井筒俊彦 『イスラーム文化』 (岩波文庫)

「われわれが常識的に歴史と呼んでいるものと平行線を描きながら、存在空間の一オクターブ高い次元で展開していく歴史がある。「聖なる歴史」です。それがわれわれの目には神話的物語として映るのであります。(中略)目に見える外的事件または事態のかげに必ず目にみえぬ内的、形而上的事件あるいは事態がある。内と外とが複雑微妙にからみ合って出来上る歴史、それこそ本当に具体的な人類史なのであります。」
(井筒俊彦 『イスラーム文化』 より)


井筒俊彦 
『イスラーム文化
― その根柢にあるもの』
 
岩波文庫 青/33-185-1

岩波書店
1991年6月17日 第1刷発行
1992年9月5日 第4刷発行
233p
文庫判 並装 カバー
定価460円(本体447円)



「編集付記」:

「本書の底本には『イスラーム文化』(一九八一年、岩波書店刊)を使用した。」


本書「後記」より:

「昭和五十六年春、国際文化教育交流財団の主催する「石坂記念講演シリーズ」第四回目として、私はイスラーム文化に関する三つの講演をする機会をもった。
 三回の講演全体を通じての主題は「イスラーム文化の根底にあるもの」、副題として「その現代的意義」。第一回は「宗教的根柢」というテーマで三月二日に、第二回目は「法と倫理」、三月十六日に、そして最終回は「内面への道」をテーマにして四月三日に。本書は会場で録音されたその講演の記録を改めて活字になおしたものである。」



井筒俊彦 イスラーム文化


カバー文:

「イスラーム文化を真にイスラーム的ならしめているものは何か。――著者はイスラームの宗教について説くことからはじめ、その実現としての法と倫理におよび、さらにそれらを支える基盤の中にいわば顕教的なものと密教的なものとの激しいせめぎ合いを認め、イスラーム文化の根元に迫ろうとする。世界的な権威による第一級の啓蒙書。」


目次:

はじめに
Ⅰ 宗教
Ⅱ 法と倫理
Ⅲ 内面への道
後記




◆本書より◆


「Ⅲ 内面への道」より:

「ところで「内面への道」と申しますからには、それは当然、「外面への道」を対立項として予想しております。「外面への道」とはここでは、前回主題的にややくわしくご説明いたしました共同体(ウンマ)への道、すなわち『コーラン』後期=メディナ期の精神に基く文化パターンとして、宗教を社会化し、政治化し、法制化し、そしてついにはそれをこのあいだお話いたしましたシャリーア、つまりイスラーム法にまで仕立て上げていった正統派ウラマーたちの道のことです。」
「ウラマーたちがイスラームを社会制度的形態に発展させつつあったちょうどそのころ、それと並んで、そのまったく逆の方向に向って、内面的視座とでもいうべきものを重視していこうとする立場が、イスラーム文化形成の底流として強力に働き始めておりました。ここで内面と申しますのは、感覚や知覚や理性ではぜんぜんとらえることのできない事物の隠れた次元、事物の存在の深層、深みというようなことでありまして、一切の事物にこの意味での内面、深層を認めて、それを探求しようといたします。どんなものにもふつうの人の目には見えない深みがある、深層がある。勿論、宗教にもそういう意味での内面があるはずです。「内面への道」をとる人たちのことを、ウラマーに対しまして一般にウラファーと申します。
 ウラマーとウラファー。二つともアラビア語で、文法的には複数形です。ウラマーの単数形はアーリム、ウラファーの単数形はアーリフ、ともに「知者」、ものを知っている人を意味します。但し、同じく「知者」とはいっても、ウラマーとウラファーとではものを知るその知り方が根本的に違う。アーリムとは「学者」という訳語がぴったり合うような人、つまりものごとを学問的に研究したり理性的に頭で考えたりして知る人でありまして、その「知」は主として事物の概念的、思弁的理解に基く概念的知識。これに反してアーリフといいますのは、合理的、分析的思弁に頼らず、むしろその彼方に、事物の真相(=深層)を非合理的直観によって、あるいはその事物が意識の深みに喚起する象徴的形象を通して、簡単に言えば霊感によって、事物の内面的リアリティーを把握して知っている人のことであります。」
「イスラーム文化内部のこの矛盾的対立の一方の極を代表するウラマーたちは、イスラームをそっくりそのままシャリーア体系に集約してしまうことによって、これに強固な社会制度としての形態を与え、それを世界史に有名なサラセン帝国の基礎として確立することに成功した人たちでありまして、そのことからも当然予想されますように、政治の分野では体制派であり、保守勢力を代表いたします。イスラームの歴史を通じてこの人たちは、たいていの場合、その時その時の政治権力と結びついて、それによって自らを政治的権力構造の一部に組み込むことに成功しました。こうして西暦九世紀以後、イスラーム共同体内部におけるウラマーは、宗教本来の領域だけでなく、政治的にも一大勢力として共同体の事実上の支配者にまごうばかりの位置にのし上ってくるのであります。
 これに反して「内面への道」を行く人たち、ウラファーは、外面主義者ウラマーに対抗し、これと闘う立場にありましたので、(中略)その時その時の政治的主権体制に反抗することを余儀なくされました。つまり反体制派であります。しばしば彼らは政府に対する叛逆者として、また『コーラン』の教えに背く背信者、異端者として迫害され、殺戮されました。先ほどイスラーム文化史は「外面への道」と「内面への道」との激しい相剋のために血塗られた歴史となったと申しましたが、血を流したのはたいていは「内面への道」を行く人たちであります。政府の政治力、軍事力と結びついたウラマーたちの力が圧倒的に強かったからであります。」
「一般に「内面への道」をとる人々はみな大なり小なり自分たちがイスラーム共同体における異邦人であることを意識している。また同時に、異邦人であることによってこそ、自分たちは本当の意味でのイスラーム教徒なのであるという誇りがそこにはあるのです。否定的意義付けと肯定的意義付けとの間を揺れ動くこの異邦人意識の屈曲が「内面への道」の文化の性格に特異な色を与えます。」

「それにつきまして、まず第一に注意しなければならないことは、同じく「内面への道」(中略)とか申しましても、(中略)大きく分けまして二つの非常に違うグループの人たちが二つの違った形、違った方向で内面的イスラームの発展に関わることになったという事実であります。(中略)その一つはシーア派的イスラーム、もう一つはスーフィズムの名で(中略)知られておりますイスラーム神秘主義であります。シーア派的イスラームと神秘主義的イスラーム(スーフィズム)とは、(中略)もともと歴史的起源も、思想傾向も、存在感覚も、著しく違ったものでありまして、これを混同することは許されません。」

「私は先に、『コーラン』に記録された神の啓示を前期と後期、メッカ期とメディナ期とに分けまして、両者のあいだの根本的相違をご説明いたしました。前回の主題であった律法的共同体型の宗教としてのイスラームは、メディナ期の精神の文化的展開であります。これに対して、メッカ期の啓示に基くイスラームは、個人的、実存型の宗教で、スーフィズムはこのメッカ期の啓示の精神を、そのまま純粋に推し進めていったものといえると思います。迫りくる天地終末の日と審判のとき、己れの生きざまの罪深さ、怖れ、およそこういったものがメッカ期のイスラームを濃厚な終末論的実存的情緒で色づける。それはもうこの前にお話したところですが、スーフィーと呼ばれる人たちは、まさにそこから出発して徹底的に現世否定の道を進みます。現世否定とは具体的には禁欲生活、苦行道の実践という形をとって現われます。禁欲と清貧、それはすなわち主体的に現世への一切の執着を断ち切ること。現世を本質的に迷いの世界と見てこれに背を向け、現世的なものすべてを罪障の源泉として実存的に否定することであります。
 人間の現実のあり方、いわゆる現世は、そのままでは堕落であり、悪である。こう感じるところまでは、前回にお話しましたスンニー派の人たちと異るところはない。つまり出発点は同じなのですが、共同体的イスラームの代表者たちとは違って、スーフィーたちはその悪い現世を強いてよくしようとはいたしません。現世を神の意志に従って建設し直す、そんなことは問題外です。現世はもうはじめから根源的に悪なのであって、神の意志の実現される場所などではありえないのですから。むしろ一刻も早く現世に背を向けて、現世的なもの一切を捨て去らなければならない。それこそ神の意志だ、というのであります。この揺がしがたい信念が人間実存の深部に座を占めるとき、パトス的には厭世主義、ロゴス的には現世逃避思想となって現われてくる。
 この前私は、イスラームでは、元来、隠者とか世捨人とかいうものを認めないと申しました。しかし、あれは共同体的、スンニー的イスラームの立場でありまして、スーフィーたちの立場はまさに正反対です。彼らは文字どおり隠者、世捨人であります。世をいとい、世に背くのです。しかも意識的に。ここでも「外面への道」を行く人と、「内面への道」を行く人とは、正面から衝突いたします。
 ですから当然、共同体の社会的秩序を守るための規範であるシャリーア(イスラーム法)はその価値を失って、それほど大切なものではなくなってしまいます。(中略)現世そのものが大切でなくなれば、シャリーアが大切でなくなるのは当然であります。
 もともと、スーフィーは現世に背を向けた孤独者です。ただ一人の神の前に、ただ一人で立つ、ただ一人の実存、それがスーフィーであります。」
「西暦十一世紀の偉大なスーフィーだったアブー・サイード・イブン・アビー・ル・ハイルという人(中略)は、(中略)生涯一度もメッカに巡礼したことがありませんでした。メッカ巡礼というのは、ご承知のように、すべてのイスラーム教徒に課せられた宗教法上の最高の義務の一つでありまして、重い病気とか貧乏で旅の費用が出せないとか、何か正当な理由なしにこの義務を怠りますと、大変重い罪を犯すことになります。
 なぜメッカ巡礼をしないのかと尋ねられたときに、アブー・サイードはこう答えました。「一軒の石の家」――イスラームの聖所、メッカの石造りの神殿カアバを、「一軒の石の家」というのですから相当なものです――「一軒の石の家を訪問するために、わざわざこの足で何千里の土地を踏んで歩いていく、そんなことをして一体どうなるというのだ。本当の神人はじっと自分の家に坐っているだけでいい。そうすると天上のカアバの神殿が(つまり地上のメッカの神殿ではなくて、永遠の天上のカアバ自体が)、向うからやってきて、一昼夜のうちに何べんも彼にお参りしてくれるのだ」と。シャリーアに対するスーフィーの見方を最も極端な、そして大胆不敵な形でこの言葉は示しております。
 しかし、このような境地に達するまでにはスーフィーは長い、激しい修行の道を行かなくてはならない。これが、はじめにちょっとお話した自己否定の道、自我意識払拭の修行道であります。」
「アブー・サイード(中略)は、悪とは何か、そして最大の悪とは何かと質問されたときに、次のように答えたと伝えられております。「悪とは汝が汝であることだ。そして最大の悪とは、汝が汝であることが悪であるのに、それを汝が知らないでいる状態のことだ」と。そしてまた、「汝が汝であることよりも、大きな災いはこの世にはありえない」とも。」
「では、なぜ「汝の汝性」(トゥウィー・エ・トゥ)が悪であり、災いであり、罪ですらあるのか。」
「スーフィズムの、この問いにたいする答えは、おおよそ次のとおりです。私が我の意識をもつ限り、我と神とが対立する、それが悪なのだ。私が神に第二人称で汝と呼びかけるにせよ、あるいは神を第三人称で彼と呼ぶにせよ、ともかく存在は二つの極に分裂し、意識もまた二つに割れてしまうからだ、と。」
「「我こそ真実在」、つまり「我は神」という恐るべき宣言をして瀆神の罪を問われ、西暦九二二年、バグダードの刑場で悲劇的な死を遂げた超一級のスーフィー、ハッラージが、その詩の一節でこう歌っております。
  ああ、我といい、汝という。
  だがこういえば、神が二つになるものを。
    ……
  ああ、できることなら「二」という数を
  口にしないでおりたいものを。
と。」
「しかしながら、スーフィーが自己否定の道をどこまでも進んでいくうちに、思いもかけなかった不思議な事態が起ってまいります。自己否定がまったく新しい積極的な意味をもちはじめ、一種の自己肯定に変ってくるのです。否定に否定を重ねて自我意識を消しながら、我をその内面に向って深く掘り下げていくと、ついに自己否定の道の極限において、人は己れの無の底に突き当る。ここに至って人間の主体性の意識は余すところなく消滅し、我が無に帰してしまいます。自我の完全な無化、我が虚無と化すということです。
 ところが、この人間的主体性の無の底に、スーフィーは突如として燦然と輝き出す神の顔を見る。つまり人間の側における自我意識の虚無性が、そのまま間髪を入れず、神の実在性の顕現に転生するのであります。
 この異常な実存的体験を、さきほど名を挙げました神秘家ハッラージが、その詩の一節で「わが虚無性のただ中にこそ永遠に汝の実在性がある」という言葉で描いております。そしてその同じことを、十五世紀イランのスーフィー詩人、哲学者ジャーミーは散文で、「人間的自我の消滅とは、神の実在性の顕現が、人間の内部空間を占拠し尽して、その人の内にもはや神以外の何ものもの意識もまったく残さないことだ」といっております。これらの言葉によってわかりますように、スーフィーの体験的事実としての自我消滅、つまり無我の境地とは、意識が空虚になりうつろになってしまうことではなくて、むしろ逆に、神的実在から発出してくる強烈な光で、意識全体がそっくり光と化し、光以外の何ものもなくなってしまうということなのであります。」
「シーア派第一代のイマーム・アリーの言葉を私は憶います。「ロウソクを吹き消すがいい。もう夜が明けたのだ」と。太陽、光の源泉そのもの、つまり神が直接現われてしまった以上、もうロウソクの火(認識主体としての自我)に何の用があろうというのです。大胆な、しかし、いかにも清々(すがすが)しいこの言葉をスーフィーは好んで引用いたします。全世界が太陽の光に満ちているとき、貧相なロウソクなど点しておいても意味がないと言い切ってしまうスーフィズム、つまり神を見た人、神になった人には、もう宗教は用がないのだと言い切ってしまうスーフィズムは、イスラーム共同体の内部にあって歴史的に危険分子として今日まで存続してまいりました。しかし、つねに危険視され、迫害されつつも、スーフィズムがイスラームに精神的深みと奥行きを与えることによって、イスラーム文化の形成に重大な寄与をなしてきたことは、疑いの余地のないところであります。」



























































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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