荒井献 『トマスによる福音書』 (講談社学術文庫)

「とにかく、トマスの理想は、人間がすべての多様性を超克して「一つ」の状態に、比喩的に言えば、「子供」の状態に、復帰することである。」
(荒井献 『トマスによる福音書』 より)


荒井献 
『トマスによる福音書』
 
講談社学術文庫 1149 

講談社 
1994年11月10日 第1刷発行
1995年4月17日 第3刷発行
335p 
文庫判 並装 カバー
定価960円(本体932円)
装幀: 蟹江征治
カバーデザイン: 藤林省三


「本書は『隠されたイエス』として一九八四年四月、小社より刊行されました。」



本書「まえがき」より:

「本書は、ちょうど十年前に講談社から刊行された「福音書のイエス・キリスト」シリーズ全五巻の最終巻として世に問うた『隠されたイエス――トマスによる福音書』を、端的に『トマスによる福音書』と題し、内容を改訂・増補のうえ、再刊するものである。
 本書では、旧版の構成(中略)がそのまま保存されている。ただし、(中略)第Ⅱ部の「翻訳」には全面的に手を加えた。また(中略)第Ⅰ部、第Ⅱ部の「注解」、とりわけ第Ⅲ部は、大幅に改訂・増補されている。」



荒井献 トマスによる福音書


カバー裏文:

「一九四五年、エジプトで写本が発見され、「新発見の福音書」として世界にセンセーションをまきおこした。〈トマスによる福音書〉――異端として排斥されたグノーシス派の立場から編まれた一一四のイエスの語録集である。新約聖書学・グノーシス主義研究の世界的権威がその語録を精緻に注解し、独自の福音を明らかにした本書は、従来の「正典福音書」のイエス像を一変させることを迫る衝撃の書である。」


目次:

まえがき

Ⅰ トマス福音書の背景
 第一章 ナグ・ハマディ文書の発見とその内容
 第二章 教会教父たちの証言
 第三章 オクシリンコス・パピルスとの関係
 第四章 外典との関係
 第五章 福音書正典との関係
  1 トマス福音書とQ
  2 トマス福音書とマルコ資料
  3 トマス福音書とマタイ特殊資料
  4 トマス福音書とルカ特殊資料
  5 トマス福音書の伝承史上の位置
 第六章 「正典」と「外典」成立史上におけるグノーシス主義の位置
  1 「正統」と「異端」
  2 グノーシス主義「外典」
  3 グノーシス派の「聖書」解釈原理
  4 グノーシス主義の「聖書」解釈
Ⅱ トマス福音書のイエス語録――翻訳と注解
Ⅲ トマス福音書のイエス
 第一章 「無知」から「覚知」へ
 第二章 光――生けるイエス
 第三章 「単独者」――「統合」を目指して

参考文献




◆本書より◆


「Ⅰ トマス福音書の背景」より:

「それでは、グノーシス主義とは何か。それは、端的にいえば、人間の本来的自己と、宇宙を否定的に超えた究極的存在(至高者)とが、本質的に同一であるという「認識」(ギリシア語の「グノーシス」)を救済とみなす宗教思想のことである。
 従ってこれには、人間の「現存在」――身体→この世→宇宙→宇宙の支配者たち(星辰)→宇宙の形成者(デーミウールゴス)――に対する拒否的な姿勢が前提されている。このようないわゆる「反宇宙的現存在への姿勢」は、「自己」の属する現実世界が、世界を包括する宇宙全体をも含めて、宇宙の支配者、その形成者によって疎外されているという極端なペシミズムの起こる時代と地域に、いつ、どこででも成立しうるものである。これを古代末期に限って見れば、これは、ローマ帝国の圧倒的支配下にあって、政治的・経済的・社会的に宇宙内の世界のいずれの領域にも自己を同一化できる場を奪われた属州(中略)民の間に成立した。
 しかし、このような「反宇宙的現存在への姿勢」だけでは、未だグノーシス主義そのものは成り立たない。それは具体的には、この「姿勢によって担われた、存在の根元的解釈」(H・ヨナス)によって自己を表現する。しかもそれは、現実世界を否定的に超えた場に自己を同一化する表現なのであるから、必然的に「神話論」的象徴言語によらざるをえない。」
「これを「理念型」的に構成してみると、ほぼ次のようになろう。
 ――はじめに上界に、至高者(「原父(プロパテール)」「父(パテール)」または「霊(プネウマ)」があった。彼は女性的属性(「思い(エンノイア)」「知恵(ソフィア)」または「魂(プシューケー)」と対(つい)をなし、彼らの「子」と、いわば「三位一体」を形成していた。
 女性的属性は至高者(または男性の「子」)を離れて、上界から中間界へと脱落し、ここで「諸権威(エクスウーシアイ)」あるいは「支配者たち(アルコンテス)」を産む。彼ら――とりわけその長(おさ)なるデーミウールゴス――は、至高者の存在を知らずに、「母」を陵辱し、下(地)界と人間を形成する。こうしてデーミウールゴスは「万物の主」たることを誇示し、中間界と下界をその支配下におく。しかし至高者は、女性的属性を通じて人間にその本質(霊)を確保しておく。デーミウールゴスの支配下にある人間は、自己の本質を知らずに、あるいはそれを忘却し、「無知」の虜(とりこ)となっている。人間は自力でこの本質を認識することができない。そこで至高者は、下界にその「子」を啓示者として遣わし、人間にその本質を啓示する。それによって人間は自己にめざめ、自己を認識して、「子」と共に上界へと帰昇する。中間界と下界(宇宙全体)は解体され、万物は上界の本質(霊)に帰一し、こうして「万物の更新」が成就する。――
 先に断ったように、右の神話論は、実際にわれわれのもとに伝承されている――多数の、しかもその細部において相異なる――グノーシス神話から「理念型」的に構成されたものである。(中略)要するに、右のように単純な神話論は現実には存在しない。
 それでは、現実に存在するグノーシス神話はどのようにして形成されたのであろうか。それは、右のごとき神話論を担う「反宇宙的・本来的自己の認識」をいわば「解釈原理」として、既存の諸宗教に固有な神話、ないしはそれらの神話を内含するテキストを解釈し、それをグノーシス神話に変形することによって形成されるのである。
 例えばキリスト教グノーシス主義の場合、キリスト教に正典として受容されつつあった旧約聖書(中略)と、結集途上にあった新約聖書諸文書とが、グノーシス主義に固有な解釈原理によって解釈され、その結果旧新約聖書に前提されている創造神話やキリスト神話が修正補完されて、キリスト教グノーシス神話なるものが言表される。その際、旧新約聖書の創造神はデーミウールゴスとして至高者の下に格下げされ、啓示者の機能を担う至高者の「子」は「神の子」イエス・キリストに置き換えられる。(中略)いずれにしても、グノーシス主義そのものは、自らに独自な民族(あるいは民俗)神話を持つことなく、「グノーシス神話」なるものは、既成宗教に固有な民族(民俗)神話に依拠し、それを修正・補完することによって成立したものであることが重要であろう。この意味で、グノーシス神話は本質的に「創作神話」なのである。」

「実際、グノーシス派の創造神話は、多くの場合、創世記一―三章の釈義によって展開されている。――デーミウールゴスはアルコンテスと共に、自分のかたちに人を、男と女とにつくった。この場合、「人」は単数であるから、人は元来両性具有であった、と解釈されることになる。女(イブ)が男(アダム)から離れたとき、死が生じた。彼女が再び入りこみ、彼が彼女を受けいれれば、死はないであろう。このような男女の原初的統合をもたらすために、イエスが来臨したのである。
 あるいは、オフィス派によれば(「オフィス」はギリシア語で「蛇」の意)、ヤルダバオト(造物主(デーミウールゴス))が土の塵でアダムをつくったが、アダムは立ち上がることができなかったので、命の息をその鼻に吹きいれた。次いでヤルダバオトは、アダムから力を取り去るためにイブをつくった。しかし、ヤルダバオトの母ソフィアは、アダムとイブを誘惑し、ヤルダバオトが食べることを禁じていた木の実を食べるように勧めた。イブはアダムを説得し、二人はこれを食べ、こうして彼らは万物の上にある「父」(至高者)を知った。そこで、ヤルダバオトは二人をパラダイスから追放したのである。」
「次に、旧約「律法」に対するグノーシス派の姿勢であるが、グノーシス派は律法を造物主(デーミウールゴス)に由来すると見る限り、これに対しては必然的に否定的、少なくとも消極的評価を下すことになる。」



「Ⅱ トマス福音書のイエス語録」より(順不同):

「その父とその母を憎まない者は、私の弟子であることができないであろう。私のように、その兄弟とその姉妹を憎まない者、その十字架を負わない者は、私にふさわしくないであろう」

「彼らは自分のものではない野に住む小さな子供たちのようなものである。野の主人たちが来て、言うであろう、『われらにわれらの野を渡せ』と。彼らは野を彼らに渡し、それを彼らに与えるために、彼ら(子供たち)は彼ら(野の主人たち)の前で着物を脱ぐ(であろう)。」

「あなたがたがあなたがたの恥を取り去り、あなたがたの着物を脱ぎ、小さな子供たちのように、それらをあなたがたの足下に置き、それらを踏みつけるときに、そのときにあなたがたは、生ける者の子を〔見るであろう〕。そして、あなたがたは恐れることがないであろう」

「あなたがたがあなたがた自身を知るときに、そのときにあなたがたは知られるであろう。」

「あなたがたが、二つのものを一つにし、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、あなたがたが、男と女を一人(単独者)にして、男を男でないように、女を女(でないよう)にするならば、あなたがたが、一つの目の代わりに目をつくり、一つの手の代わりに一つの手をつくり、一つの足の代わりに一つの足をつくり、一つの像のかわりに一つの像をつくるときに、そのときにあなたがたは、〔御国に〕入るであろう」

「単独なる者、選ばれた者は幸いである。なぜなら、あなたがたは御国を見出すであろうから。なぜなら、あなたがたがそこから(来て)いるのなら、再びそこに行くであろうから」

「多くの人々が戸口に立っている。しかし、花嫁の部屋に入るであろう者は、単独者(だけ)である」

「求める者には、見出すまで求めることを止めさせてはならない。」

「私は彼らすべての上にある光である。私はすべてである。すべては私から出た。そして、すべては私に達した。
 木を割りなさい。私はそこにいる。石を持ち上げなさい。そうすればあなたがたは、私をそこに見出すであろう」

「私は火をこの世に投じた。そして、見よ、私はそれを、それが燃えるまで守る」



「Ⅲ トマス福音書のイエス」より:

「いずれにしても、自らを「女から産まれなかった者」と称し、自ら「母」と「父」を否認して「一人で立つ」ことを勧め、肉体も、性別も、家系も、富も、年嵩も、宗教的伝統と敬虔も、皇帝と神をも相対化し、およそ「この世」的なるものの一切を「屍」と喝破するイエスは、ほかならぬこの「屍」を「命」と取り違え、それに「酔いしれている」人間界の中では、まさに孤独な「異邦人」である。」
「孤立しつつも「生ける」イエスは、「隠された言葉」――「私の言葉」、「目がまだ見ず、耳がまだ聞かず、手がまだ触れず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」、「奥義」の中に「自己」を啓示し続ける。」

「それにしても、覚知者が「自己」の全的統合を目指して歩むべき道は、狭く、厳しく、そして遠い。彼らはイエスと共に「単独者」として立ち、時の権力をも「神」をも相対化して生きようとすれば、必然的に国家(ローマ帝国)をも宗教(正統的キリスト教)をも敵にまわし、二重の迫害の下で苦しみに耐えなければならない。このような状況の中で孤立する人々にとって、次のイエスの言葉は大いなる恵みと慰めとなろう。
  
  イエスが言った、「あなたがたが憎まれ、迫害されるならば、あなたがたは幸いである。そしてあなたがたが迫害された場は見出されないであろう」(六八)

  イエスが言った、「苦しんだ者は、幸いである。彼は命を見出した」(五八)

 覚知者は、イエスの言葉に支えられて苦しみに耐え、世俗を棄てて旅に立つ。――内面に、ひたすら原初的「自己」の統合と安息を求めて。

  イエスが言った、「過ぎ去り行く者となりなさい」(四二)」




































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本