後まで否定するだろう。しかし、ポエジーは最終的にはあらゆる考えうる約束事の否定である。つまり、ポエジーは凶暴さをもってポエジーであるのだ。それは自分が単なるポエジー、力もなく、非現実的で、風化されたものであろうとし、その魔術(引用者注: 「魔術」に傍点)をただ自分自身からのみ引き出すのであって、政治的な秩序が、神ないし王侯の威厳の夢に答えているような世界の形成からではないのだ。『オランピア』は、近代詩と同様、この世界の否定である、それは、オリンポスの詩と神話的モニュメントの、モニュメンタルなモニュメントと約束事(中略)の否定なのだ。『草上の昼食』はそれ自体、『田園の合奏』の否定である。(中略)子供のころ、彼が達しようと決心したもの、それに彼が達したのは(中略)これらの改作の中でであった、しかし、直接的で、非常識な所与の中でであり、また一切の雄弁の息の根を止めさせて、自分の時代の形式の中でであった。」

「部屋の内奥、沈黙の中で、『オランピア』は凶暴さの一徹性、響きのなさに達した。白いシーツとともにそのけばけばしい輝きをつくり出すこの明るい人物像は、なにものによっても和らげられない。影の中に入った黒い召使い女は、ドレスのバラ色で軽いとげとげしさに還元され、黒猫は影の深さだ……耳の上に垂れ下がる大きな花、花束、ショール、そしてバラ色のドレスのかん高い調べは人物像から遊離して脱け出る。これらの調べはそれらの《静物》としての性質を強調するのである。色彩の輝きと不協和はあまりにも強力なので他は沈黙するほどだ。そのとき、ポエジーの沈黙の中に呑み込まれないものはなにもない。(中略)『オランピア』全体が犯罪あるいは死の光景とはっきり区別できない。……『オランピア』の中のすべてが美の無関心へと滑ってゆく。
 『草上の昼食』で下描きされた努力は成しとげられたのだ、ゆっくりとした準備は完了する。テクニックと光線との聖なるたわむれ、近代絵画が生まれたのだ。
 それは、その飾りをはぎとられて再び見出された威厳である。この威厳がだれのもの、いやさらにはなんの威厳であるかは問題ではない……それは、もはやそれ以上の大義名分なしに、存在する(引用者注: 「存在する」に傍点)ものに属する、そして、それをこそ絵画の力が明かすのだ。」

「マネの無関心は至高の無関心(引用者注: 「至高の無関心」に傍点)、努力なしに峻烈であるそれ、スキャンダルを起こしながら、わが身のうちにスキャンダルをもっていることを知ることを潔しとしない無関心である。」

「マネはすぐれた技巧が彼に与えた自由の沈黙に達した。それは同時に厳しい破壊の沈黙であった。」

「私は繰り返す、マネの絵の中で重要なのは主題ではない、重要なのは光の震えである。(中略)直接的な感覚がそこで失われるあの地すべりの意図は、主題の無視ではなく、それとは別のものである。同じことは供犠(くぎ)においてもいえる。供犠は犠牲を変質させ、破壊し、殺すが、それを無視はしない(引用者注: 「それを~」傍点)。要するに、マネの絵の主題は破壊されるという以上に、乗り越えられるのである、それは裸にされた絵画のために無化されるというよりも、この絵画の裸性の中で変形される(引用者注: 「変形される」に傍点)。マネは、主題の特異性の中に、さまざまな緊張した探究を描き込んだ。マネが印象主義の起原だって? そうかもしれない。しかし、彼は印象主義とは無縁な深みの中に身を持した。だれもマネ以上に主題に、意味をではないとしても、意味の彼岸(引用者注: 「彼岸」に傍点)でしかないので、意味以上であるものを背負わせなかったのだ。」



「ゴヤ論」より:

「ゴヤは単にかつて生きたもっとも偉大な画家のひとりであるだけではない。また単にわれわれが近代絵画と呼ぶものをはじめて予告するだかえでもない、彼は現代世界の分裂全体を予告するのである。彼の歴史が美術の歴史に属するのは二の次のこととしてでしかない。それは個人性の歴史における――ゴヤははっきりとサドの同時代人である――決定的な一瞬であるのだ。彼の時代までは自分を認めさせてきた孤立した精神たちも、少なくとも社会意識の持続性の中には入っていた。もっとも反逆的な精神でさえ、異邦人として生きた人類の中に登録されてはいなかった。秩序転覆や不可能との合意も、個人の解体を道徳的な断絶までにはもち来たらさなかったのである。あるいはそれは沈黙のうちに行なわれた、そして沈黙は伝達可能なものではなかった。」




















































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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