ジョルジョ・デ・キリコ 『エブドメロス』 (笹本孝 訳)

「エブドメロスは睡眠を何かしら聖なるもの、極めて甘美なものと考えていた。で、かれは自分の平和が、誰であろうと何であろうと乱されることには承服できなかった。かれはまた睡眠の息子であるゆめにも、同様の信仰のあることを打ち明けていた。」
(キリコ 『エブドメロス』 より)


ジョルジョ・デ・キリコ 
『エブドメロス』 
笹本孝 訳


思潮社
1970年12月15日初版発行
1971年9月20日第2刷発行
210p 口絵(モノクロ)2p
A5変形 角背紙装上製本 カバー
定価900円
装幀: 田辺輝男



Giorgio de Chirico "Hebdomeros" (1929)

イタリアの画家キリコがフランス語で書いた小説の邦訳(旧版)。
1990年ころ渋谷のぽると・ぱろうるで売っていたので買いました。


キリコ エブドメロス1


内容:

エブドメロス

あとがき (笹本孝)




◆本書より◆


「……というわけで、それから、例の飾り気のない、だが陰うつな感じはなく瀟洒な感じの通りに面した風変りな建物の訪問がはじまったのだ。通りから眺めると、その建物はメルボルンのドイツ領事館の姿を思わせた。一階は悉くさまざまな種類の店舗になっていた。日曜でも祭日でもなかったが、店舗という店舗が悉く店を鎖しており、ために通りのこの一帯には、あるメランコリックな倦怠の表情、どことなく荒廃した感じ、つまりは毎日曜日アングロ・サクソンの街々が呈するあの独特な雰囲気があった。大気には、陸揚貨物倉庫の微かな匂いが漂っていた。」

「そこには何かしらひとを絶望させるものがあった。エブドメロスは、それは環境と気象情況の結果だと主張し、自分にはこうしたものの一切を変える方法など何ひとつ思い浮かばないと言った。唯一のとるべき道、それは生きることであり、かれらをそのまま自由に生きさせることであった。だが、ハムレットの如く、まさにそれが問題なのだ。かれらは現実に生きていたのか? このような問いに即座に解答を出すことは、とくに事情が今のような場合極めて困難なことだった。おそらくそれは、エブドメロスが今まで混み入った問題にとりつかれるたびにつねにそうしてきたように、幾晩もの入念な熟考をへてこそ、はじめて可能になるものであったろう。
 それに、エブドメロスは友人たちと、《生命とは何か》、《死とは何か》などという永遠の問題について議論をおっぱじめることを怖れた。《生命は地球以外の天体にも可能であろうか》。《輪廻とか霊魂の不滅、自然法則の不可視性、災害の到来を予告する亡霊の存在、犬に下意識のあること、フクロウがゆめをみること、蝿とかウズラのあたま、あるいはヒョウの斑状の皮膚のもつ謎めいた要素を本気で信じるか》、この種の議論をかれは怖れた。内心では本能的にそのような人間どもや事物のもつ謎めいた側面に興味をそそられてはいたのだが。だが、エブドメロスが議論をする相手は、そうしたたぐいの人間とは全く無縁な、エブドメロスにきまって不信感だけを起させる連中ばかりだった。エブドメロスは、こうした連中の自尊心とか怨恨そしてまたかれらのヒステリー現象を怖れた。かれは友人たちの心にコンプレックスの感情をめざめさせたくなかった。だが一方で、かれは友人たちの讃美をも怖れていた。そいつはすごい、大したものだ、前代未聞のことだ、というような一切が、エブドメロスには極めて低俗な喜びしか感じさせぬものだったし、しまいにはかれを焦だたせるのだ。かれの唯一の幸せは、いかなる方法であろうとも人からかかずらわれぬことだった。人なみの目立たぬ服装をして、誰からも気付かれず、たとえそれが寛大な視線であろうとも、一切の他人の視線の矢を背や横はらに全く感じずに生きること。あるいは別の言い方をすれば、まさしく彼はひとからかかずらわれることを希んでいた、とも言えよう。だがそれは今言った方法とは全くちがう方法によってである。即ち栄光の良き面をうけとり栄光に充ち足りて、しかも栄光のわずらわしさに陥らぬこと。要するに、あのシバリス人の流儀なのだ。
  その例の一、《こわれた花びんが非常に高価であった》
  その例の二、《閉じられたドアは頑として開こうとしなかった》」

「澄みきった秋の空には、ところどころ彫刻的な形の大きな白雲がゆったりと航行し、雲の真んなかには、無翅の天使たちが崇高な王侯のすがたさながらに身を横たえていた。かつての探険家は、まさにこの瞬間、壁一面に動物の毛皮や写真をはりつけた自分の部屋を出、郊外の小さな家のベランダに立っていた。(ところで、かれの部屋の動物の毛皮や写真もまた、白壁のうえで恰も大氷群の海にところどころ黒いインクをたらしたような具合に浮かぶ黒い船の姿を表象させていたのだ。)かれは放心したように雲のなかに横たわる無翅の天使たちの姿を眺めていた。そして、それらの姿から、ふと大海を漂流する大氷山にとじこめられ死物狂いになっている不運な白熊たちの姿を連想し、目に泪を浮かべているのだった。かれの脳裡には今、何日間も雪のうえに休み、冷たい北の海を難儀してゆっくりと航海したかつての旅のことが思い出されていたのだ。《汝の冷たき海を与えたまえ、わが熱き海が温めてくれよう》 これこそ、神々にふさわしい挨拶の言葉なのだ。というのも、神々には、はっきりと領界の決まった二つの神、まさしく二つの神があるからである。一方は白い海神、もう一方は黒い海神、別の言葉で言えば、北の神と南の神である。そして、今の瞬間、広大な世界を貫き、同僚の白い海神に向って、海藻のまといつく腕をさしのべながら、このような言葉をなげかけていたのは、他ならぬ黒い海神の方であった。エブドメロスはこうした一切から、結局、黒い種族の方が他の色の種族よりもより礼儀正しいこと、同様の理由で、かれらの方がずっと寛大な心と鋭敏な精神をもっているという推論を導きだした。事実またかれは、以前からニグロ仲間に多くの画家たちがいることも知っていた。」

「この大洋のように広大で、しばしば恐ろしい嵐の爆発する湖を横切るとき、エブドメロスはきまってやや茫然と酔ったような気分になるのだが、そんなときでも、かれの念頭からは、主人が将軍で子沢山のにぎやかな家族の住む田舎の家のことが去ったことはなかった。いつだったか、不眠症のつづいた晩、かれは一階にあてられた自分の部屋のなかで、戸外の光に微かに照らしだされる天井をみつめて過したことがあった。すると、ときどき天井のうえをひとつのかげが動くのだ。何と言ったらいいのか。大きなコンパスを開いたり閉じたりしているような形でもあり、競技場のトラックに足げにされ抛げ出された三脚のようでもあり、何ものかが用心深く性急に歩きまわっているかげのようでもあった。エブドメロスはそれらのかたちから、庭の食卓や金属製の椅子を狙っている泥棒か浮浪人の姿を想像した。で、かれは急いでベッドを跳び出、体刑に処せられる母親殺しの姿さながらに、上着もつけず裸足のまま猟銃をしっかりと握りしめ、用心深くドアを細目に開けてみた。そしてじっと外部の様子をうかがったのだが、外部には何ごともなく何ぴともいない。あるのはただ、巨大な夜の曠野、月のない夏の夜が広がっているだけであった。」

「ついで、雨がやってきた。今日もまた昨日と同じく、明日ともまた同じであろうような雨、さしたる強い降りではないが、規則的で終りがなく、一切の木々が泪でうちしおれる柳のような姿となる雨が……。
 ぼろぼろの着物を着、全身ずぶぬれになった羊飼いたちが、先刻から羊飼いの杖で身を支え、メランコリックな自分らの羊の群れの真んなかに立ちつくしていた。エブドメロスは湿気が自分にもじわじわと浸透してくるのを感じた。ベッドのなかにいながら寒かった。というのも、ホテルのシーツは完全に乾いたということがなかったかれだ。衣類を吊している洋ダンスのなかには、さながら洞窟のなかかなんぞのようにかびがはえていた。そして、ホテルの小さな庭のなかでは、あわれな姿のガマ蛙たちが無気力にとびはね、あちこちに位置をかえている。
 それゆえ、今はもうつとめてこの土地を逃れ、この土地を立ち去るべきときであった。エブドメロスはホテルの会計をたのみ、主人にいとま乞いを告げた。だが、主人は、しきりに、雨はなにも永遠に降りつづくわけではないこと、去年の今時分はすばらしい上天気であったこと、さらに、晴雨計もそろそろ上昇してきているし、土地の老人たちは、鳥のさえずり声の具合いでまもなく風の方向に変化のあろうことを予告している。この季節に風は多分北から吹きはじめるだろうし、さすれば、空は一気に吹き払われたように晴れあがるだろう等々のことを強調するのだった。《考えてもごらんなさい、エブドメロスの旦那――と主人はエブドメロスの肩を叩き、オーバーのボタンを慣れ慣れし気に留めてやりながらつづけた――空が晴れれば旦那、ここはすばらしい眺めですぜ。遠く平野のかなたには大伽藍のある街や古びた市庁の塔がみえるし、真んなかには街を貫く河とまさに芸術作品の名に値いする橋などがみえるんでさあ。おまけに周りには丘がぐるっととりまいていて、そこには花の咲き乱れるテラスのある別荘がそこかしこにみえるし……わたしの海洋望遠鏡でみれば、まどにひじをついている人たちの姿をみることも出来ますよ。ずっと西の方には、また、竜の歯と呼びならわされている有名な山の頂きがみえますし、そこは一年中雪に覆われていて、懸崖の底におちて死んだ無謀な登山家は一人や二人じゃありませんや。ずっと登って北の方向には海が見え、そばにはいつも盛んな活動をつづけている港や工場の群れがあって、おかげでこの地方も有名になったってわけなんですがね》 エブドメロスは、主人のはなしを細心の注意を払って聞いていた。実をいうと、かれは自分がパノラマというものに嫌悪を感じること、自分が愛するのは部屋だけであり、それもカーテンをおろしドアを閉め切り、ひとりでじっと閉じこもるのに格好な部屋だけであり、かれには部屋の隅とか低い天井の作り以上にまさるもののないことを言ってやりたかった。だが、言っても理解されぬことだし、とくに狂人とまちがえられ、土地の医学的権威などを教えられたりしては困るので、あえて言いかけた言葉をのみこんだ。」

「突然エブドメロスは、天啓のように一切の事情を悟り、身内にこみあげてきたけいれんのような羞恥心のため思わず顔が真赤になった。逃げよう。逃げねばならぬ。どこへなりと是が非でも逃げるのだ。この場所を離れ、姿を消すのだ。かれは今遠く支那にも逃れたい気持だったろう。かの地で大きな街灯のように光り輝く塔のなかにこもり、夢遊病者のような生活を送ろう。そして、昼には二本の満開の桜の木のあいだに吊したハンモックで昼寝し、正午の甘美な空気につつまれ眠るのだ。すると、山羊たちは、微動だにもせずにいるかれの姿に安心し、何の警戒心もなく近よってきて、かれのすぐま近かでゆっくりつる草の葉を食んでいることだろう。」

「その町を離れると、エブドメロスは、東方に屹立している主要な山からあまり遠くないところにある谷間に足を止めた。かれは、ほどなく夜間の長い登攀を開始せねばならなかったので、じっくり考える必要を感じた。で、かれはとある石の上に坐り、まずそこに外套をていねいに折りたたんでおいてから深い熟考に没入して行ったのだ。ゆっくりと、過ぎ去った思い出のひとつひとつに幕があがった。エブドメロスは喜々として、わが身をこの郷愁の赴くままに委せた。過去のことを考えると、それが全くなつかしく思いだされぬ場合でもきまって何らかの郷愁を感じることが、かれの主要な弱点のひとつだった。そんなわけで、かれはまた午後を眠って過ごすことを愛した。かれの申し分によれば、午後の睡眠に先立つ、ないしは睡眠の後の極めて短い時間ほど深く過去の記憶をよびさますものはないのである。エブドメロスは、友人たちに語りかけながら、それは単なる誘導の問題だ、と言った。だが、かれの友人たちは必ずしもかれの望んでいたようなえりぬきの連中ではなかった。かれらは頑強で意志の強い青年たちだったが、無器用で、しばしばエブドメロスの特異な性質が要求するものや、エブドメロスの一流の精神の繊細さなどをなかなか把握し理解してはくれぬのだった。」

「《黒い街からのぼってくるあのざわめきは何なのか》と哲学者のリポニウスが自分の書斎の書籍や書類で一杯になった机の側にある窓の方に頭をあげて聞いた。かれは、町の主要な広場をとり囲む柱廊のうえの質素なアパートに住んでいた。窓からは、広場の真んなかにたてられた低い台座の父親の像の後姿がみえた。かれの父もまた哲学者で、その卓越した著作のゆえに、同郷人の手で、この町のもっとも美しくもっとも大きな広場の真んなかにかれの像がたてられたのだった。」

「かれは所謂人の判断というものを嫌い、とくに不遠慮な連中、不可解な連中を、社会を怖れたのだ。」

「……かれはいつものように半信半疑で、片手をズボンのポケットに入れもう一方の手をからにして奇襲に備え、用心深く近よった。かれのかたわらを装甲歩兵の部隊が通って行った。かれらの姿には、どこか頑なでむっつりしたところがあった。ロケットが空に上っていたが、音はなかった。すべての音が止んでいた。世界のもっとも非情な姿が悉くそこにあった。たとえば、大地の石、人間や動物たちの骨は永久に消え去ってしまったかの如くだし、豊かで抗し難い大きな波が、無限の優しさで一切の事物を水の下に沈めていた。そしてこの新しい大洋の真んなかには、エブドメロスの船が帆を一杯に張り、ひとところをじっと漂っていたのだ。だが、それからゆっくりと、恰も不可思議ななぞのように、ある新しく奇妙な信頼感が、エブドメロスの心に生じはじめた。最初、かれは怖かった。かれは、病弱の老人が冬の夜中、がらんとした城のなかの自分のひじかけ椅子にたったひとりで坐っていて、ドアの把手が何ものか得体の知れぬものの手でゆっくりと回されるのを見、ぞっとする時のようにがたがた震えさえした。それから、突然、ある抗し難い風に吹き払われ、恐怖、苦悩、疑惑、郷愁、不満、警戒、絶望、疲労、不安、怯惰、弱さ、嫌悪、不信、憎悪、憤怒等、全てのものが悉くひとつの物凄い旋風となって、かなたへ、いばらといらくさが頑固な病いのように周囲にかたくへばりついている半ば崩れた小さなレンガの壁の背後へと、消えて行ったのだ。波は海緑色の深さをたたえ渦まく水の面に集まり、逆さに砕け散っていた。そして、鋼鉄のように硬い木靴をはいた広大な雌馬の群れが、勝手気ままなギャロップを踏み、臀部の雪崩のように果てしなく身体をぶつけ合い、こすり合い、押し合いながら、姿を没して行ったのだ。
 それから再度、夜の砂漠があった。再び全てが不動と沈黙のなかに眠っていた。突然エブドメロスは、この女が自分の父親の目をしているのをみた。で、かれは理解したのだ(引用者注: 「かれは理解した」に傍点)。かの女は、星のない広大な夜のなかで、不滅について語った。」
「エブドメロスは、崩れた廃墟の石のうえにあごひじをつき、もはや何も考えなかった。かれの思考は、今聞えたばかりの極めて純粋な声の微風を受け、ゆっくりと撓み、ついには完全な自由奔放の姿にまかせたのだ。そうしてそのまま暫時、かれの思考はこれらの忘れ難い言葉の優しい波に身をまかせていたが、やがて、これらの波にのり、あの神秘的な未知の浜辺へと静かに漕ぎ出した。空色の孤独を従え自らの凋落のなかで微笑みながら沈んでゆく太陽の生温かい空気のなかを、それはどんどん漕ぎ進んで行った……。
 その間、空と広大な海のあいだには、艦隊が旗艦の前方を通りすぎてゆくときのように、みどりの島々が、驚異の島々がゆっくり姿を現わしていた。そしてその一方では、無垢の白さを誇る崇高な鳥の長い列が、さかんに鳴き声をたてながら飛んでいたのだ。」




hebdomeros7
A critical contextual project
Translation and Publication History Of Hebdomeros


















































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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