アントナン・アルトー 『演劇とその形而上学』 (安堂信也 訳)

「あの夢の瞳(ひとみ)はまるでわれわれを吸い込むようだ。その前では、われわれ自身が「亡霊(ファントーム)」にでもなったようだ。」
(アントナン・アルトー 「バリ島の演劇について」 より)


アントナン・アルトー 
『演劇とその形而上学』 
安堂信也 訳


白水社
1965年10月20日 第1刷発行
1986年1月25日 第12刷発行
255p 口絵(モノクロ)2p
四六判 丸背紙装上製本 
本体ビニールカバー 函
定価1,800円



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、LE THÉÂTRE ET SON DOUBLE par ANTONIN ARTAUD; nrf, Collection Metamorphoses IV Gallimard, 1938, Paris の翻訳である。同署は一九三二年から一九三五年までの間に《フランス新評論(N・R・F・)》誌に発表された論文を著者自身がまとめ、さらに、いくらかの書き下しを加えたものである」
「本書の題名は直訳すれば「演劇とその二重(ドゥーブル)」であるが、(中略)アルトーは、古代エジプトの死者の影という意味から派生した、霊という語義で用いているようである。」
「これまでの題名のみの邦訳では「演劇とその分身、雛型、原型、二重性、影」などが用いられて来ているが、(中略)本書の題名は、その内容からあえて「演劇とその形而上学」とした。」



本書は1996年に白水社『アントナン・アルトー著作集 I 演劇とその分身』として「全面新訳・改題」版が出ています。


アルトー 演劇とその形而上学 01


目次:

序 演劇と文化

演劇とペスト
演出と形而上的なもの
錬金術的演劇
バリ島の演劇について
東洋演劇と西洋演劇
名作との縁を切ること
演劇と残酷
残酷の演劇 (第一宣言)
 技術
 諸主題
残酷についての手紙
言語についての手紙
残酷の演劇 (第二宣言)
 内容の見地から
 形式の見地から
感性の体操
二つのノート
 その一 マルクス兄弟
 その二 『母をめぐりて』

訳者あとがき




◆本書より◆


「序 演劇と文化」より:

「すべて、本物の肖像(エフィジイ)は、その亡霊(オンブル)を持っていて、それが裏打ち(ドゥーブル)している。そして、彫刻家が原形を作りながら、一種の亡霊を解き放ったと思った瞬間から、芸術は消え去り、その存在が、彼の休息を引き裂く。
 適切な象形文字の数々から溢れ出す魔術的文化のすべてと同様に、真の演劇もまた、その亡霊たちを持っている。そして、すべての言語(ランガージュ)、すべての芸術の中で、いまだに亡霊を持っているのは演劇だけであり、その亡霊たちが自分たちの限界(リミタシオン)を打破してしまった。もともと、亡霊たちは限界というものに我慢が出来なかったのだとも言えよう。」

「演劇にとっても、文化にとってと同様に、問題は、あくまで、亡霊を名ざし、導くことである。そして、言語の中にも、形態の中にも固定されない演劇は、その事実によって、まやかしの亡霊たちを破壊し別の亡霊たちの誕生の道をきり開く。そしてその亡霊たちのまわりに本物の生の光景(スペクタクル)が集大成されるのである。
 生に触れるために、言語を破壊することこそ、演劇を作ること、あるいは作り直すこととなる。」
「これは、人間と、人間の可能性との習慣的な限界を取り払うことにもなる。現実と人の呼ぶものの境界を無限にひろげることにもなる。
 演劇によって革新された生の感覚(サンス)を信じなければならない。そこでは、人間はいまだ存在しないものの、恐れを知らぬ主人となり、それを生れさせる。まだ生れていないものも、われわれが単なる記録器官のままでいることに満足しなくなりさえすれば、もっともっと生れ出ることが出来るはずなのである。」



「演劇とペスト」より:

「ひとたび、ペストが町を襲うと、正常な社会の枠はくずれ去る。もはや衛生局も、軍隊も、警察も、市当局もなくなる。手のすいたものが、死体を焼く薪に火をつける。どの家族もわれ勝ちに薪を求める。たちまち、木も、場所も、従って炎もすくなくなり、焚火をめぐって、近所同士の争いが起る。やがて屍体の数がふえすぎて、ついに、全面的な避難が始まる。もう、道にはいたるところ屍体がころがっている。それは、山をなし、くずれ落ち、その端をうじ虫が噛り始める。臭気が炎のように立ちのぼる。どこもかしこも、道一杯に、屍体のピラミッドである。そして、その時、家々の戸口が開かれ、熱に狂ったペスト患者が、恐ろしい幻覚につかれて、怒号をあげて町にひろがる。内臓をむしばみ、全身をかけめぐる病は、精神をはけ口として、噴出する。一方、できものもなく、苦しみもなく、幻覚にも皮膚の斑点にも犯されない人々は、すでに感染していることも知らず、倣然と鏡を見つめては、健康にはち切れそうな自分に満足する。しかし、突然、手にひげそり用の皿を持ったまま、そして、他のペスト患者への軽蔑に満ちたまま、どっと倒れ、そのまま動かなくなる。
 屍体からふき出る血みどろな、ねっとりと濁って、苦悩と阿片の色をたたえた流れの上を、奇怪な人物たちがねり歩く。体中に蠟をぬったり、一メートルもある鼻をつけ、ガラス玉の目をもち、木片を二枚、一方は縦にして踵の代わりとし、一方は汚れた体液をさけるために水平にした、日本の下駄のような履きものをつけている。たわけた経を口ずさみながら通って行くが、その御利益も甲斐もなく、やがては自分たちが、残り火の中に倒れて行く。無知な医師たちは、恐れおののくばかりで、やることなすこと児戯にひとしい。
 開け放たれた家々へは、慾に憑かれて免疫になったかのような、どん底の人々がなだれ込み、他人の富に手をかけるが、やがてそれがなんの役にも立たないことを思い知る。そしてその時、演劇が生れ出る。演劇、即ち、時事性(アクチュアリテ)に対して、無益であり、無駄である行為に人をかり立てる即時的無償性(グラテュイテ・イメディアット)が。」



「演出と形而上的なもの」より:

「私の言いたいのは、舞台というのは、物理的(フィジック)な具体的な場所であって、その場所を一杯にすること、それに具体的な言語を語らせることが求められているということである。
 さらに言いたいのは、この具体的言語は、言葉に従属することなしに五官に訴えるように作られており、従って、まず感覚を満足させるべきだということである。言語のために詩があるように、感覚のためにも詩はある。だから、私の言っている物理的で具体的な言語も、真に演劇的であるかどうかは、それが表現する思想が、どれだけ分節言語から解き放たれているかによる。」

「現代演劇が頽廃しているのは、それが一方では真面目さの、また他方では笑いの感覚を失ったからである。重大性と、直接的で有害な効果と――すっかり言ってしまえば、危険(ダンジェ)と手を切ってしまったからである。
 他方では、本当のユーモアの感覚、笑いの持つ生理的な、無軌道(アナルシック)な解離の力を失ってしまったからである。
 すべての詩情の基盤にある深い無軌道な精神と別れてしまったからである。」



「名作との縁を切ること」より:

「演劇は、直接、器官に達するための、われわれに残された世界でただ一つの場であり、最後の綜合的方法なのである。」
「もし、音楽が蛇に働きかけるとしたら、それは、音楽が蛇に精神的観念をもたらすからではない。それは蛇の体が長くて、地面の上でとぐろをまき、その体のほとんど全体が地面に接しているからである。音楽の振幅は地面に達し、それが、非常に微妙な、非常に長いマッサージのように、蛇に達するのである。そこで、私は、観客に対しても、蛇を音楽で踊らせるように働きかけ器官を通じてもっとも微妙な概念にまで導くことを提案したい。」



「残酷の演劇」より:

「言葉(パロール)の西欧的な利用法を捨てて、この言語は呪文(アンカンタシオン)の語(レ・モ)をつくり出す。それは声を張りあげる。声の振動と性質を利用する。狂わんばかりの足拍子をとる。槌のように音を叩き出す。感受性を、興奮させ、しびれさせ、魅惑し、からめとることをねらう。それは、動作の持つ新しい感覚の抒情性を発揮させ、空間でのその急激さや拡がりによって語による抒情性をついには凌駕する。それは、最後に、言語への知的従属を打破し、動作や記号を特殊な悪魔祓いの品位にまで高めて、その下にかくれている新しい、そしてより深い知性の感覚を与えるのである。」

「〈楽器〉 楽器は事物の状態で使われ、装置の一部をなす。
 さらに、五官を通じて感受性に直接に、深く働きかける必要性から、音響的見地から言っても、全く習慣にない音響的性質と振幅とが求められなければならない。それは今日の楽器が持っていない性質であり、古い、忘れられた楽器の使用を再興するか、新しい楽器を作り出さなければならない。さらに、音楽のほかに、金属の特別な溶解か新しい化合に基づいた発音用の道具ないしは機具で、八度音程の新しい配分をえられ、堪えがたい、刺すような楽音、あるいは騒音を立てられるのが求められる。」

「〈舞台――客席〉 われわれは舞台と客席を廃止して、如何なる種類の境も区切りもない単一の場所をこれにかえる。それが、劇行動の舞台となる。観客と上演との間に観客と俳優との間に、直接的な交流がふたたびつくりあげられる。観客が、行動のただ中に置かれ、行動によって包まれ、つらぬかれる。この包囲は、広間の輪郭そのものから生じる。
 そのために、現存の劇場を捨てて、われわれは、どこかの倉庫か納屋を使い、ある種の教会とか聖地とか、高チベットの寺院の建築に到達した方式に従って、それを改造させる。」



「残酷についての手紙」より:

「肉体を切りさいなむことなしにも、純粋な残酷を想像することは容易です。それに、哲学的に言って、残酷とは一体、何か。精神の観点からは、残酷は厳格を、仮借のない適用と決意を、もとにもどせぬ絶対的な決定を意味します。」






































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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