ラフカデイオ・ヘルン 『東西文學評論』 十一谷義三郎・三宅幾三郎 譯 (岩波文庫)

「これらのボヘミヤンは、藝術を愛する靑年達で、どうせ彼等の理想によつて生きる事が出來ないのを知つて、(中略)働いて多少安樂な生活をするよりも、何もしないで、悲慘な飢餓に苦しむことに甘んじた。」
(ラフカデイオ・ヘルン 「ボヘミヤン生活(ライフ)の回顧」 より)


ラフカデイオ・ヘルン 
『東西文學評論』

十一谷義三郎・三宅幾三郎 譯 
岩波文庫 786-788

岩波書店
昭和6年11月25日 印刷
昭和6年11月30日 発行
昭和14年10月30日 第8刷発行
312p 
16×10.4cm 並装
定価60銭(★★★)



ネルヴァル論を含むラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の文芸論集。


ヘルン 東西文学評論


本書「緒言」(アルバート・モーデル、1922年12月)より:

「ラフカデイオ・ヘルンは一八八二年の初から一八八七年の初夏まで New Orleans Times-democrat (ニウ オーリアンズ タイムズ デモクラツト)紙に勤めた。彼の仕事は主として佛文の英譯と廣く文學上の問題に關する社説とを執筆する事であつた。」
「本書に載つてゐる社説は一八八三年と一八八七年の間に書かれたもので、即ちヘルンが三十三歳から三十七歳までの間に書いたものである。」
「私が此處に選んだ社説は、たゞ文學に關するものゝみである。ごらんの通り、その多くはフランス文學を論じてゐる。(中略)彼は特に、有名なフランスの客觀的短篇作家モーパッサンと描冩でゆく主觀的小説家のロティとの崇拜者であつた。(中略)彼はゾラの科學的な文學觀と自然主義と粗野とを嫌つた。然しその天分と力量とは認めてゐた。
 ヘルンの理想主義に對する辯護と、文學に於ける科學的精神への攻撃と、文學上の美に對する確かな見解と藝術の高尚な方面に對する執着とは此の社説に現れてゐる。」
「われ等は此處に又、後年彼を一層有名なものにした佛教文學及び日本の詩を論じた彼の初期の論文をも收めた。」
「此等のエツセイが本になつて現れるのは此が最初である。今日に至るまで、ヘルンの愛讀家達には知られてもゐず、又手に入れることも出來なかつたものである。」



本書「譯者小言」(十一谷義三郎)より:

「一、此飜譯は第一編と第二編とを三宅君が擔當し、序文と第三編第四編を私が受持つた。」
「一、本書の譯出に就ては、秋骨戸川先生を通じてヘルン先生未亡人の好意ある御諒解を得た。茲に記して御二人への感謝の微意を表する。」



目次:

緒言 (アルバート・モーデル)

第一編 文藝上の諸問題
 理想主義の將來
 理想主義と自然主義
 冩實主義と理想主義
 文學進化の教訓
 科學と文學
 頽廢の藝術
 雜誌文學に於ける包含主義

第二編 フランス文學雜感
 狂へる浪漫主義者(ヂエラール・ド・ネルヴアル)
 奇人の偶像(ボードレール)
 フローベルの友人
 考古學的小説(サランボ)
 大散文家(モーパツサン)
 文學上の厭世主義(ベラミ)
 孤獨(モーパツサン)
 厭世主義の武器(モーパツサン)
 女劍客
 ゾラの『百貨店』
 『制作』(ゾラ)
 新しき浪漫主義者(ロテイ)
 最も獨創的なる現代作家(ロテイ)
 現代小説に於ける構想(ロテイ)
 ネイシヨン紙のロテイ論
 苦惱の宗教(ブールヂエの「戀の罪」)
 ゴンクール兄弟の日記
 死の恐怖(フランス文學に於ける)
 ボヘミヤン生活の回顧(ミユールヂエの「ボヘミヤン生活」)
 「文人不遇」

第三編 ロシヤ、イギリス、ドイツ及イタリヤ文學の研究
 外國に於けるロシヤ文學
 恐ろしい小説(「罪と罰」)
 トルストイの求道心
 アーノオド二人(マシウとエドヰン)
 その國に容れられず(エドヰン・アーノオド)
 エドヰン・アーノオドの新著(死の秘密)
 定本ロウゼツテイ全集
 人性の弱點(ロウゼツテイ)
 テニスンの「ロツクスリー・ホール」
 ハインリツヒ・ハイネの妻
 ハイネ 續
 メルシエ博士のダンテ論

第四編 東洋文學
 佛教とは何ぞや
 最近の佛教文學(亞細亞の光 新版その他)
 マハーバーラタの英譯
 バガヴアド・ギータの英譯
 印度の女流詩人
 「列王紀詩」(ツイムメルン女史の意譯)
 支那の敬神思想
 日本の詩瞥見

譯者小言 (十一谷義三郎)




◆本書より◆


「狂へる浪漫主義者」より:

「「ヂエラール・ド・ネルヴアル」の名は、浪漫主義運動に參加した人名中では、最早掻き消すことの出來ないものとなつてゐるが、もともと一つの筆名に過ぎなかつた。ヂエラールの本名はラブリユニーンと云つた。」
「彼の書いたものから受ける印象は、他の浪漫主義作家のものから受ける印象とは、まるで違つてゐる。しかし、その本質的な特異さを説明することは容易でない。それは、彼の書くものゝ精神的な微妙さや、彼に靈感を與へた題目の性質のみによるとは云へない。尤も、或る程度迄それら二つの理由によることは明かだが。エドガ・ポウと同樣、彼は夢の中の感情や空想を書き表す非常な手腕を持つてゐる、しかし又、ポウとは違つて、彼のさうした表現の中には、讀者に迫つて來る、靜かな歡びと、ものうい憂欝とがある。彼の思想の持つ睡いやうな美しさと、彼の文體の持つ無意識的な魅力とは、一種の睡藥のやうに、讀者の空想を呼び起す。尚其上に何物かゞある、――この世のものではない何物かゞ。ポウの「リゲイア」、「エリアノーラ」、「アシア家」、或は「モノスとダイモノス」等をはじめて讀む人も、そこに描かれてゐるのは幻影と惡夢とに過ぎないといふことをさとる。(中略)しかし、ド・ネルヴアルの描く女には、つい迷はされ、魅せられてしまふ。それらの女達は、人間の愛か憎しみかによつて、身に危難が振りかゝつて來る迄は、靈界のものであることを現さない傅説中の妖精のやうに、本性をかくしてゐる。吾々は、彼等が此世のものでないことを見抜く爲には、リユジニヤン伯爵がメリユジーヌの一擧一動に注意した以上の目で、彼等を監視しなければならない。彼等は寔に愛らしく、目にも實在するかのやうに映る。しかし、よく見れば夢の女のやうに正體はないものであることが分る。彼等は、はつきりとした影を落さない。彼等は、ド・ネルヴアル自身が Les Filles du Feu (火の娘)の中で云つたやうに、霞から出來たものであり、風か火の産んだものである。實際、吾々はよく氣をつけてゐなければ、彼等が變化(ヘンゲ)のものであることを發見するのが困難である。狂人が不思議な繪を描いて、それが狂人の仕業であることが、最初は、餘程の鑑識眼のある人でないと分らなかつた。ヂエラールは言葉の繪師の中のさうした繪師だつた。彼は氣が狂つてゐた。時々は立歸る正氣も、果して何れ位續いたかは、疑問とされてゐる。」
「彼の作品の今一つの特質は馬鹿々々しいやうでゐて、又變に心を牽く支離滅裂さであつて、(中略)彼は非常に面白い話をしてゐるかと思ふと、時々變な合の手を入れたり、飛んでもない外のことを云ひ出したりする。」
「彼が「フアウスト」の一部、二部を譯した時は、疑ひもなく狂人であつた。而も、原著者ゲーテは、彼の譯を讀んで、「今日迄、これ程余を理解したるものなし」と叫んだのである。彼が、傅説と好古趣味と、空想的な叙述とを綯ひ交ぜた美しい混成詩ともいふべき La Bohème Galante (色漁り)を書いた時もやはり氣がふれてゐた。この作品はいろいろのものを含んでゐるが、中にも、十六世紀フランス歌謠によつた、美しい數章と、La Monstre Vert (靑き怪物)及び「魔法にかゝつた手」と題された二つの怪しき物語とがある。第一の方は、不思議に短いものであるが、それを讀む者は何人も、あの兵士の出會はした、或る葡萄酒の罎が落ちて碎けると、それが鮮血の中に横はる金髪の裸婦に變るといふ、酒倉の怪の條を、忘れることは出來ないであらう。後の方の話は、相當に長くホフマンの書いたどの作よりもすぐれたもので、(中略)あの魔法にかゝつた手が、罪人のからだから切り落されると、それが蟹のやうに、狹い街を走り抜け、或る奇怪な家の壁を蜘蛛のやうにするすると上つて、つひに魔法使が待つてゐる窓のところへ行つてしまふといふ、處刑の場など、氣味惡い迄に生々と書かれてゐる。」
「ヂエラールの輕い精神異状は、時々ひどくなつて、友人達を心痛さした。そして或時などは、彼を精神病院に入れなければならなかつた。ヂエラールはその時の經驗を、非常に變つた著述によつて、生かしてゐる。彼は自らの狂氣を自覺せる狂人の一人であつたから。Aurélia; ou, Le Rêve et la Vie (オーレリア、即ち、夢と生)といふ物語は、精神異状の現象を科學的に、狂人が論じた稀有の著述である。彼の「東方紀行」の第二部の中にある L'histoire du Calife Hakem (ハケム王の物語)にも、同樣の病的な、夢幻状態の研究が見えてゐる。この二部からなる東方旅行記によつて、ド・ネルヴアルの名は最も知られてゐるのであるが、彼がそれを書くやうになつたのは、彼の生涯に於ける最大の事件であつたエヂプト漂泊によるのである。」
「恐らく、狂人にして、はじめてさうした旅行を遂行し得たのであらう。何故なれば、東方人は、西歐人や基督教徒を深く忌み嫌ふけれども、狂人に對しては、迷信的な寛容と、親切とをさへも示すからである。ヂエラールは、隊商の宿營で眠つたり、料亭で水煙管(ナーギラー)を吸つたり、彼にはその言葉も分らない話家が、イスラムの傅説を物語るのを聽いたり、結婚の宴席や、いろいろの回教の儀式に列席したりすることを許された。恐らく、神聖な回教寺院に這入ることさへも許されたのであらう。といふのは、彼は、繪を見るやうな生活をしてゐる人達と立交つて行く爲めに、彼等の衣服を身にまとふことを忘れなかつたからである。彼の書いた Femmes de Caire (カイロの女)の中に述べられてゐる何の事件も、みんな事實なのである。又、彼の結婚の話も、疑ひの餘地無きものである。何處かの奴隷市で、彼は「黄金のやうに黄な」アビシニヤの娘を購つた。そして、カイロの或る裏町にアラビヤ風の家を借りて、東方振りの生活をはじめた。その同棲生活は、うまくいかなかつた。ヂエラールの東方憧憬の心にも一つの變化が來た。彼のアフリカ人の細君は、まだ若く、熱情的で、その上怒りつぽく、到底、幾時間も默つて、エヂプトの錬金術の神樣のことを考えたり、ヘブライの接神學の神秘を思つたりしてゐるやうな、夢想家の妻には向かなかつた。彼女には、現世のものこそ望ましかつたのである。」
「ド・ネルヴアルが、彼の東方に於ける經驗を叙したこの珍奇な本の中で、精神異状の特徴とも見るべきものがたゞ一つある。それは Story of Balkis, Queen of the Morning (朝の女王バルキスの物語)の中に見られる。やはり、狂氣で死んだヂヨン・マルチンの驚嘆すべき繪にも、同一の特徴が見られるのであつて、即ち意想の絶大さがそれである。(中略)そこには、默示録からでも來るやうな、光りと聲とがあり、アラビヤの空想も及ばないやうな絶大の誇張がある。……しかし、その並外れたところにこそ魅力があるのであつて、それらの物語を讀む人は、誰しも、地球以外のもつと大きな惑星に住む人が書いたものからでも受けるやうな、驚異を感じるのである。」
「東方から歸つて來たヂエラールは、前よりも尚ひどい狂人だつた。そして、エヂプトの廢墟が、アダム以前の諸王の宮廷の遺物であること、ピラミツドが、ヂアイアン・ベン・ヂアイアンの不思議な手楯を鍛へた鐵砧であること、ソロモンが本當に、ギンやアフリツトの軍勢を閲る爲めに、ピラミツドの上に坐つたことなどを、本氣で信じてゐた。殘つてゐた財産なども、すぐ變つたことに消費してしまつた。(中略)或る時彼は、その中に、或る女王が眠つたといふ大きな寢臺を買つた。彼は彼が人知れず、打明けぬ戀をしてゐたといふ女優が、何時かはその中に睡るといふことを空想してゐたのである。その寢臺は隨分大きかつたので、それを置く爲めに、わざわざ高い間代を拂つて、部屋を借りなければならなかつた。そして、だんだん困つて彼はそれを屋根裏の部屋に迄運ばせた。この費用のかゝる場所塞ぎの代物を手離すことに對する、殆んど迷信的といつていゝ彼の恐怖も、或意味に於て彼の爲めになつた。それは彼に一つの安靜の場所を與へたことだつた。彼は間代だけの金が得られ、或は借りられる限り、その寢臺に執着してゐた。しかし、とうとうそれも、他の珍奇な品物と同じく、賣拂はれなければならなかつた。ヂエラールの頭は、もう餘程狂つてゐて、更に新しく文學的成功を收め得る望みはなかつた。彼はテオフイール・ゴーチエその他の、彼の破滅した思想の美しさと、この上もない心の善良さとを愛する人々の情けにすがつて行くことになつた。しかし、さうした生活は、彼の如く、現實を僞りと考へ、空想を眞實と見做す人間にとつては、非常な苦痛であつたに違ひない。彼は、時には飢餓を訴へんよりは、飢ゑに甘んじ、時には、友達に迷惑と費用とをかけまいとして、嘘をついた。彼は亡靈のやうに、冬のパリの凍るやうな夜の街を、空しく不可能事を夢みながら歩き廻つた。彼は又、きつと、彼の見て來た東方を、巨大な熱帶の太陽を、曾て雨降ることなき綠の空を、遠く響く隊商の鈴の音を、カイロの夢のやうな街を、回教僧の美しい歌を、麝香と乳香とのにほひをこめた衣服をまとひ、薄絹をかぶつた女達を、ソロモンの帳のやうに黑く美しかつた彼の花嫁を夢みてゐたのであらう。或る凍るやうな朝(それは一八五五年一月二十七日のことだつた)彼はヴイエイユ・ランテルヌ街の或る鐵格子にかゝる縊死體となつて發見された。かくしてこの世の味氣ない現實に倦み疲れた、美しい夢を夢みる人は、自ら進んで、善き夢も惡しき夢も知らない永遠の眠りを求めて行つたのであつた。」














































































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本