井筒俊彦 『意識の形而上学』

「さて、人が実存的に「不覚」の状態にいるということは、(中略)「妄念」の所産にすぎぬ妄象的存在界を純客観的に実存するものと思いこんでそれに執着し、そのために人が自己の本性を晦冥され、自己本然のあり方から逸脱して生きている――しかも、それに気づかずに――ということ。「不覚」の真只中にいながら、それを全く自覚していない、それこそ「不覚」の「不覚」たる所以なのである。」
(井筒俊彦 『意識の形而上学』 より)


井筒俊彦 
『東洋哲学 覚書 
意識の形而上学
― 『大乗起信論』の哲学』
 

中央公論社
1993年3月20日 初版発行
1993年5月20日 四版発行
204p
四六判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,500円(本体2,427円)
表紙・扉: 唐代摺仏
カバー: 十一面千手観音立像(泉涌寺蔵)



本書「あとがきに代えて」より:

「この本の第一部「存在論的視座」は雑誌「中央公論」一九九二年五月号に、第二部「存在論から意識論へ」は同じく一九九二年八月号に、そして第三部「実存意識機能の内的メカニズム」は同じく一九九二年十月号に、それぞれ掲載された。」


井筒俊彦 意識の形而上学 01


帯文:

「壮大な構想による東洋哲学の思想的未来
六世紀以後の仏教思想史の流れをかえた『起信論』を、東洋哲学全体の共時論的構造化の為のテクストとして現代的視座から新しく捉え直した、世界的碩学の遺著。」



目次:

第一部 存在論的視座
 I 序
 II 双面的思惟形態
 III 「真如」という仮名(けみょう)
 IV 言語的意味分節・存在分節
 V 「真如」の二重構造
第二部 存在論から意識論へ
 VI 唯「心」論的存在論
 VII 「意識」(=「心(しん)」)の間文化的意味論性
 VIII 「心真如」・「心生滅」
 IX 現象顕現的境位における「真如」と「心」
 X 現象的世界の存在論的価値づけ
 XI 「空」と「不空」
 XII 「アラヤ識」
第三部 実存意識機能の内的メカニズム
 XIII 「覚」と「不覚」
 XIV 「不覚」の構造
 XV 「始覚」と「本覚」
 XVI 「熏習」的メカニズム
 XVII 倫理学的結語

あとがきに代えて (井筒豊子)
事項索引



井筒俊彦 意識の形而上学 02



◆本書より◆


「第一部 存在論的視座」より:

「『大乗起信論』は、疑いもなく、本質的に一の宗教書だ。
 だが、この本はまた仏教哲学の著作でもある。私は、いま、特にこの第二の側面に焦点を絞って『起信論』を読みなおし、解体して、それの提出する哲学的問題を分析し、かつそこに含まれている哲学思想的可能性を主題的に迫ってみたいと思う。つまり、この論書が顕在的に言表し、あるいは潜在的に示唆している哲学的プロブレマティークの糸を、できるところまで辿ってみようとするのだ。
 要するに、私が年来考え続けている東洋哲学全体の、共時論的構造化のための基礎資料の一部として、『起信論』という一書を取り上げ、それの意識形而上学の構造を、新しい見地から構築してみようとするのである。」
「東洋哲学全体に通底する共時論的構造の把握――それが現代に生きる我々にとって、どんな意義をもつものであるか、ということについては、私は過去二十年に亙って、機会あるごとに繰り返してきたので、ここでは多くを語らない。要は、古いテクストを新しく読むということだ。「読む」、新しく読む、読みなおす。古いテクストを古いテクストとしてではなく……。
 貴重な文化的遺産として我々に伝えられてきた伝統的思想テクストを、いたずらに過去のものとして神棚の上にかざったままにしておかないで、積極的にそれらを現代的視座から、全く新しく読みなおすこと。切実な現代思想の要請に応じつつ、古典的テクストの示唆する哲学的思惟の可能性を、創造的、かつ未来志向的、に読み解き展開させていくこと。
 どの程度の成果が期待できるか、自分にはわからないが、とにかく私は、およそこのような態度で東洋哲学の伝統に臨みたいと考えている。」

「いま述べたような哲学的読みを目的として『起信論』のテクストを取り上げる場合、我々は先ず二つの顕著な特徴に出逢う。
 その一は、思想の空間的構造化ということ。「心(しん)」とか意識とかいう非空間的な内的機能を主題としながら、『起信論』の形而上学的思惟はそれをどこまでも空間的、領域的に構想する。この操作によって、本来の時間性を離脱した「心」は有限・無限の空間的拡がりとして表象され、その形で第一義的に構造化される(ベルグソンの顰め顔が目に見えるような!)。」
「『起信論』の思想スタイルの第二の特徴は、思惟が、至るところで双面的・背反的、二岐分離的、に展開するということである。言い換えるなら、思惟の進み方が単純な一本線でない、ということ。そこに、この論書の一種独特の面白さ、と難しさ、とがある。」
「思考展開の筋道は、至るところ、二岐に分かれ、二つの意味指向性の極(テロス)のあいだを、思惟は微妙な振幅を描きながら進んで行く。右に揺れ左に揺れ戻りつつ展開する思惟の流れに、人はしばしば路を見うしなう。要するに、一見単純な論理的構成にもかかわらず、『起信論』の思惟形態は、直線的ではないのだ。だから、このような思考展開の行き方を、もし我々が一方向的な直線に引き伸ばして読むとすれば、『起信論』の思想は自己矛盾だらけの思想、ということにもなりかねないだろう。」

「こうして『起信論』的「真如」の、無有と万有のあいだにゆらぐ双面性を話題とするにつけ、私はプロティノスの説く「一者」の形而上学の双面性を憶う。プロティノスは言う(要約)、
 「一者」は全宇宙の絶対無的極点。一切の存在者を無限に遠く超脱して、言亡慮絶の寂莫たる超越性の濃霧の中に身を隠す独絶者。それでいてしかも「一者」は「万有の父(パテール)」として、一切者を包摂しつくして一物たりとも余すところがない。自らを、「有」の次元に開叙するとき、あたかも巨大な光源から光が四方八方に発散するごとく、縹渺と無限宇宙を顕現し、また反対に自らを収摂するときは、一切の存在者を自己に引き戻し、全世界を寥廓たる「無」の原点に帰入させて一物も余すところがない、と。
 プロティノスの描く「一者」のこの形姿は、そのまま、ただちに以て『起信論』の「真如」の描写とするに足る。
 すなわち、全現象界のゼロ・ポイントとしての「真如」は、文字どおり、表面的は、ただ一物の影すらない存在の「無」の極処であるが、それはまた、反面、一切万物の非現実的、不可視の本体であって、一切万物をうちに包蔵し、それ自体に内在する根源的・全一的意味によって、あらゆる存在者を現出させる可能性を秘めている。この意味で、それは存在と意識のゼロ・ポイントであるとともに、同時に、存在分節と意識の現象的自己顕現の原点、つまり世界現出の窮極の原点でもあるのだ。」



「第二部 存在論から意識論へ」より:

「「心真如」の形而上的極限を、意識論的に、「自性清浄心」と呼ぶ。このことは前に述べた。そしてまた、より広い意味では、A領域それ自体が、全体を挙げて「自性清浄心」である、ということも。意識と存在のゼロ・ポイントとしての「心真如」は清浄であって、ただ一点の妄染すら、そこには無い。つまり「心真如」それ自体は、哲学的言辞で言えば、一切の意味分節を超絶しているのであって、それをこそ「空(くう)」というのだ。『起信論』のテクストは言う、
 「言うところの空とは、本(もと)より已来(このかた)(=本性的に)一切の染法相応せず(=妄念の生み出す一切の意味分節的区分区別と合致しない)。謂(いわ)く(=つまり)一切の法(=意味分節単位)の差別(=区分区別)の相(=様相)を離れ(=超脱し)、虚妄(こもう)の心念無き(=分節意識の虚妄性と関わり無き)を以ての故に」と。すなわち、「空」とは、簡単に言えば、一切の意味分節的区分区別を超脱した状態のことである。」
「だが、(中略)『起信論』の思惟は、例によって、それとは正反対の方向に行く。正反対の方向とは「不空」の方向のことだ。」
「そもそも、「形而上的なるもの」の窮極処を「空」とか「無」とかいうような、現象的「有」の実在性を絶対的に否定する表現で把握するのが、東洋哲学一般に通ずる特徴的アプローチなのであるが、いまここで『起信論』が、「空」に対して「不空」という概念を定立したことは、『起信論』にとって、現象的「有」の実在性の否定が、それだけが、形而上学の最後の言葉では決してなかった、ということを物語る。
 すなわち、「心真如」の存在論的真相を「空」または「無」と見る見処から、この形而上学は方向を一転して、同じ「心真如」の「有」的側面に向う。(中略)ここで光を浴びて出てくるのは、現象界の形而上的根基、すなわち一切の現象的存在者の絶対窮極的原因としての「心真如」である。そして、それに伴って、存在分節機能もその発動の位相を変える。
 この新しい局面においても、我々の目に映る現象界は、依然として存在分節の世界である。多重多層に縺れ乱れる数限りない内的外的分節単位の群れ。だがそれらの現象的「有」は、ここではもはや「妄念」分節の所産ではない。そうではなくて、それらは全て「心真如」そのものの自己分節なのである。つまり、この観点からすれば、全現象界が「心真如」の内的自己変様なのだ。なぜそのようなことになるのかというと、全て原因されたものは、自己の源泉としての原因の中に、始めから存在していたのだという、前述の存在論的大原則によって、現象的「有」は全て窮極原因としての「心真如」の中に、始めから不可視の存在可能態において、潜勢的に、伏在していると考えられるからである。「心真如」の中に、元型的あるいは形相(イデア)的に潜在していたものが、現勢化する。それが「心真如」の自己分節にほかならない。」
「限りない豊饒、存在充実の極。この側面における「心真如」は、一切の現象的事物事象を、あますところなく、形相的存在可能性において包蔵している。あらゆるものが、そこにある。ギッシリ詰まったイデア空間、言語アプリオリ的分節空間、とでも言うべきか。このアプリオリ的意味空間から、外にはみ出すものはない、外から入ってくるものもない。全包摂的全一性において、一切が永遠不変、不動。」
「ここでもまた、あの特徴的な双面的・二岐分開的思惟形態に、我々は出逢う。「空」「不空」という相対立し、相矛盾する二側面が、結局、本来的には、ただ一つの「心真如」自身の、自己矛盾的真相=深層にほかならないということについては、もはや絮説を要しないであろう。」

「上述したところから明らかなように、「心真如」(A領域、意識と存在の未分節態)と「心生滅」(B領域、意識と存在の分節態)の相互関係には、きわめて微妙なものがある。両者の関係は本性的に流動的、浮動的であり、柔軟であって、単純に此処までがA領域、此処からはB領域、という具合にキッパリ区画して固定できるようなものではない。両者は現に、不断に相互転換しているのだ。もともとBはAの自己分節態にほかならないのであるから、Aは構造的に、それ自体の本然的な現象志向性に促されてそのままBに転位し、また逆にBは、当然、己れの本源であるAに還帰しようとする。『起信論』的に表現するなら、AとBとは「非一非異」的に結ばれているのだ。
 A領域とB領域とのこの特異な結合、両者のこの本全的相互転換、の場所を『起信論』は思想構造的に措定して、それを「アラヤ識」と呼ぶ。
 「アラヤ識」――alaya-vijnana アーラヤ・ヴィジュニャーナ(中略)――は、もともと唯識派哲学の基本的術語だが、『起信論』の説く「アラヤ識」と、唯識哲学の説くそれとの間には、顕著な違いが幾つかある。
 なかでも一番重要な違いは、唯識の立場では「アラヤ識」は千態万様のB領域のみに関わるのに反し、『起信論』的「アラヤ識」は、「心真如」(A領域)と「心生滅」(B領域)との両方に跨ること。」
「換言すれば、『起信論』の「アラヤ識」は、無分節態の「心」と分節態の「心」、すなわち現象以前の「心真如」と現象的「心生滅」との両領域にわたる。つまり、A・B領域を共に一つのフィールドの中に包摂し、両者を綜観的に一つの全体として見るのだ。かくて『起信論』の「アラヤ識」においては、A領域とB領域との両方に跨る柔軟な複合体が成立するのであって、この点から『起信論』のテクストは「アラヤ識」について、「不生滅と生滅と和合して、一に非ず異に非ず」と説く。
 かくて『起信論』は、「アラヤ識」を特徴づけて「和合識」とする。すでに繰り返し述べたように「真妄和合」である。「真」がA領域、「妄」がB領域を意味することは言うまでもない。すなわち、「アラヤ識」を通じて、A・Bという二つの相対峙する存在次元(または意識次元)が相互浸透的につながれる、と考えるのである。」
「唯識哲学と『起信論』とのあいだの、「アラヤ識」をめぐってのもう一つの相違点は、深層意識性を強調するか否かに関わる。(中略)唯識においては「アラヤ識」は「真妄和合」ではなくて、完全に「妄識」である。「妄識」は、構造的に、意識の最下底、深層意識であって、無分節的「心」(=A領域)とは全然関わるところがない。ましてや、A領域からB領域、すなわち無分節態から分節態に向っての意識の起動のごときは問題になる道理がない。」
「これに対して『起信論』では、「アラヤ識」は「和合識」だから、当然、「真」と「妄」(=AとB)の結び付きが根本的な問題とならざるを得ない。事実、『起信論』は、絶対無分節態の意識(=「真」、A)が、自己の分節態(=「妄」、B)に向って起動する、まさにその起動の境位を「アラヤ識」と呼ぶのだ。
 右に述べた意識論的・存在論的状況は、『起信論』の「アラヤ識」の中間者的性格を規定する。すなわち、「アラヤ識」は、ここでは、A領域とB領域とのあいだに介在して両者を相互的に連結する中間領域――仮りにそれを、A・Bに対するM領域と呼ぶことにしよう――である。Aそのものが、いままさに一転してBになるところ、形而上的「一」が形而下的「多」に転ずる、その接点、それがここでいうM領域である。」
「MはAがBに移行する連鎖点。Aの本来的存在志向性は、必然的にAをしてBの存在分節態に展開させるのであるが、Aのこの現象的存在展開は、必ずMを通じて行われる。Bが己れの本源としてのAに戻る還行プロセスも、また同様に必ずMを通して起る。」
「それでは、一体どうして、M領域がこのような重大な機能を果すことができるのであろうか。」
「それは要するに、M領域、すなわち「アラヤ識」が、形相的意味分節のトポスだからである。形相的意味分節、イデア的・「言語アプリオリ的」意味分節。存在界の一切が、そこではすでに、予め全部分節されている。先験的に、十全に(中略)。かくて、全ての形相的意味分節単位は、それぞれ存在カテゴリーであり、存在元型であって、「アラヤ識」はそれら存在カテゴリー群の網羅的・全一的網目構造なのである。現象的存在分節の根源的形態が、この先験的意味分節のシステムによって決定されているのだ。現象的「有」の世界(=B)の一切は、この元型的意味分節の網目を透過することによって次々に型どられていく。」

「いまM領域そのものを、全体的に、広い意味での「アラヤ識」としよう。この広義の「アラヤ識」はそのまま二岐分開して、「如来蔵」と狭義の「アラヤ識」との二つになる。」
「M1(「如来蔵」)は無限に豊饒な存在生起の源泉。M2(「アラヤ識」狭義)は、限りない妄念的「仮有」の生産の源泉。この両方が同じ一つの「アラヤ識」(広義)の相反する二つの「顔」をなす。
 かくて、M領域は、「如来蔵」(M1)としては、本性的に「不生滅心」、すなわち、「自性清浄心」の限りなき創造性の場所、としてのA領域に所属し、「アラヤ識」(M2)としては、限りなき妄象の発生の場所としてのB領域に所属する。そして両者相互のあいだには、完全に不即不離(「非一非異」)的関係が成立していることは、言うまでもない。
 いま述べたような意味で、「如来蔵」(M1)という語と「アラヤ識」(M2)という語は、それぞれ反対の立場から、同じ一つの領域(M)を意味指示的対象とする。
 要するに、B領域の存在分節態を、Aの本体そのものの自己展開として見るとき、M領域は「如来蔵」(=「如来の宝庫」、存在現出の限りなき可能体)としてポジティヴな価値づけを受け、逆にBを全一的Aの分裂的汚染態として見るとき、同じM領域が、「妄念」的存在世界への第一歩というネガティヴな性格を帯びて現われる。
 そして、およそこのようなものが、『起信論』の考想する「衆生心」の真相なのである。」



「第三部 実存意識機能の内的メカニズム」より:

「平凡な日常的人間にとって、現実とは端的に現象的世界である。我々は通常、現象的「有」の渦巻く世界の中に生きている。勿論、例外的人間(様々に異る程度においてこの通則からはみ出る人、いわゆる宗教的人間)も少くはない。しかし『起信論』の観点から見れば、そのような例外的な人間も、大多数は、依然として「不覚」の埒外に出てはいない。(中略)「離念」の道を窮め、「自性清浄心」と合一した個的実存のみが「覚」の境地にあるといわれるに価するのであるから。」
「『起信論』の考想する「覚」は、全一的「真如」(=「心」)の覚知、すなわち「法界一相」的覚知であって、Aへの道を窮めることが、そのままBの真相を把握するというような形での、A・Bの同時的覚知でなくてはならない。現象界の中に生き、現象界だけしか知らない人の実存的境位は、「不覚」の最たるものであって、そのような人は、己れの現に生きている現象界の真相を把握して、それを正しく位置づけることもできないのである。
 以上のごとき事態を、我々が己れの実存的状境として身に引き受けたとき、「覚」に向っての「不覚」からの脱出ということが、当然、真剣な課題とならざるを得ない。」
「理論的、いや、理念的に言えば、人は誰でも(=「一切衆生」)「自性清浄心」をもっている。それが、いわゆる現実界の紛々たる乱動のうちに見失われている。いかにすれば、本性の「清浄」性に復帰することができるか。これが『起信論』の宗教倫理思想の中心課題として提起される。」

「「不覚」がどのようなものであるかということは、(中略)「覚」に真正面から対立するもの、という意味で、およそのところは、すでに了解されたことと思う。「自性清浄心」、すなわち存在と意識のゼロ・ポイントを究め、それと実存体験的に合一することによって、「心真如」(A)と「心生滅」(B)との両方を同時に照見する全一的意識野が拓かれた境位、それが「覚」であるとすれば、それの否定としての「不覚」の真相は、おのずから明らかであろう。」
「さて、人が実存的に「不覚」の状態にいるということは、(中略)「妄念」の所産にすぎぬ妄象的存在界を純客観的に実存するものと思いこんでそれに執着し、そのために人が自己の本性を晦冥され、自己本然のあり方から逸脱して生きている――しかも、それに気づかずに――ということ。「不覚」の真只中にいながら、それを全く自覚していない、それこそ「不覚」の「不覚」たる所以なのである。
 ところが、ふと何かの機会に(中略)忽然と「不覚」の自覚が生じてくることがある。それというのは、『起信論』によれば、「本覚」としての資格で機能する「覚」は、「不覚」の状態にある人々に向って、絶えず喚びかけの信号を送り出し続けているからなのであって、もしたまたま、発信されたこの実存的信号が、心の琴線に触れることがあれば、自分の実存が「不覚」の状態に陥ちこんでいること、すなわち己れが自己本然の姿を忘れて生きていること、に気づき、慄然として、自己のあるべき姿(=「覚」の状態)に戻ろうとする。それが、すなわち「始覚」なのである。
 「始覚」は「覚」を志向する修行の道。この「始覚」的修行の道は、具体的に言えば、「煩悩」の染垢にまみれて「心」の本然的あり方とは無縁の実存を生きてきた人が、一念発起して、一歩一歩「不覚」を克服しようと努めていく行程である。はじめて発心してから、たゆみなく修行を続けて遂に本具の「自性清浄心」に還り着くその全道程を「始覚」というのである。」
「意識の「真」的本姿への引き戻しが、事実上可能であることを『起信論』は主張する。要するに、現象的「有」の、重層的に集積した数かぎりない意味カルマの底に深く埋れている「本覚」を、「始覚」修行の浄化作用によって洗い出すだけのことなのだ、というのである。
 そしてこのことが可能なのは、現象的「有」の次元に働く「本覚」が、たとえ「アラヤ識」の群れなす妄象の只中にあって、現象的「染」にまつわりつかれ覆い隠されて、表面的には「不覚」と見まがうばかりになっているとはいえ、深層的には、実は、本来の清浄性を、そのまま、一点の損傷もなしに保持しているからである、と。」

「だが、それにしても、実に長く険しい道のりだ、「究竟覚」を達成するということは。『起信論』の語る「究竟覚」の意味での「悟り」を達成するためには、人は己れ自身の一生だけでなく、それに先行する数百年はおろか、数千年に亙って重層的に積み重ねられてきた無量無数の意味分節のカルマを払い捨てなければならず、そしてそれは一挙に出来ることではないからである。
 かくて、一切のカルマを棄却し、それ以前の本源的境位に帰りつくためには、人は生あるかぎり、繰り返し繰り返し、「不覚」から「覚」に戻っていかなくてはならない。「悟り」はただ一回だけの事件ではないのだ。「不覚」から「覚」へ、「覚」から「不覚」へ、そしてまた新しく「不覚」から「覚」へ……。
 「究竟覚」という宗教的・倫理的理念に目覚めた個的実存は、こうして「不覚」と「覚」との不断の交替が作り出す実存意識フィールドの円環運動に巻き込まれていく。
 この実存的円環行程こそ、いわゆる「輪廻転生」ということの、哲学的意味の深層なのではなかろうか、と思う。」




































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

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