井筒俊彦 『意味の深みへ』

「一般に神秘主義といいますものは、ある意味で伝統的宗教の中における解体操作である、と私は考えております。つまり神秘主義とは、ある意味で宗教内部におけるデコンストリュクシオン運動であると思います。」
(井筒俊彦 「スーフィズムと言語哲学」 より)


井筒俊彦 
『意味の深みへ
― 東洋哲学の水位』


岩波書店
1985年12月10日 第1刷発行
1990年4月15日 第7刷発行
vii 306p
B6判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,200円(本体2,136円)



本書「あとがき」より:

「『思想』誌に連載し始めた時から完了するまで、前著『意識と本質』は、東洋哲学諸伝統の共時的構造化という根本テーマを、「本質」概念に焦点を絞りながら、行けるところまで追求してみようと意図したものであって、おのずからそこには、全体を一貫する連続的統一性がある。が、それとは別に(中略)広い意味で同じ主要テーマに直接間接に関連するあれこれの特殊問題について、折にふれ、独立に幾つかの論文を私は書き、また要請に応じて講演したりしてきた。それらの論文と講演の筆録の主なものを、本書はその内容とし、全体を「意味の深みへ」という題で一括する。副題「東洋哲学の水位」は、本書に収められたすべてが――現代の西欧ポストモダン的哲学の提起する問題を論じる時でさえ――伝統的東洋哲学の立場の開明を究極の関心事とすることを示唆する。」


井筒俊彦 意味の深みへ


カバー裏そで文:

「言語を介して人間存在の本質に迫る試みは決して新しいものではない。だが、デリダからスーフィーをへて空海へ、ソシュール言語学からイスラーム神秘哲学をへて唯識・華厳の学へと、この広大な精神世界の体験を言語化しようと企てたものはいまだかつてなかった。古今東西の思想を自由闊達に渉猟し、しなやかな精神をもって「意味の深みへ」と向かう碩学の思索は、思想のポストモダン的状況において、知の沃野が東洋哲学の世界を通して限りなく拡がることを啓示する。」


目次:


一 人間存在の現代的状況と東洋哲学
二 文化と言語アラヤ識――異文化間対話の可能性をめぐって

三 デリダのなかの「ユダヤ人」
四 「書く」――デリダのエクリチュール論に因んで

五 シーア派イスラーム――シーア的殉教者意識の由来とその演劇性
六 スーフィズムと言語哲学
七 意味分節理論と空海――真言密教の言語哲学的可能性を探る
八 渾沌――無と有のあいだ

あとがき




◆本書より◆


「文化と言語アラヤ識」より:

「問いが発される。だが、それにたいしてはイエスともノーとも言えない。(中略)イエスでもノーでもなく、可能・不可能、矛盾対立する両極の間に、何か新しい形の答えを模索しつつ、揺れ動く。デリダのいわゆる「還元不可能性の境界地域」を行くほかはないのだ。」

「人間意識の意味生産的想像力(ヴェーダーンタ哲学者、シャンカラのいわゆる幻力(マーヤー)、自然的事物・事象を蜃気楼のように現出させる幻想能力)の織り成す、半ば透明、半ば不透明なベールが、我々と「自然」との間を隔てている、しかも我々は、通常、それに気付いていない、ということである。言い換えれば、我々が、日常、無反省的に、「自然に与えられたままの」事物・事象と思いこんでいる客観的対象は、実は、意識の「根深い幻想」機能に由来する意味形象の実体化にすぎない、ということでもある。要するに、地球上に存在する諸言語の一つ一つが、それぞれ独自の「現実」分節の機構を内蔵していて、それが原初的不分節(未分節)の存在を様々の単位に分節し、それらを人間的経験のいろいろな次元において整合し、そこに、一つの多層的意味構造を作り出すのである。
 もし以上のように考えることが正しいとすれば、二つの違う言語共同体のなかに生れ育った人々は、それぞれの言語に特有の意味生産的想像力の違いに従って、二つの違う「世界」を見、二つの違う仕方で「現実」を経験しているものと考えざるをえない。それが文化の違いとして現われてくるのだ。」

「一九七七年一月、コレージュ・ド・フランスでの開講講義において、ロラン・バルトはコトバの「圧制的」(oppressif)本性について語っている。「すべて言語(ラング)なるものは一つの分類様式(classement)である」と彼は言う。ここで彼のいわゆる分類とは、本論の用語法では分節に当る。そして「およそ『秩序』(ordo)なるものは、区分けであると同時に、威嚇をも意味する」と。コトバの意味作用の機構そのもののなかに、権力、強制が組み込まれている。コトバは、何を、いかに言うべきかを、人に強制する。そしてバルトは、コトバは、もともとファシスト的なものだ、という。一見、極端とも思えるような発言をする。「元来、ファシズムとは、何かを言うことを禁止するのではなくて、何かをどうしても言わなければならないように強制するもの」だから。
 私はこれに更に次の一言をつけ加えたい。すなわち、コトバは、何を、どう言うべきかを強制するだけでなくて、何をどう見るべきかをも強制する、と。コトバが分類様式であるならば、個々の言語(ラング)は、それぞれ特殊な(存在)分類のシステムでなくてはならない。それは、その言語を語り、その言語でものを考える人々に、ある一定の世界像を強制する。一つの言語は、一つの自然的解釈学の地平を提供する。我々はそれによって「世界」を見、それによって「現実」を経験する。経験するように強制されるのだ。」
「しかしながら、考察をもう一歩進めてみると、文化およびその基底にあるコトバが、必ずしも否定的事態に終始するものではないことを、我々は知る。文化を成立させるコトバの意味生産的メカニズムには、もっと可塑的な、力動的な側面があるのだ。」
「一体、バルトがコトバの本源的分類性について語り、コトバのファシスト的圧制を云々する時、彼は主としてそれの社会制度的表層を見ているのである。」
「だが、実は、言語は、従って文化は、こうした社会制度的固定性によって特徴づけられる表層次元の下に、隠れた深層構造をもっている。そこでは、言語的意味は、流動的、浮動的な未定形性を示す。本源的な意味遊動の世界。何ものも、ここでは本質的に固定されてはいない。すべてが流れ、揺れている。固定された意味というものが、まだ出来上っていないからだ。(中略)「意味」というよりは、むしろ「意味可能体」である。縺れ合い、絡み合う無数の「意味可能体」が、表層的「意味」の明るみに出ようとして、言語意識の薄暮のなかに相鬩(せめ)ぎ、相戯(たわむ)れる。(中略)無と有のあいだ、無分節と有分節との狭間(はざま)に、何かさだかならぬものの面影が仄かに揺らぐ。」
「はっきりした分節性をもたないコトバは、輪郭のはっきりした意味形象を生まない。そこに生み出されるものは、せいぜい、漠然として曖昧な、輪郭のぼやけた意味、すなわち「原基(プロト)意味形成素」ないし「意味可能体」である。コトバとしては、要するに、現勢化を待つ意味的エネルギー群としてのみ存在する潜勢態のコトバと考えることができよう。唯識派の基本術語の一つとして重要な位置を占める「種子(しゅうじ)」(bija)は、ここまで縷説してきた言語哲学の立場からすれば、このような意味的エネルギーの実体的形象化にほかならない。
 唯識派では、「種子」の、いわば溜り場として、「阿頼耶(あらや)識(alaya-vijnana)なる意識下の場所を意識構造モデル的に措定する。アーラヤとは貯蔵所、収蔵所の意味。よって alaya-vijnana を漢訳仏典では「蔵識」と意訳する。」
「元来、唯識哲学は、大ざっぱに見て三層の意識構造モデルを立てる――あくまで理論的モデルなのであって、本当にそのような三層が場所的に実在するというのではない――(一)感覚知覚と思惟・想像・感情・意欲などの場所としての表層(前五識および第六意識)、(二)一切の経験の実存的中心点としての自我意識からなる中間層(第七末那識)、(三)近代心理学が無意識とか下意識とか呼ぶものに該当する深層。第三の深層意識領域が、いまここで問題としている alaya-vijnana である。
 この概念を、言語理論的方向に引きのばして、私は「言語アラヤ識」、「意味アラヤ識」などという表現を使う。まだ経験的意識の地平に、辞書的に固定された意味として、出現するには至っていない、あるいは、まだ出現しきっていない、「意味可能体」、つまり、まだ社会制度としての言語(ラング)のコードに形式的に組み込まれていない浮動的な意味の貯蔵所として、上述の意識構造モデル第三層を形象化するのである。このように形象化された言語アラヤ識は、半ば出来かけの、まだ一定の「名」をもたない、不定の意味を収蔵する場所であるばかりでなく、意味らしきものが、ほとんど全く分節されない漠然とした形で、始めて生れ出てくる場所でもある。要するに、すべて意味と呼ばれるものが誕生し生育する意識下の領域である。
 およそ人間の経験は、いかなるものであれ――言語的行為であろうと、非言語的行為であろうと、すなわち、自分が発した言葉、耳で聞いた他人の言葉、身体的動作、心の動き、などの別なく――必ず意識の深みに影を落して消えていく。たとえ、それ自体としては、どんなに些細で、取るに足りないようなものであっても、痕跡だけは必ず残す。内的、外的に人が経験したことがあとに残していくすべての痕跡が、アラヤ識を、いわゆるカルマ集積の場所となす。そしてカルマ痕跡は、その場で直ちに、あるいは時をかけて次第に、意味の「種子」に変る。この段階におけるアラヤ識を、特に「言語アラヤ識」と、私は呼びたいのである。
 ともあれ、言語アラヤ識は、こうして、人間の心的・身体的行為のすべてのカルマ痕跡を、意味イマージュ化した「種子」の形で蓄積する下意識領域として構想される。」
「さて、意味「種子」が、具体的に実現されるのは、個人個人の意識内であるが、言語アラヤ識そのものは、根源的に、個人の心の限界を超出する。それは、水平的には個人の体験の範囲を越えて拡がり、垂直的には、これまですべての人が経験してきた生体験の総体に延びるところの、集合的共同下意識領域として表象さるべきものであって、この意味において、「種子」に変成したかぎりにおける、すべての人のすべてのカルマ痕跡がそこに内蔵されている、と考える。コトバによって生み出される文化の下には、このような集合的共同意味「種子」の基底が伏在しているのである。」
「もし我々がコトバの深層的意味構造に気づき、それに注意を向けるなら、文化の本源的言語性に関する我々の見方は根本的に変ってしまうだろう。使い古されて色褪せた記号のコード、ほとんど化石化した意味の構成する、固くかたまって動きのとれないシステムのかわりに、創造的エネルギーにみちた意味マンダラの溌剌たる動きを、我々は見るだろう。そして、この全体的意味マンダラの一領域として眺められる時、一見、制度化され、因襲化し、枯渇し切ってしまったかのように思われていた「外部言語」すら、意外な生命力を示しはじめるだろう。なぜなら、コトバの表層構造も、本当は、アラヤ識それ自体の外化形態にほかならないのだから。コトバが文化の源であると言う時、我々は、「コトバ」を、このような意味で、社会制度的「言語」表層からアラヤ識的「意味可能体」の深層に及ぶ有機的全体構造において理解しなければならない。辞書に登録された語の表層的存在分節のシステムが、それだけで直ちに「文化」を構成する、とは考えないのである。」



「「書く」」より:

「古来、ヨーロッパ思想の伝統では、言語に関しては、パロールが第一義的、エクリチュールは第二義的とされてきた。文字は音声の不完全な転写。エクリチュールはパロールの派生物、代替物にすぎない、と。音声言語と書記言語の、この上位下位関係を、デリダは逆転させる。」


「シーア派イスラーム」より:

「しかし、事は思い通りにはいきませんでした。さきにもお話しましたように、一代目から三代目のカリフは全部彼の意思に反した人がその地位を占めました。自分こそ唯一の正しい後継者だと信じていたアリーは、じっと我慢してそれを見続けてまいりました。我慢とか、辛抱とか――そこには、自分が不当な扱いを受けている人間であるという意識があります。自分は不当に弾圧され、就くべき位に就かずにじっと身をひそめているという、被抑圧者の意識。苦難の道を行く、あるいは苦難の道を行くことを強制される受難者の意識。こういう意識には、常に一種の悲壮感が纏綿いたします。
 悲壮感、この感覚が、アリー一人の心理現象ではなくて、アリーから始まるシーア派の歴史的展開全体にわたって、深い暗い影を落としていきます。それがシーア派イスラームの、一つの顕著な特徴です。明るく陽の当たる人生の表街道を陽気に歩いていく人たちに背を向けて、陽の当たらない裏街道を、あるいは暗い夜の道を、行く人。そういうイメージです。」
「こうしてアリーという人は、一生悩み続け、苦しみ続け、受難者として生きながら、悲劇的最期でその生涯の幕を閉じたのであります。」







































































































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本