FC2ブログ

種村季弘 『断片からの世界』

「父親の工具がつくり出す現実を、息子たちは同じ工具を使って遊戯的オブジェをつくり出すことによって相対化し、超現実の存在を高らかに宣言したのである。それは存在のつくり直し、有用にたいする無用の反乱、父権という壁の破壊による子の側からの世界再創造にほかならなかった。」
(種村季弘 「イマージュの解剖学」 より)


種村季弘 
『断片からの世界
― 美術稿集成』


平凡社
2005年8月8日初版第1刷発行
388p 図版一覧・著者略歴2p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,800円+税



本書「編集後記」より:

「本書は、二〇〇四年八月二十九日に逝去されたドイツ文学者種村季弘氏の、単行本未収録作品を主体としてまとめた美術稿集である。」
「洒脱な随筆を幅広い分野で縦横無尽に展開し、その過程でふと琴線に触れた事象を、独特な解釈で深く掘り起こし、しれしれと一家言立ててしまうのが、氏の面目躍如たる思考であり、表現であった。」
「そんななかでも、氏が著述活動をはじめたかなり初期の段階から、深く思いを込めていたのが、美術の世界である。」
「本書は、無念にも幻に終わった(中略)著作群を氏の構想に最も近いかたちで、一冊にまとめるという変則的手段によって構成されていることを告白しなければならない。したがって、編集方針も当初別々であったものから大きく転換させざるをえず、美術評論集であるとともに、一冊で種村季弘という作家の「モノの見方」が窺える本を目標とした。結果、すでに単行本に収録された作品でも、当初から再録する案があったもの、加筆する予定であった内容に類似したもの、氏の美術論を考えるうえで重要と思われるものは収めることとなった。」
「表題は、作品の題名のなかから氏の思考の一端がよく表れているものとして、「断片からの世界」を採った。」



本文(「IV」)中、小さい図版(モノクロ)25点。


種村季弘 断片からの世界


帯文:

「覗き
集合論
変幻
妖怪画家
からくり
漫遊記
太母
空壜
練糞術師
仮面
架空紀行
贋物

狂画人
解剖学
魔法
西日
トポス
迷路
没落


歩行者

マニエリスムから
戯志画人伝へ

単行本未収録を中心にした美術ラビリントス」



帯裏:

「体系的思考のほかに世には断片的思考ともいうべきものが存在していて、しかもその断片性はかならずしも未完もしくは不具であることを意味せず、断片相互の組合せや対応からほとんど汲めどもつきせぬ無限の構造を生成させるものなのだ。要するに、断片によってしか語ることのできない世界があるのだ、私はそう考えたのである。
(本書「断片からの世界――記憶術の横領について」より)」



目次 (初出):

I
マニエリスムの発見――G・R・ホッケ『迷宮としての世界』をめぐって (「訳者あとがき」改題、グスタフ・ルネ・ホッケ『迷宮としての世界』美術出版社、1966年2月、『怪物のユートピア』に再録)
大ギリシア文化とマニエリスム (「訳者あとがき」改題、グスタフ・ルネ・ホッケ『文学におけるマニエリスムII』現代思潮社、1971年12月、『ある迷宮物語』に再録)
断片からの世界――記憶術の横領について (『芸術倶楽部』1973年11月号、『ある迷宮物語』に再録)
マニエリスムの倒錯 (『血と薔薇』第三号、1969年3月)
不死の人 (「ファブリツィオ・クレリッチ展」カタログ、渋谷西武百貨店、1985年10月)
死の時間、死の風景 (『太陽』1992年9月号)
伊藤若冲――物好きの集合論 (『みづゑ』1971年9月号)

II
没落のパラダイス――アルフレッド・クービン (『みづゑ』1970年1月号、『失楽園測量地図』に再録)
無気味な同伴者――リヒャルト・ミュラー (『みづゑ』1975年5月号)
オットー・ディックス、その人間動物誌 (『三彩』1989年2月号)
エルンストの擬挽――コラージュとフロッタージュの発見 (『ユリイカ』1976年6月臨時増刊号)
イマージュの解剖学――ハンス・ベルメール (ハンス・ベルメール『イマージュの解剖学』河出書房新社、1975年10月)
輪の変幻――神聖詐欺師ゾンネンシュターン (『みづゑ』1974年9月号)
ゾンネンシュターン、それは私だ (「ゾンネンシュターン展」カタログ、池袋西武百貨店、1974年9月)
虹色の錬糞術師、ゾンネンシュターン (『骰子の7の目』第七巻月報、河出書房新社、1976年1月)
仮面の迷路歩行者――ルドルフ・ハウスナー (『みづゑ』1969年2月号、『迷宮の魔術師たち』に再録)
無名性の錬金術師――エルンスト・フックス (『みづゑ』1969年3月号、『迷宮の魔術師たち』に再録)
文明の皮剥ぎ職人――ホルスト・ヤンセン (「ホルスト・ヤンセン展」カタログ、青木画廊、1971年11月)
描かれた「空想美術館」――ホルスト・ヤンセン (「ホルスト・ヤンセン展」カタログ、神奈川県立近代美術館、1982年4月、『迷宮の魔術師たち』に再録)
自由な狂画人、ホルスト・ヤンセン (『季刊銀花』第百三十号、2002年6月)
変身の館の主――ペーター・クリーチ (『芸術生活』1970年12月号)
魔法の国の建築家――カール・コーラップ (『みづゑ』1969年9月号、『迷宮の魔術師たち』に再録)
コーラップ・ランド (「カール・コーラップ展」カタログ、青木画廊、1972年4月)
幻想の時計師――フリードリヒ・メクセパー (『みづゑ』1972年6月号、『影法師の誘惑』に再録)
犀の宮廷写真師――ユルク・シュルテスの版画 (『みづゑ』1973年2月号)
西と東の聖婚――イョルク・シュマイサーのエロスの世界 (『芸術生活』1972年10月)

III
西日のある夏 (『ふれあい』2000年夏号)
ベルリン漫遊記 (『太陽』1991年10月号)
アスコーナ架空紀行 (『月刊百科』1992年1月号)
美術館・我流編集術 (「都市・アートオアシス逍遥」改題、『太陽』1988年3月号、『晴浴雨浴日記』に再録)
ヴィーナスの解体 (『カメラ毎日別冊 NEW NUDE 2』1985年5月)
覗きからくりのトポス――江戸浮絵から谷崎潤一郎の暗箱まで (『現代思想』1986年9月臨時増刊号、『箱抜けからくり綺譚』に再録)
源右衛門の小箱 (『芸術生活』1965年5月号、『箱の中の見知らぬ国』に再録)
怪奇草双紙考 (『別冊現代詩手帖』1972年10月号)
新聞錦絵考 (「新聞錦絵展 昭和63年~昭和64年」カタログ、ジャーナリズム史研究会、1988年8月、『箱抜けからくり奇譚』に再録)
空壜の使い方 (『ちくま』1999年1月号)
贋物の美 (『東京新聞』1981年12月5―26日)

IV
[あとがき (『奇想の展覧会』河出書房新社、1998年7月)]
秋山サーカス大興行――秋山祐徳太子 (秋山祐徳太子『通俗的芸術論 ポップ・アートのたたかい』栞、土曜美術社、1985年7月)
鋏や扇風機の包装にはじまり……(『櫻画報 永久保存版』帯、青林堂、1971年8月)
橋と坂の妖怪画家――井上洋介 (「井上洋介展1977『人間幻燈』チラシ、中京大学アートギャラリーC・スクエア、1997年9月)
黙示絵画という曲芸――井上洋介 (井上洋介『無言主義』トムズボックス、1999年5月)
霧船百艘大来寇――清水晁 (「清水晁展」カタログ、清水晁展実行委員会、2000年2月)
一つ目女学生は大日如来か――中村宏 (『美術手帖』2000年9月号)
8との遭遇――池田龍雄 (「第二十一回オマージュ瀧口修造 池田龍雄『漂着』」カタログ、佐谷画廊、2001年7月)
透明な巨人――瀧口修造 (『ユリイカ』1979年8月号)
あれから四十年とは――堀内誠一 (『堀内さん』堀内事務所、1997年8月)
夢の掻き傷――中根昭子 (「中根昭子展」パンフレット、銀座ふそうギャラリー、1983年10月)
夜の騎行者――中根昭子 (「中根昭子展――砂笛」パンフレット、画廊春秋、1972年10月)
聖遊戯空間の漂流者――山本美智代 (『山本美智代印刷画集 銀鍍』前衛社/三彩社、1970年4月)
覗きの構造――土井典 (「覗きの構造――土井典人形展」DM、1975年9月)
太母VS.偽少女――土井典 (土井典『偽少女』論創社、2003年6月)
敵のいない世界――鬼海弘雄 (『アサヒカメラ』2002年1月増大号)
欲望の戒厳令――渡辺兼人 (『芸術生活』1973年12月号)
虫めづる姫君の方へ――佐伯俊男 (佐伯俊男『痴虫』トレヴィル、1995年6月)
誰でもない人の盗癖について――丸尾末広 (『丸尾画報II』トレヴィル、1996年11月)
福天洞地の迷宮――真島直子 (「真島直子展」パンフレット、ギャラリー川船、2000年11月)
カボチャラダ王国見聞録――川原田徹 (トーナス・カボチャラダムス『カボチャドキヤ 空想観光』河出書房新社、2000年2月)
トーナス・カボチャラダムスのゆかいな王国――川原田徹 (「トーナス・カボチャラダムスのゆかいな王国展」カタログ、北九州市立美術館分館、2004年7月)
夢の皮、あるいはどこにいても浅草――美濃瓢吾 (「美濃瓢吾展 浅草人間絶景論」パンフレット、中京大学 アートギャラリーC・スクエア、2001年4月)
楽園の鳥譜――加福多恵 (『加福多恵画集 鳥聲集』山猫屋、2002年6月)
遠い部屋、遠い声――桑原弘明 (「桑原弘明展」パンフレット、スパンアートギャラリー、2001年12月)
浮力場の鳥獣戯画――上原木呂 (上原木呂コラージュ作品展「幻獣圖會」推薦文、2004年4月)

編集後記 (編集人一同)
初出一覧



種村季弘 断片からの世界02



◆本書より◆


「断片からの世界」より:

「こうした見方はあるいは、何事につけ重さをきらう私の個人的体質のしからしめるところなのかもしれない。とまれ、体系的思考のほかに世には断片的思考というべきものが存在していて、しかもその断片性はかならずしも未完もしくは不具であることを意味せず、断片相互の組合せや対応からほとんど汲めどもつきせぬ無限の構造を生成させるものなのだ、と知ったのである。(中略)要するに、断片によってしか語ることのできない世界があるのだ、私はそう考えたのである。」

「ルルスやキルヒャーの組合せ術とは、要するに概念の群によって語彙を蒐集し、これを九つの象徴的文字に置換することによって、存在するすべてのものをこの基本要素に還元してしまう技術である。存在のうちには一つとして、それ以外のあるものに還元され得ないものはない。こうしてすべてがすべてと交換可能であるならば、世界はほんのわずかの範疇別のインデックスのなかにそっくり容れてしまうことができるはずだ。」

「しかしマニエリストやロマン派詩人の挫折について云々することは、古典主義者の凡庸な円熟について語るのと同じくらい、それ自体が月並みだろう。私にはむしろ、彼らのすべてを包括する書物の構想にすべての現実の没落が先立っていたという事実のほうがずっと興味深い。」
「マラルメが大革命によって宗教的共同感情が失われたと感じていたとするならば、ヴィトゲンシュタインはオーストリア-ハンガリー二重帝国の崩壊によって、ノヴァーリスはキリスト教的中世共同体の没落によって、ほぼ同じようにみずからの属していた精神の故郷の喪失に立ち会った。彼らの極端に論理的・機械的な発明癖は、むしろ挫折した世界の復元をめざすものだったのである。もっともメカニカルな論理・言語機械を通じて喚び起こされるものは、まさにメカニカルなものとは正反対の啓示宗教のイデア的感情であったのだ。」
「ふたたびよみがえるべき世界とは、しからばこれらの発明的に作る人としての詩人にとって、どのようなものとして幻視されていたのであろうか。ノヴァーリスの『青い花』では次のように歌われている。
  「すべてのなかに一、一なるもののなかにすべて
  神の像(かたち)は草々と石の上に
  神の精神(こころ)は人間と動物の上に、
  これをこそ心に銘じなければならぬ。
  もはや空間と時間にしたがう秩序はなく
  ここでは未来が過去のうちに。」
 一と全、植物や鉱物や動物の個別的な相と唯一の普遍的存在が相互に交換可能となり、それらのものをたがいに隔てている時間と空間の分割する秩序は消滅し、かつて起こったすべての事象が来るべきもののうちによみがえるのである。このすべてのものが融和合一する神秘的一体(ウニオ・ミスティカ)には、先にもいったように、ある総体的な喪失の体験が先立っている。故郷は失われ、最愛の少女ゾフィー・フォン・キューンはすでにないのである。中心を失って断片状に崩壊した存在と時間のなかを、詩人は迷路をさまようように遍歴し、ときとして時間の最小の断片(分)のなかに失われた輝かしい世界をかいま見る。『キリスト教とヨーロッパ』に語られているように、逆説的にも、「宗教的アナルシーが宗教を生み出す手段」となり、もはや失われたものの面影すらとどめないまでに極小化した断片が世界へ帰還するかけがえのない道となるのである。」

「再生神話を、存在を悪と見做す倒立的な観点からもっとも徹底的に組み立てたのは、グノーシス派の宇宙発生論である。グノーシス派の宇宙発生論では、本源である究極の神性から遠ざかるにつれてこの世の悪が発生してくる。すなわち、本源なる神はそもそも存在の彼方なる光の充溢(プレーローマ)のなかに住んでいて、存在を超越しているという意味では存在していないが、この不動の天上的無時間性のうちなる神が存在への分裂を起こしたときから堕落である創造、つまり生殖と世代交替の悪が生じる。
 神そのものは人格も顔も持たない光の充溢そのものであるが、その光が暗い下界の原水に投射されたとき、知の女神ソフィアの美しいイメージが結ばれた。闇はその天上的な美しさを妬んで彼女(のイメージ)を捕えるとズタズタに引き裂き、八ツ裂きにした断片を物質世界のなかに閉じ込める。これが存在のはじまりである。同時に天上界のプレーローマとしての無時間性はバラバラに分断され、その悪しき模造物たる時間が発生し、したがってたえざる増殖過程である存在の創造がはじまる。この創造を主宰するのが、嫉妬深い、本源の神性の模倣による簒奪者たる邪悪な造物主デミウルゴスである。そして私たちの住むこの地上こそは、デミウルゴス一派のつくり上げた、神性からもっとも相隔たること遠い流謫の地であり、したがってもっとも濃密に物質性に囚われた世界なのである。
 とはいえ、悪しきデミウルゴスのつくり上げた存在の牢獄は時とともにいよいよ堅牢になりまさるにもせよ、破獄が絶対に不可能というのではない。存在と肉に閉じ込められた人間もまた、遠い光の充溢たる神性の分断された光の胚子を宿している。そこで、この微細な光の胚子の追憶の糸をたぐっていけば、最後には分割以前の状態、すなわち失われた天上の故郷たるプレーローマに還帰することができるのだ。」
「グノーシス思想は西洋中世を通じてスコラ哲学を多少とも逸脱した諸学や、カバラや、錬金術のうちにひそかに浸透した。たとえば物質の泥沼のなかから這い上がってきた黒い男が、作業の手始めにズタズタに引き裂かれて器(うつわ)(レトルト)のなかで加熱され、翼ある白い女の導きで白色還元されながら、万有の秘密を含む賢者の石に変転していくという錬金術の過程も、物質界から天上の故郷へ帰る孤児の物語を正確になぞっている。やがてパラケルススに集大成されることになる、中世の迷信的民間医療も、近代医学の生産復帰主義的な治療をめざすよりは、病気という大宇宙と人体(小宇宙)との不調和の発生以前に肉体を還元し、そもそも病気と健康という二元的対立が存在しなかった原状態を還元しようとする作業にほかならない。
 生産の忌避、ひいては存在の縮小消滅を希求するこれら一連の志向は、必然的に反実体論的唯名論的思考を促すだろう。カフカ風にいうならば、何かを作りながら何も作らないというふうに何かを作る、というのが中世人の秘教的な側面における基本態度であったと見て差支えない。ホイジンガのいわゆるホモ・ルーデンスや、中世錬金術寓意画の図像的トポスの一つ「子供の遊戯(ルドゥス・プエプルム)」が生まれてくるのも、これらの思想的背景の関係なしには考えられまい。すべては遊び、とりわけ仮面演技となり、大言壮語やきらびやかなこけおどしが尊重される。世界は一個の劇場であり、人生は一場の夢であって、何ら実体的な重みはないのだ。」



「伊藤若冲」より:

「若冲はおそらく典型的な幼児性性格者であったにちがいない。大典禅師の叙べる彼のポートレートは、世の常の利欲にはまことに頓着なく、ひたすら絵画三昧に耽溺して他を顧みない、孤独な畸人の姿である。」
「現実からそのリビドーのことごとくを撤退させたこの無能な幼児性性格者が、撤収した力のすべてを描くことに投じ、濁世三十年が沈潜丹青の一日にしか匹敵しない、おそるべき逆転が起こる。すなわち沈潜丹青の内視(インサイト)は、学事技芸、宴楽利達にたいする無能力の結果ではなく、そのあまりにも強烈な白色の灼熱ゆえに世俗的事件の一切を焼きつくし、世俗的なものの一切をその形而上的虚の相においてとらえる、孤独者の波瀾万丈の冒険と化するのである。」

「若冲の画面には一種の奇妙な正面性がある。対象はなるほど写実的に描かれているように思われるが、通常のリアリズムの求心的遠近法から導き出されたプロポーションによって描かれてはいない。鳥も貝甲類も魚も、一つ一つがいわば図鑑的な類型性をもって奇妙に正面切っている。全体との関連のうちに適材適所のプロポーションに甘んじるよりは、個々のオブジェが個別の驚異においてその都度きらりと一閃しては中心なき漂流物として無重力空間の闇に没していく。先にもふれたように、統一的全体から乖離した個別存在は必然的に反中心的=エキセントリックであるために、それ自体驚異を喚起する。奇異とはそもそも中心からの距離であり、エキセントリシティの強度である。逆にいえば、中心から撤退し、エキセントリックの性格を強めれば強めるほど、個別性も鮮明となって図鑑的な正面性が強調されるであろう。そこにはいわゆる写生の自然性はないのである。」



「イマージュの解剖学」より:

「一九三三年、ナチスの政権獲得と同時に、ベルメールの父親と国家にたいする反逆の姿勢は決定的なものとなる。彼はついに国家の機能にたいして「有用な労働」は一切拒絶することを決意して、ドイツにおける職業活動を全面的に停止する。」
「一九三三年秋、彼は突如として人形制作をはじめる。内部のメカニズムは同じく職業を放棄していたが弟が手伝った。技術に支えられた父権が君臨しているベルメール家にあって、それは一種暴動の相を呈した。」
「父親の工具がつくり出す現実を、息子たちは同じ工具を使って遊戯的オブジェをつくり出すことによって相対化し、超現実の存在を高らかに宣言したのである。それは存在のつくり直し、有用にたいする無用の反乱、父権という壁の破壊による子の側からの世界再創造にほかならなかった。」



「空壜の使い方」より:

「第一次世界大戦後、インフレが猛威をふるったドイツに兄弟がいた。兄はまじめな働き者で、蓄えた貯金もかなりの額。一方、弟は稼いだ金を右から左に酒にかえて、いつも文無し。さて、いよいよインフレ到来。兄の蓄えた紙幣は一夜にして紙屑と化した。弟はと見れば、これまで飲みに飲みまくった安酒の、家中に山と積まれた空壜の引き取り手いくらでもあって、わが世の春を謳歌した。
 何も酒壜でなくてもいい。甘党ならジュースの壜でもいい。ただし空壜に限る。空壜枕にゴロリと寝て、見上げれば青い空、白い雲。そう、雲、雲、雲。嚢中からっぽのわれらがコレクション出来る、いちばん遠く=近いところにあるもの。その、ふんわりと心地よいクラウド・コレクション。何にもしないことの最高の贅沢を、クラフト・エヴィング商會はいまや裏口でこっそり密造・販売しはじめたようだ。」



「敵のいない世界」より:

「鬼海さんの処女写真集は『王たちの肖像』だった。「かつて」の王たちがリア王のように王座から追放されて巷をさまよう、やつし姿の肖像集だ。故(ゆえ)あってやつし姿で流浪するゼウスたち。乞食姿の旅のユリシーズ。肖像たちは、王者であり英雄である本来の素性と現存のペルソナとしてのやつし姿、安逸な無時間性とコマ切れの時間としての現代社会のズレを、諧謔的に語っていた。しかしこの「王者」たちは例外なく、あくまでもプライド高く、ある種のアウラに輝く衣裳を甲冑のように身に帯びている。無敵の王者にしてなおドン・キホーテのように防御し攻撃すべき敵を予想しているのだろうか。
 『しあわせ』にはしかしもうどこにも敵がいない。いかなる防御の姿勢もない。生と死はほとんど対等に向かい合い、透明なヴェール一枚を隔てて両者は接し合い、死ですら攻撃し防御すべき敵ではない。
 もはや、あるいはまだ、敵のいない世界。子供たちが三々五々真昼の野天の砂浜に散らばって昼寝をしている光景のスナップがある。一見しただけでは死んでいるとも眠っているとも、判断しかねるほどの自然との深い親和関係を結んでいる人間たち。これほど無防備に自然に接している、というよりは自然の懐に抱かれている「しあわせ」が地上のどこかにまだあるという「しあわせ」を、鬼海さんは開闢(かいびゃく)以来の、大きすぎて無時間と錯覚しかねないほどの時間を横切ってここに届けてくれた。」



「福天洞地の迷宮」より:

「はじめに死が、それも大量死があった。死が、彼女にとっての原風景だったのである。」
「伊勢湾台風が中京地方を襲った一九五九年の名古屋に真島建三という画家がいた。戦前にエルンスト風のシュルレアリスム絵画からはじめ、戦後は無数のヒモ状もしくは条虫(サナダムシ)状の記号形象が画面いっぱいにびっしりはびこる半抽象画シリーズを描きつづけながら、それを「原始言語」と命名して、一九九四年に物故した。
 この人が真島直子さんの父親である。頃日、名古屋の真島家を訪れたとき真島建三の遺作数点を拝見した。そのとき私は、ゆくりなくもC・G・ユングがジョイスの『ユリシーズ』を評した「条虫的リアリズム」という言葉を思い出した。
 無数の条虫が糞壺のなかでのようにからみ合い、重なり合い、こすれ合って、何やら解読できない音声を発し、曲がったりくねったりする不可解な身体言語で何事かを言わんとしている。分節化された言語ではない。それゆえに、分節化された言語がリニアーな線をたどって死滅に向かう傲慢と悲惨を知らない。原発生状態の多方向的多声構造をそのまま保ちつつ、語るよりは歌うのが「原始言語」の本性であると見えた。
 一九九一年以後の真島直子展にはしきりに「ニュルニュルニョロニョロ」(中略)の個展タイトルが目立ってくる。そこにはうどんかラーメンの吐瀉物を思わせるニュルニュルニョロニョロしたものが床一面にぶちまけられ、のみならず壁にも吐き出され、天井からも鐘乳石のようにぶら下がり、人によっては嘔吐感にさいなまれて顔を背けかねないような悪趣味を、これでもかとばかり謳歌している。
 やってくれたのである。」

「滅亡への意志、死の肯定からしか生命美は生まれない。デカダンスの美は汚濁と廃血の巣のような古池から生まれ、滅亡後の腐土からこそ生命は芽生える。」

「二元論は消失し、死はことさらに生から排除されない。生のなかにすでにして死がある。」



「トーナス・カボチャラダムスのゆかいな王国」より:

「変化や多様性といえば港町カボチャドキヤにはインド人やギリシア人、東南アジア人や中国人のような異国人をよく見かける。それらの人びとは「みんなちがって、みんないい」。ことばが通じないので争いばかりが起こる「バベル時代」がまだないときに、「バベル以前の時代」というのがあった。そこでは異国人同士ことばは通じないけれども、ことば以前に心が通じ合う方法があった。ことばの要らない意思疎通があった。
 ブリューゲルには《バベルの塔》のほかに《子供の遊戯》と題する作品がある。《バベルの塔》とはちがい、後者の《子供の遊戯》では、ことばの行き違いのために喧嘩をしたり口論をしたりすることがない。子供たちはことばなしに、ボロ屋のまわりをぐるぐる走り回ったり輪回しをしたりしてひたすら楽しく遊んでいる。大人たちもそれを見ながら、食って、寝て、垂れて、また食って、のんびりゆっくりとなまけになまけている。」
















































































































































関連記事
スポンサーサイト



プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
 
うまれたときからひとでなし
なぜならわたしはねこだから
 
◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

Koro-pok-Guru
Away with the Fairies

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル、尾形亀之助、森田童子。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本