『郡司正勝 刪定集 第四巻 変身の唱』 (全六巻)

「自分を殺すこと、人間性を脱すること、神への変身に課せられた一つの通過儀式、俳優は、ぜひともこれを行わなくてはならなかった。」
(郡司正勝 「演技、神への変身」 より)


『郡司正勝 刪定集 
第四巻 変身の唱』


白水社
1991年6月15日 印刷
1991年6月28日 発行
380p 口絵(モノクロ)4p
四六判 丸背布装上製本 
ビニールカバー 貼函
定価4,500円(本体4,369円)
装丁: 石黒紀夫

月報第4号 (6p):
郡司さんの贈りもの(中村雄二郎)/郡司先生と見た白石島の盆踊り(武井協三)/おっとせい(織田紘二)/カイミーラ・郡司正勝先生(西村博子)/“郡司病院”のご恩(小沢昭一)



本文中図版。


郡司正勝刪定集


帯文:

「地芝居・祭祀・放浪芸・見世物など日本の民間芸能や、中国・韓国・インドなどアジア各国の伝統芸能の実態を、広く民俗学との関連において考察し、これら芸能の発生とその精神を多面的に捉えた労作。」


帯背:

「民間芸能の
発生と精神」



帯裏:

「各巻内容
第一巻 かぶき門
 四百年におよぶ歌舞伎史を掘り下げた、独自の点描史。
第二巻 傾奇の形
 戯曲・演技・演出などの構造を、新たな切口で捉える。
第三巻 幻容の道
 人間の原初の動きに立ち帰って伝統舞踊の理念を探る。
第四巻 変身の唱
 放浪芸や見世物などの民間芸能を踏査に基づいて考察。
第五巻 戯世の文
 江戸の戯作者、狂言作者、芝居風俗などの諸論を収録。
第六巻 風流の象
 記号論を越えた記号論風傑作「童子考」を軸に編集。
各巻順に隔月配本。」



目次 (初出):

民俗と芸能
 演劇史における民俗芸能の役割 (「芸能復興」18号 昭和33年4月)
 芸能の発想と文学――江戸芸術の基底にあるもの (「文学」38巻2号 昭和45年2月/『地芝居と民俗』(岩崎美術社)収録)
 琉球の「組踊」とかぶきの「仕組踊」 (「舞踊学」3号 昭和55年6月)
 演劇とフォークロア (「テアトロ」319号 昭和44年12月/『地芝居と民俗』収録)
 道行の芸能の心 (「国文学」18巻9号 昭和48年7月)
 演技、神への変身 (「国文学」20巻1号 昭和50年1月/『かぶき論叢』(思文閣出版)収録)
 小屋・見物 (「夜想」4号 昭和56年10月)
 仮面と化粧 (「住まいの文化誌・人世祭事」昭和61年8月)
 くまどり・れんぷ・その他 (「悲劇喜劇」282号 昭和49年4月)
 白と黒の舞 (「季刊・自然と文化」1985年新春号 昭和59年12月)
 風の神と風祭 (「季刊・自然と文化」1984年春季号 昭和59年3月/「CEL」8号 昭和63年11月)
 鳥の祀り・鳥の踊り (「CEL」7号 昭和63年7月)
 動物芸能の系譜 (芸団協主催公演「芸能 鳥獣戯画」プログラム 昭和53年3月)
 祭を構成する造形 (「草月」148号 昭和58年6月)
 雪中の田遊び (「雪中の空想劇場」改題/「世界」435号 昭和57年2月
 住宅における幻想空間 (住宅建築研究所「研究所だより」3号 昭和61年9月)
 放浪芸能の系譜 (「解釈と鑑賞」38巻1号 昭和38年1月/『鉛と水銀』(西沢書店)収録)
 地獄芝居 (「グラフィケーション」71号 昭和47年5月/『鉛と水銀』収録)
 蛇の道 (「民俗芸能」58号 昭和53年2月)
 天道念仏――那須の天祭 (「南那須の天祭」改題/「民俗芸能」29号 昭和42年6月)
 甲府の獅子芝居 「甲府の獅子舞」改題/「芸能復興」19号 昭和33年11月)
 小豆島のかぶき――香川県小豆郡土庄町肥土山・池田町中山 (『祭りと芸能の旅5』(ぎょうせい)昭和53年6月)
 ある女形の運命と地狂言 (「演劇学」25号 昭和59年3月)
 瞽女物語 (「御前物語」改題/「民俗芸能」8号 昭和40年10月/『かぶき袋』(青蛙房)収録)
 人形と人形芸 (講演筆記/「芸能」28巻8・9号 昭和61年8・9月)
 北海道を舞台にしたかぶきのこと (「北海道新聞」 昭和58年4月27日夕刊)
 かぶきの蝦夷錦・蝦夷模様 (「東京新聞」昭和57年6月3日夕刊)
 創成川上の見世物の思い出 (「GA」223号 昭和52年10月)
 北海の民謡 (「ヤマハニュース」64号 昭和36年7月)
 思い出の盆踊 (「北海道新聞」平成元年8月19日夕刊)

民族と芸能
 東洋の演劇理念について (「文学」55号 昭和62年9月)
 インドのかぶきと舞踊 (「インドのかぶき」「インド舞踊を訪ねて」改題/「演劇界」30巻4・5号 昭和47年4・5月/『地底の骨』(アルドオ)収録)
 劇という宗教儀式――クリヤッタム (オフィス・アジア主催公演「クリヤッタム」プログラム 昭和63年7月)
 インドの道で (「インドの道で出会った音楽」改題/東芝レコード「インド音楽舞踊の旅」別冊付録 昭和48年/『地底の骨』収録)
 新中国の芸能 (「芸能復興」10号 昭和31年8月)
 長安細雨 (「悲劇喜劇」394号 昭和58年8月)
 碧眼の名旦、夏華達に会うの記 (「演劇界」43巻2号 昭和60年2月)
 成都に川劇を観る (「演劇界」45巻8号 昭和62年7月)
 かぶきと京劇の立廻りについて (中国京劇院三団招聘公演「歌舞伎・京劇 立廻り比較公演」プログラム 昭和60年3月)
 かぶきに入った京劇の意匠 (国際交流基金主催「中国錦繍展」図録 昭和57年9月)
 北京の春節 (「北海道新聞」昭和63年1月8日夕刊)
 四川の春 (「北海道新聞」昭和63年5月11日夕刊)
 南音紀行 (「悲劇喜劇」461号 平成元年3月)
 インドネシアの旅 (「外史とのインドネシヤの旅」改題/「ガイ氏瓦版」10号 平成元年1月)
 影絵夢幻――ジャワ・バリの旅 「北海道新聞」平成元年2月17日夕刊)
 広島のマンクヌゴロ王家舞踊団の印象 (「ゴロゴロ通信」12号 平成元年10月)
 芸能世界に生きる竜 (「アニマ」15巻14号 昭和62年12月)
 日本における玄宗と楊貴妃の芸能 (中国上海昆劇団公演「長生殿」プログラム 昭和63年9月)
 日本の花軍 (四川省芙蓉花川劇団公演プログラム 平成2年5月)
 日本の鍾馗 (「日本の鍾馗さま」改題/日本文化財団「鍾馗さま」プログラム 平成元年5月)
 江戸の関羽 (「邦楽と舞踊」41巻1号 平成2年1月 「歌舞伎舞踊の研究・御名残押絵交張」のうち)

解題
 山路興造 郡司学の方法 絵画資料と民俗芸能

初出一覧




◆本書より◆


「芸能の発想と文学」より:

「かぶき台本が、公刊されることを、永いあいだ拒否してきたのは、あくまでも完成度をモットーとする文学性を拒否しようとした、ハプニングの力を承認した無意識の抵抗があったのだとおもう。」


「演劇とフォークロア」より:

「いま、直接には、お政の伝記は必要としないので、それには触れない。ただ、毒婦として喧伝され、刑を終えて娑婆へ出てきた者が、なぜ役者となって自分の行為を芝居に仕組み、みずからその正体を見せてきたのだろうかということである。本題にかかわる点があるとしたら、ここに演劇と民俗の問題があるのではないかということである。」
「その後、三十二年の「五寸釘寅吉」、三十六年の「花井お梅」など、みなみずから舞台に立った刑余の人々である。
 花井お梅は、箱屋殺しとして、いっそう有名で、いまもなお「明治一代女」の名で、新派の重要なレパートリーの一つになっているが、お梅本人も、三十六年に特赦で出獄したあとは、やはり女役者になって、自分の罪跡を仕組んだ芝居をして歩いている。」
「たんに犯罪者に対する好奇心はむろんながら、実は、ここに民俗としての演劇の本質にかかわってくるパターンが隠されているようにおもわれる。
 まず第一は、見世物になるパターンである。それは、それらの罪業の数々を見てもらい、聞いてもらわなくては、その因果の果てを尽くすことにならないという心意伝承である。見世物のうちの因果物は、こうして成立する。」
「もっとも新しくおこった例では、昭和四十三年に没した、大石順教尼である。明治三十八年、大阪堀江の廓で六人斬りという惨劇が世間を騒がせた。そこの楼主が嫉妬に狂って、五人が殺され、その生き残りの一人が、この順教尼の、当時、当家の養女として芸妓に出ていた十八歳の妻吉で、文字どおりの巻き添えであった。それも両腕を切り落とされたのだから、やはり興行者の手にかかり、因果物扱いで、世にも珍しい娘芸人松川妻吉という触れ込みで全国を廻り、小屋掛で唄い、また踊ったのである。彼女自身、その自伝『妻吉物語・無手の法悦』(昭和二十四年版)に、

  私の寄席での売物は外でもありません「不具者」といふ事なのです。「両腕のない六人斬りの生き残りの女」といふのが売り物で、私は表面こそ高座では笑顔でゐましても心の中では泣きながら生きてゆかねばなりませんでした。さうした親娘三人の生活――

と書いている。」
「この妻吉の場合は、別に犯罪者ではない。ただ飛ばっちりを食っただけのことであるが、それでも、養父に両腕を切られたのは、なにかの因縁であるとして扱われたことはまちがいない。そうでなkれば、仏門に入り、教団に属し、順教尼となって説教をして歩かなくともよかったとおもわれる。」
「彼女には、歌や踊の素養があり、のちには口で字や絵を描いたが、芝居はしなかった。しかし、自伝によれば、先に川上音二郎から一座へ出るようにと勧められ、貞奴もわざわざ出向いて来たというが、両腕のないものになにができるものかとおもい、兄も「俺れはよね(妻吉の本名)を見せ物にはせん」といったという。つまり、新派が、両腕のない妻吉を買いにきたこと、そして、それを「見せ物にはせん」と兄が断ったのは、芝居と見世物を、あきらかに同一視していることによったのである。両腕を落とし、両足を切ってまで舞台で芝居したのは、三代目沢村田之助であった。田之助に因果譚みたいなものが、やはり出版されているのは、その面影に、役者の業を見物が二重にみたからである。」
「江戸時代に、願人坊主という街頭の乞食坊主があった。『嬉遊笑覧』は「もとより乞食にて代待代垢離かきなとして有しもの故願人とはいふなり」という。代参、代詣、代待、代垢離などを引き受けて、代りに願人となる者の謂(い)いである。すたすた坊主などという裸形の者も、代垢離姿の願人である。つまり、人の罪業、穢れなどを引き受けて、わずかな賽銭を受けて願参りをする坊主のことである。それらは社会の秩序の外にあった、坊主という賤民世捨人である。賤民世捨人といえば、中世の能役者ももと阿弥号をもつ僧形の世捨人であり、猿楽法師であった。かぶき俳優こそは、僧籍などではないが、士農工商の四階級の認められた社会制度外の人間、つまり制外人(にんがいにん)であって、社会の埒外におかれている地位はおなじなのである。
 その俳優は、社会人の罪業・悪徳・汚穢を一身に引き受ける役を舞台で演じたのである。かぶきは、まず「念仏踊」からはじまった。殺される役、斬られる役、幽霊の役、悔恨と懺悔を、「物語」や「くどき」で表現するのが、そのクライマックスであった。見物は、それゆえに自分らの世の姿を見、浄化されるのである。
 生きながら社会の埒外にはみ出して、死を語り、死霊となって冥府の有様をみせるというのが能の本質であり、浄るりも、かぶきも、そうした伝承を受け継がないわけはなかった。」
「生きているうちに立てる塔婆を寿塔(じゅとう)というそうであるが、死の病にあるとき、死んだものとしてこの寿塔を立て、いったんこの世から、みずから葬って、生きのびる方法である。だれがいつ考え出したものであるかしらぬが、民俗としてこの国に残っている。(中略)これは一種の生まれ替わりの思想から出たものだといっていい。いったん死んだことにして生まれ替わるのである。そのためには、一度世を捨てねばならない。重い病いを得たときに出家するのもおなじことで、この世を捨てることによって生きのびる方法であった。
 その代役を、舞台で勤めるのが俳優の本質にあった。俳優に、忌み嫌われる面と、めでたい二様の面があるのはそれである。もと、巫覡(ふげき)より出て、生き身の憑坐(よりしろ)となった点に、その本質がある。心中・殺人・犯罪などで死んだ人物を、舞台に招きよせ、みずから憑坐となって、その因果の業を、語り、くどく技術が俳優であったとすれば、世話物は、というより、劇は、そこから出発し、その底流にそれが、つねに流れていることになる。」
「みずから尼となって、生まれ替わった毒婦といわれる者が、過去の罪業を懺悔することによって弔い、また人にも示して、役者となったのは、世阿弥とおなじく、世捨人が役者となるべき資格と伝承があったからである。」



「小屋・見物」より:

「もともと舞台は、見てはならぬものが見える場所であり、空間であったともいえる。
 幼き日に、北海道の地平線が暮れて、祭の夜がやってくると、興行師は、大きなスクリーンを、曠野を遮断するように張って、これに年に一度の活動写真を映し出した。私の印象に残っているのは、のちに知ったのであるが、「蘆屋道満大内鑑」の葛の葉狐の物語であった。野原に狩り出されて遁げてくる白狐の姿が映し出されたとき、子供の私は、そのスクリーンの裏と表を幾度も行き来して、空間の不思議な世界を知ったのであるが、幕の裏側という魅力は、遁れ難い舞台の魅力でもあり、劇場の魅力に繋がっていたにちがいない。」

「つまり演劇とは、劇を演ずるなどというものではなく、(中略)劇場を幻想小屋化することではなかったか。いわば乞食小屋・非人小屋・見世物小屋・芝居小屋の小屋の、魅力的な魔のパワーを秘めている姿に還元することではなかったのか。」

「原始に、観客はない。(中略)古代の秘儀は、すべて参加であって、祭祀にかかわりなく見物するなどということは許されようもないことであった。」

「物見の「もの」は、もと見てはならないものの「もの」で、魂とか、カミとか、霊とかを指していったのである。」
「沖縄では、普通の人の見えないものを視ることのできる人を「シー高い人」という。いわば巫覡性をもつ人である。また、そういう場所のことも「シータカイ」という。霊が集まる場所である。これはまた舞台でもあった。能は幽霊劇などともいわれるように、すべて、神や霊が主人公として登場してくる劇であるが、舞台は、そういう「もの」の集まる、あるいは集める場であり、アメノウズメが、招魂・鎮魂をおこなってきた「槽(うけ)」の伝統をもつものでもあった。」
「見物は、見てはならぬものを見たとすれば、一種の犯罪人である。祭というものの犯罪性は、その共同犯行にある。祭という一夜の秘密結社性こそが、演劇のパワーの根元であろうとおもう。」
「江戸時代の芝居は、遊里とともに悪所とされていたが、その悪所へ踏み込む者は、一種の犯罪者にちがいはない。遊里の人々も芝居の人々もともに制外者であった。こうしたなかで生まれた心意気が、芝居を支えてきたのである。」
「当時、劇場への道は、刑務所の入口へと繋がっていたのである。」
「そもそもかぶきの発祥地である京の四条河原が戦国期の死体捨場であり、焼却場であり、刑場であって、念仏聖(ひじり)の念仏場であり、そして出雲のお国の念仏踊は、ここに始まったのである。劇場という芝居小屋は、こうした死体廃棄場の空間と共栄したのであった。悪所のこうした構造は、至るところに指摘することができる。前衛演劇が限りなく小屋に憧れ、「小屋者」をもって自認するのは、アングラが原点の復権を叫ぶものとして、既成の演劇に対する殴り込みのパワーの源泉をもつ以前の闇黒の世界がものをいっているのだといっていい。北方や闇黒へ向かう志向性も、本来、演劇の悪所としての死の世界からの教唆によるもので、あるいは、見物とは、すでに、この世で、亡者になっている人々の魂ではないかとすら想えてくる。」



「仮面と化粧」より:

「人間が日常の生活を脱して、もう一つ別の次元を獲得しようとするとき、自己を変身させる手段として、仮面ならびに化粧の表現手段があるのだといえよう。」


「住宅における幻想空間」より:

「住宅における空間という点だけからすると、無駄な空間がないということが、第一に息苦しくさせている原因ではないかとおもう。子供の頃育った地方の家の中には、子供の秘密な場所が、二、三箇所はあったものだ。それは(中略)ちょっとした廊下の突きあたりの庇の下とか、押入でもよかったのだが、今日びの都会の住宅の押入などというものは、もう子供たちが隠れんぼするような空間すらないといっていい。」
「いま考えるだけでも、誰も住みついていない廊下は、子供にとって、一つの自分の空間王国であった。」
「その廊下は、表の大道の写しでもある遊び空間でもあった。開放的な表とちがって、廊下は独り遊びの空間であり、行き止まりの小路でもあった。ぼんやりと光線が流れ、風が吹き抜ける。よその猫が忍び込み、ときには雀の子が迷い込む空間でもあった。誰のものでもないこうした空間は、空想が忍び寄るにはまことに都合がよかった。
 生活の場とは何だ、住み心地のよいということは、どんなことをいうのか。私は、人間がはみ出した情況にあるときに、居る空間があることではないかとおもったりすることがある。」





































































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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