湯浅泰雄 『ユングとキリスト教』 (講談社学術文庫)

「ユングのえがく精神史は、いわば死者たちの鎮魂のための精神史である。歴史の舞台には、勝利者があれば必ず敗北者がある。光の精神史の裏面には影の精神史がある。ユングは、栄光の歴史の影に怨みをのんで消えて行った無数の死者たちの鎮魂のために、その精神史を書いたのである。」
(湯浅泰雄 『ユングとキリスト教』 より)


湯浅泰雄 
『ユングとキリスト教』
 
講談社学術文庫 1247 

講談社
1996年9月10日 第1刷発行
386p
文庫判 並装 カバー
装幀/カバーデザイン: 蟹江征治


「本書は一九七八年三月、人文書院から刊行されました。」



「学術文庫版のためのはしがき」より:

「二十年前は、ユングの名前が一般に広まり始めたころであるが、彼の理論や研究内容はまだそれほど詳しく知られていなかった。このため、旧著の序論ではユング心理学の基本についての解説を書いたのであるが、(中略)今では不要と思われるところも多い。そういう部分は削除したが、この序論は純粋な心理学的関心から書いたものではなく、ユング心理学が宗教経験の世界に至る通路の役割を果すことができるという観点から書いたものであった。そこでこのような趣旨にそって改訂を加えた。」
「第一章以下の本論の部分はほとんど旧著のままである。」



本文中図13点(概念図12点、図版1点)。


湯浅泰雄 ユングとキリスト教 01


カバー裏文:

「精神医学者として著名なユングはすぐれた思想家でもあった。中心的課題を西洋精神の本質の追究におく彼は手懸りをキリスト教精神史に求め、原始キリスト教の成立過程、グノーシス主義の影響等を深層心理学的見地から再検討し、従来看過されてきた重大な問題点を見出した。ユングの思索を追うことにより、キリスト教における正統信仰確立過程で切り捨てられてきた影の領域の復権を迫る意欲的論考。」


目次:

学術文庫版のためのはしがき

序論 ユング心理学と宗教経験の世界
 一 ユングにおける体験と思想形成
  ユングの生涯と見神体験
  思想家としてのユング
 二 深層心理学のキリスト教批判
  近代化とキリスト教
  ニーチェ
  フロイト
  フロム対ウェーバー
 三 内なるたましいの世界へ
  フロイト批判
  宗教経験についての見方
  内向性と外向性
  心の四機能と身体
  集合的無意識
  元型と霊性の領域
  超常現象の問題

第一章 原始キリスト教
 一 予言者思想の崩壊
  『ヨブへの答え』
  義人の苦悩についての従来の解釈
  神の二重性格とサタンの役割
  旧約における神人関係とその変貌
 二 ヘレニズムとヘブライズムの間
  オリエント神話とヨブ記
  智恵と聖霊と女性的原理
  黙示と人の子
 三 新約的人間観の問題点
  ソフィアとロゴス
  聖霊の受肉
  童貞聖母
  ヨハネの黙示
  現代キリスト教への提言

第二章 グノーシス主義
 一 キリスト教とグノーシス主義
  『アイオーン』
  グノーシス主義とは何か
  グノーシス研究の問題点
 二 グノーシス的宇宙観と人間観
  グノーシス神話の宇宙観
  キリスト教の三重身と人間性
  グノーシス体験における深層心理的心像
  両性具有の理念
  近親相姦タブーの克服
 三 キリスト教教義の深層心理学的考察
  善の欠如としての悪
  無からの創造

第三章 正統と異端
 一 三位一体論の形成
  ニケーア公会議
  三位一体論の問題点
  バビロン神話とエジプト神話
  『ティマイオス』の宇宙論
 二 三位一体論における神性と人間性
  東方教会のキリスト論
  聖母崇拝
  第四者としてのエロスと悪魔
  三位一体論と錬金術
 三 正統と異端の分岐点
  正統信仰の確立
  アウグスチヌスの三位一体論と深層心理学

結び 西洋精神史の光と影
  メタ・フィジカとメタ・プシキカ
  近代精神の栄光と悲惨
  鎮魂の精神史

原著あとがき

解説 (関根清三)



湯浅泰雄 ユングとキリスト教 02



◆本書より◆


「序論」より:

「いずれにせよ夢は、無意識が魂の内から意識に向って発するメッセージであり、また指示であるという一面をもっているのである。もし意識が無意識を手なずけることができれば、その警告のはたらきは正しく作用するのだが、逆に意識が無意識の力を無視し、あるいは抑圧するならば、その力は反抗し、意識をゆがめる方向へと作用する。人間の心は意識と無意識の両者が合して一つの全体を成しているものであるが、発生的にみれば無意識の方がより本源的なものであり、意識はそこから立ち現われてきたものである。その意味で、無意識は元来意識の支配から独立した自律性 autonomy をもつものなのであって、意識の自由になるものではない。そういう無意識の自律性や補償機能を考えれば、古来、世界の諸宗教が夢を神聖視してきた理由もおのずから明らかになるであろう。」

「一般的にいえば、フロイトは精神病理的現象を日常的な常識の健全さ、いわゆる「正気」から外れた「狂気」であり、したがって病者に正気をとり戻させることが治療であるとみなしている。ユングはこれに対して、そういう常識的な見方はさしあたりの臨床的治療目標にすぎず、日常的常識を人間の本性に対する判断の究極の尺度とすることはできないと考える。」
「近代以前の世界では、「狂」は神的次元に通ずるものとして一種の畏れをもってみられていた。日本の能楽における「物狂ひ」や「神がかり」はその好例であろう。理性を重んじる近代人はそういう異常さを好まない。近代人は狂者を社会の外に隔離すると共に、天才のもつ異常さをも否定する。たとえば、予言者エレミヤが異常な心理的素質をもったエクスタティカー(突然に恍惚(エクスタシー)におちいる人)であったことや、パウロのダマスクにおける幻覚体験が彼の生来の心理的素質にもとづくことは承認せざるえを得ないが、すぐつづけて「それにもかかわらず、彼らの偉大さはそういう点にあるのではなくて、彼らが抱いた思想の中に存する」と言いたがるのである。ユングは、そういう近代的知性による合理化ほど宗教経験の本質を誤解させるものはないという。われわれにとって必要なことは、天才の体験を凡人の日常的知性のレベルに引き下して論理のつじつまを合せることではなくて、彼らの体験の“異常さ”を率直に異常なものと認めた上で、その体験の底にあるメカニズムについて、言いかえれば人間の魂の奥底に隠れている謎について探究してゆくところにある。(中略)ここでの重大な問題はエレミヤやパウロの「体験」のもつ人間的普遍性とその意味について問うことなのである。」

「ユングの批判者たちは、心理現象というものはそもそも主観的なものであって客観的実在性 objective reality を有しないものだと考えている。しかしそういう見解は、物理的現実だけを客観的とみる近代科学の合理主義と基本的に変りがない。ユングにとって、心理現象は物理的現実と同じように――ただしそれとは異質の存在様式をもつものとして――客観的実在性をもつ現象なのである。「私の世界像においては、広大な外的領域と共に、それと同じように広大な内的領域があり、人間はこの両者の中間に立っている」と彼は言っている。(中略)無意識の世界は元来、自我の外に見出される外界と全く同じように、私の自我には属さない領域なのである。(中略)現代人は心というものの自我に対する自律性を認めようとしない。だから彼らは、宗教的なヌミノーゼ体験を脳の異常による幻覚のようなもの、つまり「客観的実体のない」幻影にすぎないと考えるのである。ユングは、人間の魂は一種の微細でとらえ難い物体 subtle body と考えた方がよいと言っている。」

「ユングの理論的功績は、内向性が正常なタイプであることを明らかにした点にある。西洋人、特に近代の西洋人の通念では、内向型の人間は環境に適応できない異常な人間であるとみなされる傾向がある。社交性に欠けた内気さは精神的に不健康な一種の病的状態であると思われやすい。(中略)しかしユングは、病的傾向はどちらのタイプからも起り得ると主張する。自閉的で内向的な神経症が青年期に多く見られることは事実であるが、逆のタイプの神経症、すなわち外向的になりすぎていわば適応過剰におちいることから起る神経症もあるのである。念のため注意しておけば、ユングはここで、人格形成の問題と神経症の発生の問題を理論的に区別して考えている。
 内向性に対して正当な評価を与えたことは、ユングが神秘的な内的体験の世界を経験していたことによるものであろうが、今一つ、東洋思想との接触もあずかっているようである。ユングは、東洋の精神は内向的見地 introverted view に立ち、西洋の精神は外向的見地 extraverted view に立っているという。西洋では内向型は異常とみなされるが、東洋の精神的伝統(たとえば仏教)では逆に、外界の現実にとらわれるのは「諸行(サンサーラ)」や「因縁(ニダーナ)」に執着する妄想であるとみなされている。西洋文明は外界に達成すべき目的と理想を見出すことに長じているが、東洋文明にみられるような内面的人間への神秘的関係を見失ないがちである、とも言っている。」

「彼はフロイトやアドラーがとり上げた無意識を個人的無意識 personal unconsciousness と名づけ、それよりもさらに深層にある無意識領域、すなわち個体の記憶領域をこえた先天的な魂の領域を設定し、これを集合的無意識collective unconsciousness と名づける。ユングの言うところによれば、集合的無意識は、世代を通じて継承され、形成されてきた心的前提条件の独特な構造を意味する。人間の心の構造は、身体の構造と同じように系統発生の原則に従って形成されるものであり、個体の構造の中にはそれまでに経過してきた諸世代の特徴がそなわっている筈である。つまり集合的無意識とは、人類が人間生活の端緒以来、幾万幾億の人間によって漸次に、全体的に獲得した無意識の深層構造である。それはそのもの自体としては意識されることなしに、世代から世代へと受けつがれてきた一般的精神状態の広汎な基盤であって、われわれの個人的で意識的な魂はその上に存立しているのである。その意味で集合的無意識は人類発展の巨大な精神的遺産であり、一切の文化の相違の彼岸にある人類に共通な実体であると言ってよいものである。」

「死に直面するときには、現世で獲得された社会的諸価値(職業、仕事、財産……)は何の意味もない。外の世界に人生の意味を見出そうとするかぎり、われわれはひそかに内から忍び寄る虚無の力に眼をふさいで生きてゆく外はない。これに対して自己の内に向って人生の意味を問うてゆくということは、結局は、個体としての自己の生をこえてある魂の領域について目をひらいてゆくことを意味する。ユングが集合的無意識の理論を通じて問おうとしたのは、このような哲学的・宗教的問題なのである。」
「われわれの自我意識は無意識領域、特に集合的無意識の力を馴化(じゅんか)し統合することによって、真に価値あるものを手に入れることができる。ユングは集合的無意識の世界を探究し、支配してゆく心のはたらきを超越的機能 transcendent function と名づける。それは人間性の深い本質 essential man を開示し、個体の魂の中に胎児的萌芽状態で潜在しているパーソナリティの諸可能性を、そのすべての様相において実現することを目指すものである。言いかえれば超越的機能は、魂の奥底にかくれた本源的潜在的な全体を形成し、展開してゆく作用である。ユングは、超越的機能によって意識が集合的無意識と統合されてゆく過程を「個性化」 individuation と名づける。これには次の二つの意味がある。個性化はまず、個体の先天的素質の中に潜在する可能性を全面的に実現し、展開してゆくことである。その意味においてそれは、彼の個性に花を開かせてゆくことであると言ってもいい。もうひとつ大事なことは、個性化の過程を通じて意識が集合的無意識の深い核心的部分と交流し、それと「不可分」 in-dividual になってゆくということである。つまり「個性化」は「不可分化」を達成することによって可能になるのである。(中略)それはニーチェのいう「運命への愛」 amor fati の生き方である。」

「集合的無意識は一種の「自然」 Natur なのである。「自然」はすべてを包んでおり、したがって未知なるものをその内に含んでいる。それは真と偽をこえており、意識の干渉からは独立している。したがってそれは、意図その他の自我の態度とは一致しない形ではたらくのである。このように考えられるとすれば、集合的無意識は、物質をも含めた「自然」そのものがわれわれにとって未知であるという限りにおいて、「自然」と同一視できるであろう。集合的無意識は、たましいの“動物的”あるいは本能的レベルにおける意識以前の事柄である。たましいが表現することは、事物の自然のあらわれなのであって、人間はその一部分であるにすぎない。」



「第一章」より:

「ユングは、人間的尺度から判断した場合、ヤハウェのパーソナリティがいかに不愉快で非人間的なものであるかということを力説している。ヤハウェはいつも人からほめられることをのみ求める。それでいて他人の道徳的欠点にはきわめて敏感であり、すぐに妬み・憎しみ・怒りをもって非難攻撃する。さらにサタンの誘いに乗ってヨブに疑いを抱き、義人の心の奥底にひそんでいるかもしれない潜在的不信感をきびしくあばき出そうとする。そして、あなたは約束を破ったではないかという抗議に対しては、私は偉大な力の持主である、とひらき直って服従をしいる。(中略)しかしながら、そのような不快で非人間的な本性は、さしあたり無意識領域におけるわれわれ自身の姿なのである。ヤハウェのパーソナリティは、深層に隠れたくらい「影」の情念の領域を開き示している。行いの上で完全な義人ヨブでさえも、サタンが最初に言ったように、理由もなく神を崇めていたわけではなかった。自己が苦境におかれたとき、ヨブは神をはげしく非難したのである。このことは、深層心理学的観点に立って人間の本性を観察するかぎり、善人と悪人の本質的差別は立て得ないということを意味する。言行の上でいかに道徳的に完全な人間であろうとも、その心の奥に、他者に対する抑圧された憎しみ・怒り・妬み・怨恨の一片がひそんでいないとは言えないのである。聖なるヌミノーゼの領域に近づくには、われわれはまずそのような矛盾にみちた、ニーチェのいう激情と背徳の毒気にみちたくらい影の洞窟へと降りてゆかねばならない。」

「人間の魂の最も深い部分には聖なる光を求める本性が必ず隠れている。無意識領域に深く潜在するその力は意識面にまで流出しようとするが、そこにはたえずそれを妨げる影の力がはたらく。意識による抑制は影の力を逆に強化する。力の相剋が高まってゆくとき、無意識領域の力は爆発して魂を相反する両極に引き裂き、解決不可能な葛藤状態におとし入れる。心理治療の目的はこのような相反する力を統合にもたらし、反対物の対決 confrontation of opposites から反対物の統一 conjunction of opposites へと魂を向けかえてゆくこと、いわば光の力と闇の力を分裂から統一へと向わせてゆくところにある。」



「第二章」より:

「グノーシス主義の流れは西洋精神史の異端的底層流の出発点をなすものであり、その後も長く西洋精神史の影の部分を形成してゆくのであるが、精神史の全体像も人間性の全体像も、そういう裏面の流れをとらえることによってはじめて正しく理解されるであろう。要するにユングの基本的態度は、グノーシス体験の意味を深層心理学的観点から解明することを通じて、西洋精神史の全体像に対する伝統的見方に対して根本的な反省を加えようとするところにあるのである。」

「グノーシス神話において、十字架の苦難に当ってキリストがその肉体を去ってアイオーン界へ帰ったとされていることは、深層心理学的に解釈すれば、無意識領域の諸力が自覚にもたらされ、自我がそれを統御することによってそれらの力の衝動的支配から脱し、完全な本来的自己性へと近づいてゆくことを意味するのである。」

「グノーシス主義には多くの分派があるが、ユングが特に注意しているのは、オフィス派の分派で小アジアのフリギア地方で栄えたナース派 the Naassenes という一派の伝承である。(中略)この派の人びとは蛇を聖獣として崇拝していた。」

「神話の世界では蛇はしばしば水に縁あるものとされ、水棲の怪獣(龍、レヴィアタンなど)とも連想される。「蛇は暗黒なもの、測り得ないもの、水のような深み、密林、夜、洞窟をあらわし、人格化する。原始人が“蛇”と言うとき、それは超人間的な何事かについての経験を意味している」とユングは言う。このように蛇は日常的経験をこえた次元を指示するところから、古代神話の世界ではしばしば聖獣とみなされた。(中略)グノーシス主義者はキリストと蛇の類比を特に愛好し、蛇を守護霊(アガトダイモン)の象徴とみなし、また天上的叡智としてのヌースをあらわすものと解した。蛇が気味わるさと同時に神秘な智恵を象徴するということは、明らかに神秘的瞑想のエクスタシーを通して与えられる霊感的心像を示唆している。
 このような体験は、深層心理学や精神病理学の知見に即してある程度その内容を推定できるであろう。心理治療や夢分析では、深層意識の領域に入ってゆくにつれて、怪異な動物の形が現われたり、日常経験の様式とは全くちがった奇妙な経験があらわれてくる。そういう暗黒領域を突きぬけてゆくときに、霊的な啓示と新しい光の世界が近づいてくる。ユングの言うところでは、動物の形が温血動物から冷血動物へ、さらに無脊椎動物へと変るにつれて、より深い無意識層に入ったことを示すという。
 ユングはまた、蛇と魚は深層心理的にみて等価のシンボルであると言う。魚は知られざる大海の深淵から浮び上ってくるものであるから、暗黒領域の彼方にかくれたメッセージをもたらす蛇と同じ役割を果す。(中略)要するに蛇や魚は、無意識の「影」の領域を通じて啓示される神秘的智恵の象徴である。それらがキリストと同一視されたのは、前にのべたようにキリストが人間の中にひそむ本来の全体性・完全性の象徴だからである。つまり人間は影の領域をこえてそういう霊的ヌミノーゼ体験を得ることによって、肉体をもって地上に生きる不完全で非本来的な霊肉対立的人間の状態を超えて、本来の自己性と合した霊肉一体的人間の状態に至り得るのである。」

「グノーシス神話は世界の形成を男性的存在と女性的存在の分離と流出から説明しているが、ここには彼ら独特の考え方がある。それは男性と女性が分離し、天と地が分れ、霊的世界から分離された物質的世界が形成されたことそれ自体が、現世の不完全さと悪の発生の根本原因であるとする世界観である。いわゆる反現世的二元論の考え方である。したがって理想の状態は男性と女性、天上と大地、霊の世界と肉の世界が分離する以前の太初にかえることでなくてはなくてはならない。グノーシス主義の理想とする完全人が一種の両性具有的存在とみなされているのはそのためである。完全な人間は「原人(アントローポス)」「高いアダム」「アダマス」(ギリシア語でダイアモンドの意味)「王なき種族」(何ものの支配も受けない人間の意味)などさまざまの表現でよばれているが、最もひろく用いられている言葉は「ヘルマフロディテ」(ヘルメスとアフロディテの合体)である。」
「グノーシス主義者が理想とするヘルマフロディテ的人間は、男性と女性、天上と大地が分化する以前の太初に復帰した人間である。彼らは「人の子」としてのキリストを、このような完全人の理念の具体化とみなしている。ヒッポリュトスの紹介するところによると、アラビアのグノーシス主義者モノイモスは、「人の子」を「モナド」とよぶ。それは、ナース派でいう「不可分なる一点」(中略)と同じシンボルである。」
「キリストはここでは、一切のものがそこから流出し、一切のものがそこにおいて統一される究極の原点を象徴している。そこには、互いに矛盾する無数の対立抗争が含まれているにもかかわらず、それらは完全な「一」につつまれて調和している。ユングはこの状態を、深層意識の究極からひらけてくる魂の全体像の中心としての人間本来の自己性と解釈する。人間の魂はそのような本来の自己性と合一するときに、はじめて完全な人格となるのである。」

「道徳は日常的経験の場に基礎をおく自我意識に支えられて成立つものであるが、宗教経験の世界はそういう「意識」の論理をこえた地点から始まる。無意識領域には、人間の意志の支配をこえた自律的な力が作用している。それは人間の本性において、「霊」の領域から来る力が「肉」と不可分に結合していることの結果である。ここでわれわれが為すべきことは、むしろ道徳的意識の要求をしばらく撤回して、心の深層領域からひらけてくるそのような力のあり方をありのままに体験し、認識してゆくことである。そこには悪魔的な力も神的な力も共に否定しえないものとして存在している。霊的認識としてのグノーシスはそういう内なる世界の探求なのである。」














































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本