ティオフィル・ゴーチェ 『スピリット』 田辺貞之助 訳

「マリヴェールのかたわらに、スピリットが鳥の羽か雪の片(ひら)のように音もなく降りて来た。そして、彼の肩に手をのせた。」
(ティオフィル・ゴーチェ 『スピリット』 より)


ティオフィル・ゴーチェ 
『スピリット』 
田辺貞之助 訳


沖積舎
昭和61年9月30日 発行
221p
A5判 
丸背布装上製本 貼函
定価3,500円
装釘: 藤林省三

栞 (6p):
花の雫(山下肇)/見えない愛の力『スピリット』(井村實名子)



本書栞「花の雫」(山下肇)より:

「田辺氏は最晩年にテオフィル・ゴーチェ名作選集全十巻の完訳を企て、営々として倦むところなかったが、僅か三巻の上梓を見ただけで逝き、惜しくも遺稿として残されたものの中から、(中略)『スピリット』がこのたび活字となって、妖しい美酒の芳香をたたえつつ、匂やかにわれわれ読者に語りかけてくる。」
「『スピリット』の主人公ギ・ド・マリヴェールはパリ社交界の寵児のごとく、若き未亡人でサロンの名花ダンベルクール伯爵夫人に愛され、やがて結婚の噂も高い知的美青年だが、彼の心は次第に世俗から遠ざかり、憑かれたように神秘の声に魅入られていく。その声はかつてひそかに彼に恋い焦がれながら果せない運命に絶望して修道女となり、神に仕える苦業のなかで天界に召された少女「スピリット」の天界から囁きかける愛の告白なのだ。この精霊と彼との交感の奥儀を知るのは、友人のスウェーデンの男爵フェローひとり、影のごとく彼につき添って、妖術者スウェーデンボルグめいたアドバイスで超現実界に彼を誘う。ギ・ド・マリヴェールは遂にこの天使「スピリット」のたえず彼のまわりを飛びまわって彼に呼びかける至上の魅力に身も心も奪われて、情熱をこの一点に集中していく。
 物語の後半部は、主人公が「スピリット」を通して「ルビコンを渡り」、超絶界の光輝の幻想のなかをさまよいつつ、現世と彼岸、聖と俗の交錯から、(中略)極限の非実在を求めて死にいたるまで、霊媒によってスピリットの告白を彼自らの手で書き綴っていく心霊の世界の美しくも清らかで聖なる描写である。」



ゴーチェ スピリット


帯文:

「「モーパン嬢」「ミイラ物語」等々のゴーチェの名訳を好んで口にするときの、歯ぎれよく弾んだ江戸前の口調と声音、(田辺)氏独特の思いをこめた無類のロマン派的魔術師的彫心鏤骨のサービス精神を、今もありありと思わずにはいられない。〈山下肇〉」


帯背:

「幻想小説の
傑作」



帯裏:

「ネルヴァル最後の作品「オーレリア」にも似て、その十年後に書かれた「スピリット」は、霊界に永遠の愛の結晶を見る最もロマン派的な幻想小説であり、ゴーチェの〈精神的遺書〉とも言える重要な作品である。〈井村實名子〉」



◆本書より◆


「それから、彼は手摺に肱をつき、楽しさでいっぱいの夢想にふけった。もちろん、スピリットの愛が現世への好奇心から彼を解放して以来、今度のギリシア旅行は以前と同じ感興を与えるものではなかった。彼が行なおうとしていた旅行は別のものであった。しかし、彼は心のなかではもう深く分け入っているあの世界への出発を早めようとは考えなかった。今は自殺の結果がよく分かっていたので、ひんぴんと訪ねてくる天使とともに飛び立つ時を、あまりいらいらせずに待っていた。そして、未来の幸福を信じきって、現在の感覚に身をゆだね、夜のすばらしい景観を詩人として楽しんだ。彼はバイロン卿のように海を愛していた。海のあの永遠の焦燥と、まったく風の凪いだときさえ黙ることのない嗟嘆と、突如として起こる反逆と、動かぬ障害物に対する狂おしい忿怒とは、つねに興味津々たるものであった。彼はその虚しい喧噪が人間の無益な努力とのひそかな類似を示すものと見たのであった。海が特に彼を魅惑したのは、広大無辺な寂寥と、つねに同じでありながら変化してやまない眺望と、荘厳な単調さと、あらゆる文明のしるしの欠如とであった。大きなうねりのなかで蒸気船を持ちあげた同じ高波が、ホメロスのいう《うつろな横腹》をもつ他の多くの船の舷側を洗ったが、蒸気船には何の跡形も残らなかった。その水はギリシアの船隊が掻き分けて行ったときにいろどったのと同じ色合であった。倨傲な海は大地のように人間の通過の傷跡をとどめない。海は無限とひとしく茫漠としていて、広大で、深い。したがって、マリヴェールには、あがりさがりする船の舳に立って、未知のなかへ進んで行くときほど、楽しく、自由で、自己を所有していると感じることがない。甲板にはねかかる波の飛沫(しぶき)に濡れ、髪に塩水の霧を浴びながら、海のうえを歩いて行く心地がした。そして、騎士が馬の足掻きに同化するように、船の速度をわがものとし、心は波濤に向かって躍進した。
 マリヴェールのかたわらに、スピリットが鳥の羽か雪の片(ひら)のように音もなく降りて来た。そして、彼の肩に手をのせた。」

「スタヴロスはこう陳述したが、彼がマリヴェールの死について話したことは奇想天外で、容易に信じられるものではなかった。彼によると、二人が安穏に轡を並べて、馬の死骸の見付かったあの場所まで来たとき、いきなり鉄砲の音がし、さらに間髪をいれずにもう一発聞こえた。初めの一発はマリヴェールの乗っていた馬を倒し、二発目はマリヴェール自身に命中した。マリヴェールは本能的な動作で鞍の革袋に手を伸ばし、狙いもつけずにピストルを一発うった。
 三、四人の山賊が藪からとび出して来て、マリヴェールの持ち物をうばった。他の二人が彼スタヴロスを馬から引きずりおろし、無用な抵抗はしなかったのに、両腕をしっかり押えた。
 ここまでは大道での有り触れた事件の多くとちがわなかった。だが、その続きは、案内人が誓いを立てて断言したにもかかわらず、遥かに信じがたいものであった。彼の主張するところでは、マリヴェールの顔は死に瀕しながら、断末魔の苦悶をあらわすどころか、反対に上天の喜びにきらめいたが、そのかたわらに、輝くばかりに白く、神々しいまでに美しい女があらわれた。それは神のお使いだったにちがいないが、痛みを除こうとするように、光りかがやく手をマリヴェールの傷口に当てた。
 山賊どもはこの異様な出現に怯えて、少し離れたところへ逃げていった。すると、美しい婦人は死んだ人の魂を抜きとり、そのまま天へ飛び去った。
 この供述は何度訊問を繰り返しても変えさせることができなかった。」




































































































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ひとでなしの猫

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ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

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好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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