荒井献 『イエスとその時代』 (岩波新書)

「なぜなら、(中略)論争相手が立ててくる問にまともに答えない、少なくとも彼らがその問に前提している論理の水準に自ら立って答えることはしない、というのがまさにイエスの振舞の特色だからである。」
(荒井献 『イエスとその時代』 より)


荒井献 
『イエスとその時代』
 
岩波新書 909/C 158 

岩波書店 
1974年10月21日 第1刷発行
1995年5月22日 第26刷発行
vi 208p 参考文献表6p
新書判 並装 カバー
定価620円(本体602円)



本書「あとがき」より:

「本書において私が試みたのは、イエスとその時代に対する歴史的接近である。(中略)そのために私は、イエスに関する伝承の最古層からイエスの振舞を推定した。」


地図(「イエス時代のパレスチナ」)1点。


荒井献 イエスとその時代


カバーそで文:

「キリスト教の始祖イエスとは何者か。どのような時代・社会に生き、語り、死んだのか。聖書学・歴史学の最新の成果の上に、イエスに関する伝承の最古層を探り、初期キリスト教の担い手の社会的条件を明らかにする。また、奇蹟などを含むイエスの行動を分析し、時の権力に抗した彼の真意、民衆との深いかかわりを解明。」


目次:

凡例

Ⅰ 方法
 歴史的研究と信仰
 「史的イエス」の問題
 福音書の伝承史
 歴史家のイエス研究
Ⅱ 時代
 イエスの誕生と没年
 政治的背景
 サドカイ派とパリサイ派
 社会構造
 ユダヤ教非主流派
Ⅲ 先駆
 イエスの洗礼
 「荒野」の「洗礼者」
 「罪の赦しに至る悔改めの洗礼」
 ヨハネの終末思想
 ヨハネの聴衆
 社会層と宗教史的位置
 ヨハネの死
Ⅳ 民衆と
 1 ヨハネとイエス
 2 奇蹟物語伝承
 3 イエスの言葉伝承
 4 イエスをめぐる人々
 5 イエスの譬話
Ⅴ 権力に
 1 律法
 2 安息日
 3 清め
 4 神殿
 5 納税
 6 国家権力
Ⅵ 祈り
 祈りの信憑性
 寂しい所で
 「主の祈り」
 ゲッセマネの祈り
 「神」とは
Ⅶ 死
 処刑
 ピラトゥスによる裁判
 大祭司による訊問
 逮捕

あとがき
参考文献表




◆本書より◆


「Ⅰ 方法」より:

「ブルトマンによれば、マルコ(六〇年代)が採用したイエスに関わる伝承は、その「様式」に従って次のように分類される。
 A イエスの言葉
  一 アポフテグマ(イエスの言葉に、伝承の過程で、言葉の語られた史的状況が、物語形式で事後的に附加されたもの)
  二 主の言葉(状況描写なしに、単独に伝承されたイエスの言葉)
 B 物語資料
  一 奇跡物語
  二 歴史物語
 さて、マタイとルカ(共に七〇―八〇年代)は、右のBの多くとAの若干のものをマルコに負い、その他に両者共通してイエスの言葉資料(これをドイツ語で「資料」を意味する Quelle の頭文字をとって「Q資料」と呼ぶ)を利用し、これらにマタイおよびルカに固有のいわゆる特殊資料を加えて、それぞれの立場から福音書を編集した。
 ヨハネ(九〇―一〇〇年)は、右のA、B、およびQと重なる部分をも採用しているが、その多くは、(中略)「しるし資料」に依っており、他方、共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ福音書を、共に対照して観わたすことのできる福音書とみなして「共観福音書」と総称する)の場合とはかなり様式を異にするイエスの言葉(中略)を利用して、共観福音書とは異質な視座から福音書を著作している。
 トマス福音書(一五〇年頃)はイエスの語録だけによって成り立っているが、この福音書の言葉伝承を辿っていくと、右のAおよびQ、とりわけルカの特殊資料と重なる部分が多い。しかし、この福音書だけに認められる未知のイエスの言葉は、大部分トマス(中略)によって、――キリスト教最初期の異端といわれる――グノーシス主義の視座から創作されたものと思われる。
 いずれにしても、ヨハネとトマスは、共観福音書と比較して、それぞれの福音書を編集する際の視座が異り、成立年代も後期であるから、イエスに関する資料としては二次的となる。」
「さて、M・ディベリウスは、(中略)右にあげた伝承様式の背後に、このような種々の様式を生み出した伝承者の「生活の座」として、原始教団の意図的業を確認した。(中略)こうして、もしも伝承そのものが、教団の説教、訓戒、祭儀という意図的な業に仕える形で、その様式が形成され、それに内容が盛られ、言い伝えられて行ったとすれば、伝承は、教団の設立以前に活動したイエスとは、必ずしも直接的に連続しないことになるのである。
 これに加えて、近年、福音書の研究に「編集史」的方法が導入され、伝承資料に対する各福音書記者の編集作業と、編集の視座に見られる彼らに固有な思想が確認されている。(中略)このような研究の成果は、福音書を史料として試行されるイエス像の史的復元をますます困難なものにする。なぜなら、福音書のイエス像は、編集史的に見れば、各福音書記者、あるいは福音書伝承を担う各個教団に固有な視座から描き出されたイエスの諸像であって、それは必ずしもイエスの原像とは重なるものではないからである。」
「さて、このような、イエスの史的復元を試みる者にとっては極めて悲観的な福音書研究の傾向を踏まえながらも、なおかつイエスに対する史的接近への道を方法論的に切り開く可能性が(中略)残されていると思われるのである。
 その一つは、(中略)編集史的方法によって確認されたマルコの史観が、その視座をガリラヤの民衆に据え、イエスの言葉伝承に、奇跡物語伝承を介して、史的状況をとり戻すことに仕えたとすれば、(中略)イエスに史的に接近する史料として、比較的に信頼性に富むということである。
 次にマタイ福音書は、イエスの教えを旧約の律法の完成とみなすマタイの視座から編集されたことが、編集史的研究によって明らかにされている。ところがこの福音書には、(中略)これとは全く逆の傾向を示すイエスの言葉、例えば「汝の敵を愛せよ」というような、その史的信憑性を否定しえないような言葉もそのまま含まれているのである。(中略)とすれば、マタイの編集作業からイエス伝承をとり戻すことによって、比較的に信憑性のある史料を確定していくことが、編集史的研究の結果、かえって可能になったことになる。
 ルカ福音書の場合、ルカは神による救済の歴史の中心に「時の中心」として「キリスト」を据え、キリストの「十二使徒」によって担われたエルサレム原始教団の歴史の中に「真のイスラエル」の完成を見出しながら、「時の中心」から「原始教団の歴史」を質的に区別している。そしてルカは、このいわゆる「救済史観」から、イエスの個人志向性を、それに対して使徒たちの共同体(教団)志向性を、それぞれ質的に異るものとして対照的に描き出す。」
「他方、ヨハネ福音書においてイエスは、十字架を通して天に挙げられた「栄光のキリスト」の「しるし」として描き出されている。そしてここでも、イエスの業はヨハネの解釈に基づく編集を経て再現されている。しかし彼は、幾つかの場合、イエスの業に関する伝承を原型のまま残して、その解釈を、――ヨハネの志向する方向にではあるが――福音書の読者に委ねている。
 最後に、トマス福音書には、トマスの思想をイエスに帰している言葉や、共観福音書に並行するイエスの言葉にも、トマスによる編集の手を加えられた部分がかなり多く認められる。しかしこの福音書には、少なくとも形式的には共観福音書の伝承とほとんど異らない、あるいは、伝承史的にはそれよりも古い段階を示すイエスの言葉も保存されているのである。」
「以上のように、福音書の編集史的研究によって各福音書記者の思想の独自性が明らかにされることにより、逆に、それに照らして、福音書における伝承部分も明確にされる。とすれば、私どもはこの部分をイエスの言行の史料として用いやすくなった、とも言えるのである。
 さて、このようにして得られた伝承を史料として積極的にイエスへと史的に接近する方法を、最近の「文学社会学」の方法が示唆しているように、私には思われる。(中略)すなわちこれは、従来様式史的に明らかにされていた伝承の類型的「生活の座」を、伝承形成の「意図」または「志向」として受けいれながらも、さらにこの他に、あるいはそれを超えて、伝承文学を担った人々の生活「行動」の諸「条件」を社会学的に明らかにしようとするものである。その際に、この諸条件は、次のような三つの要因に分類される。(一)社会経済学的要因(伝承者の社会層)。(二)社会生態学的要因(伝承者の地域性)。(三)社会文化的要因(伝承者の言語と価値観)。
 さて、この方法を福音書伝承に適用すると(中略)、まずBの奇跡物語伝承の場合、その最古層を担った人々の行動の諸条件は、(一)社会の最下層、とりわけ社会的に差別の対象とされていたいわゆる「地の民」(中略)ないしは「罪人」、(二)ガリラヤの農村、(三)アラム語、社会(家族)復帰の価値理念となる。これに対して、Aの言葉伝承の場合、その古層を担った人々の行動の諸条件は、(一)小市民層、(二)主としてガリラヤの町、但し価値において農村志向、(三)アラム語、社会(家族)離脱・所有抛棄の価値理念となる。
 とすれば、ここに確認された社会的諸条件から、イエス自身の行動に見られる社会的諸条件を、かなりの蓋然性をもって推定することはできるのではなかろうか。」
「イエスの史的復元を試みようとするならば、イエスの振舞の中で史的蓋然性の最も高い部分から問題を立て直さなければならない。私の考えでは、この部分がイエスの十字架刑に他ならない。十字架刑の史実性は、キリスト教以外の史料(中略)から見ても、まず否定できないであろうし、イエス伝承も、(中略)究極的には十字架刑に極まるイエスの振舞の「ロゴス化」であった。他方、イエスの奇跡物語伝承や言葉伝承と全くその性質を異にする受難物語伝承の古層から見ても、イエスが、この十字架刑に至る道として、当時社会的に差別されていた「罪人」と同行したこと、そして、そのような振舞が、この人々を差別することによって自らの社会体制を維持しえたユダヤの最高法院勢力と、その宗教的=経済的拠点としての神殿を批判するに至らせ、ついにはその背後に立つローマの国家権力を介入せしめる結果を伴ったこともまた、史実として否定しえないと思われるのである。」



「Ⅳ 民衆と」より:

「このような奇跡物語の「原型」に自らを対象化しているエートスとその担い手の社会層は、家族関係の回復、社会への復帰が最大の願望であった。つまり、それが彼らの最高の価値理念であった社会層、ということになるであろう。従って、この種の物語は、癩病人に象徴されるような、家庭と社会とから儀礼的に遮断されていた人々を基盤として成立し、一時の病気がそのまま絶対的な没落に直結するような社会的最下層によって、原初的に担われたのである。それは例えば、次のようにしてイエスに乞い求める人々の属する社会層である。――両手の萎えた人がイエスに言った。
  「私は左官でした。私は両手で私の生活費を稼いでいました。イエスよ、お願いします。私に健康を回復して下さい。私が軽蔑されながら食事を乞うて歩かなくてもすみますように!」(『ナザレ人福音書』断片)。
 事実、当時のユダヤ社会において(中略)、不具者や病人、とりわけ癩病人は、そのような状態にあること自体が、彼ら自身の、あるいは彼らの先祖の犯した罪に対する神罰と考えられており、健全者が彼らと接触することは、不浄の故に、戒めによって禁じられていたのである。」
「いずれにしても、家族関係の回復、社会への復帰を願う心を満すことは、人間の功利性を肯定する御利益宗教的パターンに属するものである。もしイエスが、このような願望に即する形で振舞ったとすれば、そのような振舞は、御利益宗教に典型的に見られる「宗教性」を拒否したところにイエスの「宗教批判」の独自性を見出す現代の知識人にとって、あるべからざるイエスの振舞と映るかもしれない。(中略)ただ、イエスが功利的希求に添う形で振舞ったのは、そのような希求を充足させる以外には生きえない社会層に属する人々に対してであったことを忘れてはならないであろう。(中略)しかも、先に指摘したように、このような希求を抱くこと、それに即応する姿勢をとることそれ自体が、当時の社会秩序を突き崩す「行動」として機能していったのである。」

「以上によって私どもは、イエスの奇跡物語伝承と言葉伝承の文学社会学的考察から始めて、イエスをめぐる人々の諸相を確認した。この人々は、まず癩病人に代表される病人や障害者たち、遊女や姦淫の女、それに取税人、要するに当時のいわゆる「罪人たち」、次に健全者ではあるが社会的には下層に位置する、その意味で常に、「罪人たち」へ転落する可能性を予想せざるをえない小市民たち、――いずれにしてもいわゆる庶民あるいは民衆に限られているのである。」
「ただ、ここで解決しておかなければならない一つの重大な問題がある。それはなぜイエスが「罪人」に対しては家族・社会への復帰を命令しているのに、その他の民衆に対しては逆に家族的同胞関係からの離脱を命令しているのか、ということである。」
「ここで私は、イエスの帰還命令と離脱命令との両方の線が他ならぬイエスという存在の中で交わることを敢えて明言しておきたい。それはイエスが、当時の社会体制を、より具体的に言えば、法によって秩序づけられた社会の構成を揺がし、それを流動化する存在としての役割を果していった、ということである。一方においてイエスが、被差別民により、彼らの社会復帰を促す形で受容されていったことは、彼らを差別することによって社会秩序を維持していた政治的=宗教的指導者層にとっては公共の秩序を乱すものとして極めて危険な事柄であったはずである。他方、小市民層の中にイエスが、彼らの帰属する家族からの離脱を促す存在として受けいれられていったとすれば、これも家父長的家族構成を中心とした市民層(中略)とそのイデオロギー(法解釈)の上に宗教国家体制を築いていたユダヤの上層部にとって、国家の秩序を全体として流動化させる、同様に危険な事柄であった。(中略)私どもはここで、イエスが当時の価値を転倒せしめる存在として社会の各層に受容されていったことを、はっきりと確認しておこう。」

「「天国の譬話」として語られている「葡萄園の労働者」の譬話を考察してみよう。」
「イエスにとって問題なのは、いずれにしても(律)法を基準として人間の価値にランクをつけようとする合法主義そのものであった。イエスはこれに「否!」をつきつけたのである。一時間労働をした者にも、十二時間労働をした者にも、契約によって同一の賃金を支払い、後者の抗議を退けるというのは確かに一般の常識から見れば不合理な振舞である。しかし、イエスはまさにこのような常識的価値判断をその根底から覆えそうとする。人間はすべて約束された「存在」において平等であり、(律)法は元来、この基本的「存在」を守るために人間に与えられたものであった。ところがその(律)法が逆に人間を支配し、(律)法に従うことのできる人間が、自ら創り出した(律)法解釈を盾に、それを守ることのできない人間をその「存在」において差別しているのが現実であるならば、そのような「存在」にこそ、(律)法の遵守とは無関係に、元来の約束が果さるべきである。イエスは譬話によってこのことを主張し、この主張に自らの存在そのものを賭けたのであった。
 ただ、ここで注意すべきは、イエスは必ずしも「階級的視点」からのみ、被差別者の側に自らを置いたのではなかったということである。実際この譬話は、十二時間働いた者についても一時間働いた者についても、その素材は被差別者の側から採用されている。イエスが譬話をもって抗議した直接的対象は差別者の側であるが、それは間接的には被差別者相互にも向けられている。社会的常識は支配者の側から創られるものではあるが、それは被支配者の間にも無自覚的に貫ぬかれていることが多い。イエスはいずれの側に属する人間にも人間主体の変革を迫っているのであろう。
 このような、自己の振舞の呈示による人間への批判的問いかけに、私どもはさらに、有名な「失われた羊」の譬話(中略)の中でも出会うのである。」
「ここにも私どもは、「一よりも九十九をとる」という常識的・合理的価値判断に対する、イエスの逆説的「否」を読みとることができるであろう。「九十九を捨てても一をとる」というもの言いは、「一を捨てて九十九をとる」人々に対しては、「逆説」を超えて「反逆の論理」(中略)をつきつけている可能性がある。」



「Ⅴ 権力に」より:

「イエスは、彼のまわりに集ってきた人々に対し、彼らが再び律法によりかかり、自己を、あるいは自己の所属する共同体をいかなる意味においても絶対化することのないように、現代風に言えば、彼らを「党派性の論理」から自由にするために、誓と復讐を禁じ、愛敵の命題を提示したのである。イエスにとって重要なことは、いかなる権威にも頼ることなく、一人立ち、醒めた眼(まなこ)で事実を見すえ、然りを然りと言い、否を否と言い切ることであった。」

「マルコ二・二七、二八においてイエスは、「安息日は人間のためにあるもので、人間が安息日のためにあるのではない。それだから、人の子は安息日に関して主なのである」と言い切っている。ここで「人の子」とは、――当時のアラム語のガリラヤ地方における用語法に即して言えば――「私」の婉曲的表現である(G・ヴァームズ)。とすればここでイエスは、安息日に対する自らの優位性を、安息日に対する人間の自由に、(中略)イエスとともにある庶民の生活の自由に、基礎づけているのである。ここにも私どもは、法によって抑圧されていた庶民の生活に自らの振舞を基礎づけていったイエスの姿を見出すことができるのではなかろうか。人間を人間らしく生きえなくする仕方で機能してくるものは、たとえそれが安息日律法であっても犯されてよいのだ。」

「イエスを政治的革命家に仕立て上げるよりももっと正しくないのは、イエスの行動に必然的・不可避的に伴わざるをえない政治的局面を全く無視して、彼を、政治とは関わりのない宗教的次元に押し込み、人間に「魂の悔改め」あるいは「内面の自由」を迫ったいわゆる「宗教家」として理解しようとする試み(中略)である。当時イエスが、民衆、とりわけ政治的=宗教的に、すなわち社会的に差別の対象とされていた民衆と共に立ったということは、既にそれだけで、彼の行動が宗教的=政治的であったのである。それに対し、民衆の指導者と称しつつも最高法院の一翼を担う律法学者たちが介入して来た結果、イエスは既にガリラヤにおいて、彼らの依拠する律法を撃たざるをえなくなる。さらに彼がエルサレムにおいて、律法の政治的経済的「物質化」とも言える神殿を攻撃せざるをえなくなった時、通常は与野党として対立していた祭司長たちと律法学者たちとが結束して彼の殺害を計ったとすれば、これをどうして宗教的次元においてのみ説明することができるというのであろうか。
 いずれにしても、神殿を攻撃したイエスの行動は、おそらく「ハプニング」として起り、しかもそれは、彼の日頃の振舞が体制の象徴的存在に直面したときにとらざるをえなくしたいわば「対抗-象徴行動」であったのではなかろうか。(中略)こうしてイエスは、自らをあえて誤解に晒す一歩を踏み出すのである。」

「イエスの有名な言葉「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい」」
「この言葉を、私どもはどのように理解すればよいのであろうか。」
「私どもはここで、「返しなさい」という動詞の用語法に注目したい。この動詞(ギリシア語の「アポディドーミ」)は、「存在をだれかに負うているならば、その人から負うている負債を返す」というほどの意味の、償還義務を示唆する術語にもなっている(中略)。これを踏まえて、われわれの対句を敷衍すれば、次のようになるであろう。「あなたがたが自分の存在をローマの皇帝に負っているのならば、その負債を皇帝に、自分の存在をユダヤの神に負っているのならば、その負債を神に償還したらよいだろう」。(中略)こうしてイエスは、ローマの皇帝支配体制にしても、ユダヤの神支配体制にしても、いずれにしても支配体制を本質的に容認するという論理の水準に立った上での質問に対し、同じ論理水準で答えることを拒否して、むしろ彼らの問を彼ら自身の主体性に問う形で投げ返すのである。とすれば、イエスはここで、「神のもの」を根拠にして「カイザルのもの」を(中略)容認したというよりも、むしろ、「神のもの」も「カイザルのもの」と同様に、それが同じ論理水準で考えられている限り、相対化しているのであろう。そして、ここで私はトマス福音書の並行句を引き合いに出してみたい。「カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返しなさい。しかし、私のものは私に与えなさい」(一〇〇)。この句の中、「しかし私のものは私に……」は、それに先行する伝承に対する、おそらくトマス福音書記者による加筆であり、「私のもの」は、この福音書全体の思想から見て、「人間の本来的自己」を意味するであろう。しかし、少なくとも、「カイザルのもの」も「神のもの」も同時に相対化してわれわれの句を解釈できる可能性を、既に紀元二世紀の福音書外典が示唆していることは注目に価するのではなかろうか。」



「Ⅵ 祈り」より:

「さて、私どもが福音書を読み進めていくときに、民衆の間で激しく行動するイエスとともに、時々、民衆から離れて一人祈るイエスに出会うであろう。」
「イエスが実際に奇跡を行ったかどうかは分らないが、奇跡行為者、あるいは少なくとも医師的存在としてのイエスの評判は、ガリラヤの民衆の間に急速に広がったはずである。そして、次から次へと彼のもとに病人が運ばれてくる。――以下は私のイマジネーションに基づく想像にすぎないのであるが、民衆と病人に「神」のごとくに慕われていく、一人の知識人としてのイエスは、強烈な孤独感に襲われることがなかったであろうか。彼は人里離れて神に祈らざるをえなかった。もちろん、その際の祈りの内容を私どもは知るよしもない。しかし、想像をたくましくすることを許されれば、孤独感にさいなまれても民衆の願いに答えざるを得ない自らの行動を神の前にさらけ出し、この可否を問うているのではないか。民衆の願いを満すことにより、支配者の民衆に対する差別を撃つことはできる。しかし、自らと民衆をも含めて人間の裡(うち)なる差別の根を、どのようにして断ち切れるのか。障害者から健全者となったものが、再び障害者を差別しない保証がどこにあるのか。自らが神的存在へと祭り上げられていくとき、神の名によって自ら他者を差別していかないという保証がどこにあるのか。イエスはこの保証を、(中略)希い求めたのではなかろうか。」

「こうして祈る人は、神の名を呼び求めることによって、のり超えられない現実を認識し、現実の中に神の不在を確認する。しかし彼が祈るということは、同時に、この現実を、のり超えなければならない現実として見すえているということなのである。このような、現実の矛盾を持続的に認識させながらも、なおかつそれを、のり超えられなければならない現実として、いわば課題としてひき受けていく勇気を賦与する根源的力、――これが祈る人にとっての神であろう。」



「Ⅶ 死」より:

「最後に、原始教団の人々がイエスの死に至る道行きを、彼ら自身のとるべき振舞として、その中に総括したイエスの言葉をあげて、この稿を閉じる。――
  「肉体(からだ)を殺しても、生命(いのち)を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、肉体も生命も黄泉(ゲヘナ)で滅ぼす力のある方(かた)を畏れよ」(マタイ一〇・二八、ルカ一二・四、五)」









































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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