エレーヌ・ペイゲルス 『ナグ・ハマディ写本』 荒井献・湯本和子 訳

「「多数者」――蒙を啓かれていない者ども――が、家庭生活や性的関係や事業や政治や日常の仕事や余暇のなかに充足を見いだし得ると信じているならば、グノーシス主義者はこのような信念を幻想として退けた。若干のラディカルな者は、性別や金銭に関わるあらゆる業を拒否した。」
(エレーヌ・ペイゲルス 『ナグ・ハマディ写本』 より)


エレーヌ・ペイゲルス 
『ナグ・ハマディ写本
― 初期キリスト教の正統と異端』 
荒井献・湯本和子 訳
《新装復刊》


白水社 
1996年6月10日 印刷
1996年6月25日 発行
305p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,200円(本体3,107円)
装幀: 菊地信義



本書「訳者あとがき」(荒井献)より:

「本書は Elaine Pagels, The Gnostic Gospels, New York, 1979; London, 1980 の邦訳である。原題は直訳すれば、『グノーシス諸福音書』となる。しかし本書の叙述対象は、グノーシス主義の立場から著わされた「福音書」に限定されてはおらず、これらの「福音書」を含む、いわゆるナグ・ハマディ写本の大半にわたっているので、本訳書の表題は『ナグ・ハマディ写本』とした。ただし本書の内容は、写本の単なる翻訳でもその概説でもない。本書の特徴はむしろ、キリスト教史上最初・最大の「異端」といわれるグノーシス主義に関する新史料としてのナグ・ハマディ写本を踏まえて、このいわゆる「異端」と、これを排除した正統キリスト教(初期カトリシズム)との相剋の歴史を、新しく書き直したことにある。これが、本訳書に「初期キリスト教の正統と異端」という副題を付した所以である。」
「本書全体は、湯本和子さんがまず邦訳した。これを筆者が専門の立場から全面的に校閲し、かなりの部分に手を入れ、(中略)本書の決定稿を作製した。訳注はすべて筆者が付加したものである。」



邦訳初版は1982年刊。


ペイゲルス ナグハマディ写本


帯文:

「白水社
名著リクエスト復刊
死海写本と併せて、今世紀最大の考古学上の成果といわれる本写本の発見経過とその意義を、気鋭の女流学者が劇的に解明する。」



目次:

謝辞

序章
第一章 キリストの復活に関する論争――史実か象徴か
第二章 「唯一の神、唯一の司教」――唯一神教の政策
第三章 父なる神、母なる神
第四章 キリストの受難とキリスト教徒の迫害
第五章 どの教会が「真の教会」か
第六章 グノーシス――神認識としての自己認識
結論



訳者あとがき (荒井献)




◆本書より◆


「第二章」より:

「ヴァレンティノスが提示する秘教の伝授によって、入会志願者は、創造主の権威と、そのすべての要求を愚かなものとして拒否することを学ぶのである。グノーシス主義者が知ることは、創造主が自らの無知から、誤って主権を主張している(中略)ことである。グノーシスを達成することは、神的力の真の源泉、すなわち、すべての存在の「深み」を認識するようになることを含意する。この源泉を知るようになった者はだれでも、同時に自己を知るようになり、自分の霊的起源を発見する。すなわち彼は、自分の真の「父」と「母」を知るようになったのである。
 このグノーシス――この覚知――に達する者はだれでも、贖い(アポリュトローシス――文字通りには「解放」)と呼ばれる秘密の典礼を受けることができる。入会志願者は、グノーシスを獲得する以前には、デーミウールゴスをほんとうの神と誤って礼拝していた。ところが今や、入会志願者は贖いの典礼によりデーミウールゴスの力から解放されたことを表明する。彼はこの典礼において、デーミウールゴスに対して独立を宣し、もはやデーミウールゴスの支配する権威と審判の領域にではなく、それを超越するものに属することを告げるのである。」



「第三章」より:

「ヴァレンティノス派のようなグノーシス集団では、女性は男性と同等と考えられていた。ある者は預言者として崇められ、他の者は教師、巡回伝道者、治療者、司祭として、たぶん司教としてさえ行動していたのである。(中略)しかし、二〇〇年以後、正統的教会の間で女性が預言者や司祭や司教の役割を担った証拠を、われわれは持ち合わせていないのである。
 このことは、キリスト教運動が最初期には女性に対して驚くばかり開かれていたことを考慮に入れると、異常な展開と言えるであろう。イエス自身、公然と女性と語ることによって、ユダヤ教の慣習を犯し、こうして彼は女性をその仲間に入れたのである。(中略)ウェイン・ミークス教授は、キリスト教の入信儀礼において儀礼執行者が、「キリストにあって……男も女もない」と告知したことを示唆している。」
「初期にはキリスト教徒の男女は礼拝の席を共にしたが、二世紀中葉――まさにグノーシス派キリスト教徒との闘いの時代――には、正統派教会は、女性を男性から差別するユダヤ教会堂の慣習を受容し始めていた。二世紀末には、女性の礼拝への参与は、はっきりと非難されている。女性が指導者であり続けた集団は、異端の烙印を押されたのである。」



「第六章」より:

「グノーシス派の若干のキリスト教徒は、人間が神を創造した、――こうして人間自身の内的可能性によって自ら真理の啓示を発見した、と主張するところまで行った。」

「ラディカルなグノーシス主義者のように自らの心の方向づけを捜し求める若干の者は、宗教的諸制度を彼らの探求過程に対する障害として拒否する。ヴァレンティノス派のような他のグノーシス主義者たちはこれらの制度に自発的に参加するが、教会を不可欠の「救済の箱舟」というよりは、むしろ自己発見の手段とみなしている。」

「このようなグノーシス主義者たちは、グノーシスを追求することが各人を、(中略)孤独に追いやり、困難な過程に従事させることになることを認めていた。」

「グノーシスに達した者は、だれでも「もはやキリスト教徒ではなくて、一人のキリスト」になるのである。
 とすればわれわれは、このようなグノーシス主義が正統派キリスト教に対する一つの抗議運動以上のものであったことを理解できる。グノーシス主義は、初期カトリック教会になったあの種の制度の発展に潜在的に反対する宗教的展望をも包含していた。自ら「キリストになる」ことを期待した者は、教会の制度上の組織(中略)を、絶対的な権威を担うものとして認めることはまずなかったのである。」
「多くのグノーシス主義者は、多くの芸術家のように、普遍的な真理――「われわれは誰であるのか。われわれはどこから来たのか。われわれはどこに行くのか」――を理解する鍵として、内的自己認識を求めるのである。『闘技者トマスの書』によれば、「自己を知らなかった者は、だれでも何も知らなかった。しかし自己を知った者は、同時にすでに万物の深みに関する知識に達したのである」。
 人間の経験を探求する者はだれでも同時に神的実在を発見するというこの確信は、グノーシス主義をすぐれて宗教的な運動として特徴づける要素の一つである。ヒッポリュトスの報告によれば、魔術師シモンは、いかなる人間存在も一つの住みかであり、「そのなかに一つの無限の力、……宇宙の根が住んでいる」と主張した。しかし、この無限の力は二つの様態で、一つは現実的に、もう一つは潜在的に存在しているので、その結果、この無限の力は、「あらゆる人々に潜在的な状態で存在する」が、それは「現実にではなく、可能性として」である。
 人はこの可能性をいかにして認識することができるのであろうか。これまで引用してきたグノーシス資料の多くは、弟子たちを認識の探求に向かわせる警句を含んではいるが、誰かに探求の方法を告げることは差し控えている。それを自分自身で発見することが、明らかに自己認識への第一歩なのである。こうして、『トマス福音書』で弟子たちがイエスに、何をなすべきかを彼らに教えてほしいと願い出る。

  彼の弟子たちが彼に尋ねて言った、「あなたは、私たちが断食することを欲しますか。そして、私たちはどのように祈り、どのように施し物を与えるべきでしょうか。どのような食事規定を私たちは守るべきでしょうか」。イエスが言った、「嘘をついてはならない。またあなたがたが憎むことをしてはならない。……」

イエスの皮肉な答えは、彼らを自分自身に立ち返らせる。――自分が嘘をついているとき、あるいは、何かを憎んでいるとき、自分以外の誰がその真偽を判断できるであろうか。」

「『アロゲネス』(「異邦人」を意味し、文字通りには「他部族出身者」)と呼ばれる、もう一つの異常な文書は、この世に対して「異邦人」となる霊的に成熟した人間に関わるものであるが、この文書も、グノーシスに達する諸段階について記述している。」
「他の多くのグノーシス資料とは対照的に、『アロゲネス』は、第一に、人は「内なる善きもの」を知るようになり得、第二に、自己と「内に存在する者」を知るようになり得るが、しかし、人は《知られざる神》の認識を得ることはできない、と教える。そのようなことをしようとする試み、把握し得ない者をとらえようとするいかなる試みも、「汝の内なる自然性」を妨げることになる。」



「結論」より:

「グノーシス主義者は本質的に単独なる道を歩んだ。『トマス福音書』によれば、イエスはこの単独なることを称えている。――「単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜなら、あなたがたは、御国を見いだすであろうから。なぜなら、あなたがたがそこから来て、そこに戻るからである。」
 このように単独なることは、直接的経験の優位性を主張するグノーシス主義者の立場に由来する。だれも他人に、行くべき道、なすべきこと、あるいは行なうべき方法を伝えることはできない。グノーシス主義者は、自分自身の道を見いだすまでは、他人の言った信仰を暫定的手段として以外には受けいれることはできなかった。「なぜなら」、グノーシスの教師ヘラクレオンが述べているように、「人々は最初他人によって救い主を信じるように導かれるが」、成熟すると、「彼らはもはやたんなる人間の証言には頼らないで」、その代わりに自らと「真理それ自体」との直接的関係を発見するからである。」
「このような成就に比べれば、他のことはすべて消えうせる。「多数者」――蒙を啓かれていない者ども――が、家庭生活や性的関係や事業や政治や日常の仕事や余暇のなかに充足を見いだし得ると信じているならば、グノーシス主義者はこのような信念を幻想として退けた。若干のラディカルな者は、性別や金銭に関わるあらゆる業を拒否した。」

「こうしてわれわれは、キリスト教の形成に際して、自己発見という単独なる道を明示した探求にたゆみなき人々と、大多数の人々に対して彼らの日常生活のために宗教的聖別と倫理的指針を授けた制度的枠組との間に、いかにして相剋が生じたかを見ることができる。正統派のキリスト教は、自己の目的を達成するために、ローマの政治的・軍事的組織をモデルとして採用し、四世紀には帝国の支援を得て、ますます強固に永続し得るものになった。グノーシス派のキリスト教は、正統派が大衆に広くアピールしたという点でも――この点はノックに言わしむれば、「普通の人間の必要と希求に無意識に合致したがゆえに完全」であった――、それが効率的な組織を持っていたという点でも、正統信仰の相手にはならないことが分かった。両者とも、それが時代を通じて存続することを確信していた。しかし正統派は、その成立過程において他のあらゆる選択を締め出した。キリスト教正統派の主たる推進力となったものに対してこれに代わるものを提示したグノーシス主義は、強引に追い出されてしまったが、このことはキリスト教の伝統を貧しいものにしたのである。
 グノーシス派キリスト教徒への関心は、地下に流し込まれた川のように、辛うじて抑圧された思潮として生き伸びた。このような思潮は、中世期を通じてさまざまな異端の形で再び表面に現われた。」

「ナグ・ハマディ文書の発見はこの過程に対する新しい展望をわれわれに提供する。そして、われわれはこれによって、あらゆる時代を通じて数人の創造的な人々が、ヴァレンティノスとヘラクレオンから、ブレイク、レンブラント、ドストエフスキー、トルストイやニーチェに至るまで、なにゆえに正統教会の境界に身を置いたか(引用者注: 原文は「why certain creative persons throughout the ages ( . . . ) found themselves at the edges of orthodoxy」)を理解することができる。こうしたすべての人々が、キリストの形姿(中略)に魅了された。彼らはすべて、絶えずキリスト教の象徴に立ち返って、自己の経験を表現したのである。それにもかかわらず、彼らは自ら正統教会の諸制度に反抗せざるを得なかった。今日、ますます多くの人々が彼らの経験に参与しつつある。彼らは、聖書と使徒たちと教会の権威のみに依存することはできない。」

「ムハンマド・アリーが、ナグ・ハマディにほど近い崖ぶちでパピルスで満たされた壷を砕き、その中に金を発見できずに失望したとき、彼は、この偶然の発見が意味するものを想像し得なかったであろう。それが一〇〇〇年以上前に発見されたならば、このグノーシス文書は、異端的教えのゆえに、ほぼ確実に焼却されていたであろう。しかし、それは二十世紀まで隠されたままであった。そして今世紀に、われわれ自身の文化的経験が、この文書の提起する諸問題に対する新しい展望をわれわれに与えたのである。」





































































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プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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