ノーマン・コーン 『魔女狩りの社会史 ― ヨーロッパの内なる悪霊』 山本通 訳

「彼女たちが特に目をつけられて疑いをかけられたのは、何らかの個人的な特性のためであった。マレフィキアの容疑をかけられた者の多くは、一人暮しの人、風変りな(エクセントリック)人、あるいは気むずかしい人であった。きわめてしばしば言及される特性のうちには、毒舌だとか、怒りっぽいこととか、すぐに人を脅しにかかることが含まれていた。しばしば、彼女たちは見てギョッとするような顔かたちをしていた――赤い眼をしていたり、斜視であったり、アバタのある肌をしていてみにくく、あるいは何らかの奇型であったり、また、年で腰や背中が曲っていたのであった。」
(ノーマン・コーン 『魔女狩りの社会史』 より)


ノーマン・コーン 
『魔女狩りの社会史
― ヨーロッパの内なる悪霊』 
山本通 訳


岩波書店
1983年7月18日 第1刷発行
xviii 364p 索引・書誌的註解46p
B6判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,800円



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Norman Cohn, Europe's Inner Demons, Paladin, 1976 の邦訳である。原題を直訳すれば『ヨーロッパの内なる悪霊』であるが、(中略)日本語版の標題を『魔女狩りの社会史』とし、原題を副題にした。初版は一九七五年に Sussex University Press 社から出版された。パラディン版には、Postscript: Psyco-historical speculations という小論文が補足されているが、これは原著者の希望にしたがって、邦訳においては削除した。」


本文二段組。本文中図版(モノクロ)6点。いちおうハードカバーだとおもうでありますが、表紙は薄めのタイプであります。
本書はのちに「岩波モダンクラシックス」版(1999年)が出ています。

わたしなどは変わり者ゆえに教師からはきらわれ同級生からはイジメられるタイプだったので、本書はたいへん身につまされました。中世・ルネサンスの変わり者は魔女としておおっぴらに火あぶりにされましたが、現代の変わり者は陰湿なからくりによって自殺あるいは狂気に至らしめられ、イジメは正当化されたり、なかったことにされてしまいます。人間社会がろくなものだったためしはないですが、それにしてもひどい話であります。


コーン 魔女狩りの社会史


帯文:

「魔女のすみかはどこだったのか?
それは人々の心の中に他ならない
西洋史の影の部分に新たな光を投ずる」


帯裏:

「魔女に関するステレオタイプは………古代に立ち戻って跡づけることができる特定の妄想に由来する。
(魔女狩りの)歴史を追求するうちに、人は思想史の境界を大きく超えて、迫害の社会学と社会心理学の深みにみちびかれる。
(「まえがき」より)」


カバーそで文:

「魔女狩りの社会史
魔女とはいったい何だったのだろうか。人肉嗜食、乱交の饗宴というおぞかしいイメージは、古代に始まるヨーロッパの異端糾問に繰返し登場する。それは民衆の想像力に深く根をおろした妄想であった。魔女の実在を前提とするかつてなされた議論は、多くの証言、記録を復元しつつ原史料へ遡る著者の努力によって砕かれる。数知れぬ迫害の記録に読み取れるものは、たえず反社会的な異分子を創り出さずにはおかぬ普遍的な力学の系譜である。幻想をてこにした大量殺戮のメカニズム、それは現代史にも幾多の傷跡を残したものに他ならない。」



目次:

パラディン版への序文
謝辞

第一章 古代における序幕
第二章 中世の異端の悪霊化(一)
第三章 中世の異端の悪霊化(二)
第四章 悪魔とその力にかんする見解の変化
第五章 テンプル騎士団の壊滅
第六章 実在しない魔女の社会
第七章 三つの偽造文書と、もう一つの誤った轍
第八章 一三〇〇年以前のマレフィキウム
第九章 魔術師から魔女へ(一)
第十章 魔術師から魔女へ(二)
第十一章 民衆の想像の中での夜の魔女
第十二章 魔女狩りの生成

図版解説
訳者あとがき
書誌的註解
索引



◆本書より◆


「パラディン版への序文」より:

「この本はヨーロッパの魔女狩りの諸起源の探究としてはじまった。終ってみると、この本は何かもっと幅広いものになった。一五、一六そして一七世紀にヨーロッパの多くの場所で存在していた魔女にかんするステレオタイプが、様々に異なった起源をもつ諸要素から成り立っており、それらの要素のいくつかが古代に立ち戻って跡づけることができる特定の妄想に由来するのだ、ということが本書で論じられる。その妄想の真髄は、大きな社会のただ中のどこかの場所に、大きな社会の存立を脅かすばかりでなく、まったく嫌悪すべき、文字どおり反人間的だと感じられる習慣にふけっている小さな秘められたもう一つの社会が存在する、ということであった。
 この妄想は文学的伝統の中で維持されるが、それは幾世紀にもわたって神学者たちの論争的な小冊子といろいろな修道士の歴史物語の中に跡づけることができる。(中略)数世紀を下ってくると、妄想は変化し、もっと複雑になる。それは幾つかの大規模な迫害において重要な役割を果した。(中略)魔女狩りの場合には、この妄想は、それをぬきにしては考えられなかったような広範な迫害を引き起した。その歴史を追求するうちに、人は思想史の境界を大きく超えて、迫害の社会学と社会心理学の深みにみちびかれる。
 我々がこの妄想と最初に出会うのは二世紀においてであるが、この時代には、異教徒のギリシア人とローマ人がローマ帝国内部の小さなキリスト教徒の共同社会にそれを押しつけた。これらの不運な人々は、赤ん坊や幼児が儀式として屠殺される集会と、これらの犠牲者の遺体が儀式としてむさぼり喰われる饗宴を催すとして非難された。彼等はまた、親と子のあいだの近親相姦を含むあらゆる形の性交が自由に行われる性愛のオルギーを催すと非難され、獣の形をした奇怪な神格を崇拝するとも非難された。
 中世のキリスト教世界においては数多くのカトリック教会反対グループ、すなわち異端的諸セクトが、原始キリスト教徒が非難されたのと同じような行いをしていると非難された――それに加えて彼等は、十字架に唾を吐き、踏みつけるというような、また、何らかの多かれ少なかれみだらなやり方で形に現わして行われる魔王崇拝というような瀆神的な行為をしている、と非難された。そのように非難されたカトリック教会反対者たちが、一般的に想定されてきたように主として異国的で非キリスト教的なカタリ派だったのではなく、逆にワルド派とフラティチェリ派という誠実にキリスト教徒たらんとしたグループだった、ということを発見して、私は驚いた。五、六世紀ものあいだ、ある程度まで彼等につきまとっていたそしりを晴らすことが、史実の再検討によって、すべての事例において可能だということがわかった。まさに同様な非難がフランス国王フィリップ美王によってテンプル騎士修道会の壊滅を果すために援用された。この事件においても非難が事実無根だということを、私は示す。
 本書の後半部分では、この昔からの伝統がヨーロッパの魔女狩りにどのように寄与していたか、が示される。大迫害は一六、一七世紀にだけ最高潮に達した。(中略)この本は一五世紀中葉より新しい時代の史実にはほとんど言及していないが、私の目的にとってはそれで充分なのだ。私の見るところでは、魔女狩りが大量虐殺の様相を呈するためには、二つの条件が必要であった。すなわち、その地域の権力者たちが魔女の集会(サバト)の実在を信じなければならず、また拷問の利用を許容する裁判手続を彼等が自由に行使できなければならなかったのだ。どちらの条件も共に一五世紀の中葉までには、ヨーロッパの幾つかの場所で存在していた。」
「では、何が魔女集会のステレオタイプを生み出して、魔女狩りを始めさせたのだろうか。本書の最後の四章で少し詳しく叙述されるその経過は、次のように要約される。
 中世後期において、儀礼的魔術は上流階級のあいだで人気を博していた。そして一三世紀の中葉以降、歴代の教皇はそれを異端の一形態として非難した。一四世紀には、罪状の中心に悪霊の呼び出しを置いた最初の異端審問が見られる。これらのうち幾つかは、教会と国家の大物を巻き込んだ政治的裁判でもあった。(中略)しかし、魔女狩りに向けての最初の大きな一歩は、悪霊との直接の交際という咎(とがめ)が個人に対してばかりではなく集団に対して向けられるようになった時に、踏み出されたのである。」

「私の前作『千年王国の追求]をよく読む機会を得られた読者の方々は、それと本書との何らかの関連に気づかれるかもしれない。両者は同規模の構想であり、大体同じ歴史的時期にわたり、ともに、ヨーロッパ史の裏面を扱っている。二つの著書は実際に互いに補足し合っている。『千年王国の追求』において描かれた千年王国の幻想が社会の落ちこぼれ――定職を持たない知識人、知識人くずれ、土地を持たない根無し草的な農民たち、都市住民のなかの極貧の最も絶望的な分子――のあいだで華々しく展開したのに対し、本書で研究される妄想は、今なら指導的階級(エスタブリシュメント)と呼ばれるだろう社会階層にぴったり適合したものだった。修道僧、司教と教皇、国王、大貴族、正統的神学者、審問官と治安判事――これらの人々はこの特異な伝統を伝えてきた。」
「『千年王国の追求』(中略)と『魔女狩りの社会史』はもっと深い意味においても関連している。根本において、両者は同一の現象――堕落をもたらした張本人、あるいはまた悪の権化として想像されたある種の人間たちを絶滅することによって、この世を浄めようとする衝動――と関係している。社会的な意味関連(コンテクスト)は相異るが、衝動そのものは疑いもなく同一である。さらに大切なことには、今でも我々はそういう衝動を抱きつづけているのである。」



「第三章」より:

「我々は、カタリ派の本当の信仰に関する信頼できる情報を持っている――その中には、カタリ派の人々の著作が数点含まれている。他の二元論者たちと同じように、彼等は、物質的な宇宙が邪悪な精霊――実際には悪魔――によって創造され、それが今でも物質界を支配している、と信じた。だが悪魔崇拝とは大ちがいで、彼等は悪魔の魔手からのがれようと必死であったのだ。そのような熱望こそが、彼等の信仰の核心であった。魂は悪魔によってではなく、神によって創造されたからである。実際、カタリ派の見解では、魂は天国から落ちてきた天使たちなのであった。天使たちは次から次へと一つ一つの肉体の中に閉じ込められたので、物質界からのがれ出て、浄らかな霊性の天国に再び入りたいと、あこがれ望んでいたのである。カタリ派の完徳者(ペルフェクティ)の道徳性――結婚に対する非難、生殖に対する恐怖、菜食主義と断食――は、悪魔によって創造されたと考えられた物質界に対する全面的な拒否の態度を反映している。肉体と妥協すること、事物の世界を受け容れること――それは、みずからを悪魔の召使いとして実現することであった。そして、悪魔の召使いであるということは、救済され得ないということに他ならなかったのである。
 したがって、一二、一三世紀においてさえ、悪魔崇拝のセクトの物語がカタリ派の中に実際に存在していた何かを反映していたのだ、と考える理由は全然ない。おまけに、一五世紀においては、カタリ派が絶滅させられたずっとあとなのに、あの聖書研究を行うキリスト教徒のワルド派の人々が、依然として「悪魔派(ルシフェランズ)」として迫害されていたのである。」



「第八章」より:

「現代の「原始的社会」で研究を行なっている人類学者たちは、「魔法(ソーサリー)」と「魔女魔術(ウィッチクラフト)」を区別するのが都合がよいと、しばしば認めている。「魔法」はふつうはあるテクニックを指すものである。つまりそれは、自分の仲間に害を与えるという意図で、ふつうは呪文や身ぶりを伴って、超自然的な力を吹き込まれたと信じられる物質や物体を使用する技術、を意味する。他方、「魔女魔術」の源泉は、テクニックにではなくて人間にある。魔女は強力な破壊力を持っているのである。さて、ヨーロッパでは、この区別は知られていたが、しかし絶対的なものではなかった。(中略)どちらの場合にも、その行為は同一のラテン語の名前で呼ばれた。元来は悪い行為あるいは危害を意味するだけだったマレフィキウムという語は、四世紀以降の公文書の中で「魔術的な方法で危害を加えること」という特殊な意味で使用されるようになった。そしてその用語法は、中世を通じて存続していった。魔法使い(ソーサラー)と魔女(ウィッチ)は同様に、男の場合にはマレフィクス、女の場合にはマレフィカと呼ばれた。」


「第十一章」より:

「今日でも、多くのシチリア島の農民は、彼等がふつうは「外から来る淑女たち」と呼ぶが、時には「夜の淑女たち」、「家の淑女たち」、「家の女主人たち」、「美しい淑女たち」あるいは単に「淑女たち」とも呼ぶ神秘的な存在を、信じている。彼女たちを見たことのある少数の人たちによれば、これらの淑女たちは、長い輝くような髪の、背の高い美しい娘たちである。彼女らは昼間は決して現われないが、特定の夜、特に木曜日の夜に、指導者の「淑女」に導かれて歩き回る。よく整理された家を見つけると、彼女等は扉の割れ目、あるいは鍵穴を通って入ろうとする。彼女等を厚くもてなし、彼女らに食物と飲物、音楽と舞踊を提供する家族は、そのお返しにあらゆる種類の恩恵を期待できる。逆に、不敬な態度をちょっとでも見せたり、彼女らの命令にちょっとでも抵抗したりすれば、その家に貧困と病気がもたらされる――ただし、その場合でも、彼女らの次の訪問の機会に適切な処遇を受けたことがわかった場合には、彼女らはすみやかに許してくれるのではあるが。彼女等は超自然的で奇怪な存在として恐れられるけれども、しかし魔女とは混同されていない。魔女は人間であり、本質的に邪悪であるが、それに対して「外からの淑女たち」は精霊(スピリット)であり、本質的に善良である。実際、彼女らは守護者たちであり、破壊者たちではない。
 これらすべてから、伝統的な民間信仰の一つの首尾一貫した画像が現われてくる。その起源は、キリスト教以前の、異教徒の世界観に存するように思える。それは確かに非常に古いものである。そして、細部においては幾つかの相違があるにもかかわらず、その主要な諸相は、少くとも一〇〇〇年以上のあいだ、そして西ヨーロッパの大部分において、一定でありつづけた。それは慈悲心に富む、守護的な精霊に係わるものであり、その精霊たちはとりわけ女性であると考えられ、時には、死者の霊魂と関連づけて考えられた。過去においては、それは農民共同体の中でまじめにうけとられていた。人々は自分たちの家を整頓し、これらの精霊の籠愛を得るために食物と飲物を残しておいた。(中略)この年輪を経た民間信仰は、魔女についての同様に古い信仰と関係づけられ得る。(中略)一方の信仰は実に、他方の信仰の反対物である。破壊と無秩序と死の象徴である人喰い魔女には、歓待と良き家政の奨励のための恵み深い使命を帯びた、輝くばかりの「淑女たち」に加わる女たちを、対比させることができる。
 当然のことながら、「夜の淑女たち」に対する教会の公式の態度は、半ば異教徒的な農民の態度とは大変異なっていた。(中略)どちらの種類の夜の旅行者についての信仰も、異教徒の迷信であるとして非難された。九世紀の『司祭たちの教会法規』から一三世紀のギヨーム・ドーヴェルニュに至るまで、正統的見解のあいだには完全な合意が存在する。すなわち、「夜の淑女たち」は夢の世界に属する、というわけだ。(中略)このような夢を現実であるとみなすこと、とりわけ、自分が夜の旅に参加したと信じること――これはキリスト教信仰から迷い出ることである。それは異教徒の迷信と悪魔の誘惑に陥ることである。それでも、それは恐ろしい罪ではない。そしてそれに課される罪の償い(ペナンス)は、以前異教徒の寺院だったところで祈りを捧げたり(中略)したことに対する罪の償いよりは、ずっと軽かったのである。
 だが、一三世紀にはその態度は変化しはじめる。」

「夜の魔女と「夜の淑女」は、同様に民衆の想像力の世界、特に農民の想像力の世界に属するものである。そして、彼等の想像力の世界の中では、両者は完全に分離されていた。しかし、これらの妄想を外から、そして上からながめていた知識人たちにとっては、その区別は必ずしもそれほど絶対的なものではなかった。(中略)ソールズベリのジョンは、一一五六年と一一五九年の間に彼が著した『ポリクラティクス』の中で、この問題について多くを語っている。
  【……彼女たちは、夜に光り輝くある女、あるいはヘロディアス、あるいは夜の女主人が、集会と会合を召集し、そこでは様々の宴会がもよおされる、と主張する。その人物は、自分のしもべたちからあらゆる種類の託身の誓いを受けるが、そのうちのある者たちは罰を下されるために引き渡され、他の者たちは、その功績にしたがって賞讃されるために選び抜かれる。更に、彼女たちは、幼児たちがラミエのいけにえとしてさらされる、と言う。幼児たちの幾人かは、手足を切りとられて、むさぼり喰われるが、女主人は他の幼児たちには哀れみを垂れ、幼児たちをその揺籠にお返しになる。】

 ここでは二つの観念――「夜の淑女たち」の観念と、赤子を盗んで喰べる夜の魔女たちの観念――が巧妙に結合されている。両者は、月の女神あるいはヘロディアスによって指揮されている。そして夜の宴会のイメージは、人喰いのオルギーのイメージに同化されている。もちろん、ソールズベリのジョンと彼の時代の教養あるエリートたちは、両方の観念を単なる妄想であると考えていた。」
「しかし、教養あるエリートの態度がこれとは大いに異なったものになる時が、いずれ到来するのであった。一四世紀と一五世紀に、知識人たちのうちの幾人かは、この両方の妄想を(中略)引き継ぎはじめた。そして、それらを、夜中に空を飛び、人喰いのオルギーに夢中になり、悪霊(デーモン)たちに導かれる魔女たちの、組織された大群についての単一の妄想の中に混ぜ合わせた。そして、そのことこそが、ヨーロッパの魔女狩りの勃発に実際に寄与したのである。」



「第十二章」より:

「実際には、一つの新たな犯罪が発明されたのである――それは、のちになって、法律家たちがクリメン・マギアエ〔魔術罪の意味〕という専門用語を与えることになる犯罪であった。」

「告発は、互いに親しく知りあっている人々のあいだで行われた。ほとんど常に、「魔女」は「犠牲者たち」と同じ村に所属する人間だった。しばしば、男であれ女であれ、その魔女は犠牲者の隣人であり、社会的にあるいは経済的に「犠牲者」が密接に関係してきた人であった。実際マクファーレンは、魔女の告発が、しばしば事実上(もちろん意識的にではないが)、重荷になってしまった親しい関係を切断するための方策であったのだ、と論じている。食物や金銭を与えることを断ったり、何かの家財道具を貸すのを断ったりすることは、だから、二人の隣人のあいだでの絆の切断を象徴的に示すのであった。このような拒否を行なった人は、不安な気持になって、報復を予想する。そして、自分の身に起きた不幸は何でも、その予想の観点から解釈されるのであった。おまけに、自分自身が卑劣な扱い方をした人間に対して、魔女の容疑をかけることができるということは、彼の罪の意識を和らげたであろう。「……隣りどうしのつきあいを、あからさまに断ち切ったのは、魔女の方というよりはむしろ、犠牲者の方であった。隣人から顔をそむけたことに罪の意識を持ち、心配する理由を持ったのは犠牲者の方であるが、魔女だと疑われた人は、そのような感情(フィーリング)を引き起した当人として憎まれるようになったのかもしれない」。これは確かに、これらの事例を研究していてすぐに気づく、一つのパターンである。だが、いくつかの他のパターンもまた存在する。ルツェルンの史料の中では、産婆であった「魔女」ディヒトリンは、もう一人のもっと評判のよい産婆に対して嫉妬していると感じられていた。デヴォンシャーの史料の中では、マイケル・トレヴィザードが、賃借料を支払うことを拒否することによって、危機を招いた。村の隣人たちのあいだでの不和の原因になり得ることがらは、いろいろあり得た。そして、それらのうちのどの一つでも、特定の状況の中では、マレフィキアを行なったという非難をひき起すことができた。」
「だが、誰が魔女の役割を押しつけられたのであろうか。」
「彼女たちが特に目をつけられて疑いをかけられたのは、何らかの個人的な特性のためであった。マレフィキアの容疑をかけられた者の多くは、一人暮しの人、風変りな(エクセントリック)人、あるいは気むずかしい人であった。きわめてしばしば言及される特性のうちには、毒舌だとか、怒りっぽいこととか、すぐに人を脅しにかかることが含まれていた。しばしば、彼女たちは見てギョッとするような顔かたちをしていた――赤い眼をしていたり、斜視であったり、アバタのある肌をしていてみにくく、あるいは何らかの奇型であったり、また、年で腰や背中が曲っていたのであった。」
「民衆的な医術を行う人々はどうかと言えば、彼女等は、明らかに魔女の容疑者であった。科学的な医術がほとんど始まっておらず、専門的な資格を持った医者が、いずれにせよ、農民にとっては手の届かない存在であった時代には、他方の農民たちは、自分たち自身の医者や女医を生み出した。これらの人々は必ずしもニセ医者であったのではない。彼女等の多くは薬草を使い、また、暗示を与える技術も使用したのであって、それには本当に治療としての価値があった。だが、ある人々はまた、呪文などの魔術(マジック)の技法をも使った。更に、彼等の技法の中には、しばしば、病気がマレフィキウムによるものかどうかの占い(ディヴァイニング)が含まれていて、もしそうならば、彼女等は対抗の魔術(カウンター・マジック)をほどこした。このような「白魔女」が、男であれ女であれ同様に、単に魔女として考えられる傾向にあったことは、驚くべきことではない。そこで結局のところ、超自然的な力を授かった人が、病気を治したり、死をくいとめるのに失敗したならば、その人が実際にその災いをひき起した、ということにならないだろうか。落胆した患者たちとその親類縁者にとっては、充分明らかにそのように思えたのである。多くの「魔女」たちが、拷問を受けて、人畜に害を与えるために、草や根や葉や粉薬を使った、と自白した。そして、そのことは彼女等の罪については何事をも証明していないけれども、彼女等が民衆的な医術に精通していたということは明らかになる。」

「明らかに無意識的なある種の共謀が、一方での農民たちと、他方での当局者たち――特に役人たち――とのあいだで起った。ある老婆が魔女魔術(ウィッチクラフト)の容疑で逮捕される。そうするとすぐに、隣人たちが彼女を、自分たちの子供たちや家畜を害したと告発するために、名乗りをあげる――そうすると、役人たちは、それらのマレフィキウムの行為を行なったことばかりでなく、悪霊と契約を結んでいたこと、何年ものあいだ悪霊と性交してきたこと、正式にキリスト教を否認したことをも、無理やり彼女に認めさせるのであった。彼等はまた、サバトについて無理やりに彼女に語らせ、そこで見た人々の名前を挙げさせる。下からの告発と上からの審問とのあいだには、さまざまな先入観と諸目的があった。それらがどのように連結しあっていたのかという問題こそが、詳細な検討に値するのである。」




こちらもご参照下さい:

小松和彦 編 『民衆宗教史双書 30 憑霊信仰』
小松和彦 『悪霊論』



































































































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本