「國文學 解釈と教材の研究」 特集: 泉鏡花 魔界の精神史


「國文學 解釈と教材の研究」 
特集: 泉鏡花 魔界の精神史

60年6月号 第30巻7号

學燈社
昭和60年6月20日発行
190p
22×15.2cm 並装 
定価790円
表紙: 新宮晋
扉: 三嶋典東



泉鏡花 国文学 01


目次:

特集: 泉鏡花――魔界の精神史
 対談 境界線上の文学――鏡花世界の原郷 (前田愛・山口昌男)
 I *** 泉鏡花
  幻想の文法学 (野口武彦)
  鏡花、言語空間の呪術――文体と語りの構造 (山田有策)
  鏡花の劇空間 (郡司正勝)
 II 新しい評価軸を求めて
  泉鏡花の記号的世界 (宇波彰)
  鏡花とプロテスタンティズム (若桑みどり)
  鏡花と妖怪――フォークロアの視点から (宮田登)
  鏡花と江戸芸文――講談を中心に (延広真治)
 鏡花本の装画 (村松定孝)
 III 慶応義塾図書館所蔵 未発表資料翻刻・解題
  未発表資料: 泉鏡花自筆原稿『朝霧』 (檜谷昭彦)
 IV 作品の検証
  風流線――その閉じられたもの (越野格)
  歌行燈――深層への階梯 (松村友視)
  天守物語――幻想の渇き (種田和加子)
  山海評判記――井戸覗きが意味するもの (高桑法子)
 泉鏡花研究の現在――主要参考文献を紹介しながら (東郷克美)

連載
 『吾輩は猫である』と『漾虚集』と 2 『断片』から『猫』「一」へ (竹盛天雄)
 物語の系譜――八人の作家 第十九回 円地文子(VII) (中上健次)
名篇の新しい評釈
 花ぞ昔の香ににほひける 古今和歌集評釈 29 (小町谷照彦)
 人の心の花に馴れにし年月を 徒然草評釈 70 (久保田淳)
本のさんぽ 154
 二葉亭没後の翻訳本二冊 『血笑記』と『片恋 外六篇』 (紅野敏郎)
 民俗文学の道しるべ 21 フォークロア七十年(IV) (臼田甚五郎)
学界時評・上代 (西宮一民)
学界時評・近世 (高田衛)
海外文学事情 27 (由良君美 他)
ブックエンド 27 (栗坪良樹)
映画回廊 14 (川本三郎)
音楽回廊 18 (相倉久人)
演劇回廊 19 (大笹吉雄)
国語教育界展望 202 (大平浩哉)
回想・この一冊 171 坂口安吾著『堕落論』 (大河内昭爾)
書評
 稲岡耕二著『万葉集の作品と方法――口誦から記載へ』 (渡瀬昌忠)
 藤沢全著『日系文学の研究』 (剣持武彦)
学界教育界の動向



泉鏡花 国文学 02



◆本書より◆


「鏡花とプロテスタンティズム」(若桑みどり)より:

「私はまた「外科室」の末尾の一句をきわめてプロテスタント的なものと受けとる(これは彼がプロテスタントであったとか、直接にその流れにあったことは何ら意味しない)。」
「この世では夫ある者を恋する、夫ある身で人を恋するは「罪」であろうが、死んでまことをつらぬく二人の愛を、「神」はよしとするであろう。プロテスタントにとって、神が何を罰し、何を許すかは、この世のロジックにはあてはまらない。
 「神よ、いと自らをいやしめる罪人(つみびと)と、心おごれる善人と、いずれが天に迎えらるるや?」と叫んだのは、魂の救済について思い悩み、宗教改革に心惹かれたミケランジェロであった。カソリックは、この世の掟にしたがえば天国に行くのであったが、プロテスタントは、ただ神を愛する心ふかく、信ずること熱きもののみが、救済されうるのである。その場合、心がまっすぐで、雑念なく、ひたむきなものが、たとえ人を殺すほどのこの世の罪を犯しても、なお、いっそう神に近いのである。「霊象」もまた、“富豪”の夫の命令で死のうとする女が、心に秘めた初恋の男に、“死ぬ前に一目会いたい”とふと思い、ためらった故に、心中から転じて“夫殺し”となり、両者共に滅亡にいたるという語りである。大富豪に嫁し、はじめから人生をあきらめていたこの女の、生涯を通じてのただ一つの、もっとも真実の叫びが、互いに愛をたしかめてもいない初恋の男に“もう一目会いたい”といういまわのきわの思いだったのである。だが、この一瞬のおくれが、裁判官をしてかの女を殺人者と断ぜしめた原因であった。ここには、「この世の裁(さば)き」と「あの世の(真の)裁き」の対立が、言外に示されており、これがこの小説の主眼である。
 アーノルト・ハウザーが、“もっともプロテスタント的な小説”と呼んだトルストーイの、聖人に祈りを教えてもらう無知な老人(この場合、祈りを教えてもらおうとして老人は海の上を歩いてくるのである)や、ドストイエフスキーの娼婦ソーニャや、そして何よりも、アナトール・フランスの娼婦タイスのように、卑しく、この世でおとしめられ、傲慢から遠く、心にあわれみあり、苦しむものが、この世では滅びるが、あの世では、“救われる”のである。
 「祇園物語」のにせ僧は、芸妓のお岸に「おまえの骨は野ざらしにはならぬ。玉になる」と断言する。つまり、キリスト教的にいいかえれば、それは救済されるということである。」
「鏡花の場合、まごころをたて通すのは女である。男は「世間」なり「体制」なり、「職分」なりの「外部」に対して心をゆりうごかす。しかし、男の本心は二つに割れている。そして結局のところ、身をほろぼすのは女と同じである。だが、そのプロセスがまるでちがう。そこのところの二重の心理の対位法が鏡花の作品のライト・モティーフになっている。
 なぜ鏡花は、女に情をたて通させたのか。それは、女がもともと体制にくみこまれていず、権力のどのような段階にも入りこむことがない存在、全階級的にネイティヴなアウトローだからである。相対的に男は体制的であり、国家であり、権力であり、富である。鏡花の主人公は片手を「女」につかまれ片手を、出世とか権力とか富の形をした一方の「手」につかまれている。
 「滝の白糸」となった「義血侠血」も、主人公の男は、「検事」という体制側の人間としてあらわれ、女は卑しい芸人であり、殺人犯という罪人としてあらわれる。
 伊藤整はこれを「正義による愛情の破滅」ととらえているが、これはまさにおどろきである。これは私論のコンテクストでは「法律」にうち克つ「愛」の勝利としてうけとられねばならない。つまり、この男にとっては、死ぬことで最終的にこの世で得た一切のものを投げ出し、「女」と合体したからである。このことにかぎらず総じて私のおどろいたことは、評論家と呼ばれる人々の鏡花の読みちがえである。」

「吉田精一は、“「文学界」同人の多くは一たんは教会に籍を置き、霊の問題に思念をこらしたことがあって、宗教とは無縁ではなかった。”といい、“プロテスタンティズムは彼らに「個の尊厳」の信念を身につけさせた。”またそれは“立身出世を目標に、功利にあくせくする活動や人々を他人ごとに見、現世逃避的、隠遁的趣味を高しとする身分(リード)にも共感を感ぜしめ”、“中世的・東洋的なクイエティズムへの沈潜”と“唯美主義に傾斜せしめた”といっているが、私はこの表現はほとんどそのまま鏡花にあてはまると思う。
 もはや紙面がつきたが、終りにまた評論家のことばを引用しよう。
 それは伊藤整の件の評論の末語「泉鏡花という作家の小説は、その設定やその筋を確かめて読むべきでなく、歌舞伎や文楽のように、その場面の一つ一つを味い楽しむべきものと思う」である。私にいわせれば、まさしくこのような〈読み方〉が今日まで鏡花の真価を甚しくそこなってきたのである。これこそ新派的な鏡花の歪曲であり、絵草紙と江戸の中にむりやり鏡花をおしもどし、その中にこめられた痛烈にして哀切なる(哀切というのは、この時代とその後の時代の日本の社会を思えばそういわざるをえないからである)社会告発のメッセージをおおいかくしてしまったものなのである。」

























































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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