メアリ・ダグラス 『汚穢と禁忌』 (塚本利明 訳)

「従ってこれは、聖なるものに一致する人間に繁栄(さかえ)をもたらし、それから逸脱する人間を滅ぼすような宇宙なのである。」
(メアリ・ダグラス 『汚穢と禁忌』 より)


メアリ・ダグラス 
『汚穢と禁忌』 
塚本利明 訳


思潮社 1985年9月25日
338p(うちモノクロ図版4p) 「再版へのあとがき」1p 口絵(モノクロ)1葉
A5判 丸背バクラム装上製本 カバー
定価2,800円



本書「訳者あとがき」より:

「本書はメアリ・ダグラス女史(Mary Douglas)の著書 Purity and Danger - Analysis of Concepts of Pollution and Taboo, 1966, の全訳である。」


本書「再版へのあとがき」より:

「このたび旧訳の再版にさいして、本文および訳注について最小限の修正を加えさせていただいた。」


そういうわけで、すきな理論は相対性理論、きらいな理論は割れ窓理論です。

本書の原題は「清潔と危険」です。社会の秩序を保つために、ふつうでないもの(アノマリー)やどっちつかずのもの(アンビギュイティ)は「不浄なもの」すなわち社会を崩壊させかねない危険な力をもった悪とみなされ、排除される。
清潔にすること(purification)とはなにかといえば、ようするに〈粛清〉であり〈民族浄化〉です。健全で清潔で前向きな青少年(ユーゲント)でイメージ戦略したナチスは、聞くところによると心身障害者も抹殺しようとしていたそうなので、他人事ではないです。きれい好きな前向き社会は恐ろしい。
散歩していて道にゴミが落ちていると何故かほっとする今日この頃です。


ダグラス 汚穢と禁忌1


目次:

謝辞
緒言

第一章 祭祀における不浄
第二章 世俗における汚穢(けがれ)
第三章 利未(レビ)記における嫌忌
第四章 呪術と奇蹟
第五章 未開人の世界
第六章 能力(ちから)と危険
第七章 体系の外縁における境界
第八章 体系の内部における境界
第九章 体系内における矛盾
第十章 体系の崩壊と再生

訳者あとがき (1972年2月)
文献表
再版へのあとがき (1985年3月)



ダグラス 汚穢と禁忌3



◆本書より◆


「第二章」より:

「汚(けが)れに関する我々の概念から病因研究と衛生学とを捨象することができれば、そこに残されるのは、汚物とは場違いのものであるという例の定義であろう。 これはきわめて示唆に富んだ方法である。 それは二つの条件を含意する。 すなわち、一定の秩序ある諸関係と、その秩序の侵犯とである。 従って汚(けが)れとは、絶対に唯一かつ孤絶した事象ではあり得ない。 つまり汚れのあるところには必ず体系が存在するのだ。 秩序が不適当な要素の拒否を意味するかぎりにおいて、汚れとは事物の体系的秩序づけと分類との副産物なのである。」
「我々のもっている汚れの概念を検討すれば、それは体系的秩序において拒否されたあらゆる要素を包含する一種の全体的要約ともいうべきものであることを認め得るだろう。 それは相対的観念なのである。 靴は本来汚(きたな)いものではないが、それを食卓の上に置くことは汚いことなのだ。 食物はそれ自体では汚くないが、(中略)食物を衣服になすりつけたりすることは汚いことなのである。 同様に、応接室に浴室の器具を置いたり、(中略)戸外で用いるべきものを室内にもちこんだり、上衣を着るべき場合に下着でいたり等々のことは汚いことなのである。 要するに、我々の汚穢に関する行動は、一般に尊重されてきた分類を混乱させる観念とか、それと矛盾しそうな一切の対象または観念を非とする反応にほかならないのだ。」
「右のような定義を与えれば、汚れとは、我々の正常な分類図式から拒否された剰余ともいうべき範疇のように思われる。」

「私はここで、異例なるもの(アノマリー)と曖昧なるもの(アンビギュイティ)とを同義に用いることに対して弁明をしておきたい。 厳密にはこの両者は同義ではない。 異例とは所与の体系もしくは系列に一致しない要素であり、曖昧とは二様の解釈が可能な特徴もしくは陳述である。 しかし具体例から考察を進めると、この区別を実際に適用してもほとんど意味がないことが判明するのだ。」

「あるものが異例であるとして明確に分類されれば、そのものを異例として排除するような体系の概要が明らかになるわけである。」

「異例なるものを扱うにはいくつかの方法がある。 消極的には、それらを無視する――つまりそれらを全く知覚しない――こともできるし、それらを知覚しても否定することもできる。 積極的には、異例なるものに慎重に対処し、それを容れるべき場をもった、現実のパターンを新しく創ろうとすることもできる。 ある個人が自分だけの分類体系を改めることなら不可能ではあるまい。 しかし、いかなる個人も孤立して生きることはないのであり、彼の体系はたぶん、いくぶんかは他の人々のものを受け容れたものなのである。 ある共同体において標準化された公的な価値という意味での文化は、多くの個人の経験を調和させたものである。 それはあらかじめ、いくつかの基本的範疇を――つまり、もろもろの観念や価値を整然と秩序づけている積極的パターンを――設定している。 そしてとりわけ、それは権威をもっている――何故ならば、他の人々がそれを認めている以上、誰もがそれを認めざるを得ないからである。 けれどもそれが公的性格を有しているため、その範疇は一層硬直したものになる。 個人ならば自己の仮定した体系を自由に改めることができるだろう。 それは彼一人の問題だからである。 しかし文化的範疇とは公的なものである。 この範疇を改めることはきわめて困難である。 にもかかわらず、それは異例なる形式の挑戦を無視することはできないのだ。 いかなる分類体系も異例なるものを生まざるを得ないし、いかなる文化もその前提条件に公然と反抗するような事象に直面することは避けられない。」
「第一には、なんらかの解釈で満足することによって曖昧なるものが消失することが多い。例えば、奇形児が生まれたような場合には、人間と動物との境界線が脅かされることになるだろう。 しかし、もしこの奇形児がある特別な種類の事象だと分類されれば、もとの範疇は恢復される。 そこで、ヌーア族は奇形児を、たまたま人間から生まれた河馬の子供として取り扱う。 このように分類すれば、それにふさわしい処理は明らかであろう。 彼等は奇形児を、本来の棲家である川に(中略)入れてやるのである。
「第二に、異例なるものの存在を物理的に管理するといったこともあり得る。 例えば、ある西アフリカの種族においては、双生児は出産に際して殺さなければならないという掟が存在するのであり、そのために社会的異例が(中略)除かれることになる。 あるいは、夜中に啼く鶏(にわとり)の例をとってもいい。 もしそういった鶏の首を速かにひねってしまえば、その命は失われて、夜明けに啼く鳥を鶏とするという定義に矛盾が生ずることはなくなるのである。」
「第五に、曖昧なる象徴は、祭式において、詩や神話でそれが用いられると同一の目的のために――つまり、生の意味を高めるためとか、存在の別の次元に注意を喚起するために――用いられることがある。 最終章において我々は、祭式が異例なるものの象徴を用いることによって、一元的で壮大な統一的パターンの中に、いかにして生と善ばかりでなく、悪と死をも一体化し得るかを見るであろう。
結論的にいおう。 もし不浄(アンクリーンネス)とは場違いのものであるということができるとすれば、我々は秩序の観念を通して不浄の問題にとり組まなければならないのである。不浄もしくは汚物とは、ある体系を維持するためにはそこに包含してはならないものの謂いである。このことの認識が、汚れ(ダート)に対する洞察の第一歩であるのだ。 我々は聖なるものと世俗的なるものとの明確な区別を見出す必要はないだろう。(中略)更にまた、我々は未開人と現代人との間に特別な区別を設ける必要もないであろう。 何故ならば、人間はすべて同一の規範に支配されているからである。」



ダグラス 汚穢と禁忌2


「第十章」より:

「時として奇妙な変種あるいは個体が出現すると、人間はそれに対してなんらかの嫌忌反応を示す。(中略)けれども人間が人間としての経験を重ねるうちに、自分自身がそれほど正確に宇宙的原理に一致していないことを知るようになる。」

























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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