井筒俊彦 『イスラーム生誕』 (中公文庫)

「「マジュヌーン」という語は今のアラビア語では普通に「気狂い」の意に使われているが、その本来の意味はジンに憑かれた男のことである。俗にいう「もの狂い」とか「もの憑き」に当る。(中略)詩人は特にその最も典型的なものであった。」
(井筒俊彦 『イスラーム生誕』 より)


井筒俊彦 
『イスラーム生誕』
 
中公文庫 い 25 2

中央公論社
1990年8月10日 初版
1991年4月10日 4版
236p
文庫判 並装 カバー
定価440円(本体427円)



本書「はしがき」より:

「昭和二十七年に、アテネ文庫の一冊として私は『マホメット』と題する小さな本を書いた。それが本書の第一部「ムハンマド伝」の原本である。」
「全体を読み返して気のついた間違いを訂正し、語句をいささか今様に変えなどしたが、根本的には昔のままの姿である。」
「第二部「イスラームとは何か」は、(中略)普通ほとんど注意されていないジャーヒリーヤとの関聯の観点から、宗教としてのイスラームの性格を探ろうとする意図で書いたものである。この部分は全部、新しい執筆にかかる。」



単行本初版は1979年10月、人文書院刊。本書はその文庫化。


井筒俊彦 イスラーム生誕


カバー裏文:

「イスラーム教及び創始者ムハンマド(マホメット)の誕生と歴史は、キリスト教のように知りつくされたとは言い難い。
イスラームとは、ムハンマドとは何か。シリア、エジプト、メソポタミア、ペルシア…と瞬くまに宗教的軍事的一大勢力となってキリスト教を席捲した新宗教イスラームの預言者ムハンマドの軌跡を辿る若き日の労作に、イスラーム誕生以前のジャーヒリーヤ時代(無道時代)との関連の歴史的解明と、さらにはコーランの意味論的分析を通じてイスラーム教の思想を叙述する独創的研究を加えた名著。」



目次:

はしがき

第一部 ムハンマド伝
 一 序
 二 沙漠の騎士道
 三 享楽と苦渋
 四 ムハンマドの出現
 五 預言者召命
 六 メッカの預言者
 七 メディナの預言者

第二部 イスラームとは何か
 一 イスラームとジャーヒリーヤ
 二 イスラーム――実存的飛躍
 三 イスラーム精神とジャーヒリーヤ精神
 四 イスラーム的信仰
 五 宗教共同体の成立
 六 「アブラハムの宗教」
 七 アッラーという神
 八 イスラームの預言者

文庫版後記




◆本書より◆


「第一部 ムハンマド伝」より:

「キリスト教的西欧において、ムハンマドや彼の興した宗教が、真に学問的な態度で、つまり先入観も偏見もなしに取扱われるようになったのは実は最近のことなのである。」
「しかしまた他面から見れば、それだけにかえって昔の人が知らなかったような数々の難問がムハンマドへの我々の通路を掩蔽するようになって来ているとも言えるのではなかろうか。」

「ムハンマドは私の青春の血潮を湧き立たせた人物だ。」
「歴史的な学問研究は飽くまで客観的精神に終始しなければならぬ。それは自分でもよく分ってはいるけれど、しかし冷たい客観的な態度でムハンマドを取扱うことは私には到底できそうもない。自分の心臓の血が直接に流れ通わぬようなムハンマド像は今の私には描けない。」

「両親の温い愛に包まれた懐しい幼年時代というものが彼にはなかった。成人してから、自分の子供の頃を憶い出すとき、彼の記憶に先ず浮んで来るのは苛酷な人生の試練ばかりだった。さればこそコーランの中には繰り返し繰り返し yatim 「親なし子」が重要なテーマとして現われて来るのだ。ムハンマドは悲しいにつけ嬉しいにつけ自分が孤児として育ったことを忘れることができない。孤児が虐待されているのを目撃するや、彼の心にむらむらと忿怒の情が湧き起る。

  いないな、汝らは孤児を尊ぶことなし
  互いに励まして貧者を養うこともなし。
  いな、むしろ、彼らの遺産を食いつぶし
  浅間しくも貪婪のかぎりをつくすのみ。

と彼はメッカの富豪どもを糾弾している(コーラン第八九章一八―二一節)。」
「孤児であった自分を見棄てずに、優しく救い上げ給うた神、ムハンマドはしみじみ有難く思う。」

「ムハンマドの提唱するモラルは、「血のつながり」を基盤として成立していた無道時代的な人間関係の一番感じやすいところを意地悪くつついた。もし万が一ムハンマドの運動が成功でもしたら、父祖伝来の生活形態は完全な危機に立たされてしまうだろう。事ここに至って、メッカのクライシュ族は露骨に敵意を示し始めた。」
「メッカ市におけるイスラームの進展は一頓挫をきたした。(中略)真摯な信仰とは別の動機からムハンマドの傍に集まっていた連中が次々に背き去って行ったことは当然のこと。かてて加えて、個人的にもムハンマドは不幸続きで、(中略)ただ独り敵地の真中に取り残されてしまった。」
「窮地に陥った彼は大胆な手を思いついた。それは一時メッカの町を去って隣りのメディナ市に遁れ、そこで異部族の間に同志を募ろうという考えである。今日の目から見れば、それくらいのことは大胆な行為でも無謀な行為でもないのだが、同じ血を分けた部族民に背いて、異部族に味方を求めるということは古アラビアの社会では絶対に考えられないことだ。」



「第二部 イスラームとは何か」「七 アッラーという神」より:

「アッラーとはいかなる神か。(中略)天地、自然、人間、万物を無から作り出した創造主。万有の生滅を主宰し、一切を意のままに運転する絶対意志。人間をはじめ、あらゆる生あるものが奴隷として仕え、それらのものに主(しゅ)として崇められ讃えられる超絶的支配者。」
「だがそういう、一神教としてはむしろ常識に属することがらとは別に、それとは全然違った側面がアッラーにはあった。それはジャーヒリーヤ時代のアラブの宗教生活との関聯において、ジャーヒリーヤ的コンテクストにおいてこの神が現わす特別の顔である。」
「西アラビアの文化都市メッカにあるカアバ神殿は、そのまわりを犯すべからざる聖域として、絶大な威勢をふるう全アラビアの信仰の中心地。アッラーはこの神殿の主神であった。
 原来ジャーヒリーヤ時代のアラビアでは、諸部族は、遊牧民であれ定住民であれ、それぞれが自分の神をもち、その神の祭儀を通じて特定の地域に宗教的に結びつけられていた。だが、それら多数の地域神の地域的信仰の上に、それらすべてを統括する一大中心地としてメッカの神殿が君臨していた。」
「メッカ神殿には、それらの部族の各々の地域神をあらわす神像が数百を数えて祀られていたという。つまりカアバ神殿はアラビア多神教の一大拠点、偶像崇拝の中心地だったのである。それらの神々の主神としてのアッラーがいかに高い位置を占めていたかは想像にかたくない。」
「だからジャーヒリーヤもアッラーが偉大な神であることには少しも異議はなかった。(中略)ただ問題は、ジャーヒリーヤにとってアッラーが唯一の神ではなかったということだ。いかに最高の地位にあるとはいえ、アッラーは要するに多神の中の一にすぎない。」
「いくらアッラーを最高の神として崇めても、その下にこのような神々の存在を認めたのでは、その高さは相対的高さにすぎない。ところがイスラームはアッラーの絶対的高さを主張する。「絶対」、すなわち文字通り対峙するものを徹底的に否定する独在性である。」
「この絶対的一神教の世界観においては、言うまでもなく、世界に存在する一切のものはアッラーの被造物であるが、ジャーヒリーヤの信仰する神々のごときは被造物ですらなく、「ただの名前」にすぎない。アラビア語で一般に「神」を意味する言葉は「イラーハ」(ilah)であり、その複数形は「アーリハ」(aliha)だが、イスラーム的コンテクストでは「アーリハ」という複数形は空虚な言葉、指示対象をもたない言葉である。」
「いわゆる神々はことごとく実体のないただのコトバ、昏惑の心の所産として一挙にしりぞけられ、こうして(中略)唯一の実在としてアッラーの形姿だけが残る。これがイスラームの主張する絶対一神教である。
 ここに至ってわれわれは、ムハンマドの宗教運動がなぜあれほど猛烈なジャーヒリーヤの抵抗と攻撃を受けなければならなかったのかを理解することができる。イスラームは、ジャーヒリーヤ的宗教を根柢から覆そうとすることに自己の立場の出発点を置いた。ジャーヒリーヤの見地からすれば、イスラームは、父祖伝来の宗教と、その宗教に基づく社会組織の顚覆を図るきわめて危険な陰謀以外の何ものでもあり得なかったのである。」

「以上は絶対一神教的なアッラー観のイスラームにおける形成を、純粋にジャーヒリーヤからイスラームへの移行過程として見たもの。この過程は、どこまでも徹底的に多神教的神観を否定し破壊して行くという否定的操作として成立する。しかしアラビアにおける一神教的アッラー観の形成過程は、このような否定的側面だけで尽されるものではなかった。もう一つ別の、肯定的な側面がそこにはあった。
 この肯定的側面とは、ジャーヒリーヤ自体の側にも、内部的に、多神教を一神教の方に向って積極的に押し進めて行こうとする注目すべき動向があったことを指している。」
「イスラーム誕生当時のアラビアには、ユダヤ教的・キリスト教的雰囲気が漂っていた。言うまでもなくアラビアのユダヤ教徒やキリスト教徒は、絶えず聖書的意味での神について語った。そして彼らが自分たちの信仰する旧約あるいは新約の神を口にするとき、彼らの使う言葉は「アッラー」という語であった。すなわち、すでにジャーヒリーヤ時代、「アッラー」はセム的絶対一神を意味する言葉として、現実に使用されていたのである。勿論、多神教を信奉するアラブたちも、ユダヤ教徒・キリスト教徒との頻繁な交渉を通じて、この特殊な意味で使われるこの言葉を始終耳にしていたはずである。そしてこの点を思うとき、われわれは、ジャーヒリーヤ時代のアラビア語において、「アッラー」という語の意味構造の中には、少なくともその片隅には、絶対的一神の表象が組みこまれていたと考えざるを得ないのである。」
「例えば、(中略)ベドウィン詩人ナービガ――この人は当時アラビアで一二を争うジャーヒリーヤの大詩人だった――のごときは、ヒーラ王朝を訪れて、世に有名なキリスト教君主ヌウマーン・イブン・アル・ムンジルの愛顧を受け、この王をほめたたえる歌を作り、後にヌウマーン王の寵を失ってからはガッサーン朝に移り、その宮廷の客となって、アムル・イブン・アル・ハーリスのほめ歌を作った。」
「彼がこれら二人のキリスト教王朝の君主に捧げた頌詞の中には、アッラーがふんだんに出て来る、しかもキリスト教的絶対神の名として。」
「原来、一般に言葉の意味の変化をひき起す力は実に微妙なもので、社会的に影響力のある人によって度々特別の意味に使われると、いつのまにかその方向に向って色付けが生じて来るものである。たとい本心でないにしても、一世の大詩人ナービガがアッラーの語をキリスト教的意味に使ったということだけで、それが人の口の端に上り、少なくともその語をある特殊な言語的コンテクストで使用する際の人々の無意識の領域に働きかけるようになる。」
「こうしてジャーヒリーヤのアラブの言語意識のうちに、アッラーという言葉の意味構造は、知らず知らずのうちに一神教的色彩を帯びて行ったのだった。
 だがそれだけではなかった。アッラーという語の意味の一神教化への傾向を促進したもうひとつの重大な要因があった。そしてこの方面での一神教化は、(中略)純粋にジャーヒリーヤ的な一般アラブ民衆の宗教の只中から自然に、意図せずして、起って来たのである。
 原来この「アッラー」Allah という語は、al-ilah が発音上詰って出来た言葉。「イラーハ」(ilah)とは一般に「神」の意であり、「アル」(al-)は定冠詞であって、そのまま例えば英語に訳せば the god に当る。ユダヤ教、キリスト教をはじめイスラームでは「神」をあらわす普通名詞に定冠詞をかぶせることで、唯一絶対の神、それに対峙する他の神の存在を絶対無条件的に排除して、全宇宙にただそれだけ独存する神を意味する。しかしこの同じ定冠詞と名詞の組み合せは、英語の the god でもそうであるように、たくさんある神々の中のある特定の神を指して、「この神」とか「あの神」とかいうふうに個別指示的に使うことも当然できる。ジャーヒリーヤ時代のアラブは、まさにこの第二の意味でアッラーの語を使ったのである。」
「ジャーヒリーヤのアラブは多くの大部族、そのまた支部族に分岐していて、通例、部族の各々がそれぞれ自分の領界(テリトリー)に結びついた特別の神を祀っていた。そしてそれらの数多い部族神、すなわち地域神にはそれぞれ独自の名目が付けられていた。つまり各々が固有名詞をもって呼ばれていた。アッラーにしても、この次元においては、もともとメッカの豪族クライシュの部族神だったのである。」
「但し、このアッラーという名は、メッカの部族神を指示する固有名詞としての役割のほかに、一種特別な機能を果していた。それというのは、各部族が自分の神を呼ぶに際して、固有名詞を使うかわりに、さっき言った第二の意味、つまり the god のような意味でアッラーという語を始終使ったからである。
 この言語用法が、アッラーなる名の一般化を大いに促進することになった。(中略)多くの違った部族があって、多くの違った神々がそれぞれ別の名を所有している。もしそれらの部族のどれもが、自分の部族神を the god に当るアッラーという名で呼び慣わすならば、当然「アッラー」は一般的意味指示作用をもつことになる。つまり抽象的に「神」を意味する傾向に進んで行く。そしてこのような抽象的「神」の意味が一旦確立されてしまえば、もうそこから「一神」への移行はただ一歩である。こうしてジャーヒリーヤの言語慣用そのものの中に、アッラーの一神化への傾向は知らずして進められていたのである。」



「第二部 イスラームとは何か」「八 イスラームの預言者」より:

「原来、この種の霊感現象とその特殊言語的性格とは、ジャーヒリーヤの人々にとってさほど珍しいことではなかった。今の言葉でいうシャマニズム現象として、当時のアラブのむしろ見慣れ、聞き慣れたことだったのである。何か目に見えぬ神霊的な存在が、突然誰か――多くの場合には職業的あるいは専門的な巫者――に襲いかかり、一時的にそれに乗り移って、その人を忘我状態に引きこむ。するとその人は普通の状態では絶対に言えないような重々しい言葉を、緊迫した拍子で口にし始める。俗にいう憑者(つきもの)である。アラビア語では「タジュニーン」(tajnin)という。「タジュニーン」とは字義通りに、「ジン」(jinn)が憑くことを意味する。「ジン」は(中略)アラブの通俗信仰で大きな働きをする妖霊である。そしてジャーヒリーヤのアラブたちの目に映ったムハンマドの霊感状態は、まさしくこの種の「タジュニーン」現象だったのである。
 ところでジャーヒリーヤ時代のアラビアで、「タジュニーン」現象の典型的なものとされていたのは詩歌である。古代のアラビア沙漠で誰もが信じていたところによると、贋ものでない本当の詩人は、ジンから霊感を受けて詩を作る。詩人はジンに憑かれた人。また、ジンとのこういう親密な交渉のゆえに、詩人は常人の認識の限界を超えた、存在の不可視の次元についての事情に通じた人として一般の人々の尊敬を受けていた。「詩人」を意味するアラビア語「シャーイル」(sha'ir)は文法的にいわゆる能動的現在分詞形で、その源にある動詞は「シャアラ」(sha'ara)、「知る」「知識をもつ」という意味である。従って「詩人(シャーイル)」とは知者、特に常人の知り得ぬ不可視界を直接に知り、その事情に精通した人を意味する。
 古代中国において、殷王朝では最高位にあった巫者が、時代とともに次第に下落して、ついには乞食、賤業者のたぐいになってしまったのと同じく、アラビアでも、シャマン的知者としての詩人にたいする尊信は次第に落ちて、ムハンマド出現の頃にはすでにその地位は昔に比して著しく低くなり、詩人は世人に蔑まれることが多く、悪くすると狂人扱いされかねないほどの有様だったし、またさればこそ、詩人と同一視されたムハンマドが憤然としてこれに抗議した気持もわかるのだが、しかし、有名な大詩人ともなれば、その頃でもまだ充分世人の尊敬の的であった。ジンの霊感でもの言う人としての詩人のイメージはまだ人々の意識に生きていた。
 さて、ジャーヒリーヤ時代の俗信におけるジンと詩人との結びつきには、かなり興味深い側面がある。ジンは生れつき気まぐれないたずら者。だがそれでいて、なかなかの気むずかし屋であり、またそれなりに忠実なところもあった。ジンは誰にでも霊感を与えるというわけではなかった。個々のジンにはそれぞれの特殊な好みがあって、その好みに従って人を選んだ。
 これと思う人を見つけると、ジンは不意に彼に飛びかかり、地面に叩きつけ、胸の上に馬乗りになって、いやでもその人を自分の言葉の代人にしてしまう。ここで初めてその人はそのジンのいわば専属詩人になるのだ。つまりこの経験はその人にとって詩的世界への入所式のような儀礼的意味のある事件なのであって、こういう経験をまだしたことのない人は正式な意味での「詩人(シャーイル)」ではない。
 こうして一旦成立したジンと詩人との関係は、まるで恋人同士の関係のように親密なものであって、互いに相手を裏切って他に心を移すようなことはまず絶対になかった。一人一人の詩人のジンは、それぞれが特定の呼び名――一種の綽名――をもっていた。例えば大詩人アーシャーと組んだジンの名はミスハル(Mishal)、訳せば「鑿(のみ)」とか「よくすべる舌」とか、いかにもなめらかでしかも鋭いこの詩人の詩風をあらわす綽名である。アーシャーの作品の中には、このジンがこの名で度々登場して来る。」
「それはさておいて、(中略)詩人の詩的体験を通じて、詩人は一番最初の「入所式」から始めて、霊感の興奮のうちに、我(われ)にあらぬ律動的な言葉を口走り、ついにそのような言葉の技術を身につけて行く。この全行程は、預言者の形成行程と形式的、構造的に非常に似ている。ジンであれ何であれ、ともかく超自然的な存在の霊感によるという点でも、その霊感が「上方から降下して来る」という点でも、またこの経験によって不可視の世界の情報を獲得して「知者」になるという点でも。
 こう考えてみれば、ムハンマドが啓示を受け出したころ、ジャーヒリーヤの人たちが彼を詩人と考えたことも故なしとしない。コーランのいろいろな箇所で、ムハンマドばかりでなく古来多くの預言者が「マジュヌーン」(majnun)として扱われたことが指摘されている。「マジュヌーン」という語は今のアラビア語では普通に「気狂い」の意に使われているが、その本来の意味はジンに憑かれた男のことである。俗にいう「もの狂い」とか「もの憑き」に当る。(中略)詩人は特にその最も典型的なものであった。」
「なお、ジャーヒリーヤには、詩人のたぐいのほかに、もう一つ、社会的に非常に重要な役割を果した「マジュヌーン」の種類があった。「カーヒン」(kahin)と呼ばれる一群の人々である。
 このアラビア語は、語源的にヘブライ語の「コーヘーン」(kohen)と姉妹関係にある古い言葉である。(中略)普通名詞としてのヘブライ語でのこの語の意味は「祭司」、つまり神殿に仕えて神を祀る聖職者である。」
「アラビア語でこれに該当する「カーヒン」もまた古代アラビア社会で非常に高い位置を占める巫者だった。すなわち詩人と同じく、これもまたジンと結びついた「もの憑き」で、その内的構造からいっても、機能からいっても、詩人とよく似ていた。
 「カーヒン」はもと、一定の神殿にあって神託を人々に告げる高位の祭司だったが、詩人の場合と同様、次第にその地位は低下し、神殿との結びつきを失って、ムハンマドが活躍し始める頃には、巷間の巫者、たんなる占い師のようなものに堕しつつあった。それでもなお、夢判断、医術、失せ物のあり場所の言いあて、犯罪者の捜査などでは民衆の日常生活にはなくてはならぬ存在だったし、また部族と部族の争い事が起った時には、部族の「知者」、相談役として重宝がられもした。」

「ジャーヒリーヤの人々は(中略)ムハンマドを「カーヒン」と見なした。
 イスラーム側がこれをあくまで否定したことは言うまでもない。」
「ムハンマドは詩人でもない、巫者でもない。ムハンマドはイスラームの預言者、アッラーの使徒だ、と。だがこの主張をほとんどすべてのアラブに認承させるには、ムハンマド自身を始めとして、彼を信じる人たちの必死の努力が必要だったし、またムハンマドの主張をどこまでも認めまいとする頑強な敵との劇しい闘争を経なければならなかった。ある意味では、コーランはこのすさまじい闘いの生きた記録である。」






















































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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