岩本素白 『素白随筆集 ― 山居俗情・素白集』 (平凡社ライブラリー)

「私は決してK子爵の家を尋ねて見ようとは思はなかつた。是は今も多分に私の心に残つて居る性癖で、それを分解して見ると、甚だ複雑な者が潜んで居て、単なる臆病といふ者だけでは無い様である。この性癖の為に私は今迄少からず損をして来た様であるが、私は其れで善いのだと思つて居る。私はさう云ふ風に人生を考へて居るのである。」
(岩本素白 「遊行三昧」 より)


岩本素白 
『素白随筆集
― 山居俗情・素白集』
 
平凡社ライブラリー 639/い-31-1

平凡社
2008年4月10日 初版第1刷発行
349p
B6変型判(16.0cm) 並装 カバー
定価1,600円(税別)
装幀: 中垣信夫


「本書は、『山居俗情』(一九三八年、砂子屋書房刊)および『素白集』(一九四七年、東京出版刊)を底本としました。」



素白随筆集


カバー裏文:

「繊細かつ鋭敏な感覚をもって文学の世界に遊び、
独りあてもなく街を歩くことを好んだ素白(そはく)先生。
古き東京を慕い、また旧友を語るしみじみとした文章は、
滋味溢れ、人生の深さを感じさせずにはおかない。
温厚な人柄と、洗練された都会人の感性から生み出された
これらの作品は、随筆文学の最高傑作である。」



目次:

山居俗情
 読我書屋雑筆
  かやつり草
  牛堀と長瀞
  街の灯
  目黒の里
 田舎のうち
 ゆく雲
 山居俗情
  読我書屋
  銀杏の寺
  寺町
  一本松
 遊行三昧
  遊行三昧
  柴又と流山
  騎西と菖蒲
  つくだ島
 訪西樹斎記
 竹の匙
  竹の匙
  墓
  天王寺の額
  生活
  酔中哀歌
  旗
  深夜の水
  時雨
  盲縞
  子役の台詞
  吹き井
  荒れた寺と寂しい人々
  空白
  梅雨ちかく
  物の音
  無題
  気まぐれの穿鑿
  美術館
 巻末に (窪田空穂)

素白集
 旧都秋景
  雨の宿
  時雨
  六日月
  西山へ
  花の寺
 山陰両日
  亡友の跡を
  浴泉
 湯島
 春ちかき頃
 柳の芽
 愚人
 最初の怪異
 善さん
 観相
 京の尼
 派出婦
 壷
 ぼて茶碗
  ぼて茶碗
  鰯
  庭訓
  菓子の譜
  布佐
  おいそれ者
  此君
  戯画
 がんぽんち
 守部と弁玉
 ほのかなる伝統
 素白集の後に

解説――素白先生の魔法の杖 (鶴ヶ谷真一)




◆本書より◆


「田舎のうち」より:

「然し伯父に当る人は、祖父とは又違つた意味で厄介な人であつた。母などに言はせると、怠け者で理窟屋で気位が高くて我儘で、何(ど)うにも始末に負へない人だと云ふのであるが、別に何うと云ふ道楽があるのでは無く、どちらかと云へば正直過ぎる程正しい人で、唯(た)だ百姓仕事は勿論、何の仕事を為(す)るのも嫌ひで、まんじりとして居るのが此の人の病であつた。(中略)可なりしつかり者の祖母が、此の伯父の為に所帯を持たせ替へた事は九遍とやら十遍とやら、それ許りでは無い、連添ひを換へたのは前後八遍であつた。幼い私が始めて見たのは其の七度目の連添ひであつた。村の旧い家の落ちぶれで、怠け者で理窟屋で、而(しか)も恐しく気位の高いと云ふ此の人には、一寸居着く女房が無かつたのであらう。」

「伯父はまた不思議と神信心をする人であつた。座敷の床の間には古い春日明神の懸軸を飾り、左右には様々の神様のお札やら軸やらがごたごた並べてあつた。(中略)旧慣といふ者の幾らか残つてゐる村の事で、人々は何ぞの折に旧家の者として些かの敬意をこの伯父に示す風があつた。然し伯父は今の落ちぶれて居る身を卑下して、新しく力を得て来た人達の意を迎へる事の出来ない性分であつた。
 「吉左衛門にも困つたものサ、氷の会社をやつてる竹ケ崎の旦那なぞも、来さへすりや何うにか為(し)て遣(や)らうつてんだが、何時まで昔の気で居る事だか」、などと分家をして居る叔母が、よく母に滾(こぼ)して居るのを聞いたものである。若し彼が藝とか職とか、何がな身を立てる道を知つて居たら、斯(か)うも無為に零落し衰へ朽ちても行かなかつたであらうが、一生を無為に過したと云ふものゝ、是を単に怠け者といふ言葉で片附けるのも気の毒な人であつた。兎(と)も角(かく)も当時には新しい仕事である養鶏を遣つて見たり、花を造つて見たり、空気ランプを点(つ)けて見たりする彼は、満更物臭いから仕事を為ないと云ふのでは無く、彼には彼だけの理窟があり、その理窟が通つて頭を低くし膝を屈する事なしに、魂を打込み全力を注ぐべき仕事を求めて居たのであらう。然しそんな事の通らないのが世の中である。彼の一生はその絶えぬ不満から醗酵する、極度の倦怠の気に悩まされ通して居たのでは無いかと、是は後年ひそかに私の思つた事である。」

「久振りで会つても態(わざ)とらしい形式的の挨拶を為ないのが此の人の常であつた。」

「実際伯父は今、信心に凝つて居る為に生活の苦しみも周囲に対する不平も、皆忘れて機嫌が好くなつて居るらしかつた。
 祖母が亡くなつたのは此の訪問後間も無くであつた。(中略)伯父の死んだのも其れから間も無い後であつた。生前からの遺言ださうで、寺山の向ふの丘の上の見晴しの好い畠の傍に、独り寂しく埋められた。伯父には子が無かつたので、田舎のうちは此れで絶えて仕舞つた。」



「山居俗情」より:

「地代や家賃が幾分安くして、而(しか)も些(いささ)か樹立の茂つてゐると云ふ事は、吾々貧しい読書人をして寺地近くに住ましめる主なる原因である。私も今迄大方寺近くに住み、寺院の生活にも親しんで来た。虫の良い言ひ草ではあるが、若し葬式と檀家と本山の無い寺があるなら、私は今から直ぐに僧坊の生活に這入つても可(よ)いと思つて居る。」


「遊行三昧」より:

「秋晴の日を独り洋杖(ステッキ)を振つて、四条大宮から西へ歩いて行く。ふと這入つた壬生寺の稍(や)や荒廃したのが、却つて私の眼には親しく感ぜられる。とある堂に懸つて居る黒く汚れた十王図の額、それが又嬉しい。築地(ついぢ)の崩れを踏み越えて、小さい溝川を飛ぶと一筋の鄙(ひな)びた町が長く、その続きの町の名に命婦町といふのを見付けて興を覚えたり、ふと又其の同じ通り筋に応挙の墓のある寺を見付けたりする。」

「元より体は極めて弱い。単に弱いと云ふよりは、暑さ寒さ気象の変化、飲食坐臥の瑣事までも、酷く身に応へる体なのである。随つて万巻の書を読まずんば須(すべか)らく千里の道を行く可しと云ふ様な威勢の良いのでは無く、酷く詰まらぬ処をぶらぶら歩くのである。それで居て唯だぶらぶら歩いてさへ居れば気持が好いのである。深く自然を愛する等といふ様な高尚な事では無くて、生来の疎慵(そよう)から人事の煩はしさを放擲して居る形である。いやもつと正直に言へば、読まうとして居る本がむづかしくて行詰つて仕舞つたり、読めても根(こん)が続かなかつたり、書きたいものが有つても筆が思ふ様に動かなかつたり、そんな心のもやもやが、私をして飄々と歩き廻らせるらしい。画の様に美しい詩を作つた或る明の詩人は、狂多くして出遊を愛すと歌つてゐるが、私の遊行三昧も聊(いささ)か頭の捻子(ねぢ)が狂つて居る所から来て居るのかも知れない。其の詩人は、日々江頭を問うて小草皆春意あるに興じ、遥山を眺めては晩愁心を動かすものあるを悲しむ心を歌つて居る。然し私のは其の様な美しい詩境を行くのでは無い。名も無い、溝川や土橋や裏町の空地に聊か詩情を感じ懐古の心をも寄せようとするのである。或は狂多き点ではこちらが上手であるかも知れない。」
「もし酔興な人があつて拙い此の稿を読まれるなら、世に名高い勝地勝景を待期しては成らない、さう云ふ聞えた所は勝れた人が美しく面白く描きもし写しもするであらう。都会ならば人も知らぬ場末の町々、田舎ならば汽車に遠い廃村荒駅、忘れられて居る流れ、寂しい渡し、これから私の気儘に書いて行かうとするのは、そんな詰まらぬ所である。」



「訪西樹斎記」より:

「凡そ億劫といふ言葉ほど千万無量の味の籠つたものは無い、億劫を抜いた心の中から、ほんとの学問も藝術も生れては来ない、と私は斯んな勝手な考へ方をして居る。」

「客の無い隣室の闇が、黒い広がりに成つて夜は更けて行くのに、中庭の向ふの腰窓は愈明るく、宵より人の気はひが増して来たやうでもある。風が死んで竹の葉が全くそよがない。
 「この頃の僕は全く独りで歩いて居るんだから気が楽だ」西樹斎があの時低い声でさう云つた言葉が私の耳に蘇る。「世間は皆二人連れで歩いて居るから苦しいんだ。僕も昔はやつぱり二人連れだつた――慾と云ふ奴とね、誰だつて二人連れさ、処が僕は全く此の頃独りで歩いて居るんだ、随つて万事無抵抗主義でね」然う云つて微笑したが気楽さうな顔では無かつた。然し私に言はせれば此人の今迄一緒に歩いて来た道づれは、慾では無くて信念であつた。善い職人の造らへた道具と云ふ者は、流行遅れの形が気に入らぬからと云つて壊さうとしても仲々壊れる者では無い。持つて居る人は焚き付けにも成らないと滾(こぼ)すものだが、此人の心にも然う云ふ道具の様に、善い意味では有るが頑固な、人と妥協し難い所の者が有つた。
 本来此人は死んだ私の親友樫郎の同学で、会社勤めをして居たのを止めて学問を始めたのださうだ。卒業の時、学校創立以来の秀才だと云ふので、今迄無かつた賞典が設けられて或る外国の文学者の全集を貰つて学校を出たのだが、探せば幾らでも好い口が有るのに、進んで最も割の悪い或る私立学校の教師に成つたのは、余程理想が有つたものらしい。然し其処を二年で見切りを付けた時、僕は教育家といふ柄でも無いし、教育界と云ふ者も好ましい者では無いと云つて居たが学校を止して這入つた会社に三年計り居る中に、破格な重用を受けて輝かしい前途が約束された時、思ひ懸けぬ耳を患つて殆ど聴を失つて仕舞つたのである。暫く静養した後、私達は多分其のしつかりした語学の力でも使つて遣つて行く事と計り思つて居たのに、俄に地方に移つて材木を商ふ人に成つて仕舞つた。それも檜の木の他は絶対に扱はないと云ふ妙な行き方で、自分の気が済む程の良材ばかりを売つて居た。私も此人の頑固が是れ程とは思はなかつたが、何か胸の透くやうな嬉しさを覚えたのである。
 考へて見ると私の周囲には妙な友達が集つて居た。政治法律の学問を遣り乍ら、易を立てたり経を読んだりして機械油を造らへて居る芸坪――この人の事は改めて書く機会が有らうが、も一人可笑しいのは襯衣屋のK君である。最初旅で一緒に成つて年始状を呉れ始め、軈(やが)て旅行の度毎に便りを呉れるやうに成つた。其の襯衣と云ふのが普通の物では無くて、白の無地に限ると云ふ、而も自家独特の職人を八釜しく監督して、私も買つた事が有るが、切地は勿論、裏も表も分らぬ様な至極念入りに仕立てた上物で、彼に言はせると、色物や柄物は仕立のぞんざいなのが目に立たないからいけないと云ふのである。洒落た店を下町の盛り場に構へて、酷く高い襯衣を売つて居たが、私はよく此の二人の事を考へて、自分なぞは何と云ふ胡麻かしの生活をして居るのだらうと独りで苦笑した者である。」



「山陰両日」より:

「樫郎と私とは中学時代からの親しい友達であつた。中途から其の学校に這入つた私は、成績の良い、殊に語学の力のずば抜けた学生として先づ彼を知つたが、それよりも又彼の画が素晴らしく巧いのに驚いた。彼ははにかみ屋で無口で、いつも少し怒つた様に沈鬱な顔をして居た。(中略)私は彼がそろそろ数学や其の他二三の学科を怠け始めた頃から親しくなつた。その後彼は美術学校で西洋画をやつて居たのを急に止めて、英文学をやり始めた。学校をやめると言ひ出した時、私はなぜ止めるのかと聞いたら、彼は笑ひながら画家では飯が食へないからといつた。食へなきや死ねば好いぢや無いかと私は乱暴なことをいつた。それにはいろいろ訳もあつた事だが、兎に角、画の方をやめて語学の教師で口を餬(のり)して行く事は、正直で情熱的で藝術を愛する彼に取つて痛ましい事だと思つた。」


「愚人」より:

「物貰ひでは無いと母が云つた通り、庄さんは銭を乞ふ事をしなかつた様である。只あしたは何処そこの廿五座で御座いとか卅五座で御座いとかいつて、神楽の前触れをして歩く。それも大通りの或る限られた古い店、大きな店だけで有つたらしい。すると其の店々では何某(なにがし)かの銭を庄さんに与へる。然し礼もいはずにすつと帰る、まことに徳な物の貰ひ方であつた。思ふに利口者のお嫌ひな神様は、神楽の好きな庄さんを憫んで、斯うした割の良い株をお授け下すつたのであらう。

 その頃同じ町に、もう一人の漂浪者(さすらひもの)が居た。これは庄さんよりはぐんと若い、子供達にからかはれると、直ぐわあと泣き出すので、勘吉とか勘太郎とか云ふ名であつたらうが、人々は「お泣きの勘こ」と云つて居た。庄さんが真面目くさつた顔をした爺さんであるのに対して、これは優しい顔の子供々々した男であつた。(中略)少し憂ひの利き過ぎた顔で、何時も笑つた様な泣き顔をして居るのである。
 相当に暮らして居た家の子で有つたのが、家の人も死に絶えて身寄りも無く、あちこち漂流(さすら)ふ中に子供達にいぢめられ調戯(からか)はれ、恐しい泣虫の子なので、直ぐわあと泣き出す。もともと少し愚かしかつたのが、それで段々あゝ成つたのだと年寄達は話して居た。」


































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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