ノーマン・コーン 『千年王国の追求』 江河徹 訳

「私は次のように判断した。すなわち、人間はいわゆる罪なる行為を罪ではない行為として行なうようになるまでは、罪から解放されることはありえない、ということである。」
(ローレンス・クラークスン)


ノーマン・コーン 
『千年王国の追求』 
江河徹 訳


紀伊國屋書店
1978年11月30日 第1刷発行
1993年1月31日 第6刷発行
xix 456p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価4,200円(本体4,078円)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、Norman Cohn, The Pursuit of the Millenium: Revolutionary millenarians and mystical anarchists of the Middle Ages, Paladin, 1970 の全訳である。初版は一九五七年に Secker & Warburg 社から出され、再版は一九六二年にマーキュリー叢書の一冊として刊行された。本書は第三版のパラディン版を底本とし、マーキュリー版を参照しながら訳したものである。」


本文二段組。図版(モノクロ)9点。

本書の主題は、「十一世紀から十六世紀にかけて西ヨーロッパにあらわれた革命的千年王国主義と神秘主義的アナーキズムの伝統」(本書「はじめに」より)であります。
わたしなどは超自我が異常に発達しているため、なにをしても罪悪感を感ぜずにはいられなかったのですが、神秘主義的アナーキストになってからというもの、さやえんどうスナックをひとりで一袋まるごとたべても罪悪感を感じないですむようになりました。


コーン 千年王国の追求


カバー裏文:

「■本書について
本書は、十一世紀から十六世紀にかけてヨーロッパの根無し草的な貧民のあいだにあらわれた千年王国幻想とその背後の中世社会を描いている。千年王国主義は元来は、キリストが再臨の後、地上にメシア王国を立て、最後の審判前の一千年間そこを統治するだろうというヨハネの黙示録を拠り所にしたキリスト教徒の信仰をいうが、ここでは広義に解釈されて、終末意識を強くいだいた民衆の救世運動・社会運動をさしている。
ユダヤ教や初期キリスト教、あるいは十三世紀の修道院長フィオレのヨアキムや異端的神秘主義者たちから受けつがれた千年王国信仰が、預言者やメシア、宗教的セクトを媒介にして、現世での楽園を求める民衆のエネルギーや想像力とどのように結びついたかを、本書はドラマティックに再現する。
中世史の埋もれた部分に光をあてただけでなく、文学、人類学、宗教学、社会学などに多くの問題を投げかけた画期的名著である。」



目次:

はじめに

序論 本書の範囲
第一章 黙示録預言の伝統
 ユダヤ教および初期キリスト教の預言
 中世ヨーロッパにおける黙示録伝統
第二章 宗教的異議申し立ての伝統
 使徒的生活の理想
 初期のメシアたち
第三章 生活の方向を見失った貧民たちのメシア主義
 めまぐるしい社会変化の影響
 第一回十字軍における貧民たち
第四章 反キリストの軍勢に立ち向かう聖徒
  〈終りの日〉の救世主
 悪魔の軍勢
 幻想・不安・社会神話
第五章 十字軍の余波のなかで
 偽ボドゥアンと〈ハンガリーの導師〉
 貧民の後期の十字軍
第六章 メシアたる皇帝フレデリック
 ヨアキムの預言とフレデリック二世
 フレデリックの復活
 未来のフレデリックのための宣言
第七章 自己犠牲的贖罪者のエリート
 鞭打苦行運動の発生
 革命的鞭打苦行者
 チューリンゲンの秘密鞭打苦行者
第八章 道徳に縛られない選民たち(i)
 自由心霊派の異端
 アモリ派教徒
 自由心霊派の社会学
第九章 道徳に縛られない選民たち(ii)
 運動の展開
 自己神格化の道
 神秘主義的アナーキズムの教理
第十章 平等主義的自然状態
 古代思想の中で
 教父時代および中世の思想の中で
第十一章 平等主義的千年王国(i)
 イギリス農民一揆に関する傍注
 タボル派の黙示
 ボヘミアの無政府・共産主義
第十二章 平等主義的千年王国(ii)
 ニクラスハウゼンの鼓手
 トーマス・ミュンツァー
第十三章 平等主義的千年王国(iii)
 アナバプティズムと社会不安
 新エルサレムとしてのミュンスター
 ライデンのヨハネ(ボッケルソン)のメシア治世
結論
付録 クロムウェル時代のイギリスにおける自由心霊派、ランターズとその文書


訳者あとがき
参考文献
索引




◆本書より◆


「第七章」より:

「自己鞭打の慣習は、十一世紀の初頭にカマルドリおよびフォント・アヴェラナの修道会の隠修士がこれを採用するまでは、ヨーロッパでは知られていなかったようである。この新しい苦行の形式は、一旦考案されるとたちまち拡がり、ついにはラテン系キリスト教国全域の修道院生活の正規の形式となっていったばかりでなく、すべての苦行法の中でもっとも一般的なものとなるに至った――そのために、修行(ディシプリナ)(disciplina)という語の意味そのものまで、〈鞭打〉ということに限定されるほどであった。この苦行を実践する者にとって、それがどんな意味を持つものであったかは、十四世紀の一修道士が自分の体験について書き残した文章の中に生き生きと示されている。ある冬の夜、この男は、

 自分の庵室に閉じこもり、着衣を脱いで裸になった……そして鋭い釘のついた鞭をとり、体と腕と脚をむち打つと、ついに体から血が噴き出して、さながら吸い玉をかけられた者のようであった。鞭の釘の一本はかぎ状に曲っていて、それがひっかかった肉はどこでも引き裂かれた。彼はあまりに強くわが身を打ったので、鞭が三つに折れ、先端が壁に向かって飛んだ。彼は血を流しながらその場に立ちつくし、体をみつめていた。それはあまりにも無残な姿であったので、おそろしく鞭打たれた時の、愛するキリストの姿をさまざまに思い浮べた。彼は、わが身のあわれさのため激しく泣きはじめた。そして凍てつく大気の中で、裸で血におおわれたままひざまづき、そのやさしげな眼の前から罪をぬぐい去ることを神に祈った。

 中世の自己鞭打は、厳しい裁きの神がその懲戒の鞭を控え、罪をゆるし、さもなければこの世においても来世においても加えられるであろう一層大きな罰を免除されることを願って、人々がわれとわが身に加える苛酷な拷問であった。しかし単なる罪のゆるしより以上に、もう一つの一層甘美な期待がそこにはあった。正統派の修道士でさえ血の滴るわが身にキリストの体のイメージを見ることが出来たとすれば、鞭打苦行者となってやがて教会の監督から脱した平信徒が、自分自身ばかりでなく全人類の救済のための贖罪の使命をみずから負っていると自覚する例が多かったとしても、驚くにはあたらないことである。」



「第九章」より:

「自由心霊派の先達たちは、ただ一つの教会というものは作らず、むしろ、それぞれが独自の慣習・儀式・信仰個条をもった、沢山の同志的集団群を形成していた。」
「プロティノスの汎神論は軽視されるどころか、むしろ強調された。自由心霊派兄弟団員はためらうことなくこう言い切った、「神は存在するすべてのものである」、「神は聖餐のパンの中にいますように、すべての石ころの中にも、人間の体のひとつひとつの手足の中にも確かにいます」、「創造されたものはすべて神性を宿している」。それと同時に、彼等はこの汎神論に関するプロティノス自身の解釈を継承した。すなわち、真の神とは、物の永遠的本質のことであって、時間の中におけるその存在のことではない。(中略)存在するものは何であろうとも、自分の〈神的始源〉を思慕し、その〈始源〉へ戻ろうとするように運命づけられている。そして時間の終りのときに、すべてのものは確実に神の中に再び吸収されるであろう。その時にはいかなる流出体(エマネイション)も残存せず、ばらばらに存在するものは何ひとつなく、認識したり欲求したり行動したりすることの可能なものはもはや何ひとつなくなるだろう。あとに残されるものはすべて、唯一の、不変・不動の〈本質〉、一切を抱擁する唯一の〈至福〉となるであろう。三位一体の三位格(父と子と聖霊)さえも、その分割されざる〈一者〉の中に吸収されるであろう。時間の終りのとき、神は如実にすべてのすべてとなるであろう。自由心霊派兄弟団の主張は以上のごときものであった。」
「プロティノスは、人間が肉体の死に先立って、この還帰(一なるものへの再投入)をいくらか経験することも出来ると考えた。魂は五官の束縛とその意識から脱して、瞬時、不動にして無意識の状態で〈一なる存在〉に没入することができる。これが自由心霊派兄弟団の心に訴えた新プラトン主義の側面であった。(中略)彼らが皆共通して持っていたものは、人間の魂に対する一定の態度であった。ある女性はこう語った、「魂は非常に広大なものであって、すべての聖徒や天使たちをもってしてもそれを満たすことはできない。また非常に美しいものであって、すべての聖徒や天使たちの美をもってしても、それに近づくことはできない」。魂は万物を満たすものである。自由心霊派兄弟団にとっては、魂とは常に、肉体の死に際して神に還帰する運命を持つというだけではなく、魂の本質からして、永遠のはじめから魂そのものが神性を宿しており、人間の肉体に住んでいる間でも潜在的に神的である、と考えられた。」

「神秘家ルウスブレックは、彼の敵手たる異端の神秘家の言葉を次のように伝えている。

 わたしが始源的存在として、永遠の本質の状態で暮らしていた時、わたしにとって神なるものは存在しなかった。わたしは、ありのままの存在たらんと欲したし、わたしは、自分の欲した通りの存在であった。わたしがその状態から抜け出て、現在のわたしとなったのは、わたしの自由意志によるものである。もしわたしがそれを欲すれば、わたしがなにものかに成る必要はなかったし、そうなれば、わたしは今、一被造物として存在することもなかろう。なぜなら、神はわたしなしには、何物も知り、欲し、なし得ないからである。わたしは神と共に、わたし自身を創造し、また万物を創造した。だから、天と地とすべての被造物を支えているものは、わたしの手である。
 わたしなしには、何物も存在しない。

 さらに、これらの報告に対して抱かれるかもしれないいかなる疑念も、異端者自身の次の言葉によって払い去られよう。「神が万物を創造した時、わたしも彼と共に万物を創造した。……わたしは神以上の存在である」と、シュヴァイトニッツの一女性が語っているのである。」

「一三三〇年頃、異端派の主要な拠点ケルンにおいて書かれた概説文の中で、カトリックの神秘家ゾイゼは見事な簡潔さで自由心霊派が本質的にアナーキックになる諸要素を浮き彫りにしている。彼がある晴れた日曜日に、坐って瞑想に耽っていると、彼の霊のもとに一つの無形のイメージがあらわれたさまを描いている。ゾイゼはそのイメージにこう語りかける、「汝はどこからやって来たか」。霊は答える、「我はどこからともなくやってきた」。――「汝は何者であるか、語れ」――「我は何者でもない」――「汝は何を欲するか」――「我は何も欲しない」――「これはまことに不思議。汝の名は何というか、語れ」――「我は無名の無法と呼ばれている」――「汝の洞察力はいずこを見透しているか」――「無碍の自由を」――「何を指して汝は無碍の自由と呼ぶか、語れ」――「人が神と己れと区別することなく、また前と後を顧慮することなく、気の向くままに生きる時……」。
 自由心霊派の先達たちを、他の中世諸教徒の信徒たちすべてと分かつものは、まさしく彼らの全面的没倫理主義であった。彼らにとって、救いの証しとは、良心の痛みや呵責を一切知らないことであった。彼らの無数の発言がこの態度を立証しているのである。「自分のなすところを自分に起因すると考えて、その一切を神に起因すると考えないものは無知の状態にあり、これが地獄である。……人のなすわざで、何ひとつ彼自身のものはない」。また、「神が、人のなすすべてを行なうと悟る者、その者は罪を犯すことがない」。――「良心を持つ者こそ悪魔であり地獄であり煉獄であって、己れ自身を責めさいなむのである。霊において自由なる者こそ、これらすべてから逃がれることができる」。――「罪と考えるもののほかに罪は存在しない」。――「人は、何を行なおうとも、罪を犯すことが出来ないほど、神と深く結ばれることが可能である」。――「わたしは大自然の自由に属している、ゆえにわたしの自然の欲求するすべてを、わたしは充足する……わたしは自然人である」。――「自由人は自分に喜びを与える何事を行なっても正しい」。これらの言葉は典型的なものであり、そのいわんとする含意は紛れのないところである。この選ばれた者たちの一員が行なう行為はすべて、「時間の中においてではなく、永遠の中において」行なわれると感じられ、それは大きな神秘的意義を持ち、その価値は無限であると考えられた。これが、一先達がいささか困惑ぎみの宗教裁判官に語った、秘密の英知と称するものであったが、その英知は「神の深淵の奥深き底から汲み出された」ものであり、エアフルトの市の金庫にあるすべての黄金よりはるかに価値のあるものだと、彼は確信を持ってそれを語ったという。さらに付け加えて、彼は、「一人の〈自由人〉がその本性の駆り立てる行為を一つでも抑えてしまう位なら、全世界が崩壊して、完全に消滅してしまった方が良い」と述べている。」

「マルガレート・ポレートの『純なる魂の鏡』(中略)は、現存する、中世の一先達の手になる唯一の完全な著作であるから、(中略)多少の説明を必要としよう。
 この書物は明らかに密教的な著作である。著者も語っているように、その文章は日常的理性の命ずるがままに暮らしている凡俗に理解されることを意図してはいない。それは将来自由心霊派の先達たらんとするグループに音読させるために、教えの手引きとして書かれたものである。そしてその主題は、完全なる自由への魂の上昇である。」
 人間の魂は七つの段階を通って進歩して行く。最初の三つの段階は禁欲的自己否定と服従に向けられる。その後、第四段階において、魂は一種の歓喜の状態に達し、そこで〈愛〉の輝かしい光に目もくらむばかりの状態となる。ここで、魂はすでに神との合一状態に到達したと思いこむかもしれないが、それはまだ上昇の序の口にすぎない。第五段階に達すると、魂は自らの罪深きことを悟り、また、魂と神の完全なる善とを隔てている無限の深淵を悟る。そしてその地点で、神が、愛と光の大洪水となって、魂を神自身の中に流し込み、その結果、魂の意志と神の意志が一体となるのである
 ここまでの所は、この上昇経験と正統派神秘家の経験と異なる所は何もない。しかし、第六段階に入って、相違が現われる。すなわち、神のほかにもはや何ものも存在しないという地点まで、魂が神の中に解消してしまうのである。今や魂は、神すなわち魂自身となって、そのほかに何も見えなくなり、また神もその魂の中に自分の神性を見ることになる。このような、魂と神との完全なる融合は、カトリックの神秘家の経験の枠外にある。上昇経験の最終の第七段階もまたそうで、そこでは魂は、まだこの地上にありながら、正統派神学では天上界のこととして保留される、あの栄光と祝福にはやつつまれながら、永遠の喜びに浸ることができるのである。
 魂のこのような神格化が可能であるのは、魂が永遠の昔から神と共に存在してきたからである。炎が火と一体であるように、魂は神と一体である。水滴が海から生じて海に帰るように、魂も神から生じて神に帰るのである。確かに、神は、存在するすべてのものである。それゆえに、魂は神の中に解消することによって、その真の根源的存在に還帰するのである。
 魂はまた、アダムが堕落以前に楽しんでいたあの無垢なる始源の状態に還帰する。それによって魂は原罪の因果から解放され、罪無き存在となる。なぜなら、「この魂は、その欲すべきことを欲せしめる、神の意志以外の意志は持たなくなる」からである。このことを逆に言えば、魂は自由に自分を楽しませることのみを行なうということである。それ故に先達たちは、「自分を楽しませることしか行なわないのである。もし彼らがそれ以外のことを行なったなら、彼らは平安と自由と高貴を失うことになろう。なぜなら、魂は己れを楽しませることを行なって、しかもそれを楽しんだことで良心の呵責を受けないようになるまでは、完全なものとはならないからである」。愛、すなわち神は、魂の中に住まっているのであるから、愛が一切の事柄と一切の行為の責任者である。外的行為がいかなるものであろうとも、それは魂の中で働いている、神のなせる業(わざ)である。
 魂は、人間の限界性を超えて高揚すると、まったき無関心の状態に入り、その状態の中では魂は何ごとにも無関心となり、他人のことはもちろん、神に対してさえ無関心となる。自己の救済に関してさえ無関心となる。(中略)そのようなことにかかづらうことは自己意志の中に逆行することになり、自己の自由を失うことになるのである。」




こちらもご参照下さい:

ノーマン・コーン 『魔女狩りの社会史』 山本通 訳
石川淳 『狂風記』







































































































































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Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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