西郷信綱 『古事記注釈 第一巻』

「スサノヲは宇宙の秩序を破り、不毛と旱魃をもたらす神と見うけられる。果して、その号泣に応ずるかのように世は悪霊に充ち充ちてくる。」
(西郷信綱 『古事記注釈 第一巻』 より)


西郷信綱 
『古事記注釈 第一巻』


平凡社 1975年1月16日初版第1刷発行/1990年9月20日初版第5刷発行
405p
A5判 丸背布装上製本 貼函
定価5,150円(本体5,000円)
装幀: 原弘



本書「凡例」より:

「一、本書は古事記伝を前提とし、また踏襲している点があるので、対照しやすいよう段節の区切りかたもほぼそれに準じることにした。」
「一、本文も古事記伝を底本とし、真福寺本その他を以て校訂した。」
「一、校注は必要最小限にとどめ、本文の解釈にかかわるものは注釈の条でとりあげた。底本もその他の諸本も誤っていると考えた場合は、私見を以て改めた。」
「一、古事記をどう訓み下すかには未解決の問題が多く、今なおそれは不安定な状態にある。(中略)私はまだ何ら確信らしいものが持てないので、古事記伝の訓みを軸とし、諸家の説によってそれを多少手直しするという程度にとどめた。」



西郷信綱 古事記注釈1


目次:

凡例

第一 古事記を読む
第二 太安万侶の序
 回顧
 壬申の乱
 天武天皇と稗田阿礼
 元明天皇
 古事記の成立
第三 天地初発
 別天神
 別天神(続)
 国之常立神
 対偶神
第四 伊邪那岐命と伊邪那美命
 淤能碁呂島
 二神の聖婚
 二神の聖婚(続)
第五 大八島国と神々の生成
 国生み
 国生み(続)
 大綿津見神その他
 水分神その他
 大山津見その他
 天之狭土神その他
 火之迦具土神
 伊邪那美命を葬る
 迦具土神を斬る
 迦具土神の死体に成る神
第六 黄泉の国、禊
 黄泉の国訪問
 逃走
 黄泉比良坂
 禊と神々の化成
 禊と神々の化成(続)
 阿曇の祖神、墨江の神
 三貴子の誕生
第七 須佐之男命と天照大神
 三貴子の分治
 須佐之男命の涕泣
 須佐之男命の昇天
 天の真名井のうけひ
 五男三女の所属
 胸形三女神
 天菩比命
第八 天の岩屋戸
 須佐之男命の勝さび
 岩屋戸にこもる
 岩屋戸を開く
第九 大蛇退治
 須佐之男命の追放
 五穀の起源
 八俣の大蛇
 草薙の剣
 須賀の宮
 系譜
 系譜(続)

あとがき



西郷信綱 古事記注釈



◆本書より◆


「第一 古事記を読む」より:

「もし現代において、注釈というものを一つの積極的形式としてみずから撰ぶとすれば、ことばにたいする注釈者の関係は、潜在的に詩人の立場に似てくるのではなかろうか。言語が伝達のための記号となり空虚化してゆくのに抗し、なま(引用者注: 「なま」に傍点)なものとしての、きらめく存在としてのことばに固執し、それに新たな充実を与えようとしてきたのは詩人たちであった。古代の作品を徹底的に読むことは、ことばの生誕地に近づこうとする試みに他ならない。」

「少くとも万葉集や源氏物語が文学上の古典であるのと同じようには、古事記は古典とは呼びにくい。宮廷の編纂になるものではあるけれど、それは日本文化史の最辺境地帯に位置しており、むしろ前古典的なアーケイックな世界にぞくすると見る方がよさそうである。古事記がいわゆる国文学研究の対象とされるだけでなく、歴史学、民俗学、神話学、人類学等、諸学の集会所のごとき観を呈するのも、まだ古典として純化されぬ、いわば民族誌的な混沌がそこに沈殿しているのにもとづく。古事記を貫く政治的意図なるものも、一般にいわれているほど透明ではない。問題は、それらを新しい理解のもとにいかにしてもたらしうるかにある。」

「細部にこだわりすぎているように見える節々が多いかと思うが、それは必要やむをえぬことであった。片々たる一語のなかに、古代の宇宙が影を落し、古代人の生活が息づいているかも知れないのだ。「神は細部に宿り給う」という箴言が、私の胸裡には絶えず去来していた。」



「第三 天地初発」より:

「この段にかぎらず、古事記が神々の名を列挙するさいには、一種の遊びの要素、言葉のもじりや諧謔のはたらいている場合が多いのである。」


「第七 須佐之男命と天照大神」より:

「スサノヲは宇宙の秩序を破り、不毛と旱魃をもたらす神と見うけられる。果して、その号泣に応ずるかのように世は悪霊に充ち充ちてくる。」

「《万(ヨロヅ)の物の妖(ワザハヒ)》 たんに多くの妖というのであれば、「万の妖」ですむ。それを「万の物の妖」と記したのは、やはり「物」に特殊な意味があるからだ。モノは物の怪(ケ)のモノ、大物主のモノ、つまり妖鬼ないしデーモンのいいで、万葉集には鬼という字をモノと訓ませている。ワザハヒも、そういうモノたちのなせるワザという意である。大祓祝詞には「昆虫(ハフムシ)の災(ワザハヒ)、高津神の災、高津鳥の災」などを他のもろもろの罪と並べてあげている。ワザハヒは罪の一種で大祓にさいし根の国に追い落されねばならなかった。というのも、道饗(ミチアヘ)祭祝詞に「根国・底国より荒び疎(ウト)び来むモノ」とあるとおり、モノたちは根の国からやって来るからである。かく荒ぶる神が満ち万のモノたちの妖が起ったのは、スサノヲの所業によってであり、しかもそれが根の国と不可分であるのを想いあわせると、従来のようにスサノヲをたんに農業神とか暴風神とか規定するだけではらち(引用者注: 「らち」に傍点)のあかぬゆえんがすでに明白といえるだろう。」

「スサノヲの性格や行状に、一見、暴風の吹きすさぶさまを思わせるようなもののあるのは確かである。しかし、だからといって直ちに暴風神なりと規定していいとは限らない。このような、いわば自然主義的な考えかたで以てスサノヲの本質を云々するのは、まずいと思う。彼はたんに(引用者注: 「たんに」に傍点)、暴風のように荒れ狂うのではなく、神やらいにやらわれる荒ぶる神であったわけで、しかもその落ちゆくさきは根の国であった。この追放という契機を暴風説はついに解明できない。(中略)スサノヲをかく暴風神と見がちなのは、「悪ぶる神の音なひ、狭蠅如(サバヘナ)す皆満ち」の項でふれたごとき、古代における悪霊たちの猛威に思い及ぶことが足りぬためである。スサノヲは古事記では社会的・宇宙的(引用者注: 「宇宙的」に傍点)秩序の敵とされている。だから、暴風云々をもあながちに斥ける必要はない。悪霊の荒れすさぶさまは暴風と見まがうばかりであっただろうからだ。」



「第九 大蛇退治」より:

「《その八重垣を》 最後の「を」が格助詞であるか感歎助詞であるか古来二様に説かれているが、詩歌表現にたいし文法の分類を割りつけて事足れりとする教師風の悪習は、早くなくしたいものである。それを一義化する必要は毫もない。この「を」に格助詞に近いものがあるのは確かだろうが、しかし散文中の格助詞とちがい、それは同時に感歎助詞であることによって、歌い出しの「八雲立つ、出雲八重垣」へとふたたび旋回する。」























































































































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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

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