井筒俊彦 『井筒俊彦著作集 1 神秘哲学』

「すでに日は暮れようとしているのに、しかもなお行くべき道は邈然として遠い。しかしながら、たとい日は暮れ、目指すところは限りなく遠くとも、私はこの道を独りどこまでも辿り続けて行くことであろう。「いまだ夜は深けれど」(aunque es de noche)と十字架のヨハネは言う。いまだ夜は深けれど……そうだ、今やすべては夜の闇にふかくとざされてはいるが、やがてすがすがしい黎明が来るのだ。やがて爽昧の風は立ち、さしそめる暁光に全世界が燦爛と輝きいでる時が来るだろう。(中略)私はそう信じているのである。」
(井筒俊彦 『神秘哲学 第二部』 より)


井筒俊彦 
『井筒俊彦著作集 1 
神秘哲学 』


中央公論社 
1991年10月10日 初版印刷
1991年10月20日 初版発行
478p 
A5判 丸背クロス装上製本 
貼函 函ビニールカバー
定価6,800円(本体6,602円)

付録 1 (8p):
井筒俊彦氏のこと(関根正雄)/創造の出発点(中沢新一)/編集室だより/図版(モノクロ)2点


「『神秘哲学(ギリシヤの部)』(一九四九年九月、光の書房刊)
『神秘哲学――第一部 自然神秘主義とギリシア』(一九七八年一二月、人文書院刊)
『神秘哲学――第二部 神秘主義のギリシア哲学的展開』(同右)」
「本書は人文書院版を底本としました。」



「「著作集」刊行にあたって」より:

「みずからが体系の樹立を志向するのではなく、いわば外的な力に運ばれるままに、また内的動因に導かれるままに、思索を続けること学問を続けること、が私のみずからに課した方法的プリンシプルであった。
 そのような志向性の展開の過程に現象する学問的所産にこそ、もしかすると、真に内的な生きた実存的生の軌跡が現成し、同時に、実存的現実(リアリティ)がより有機的流動的な形でその影を宿すのではなかろうか? 若年の旧著『神秘哲学』を書き始めたころの私の心中には漠然とそのような考えがあった。それはむしろ、スコラ的な理性(ラチオ)や知性(インテレクトス)を中心とする、枯渇した(とその頃の私の考えた)抽象的体系哲学への若者の挑戦であり、情意(パトス)的主体性、心的主体性(マインド)、の観照的対象領域を綜合的な思惟の場とする実存的な生の哲学への私自身の情熱的斜向であった。
 私は先ずギリシヤ哲学の中に、そのような、真に生き生きとした流動的かつ有機的な思索の流れを探ろうとした。プリソクラティックからネオプラトニズムに至るギリシヤ哲学の展開の中に、東洋的とも言えるその、情意(パトス)的・「心(プシュケー)」的、な主体性の哲学の典型的な顕現の一例、を私は見たのであったが、今でもその考えのおおよそのところは変らない。その意味ではこの「神秘哲学」が、学問にかかわる私の主体的態度とその志向性の方向を決定づけたものであり、多分、私の無垢なる原点、とも言えるものであったのかも知れない。」



井筒俊彦 神秘哲学 01


目次:

新版前書き

第一部 自然神秘主義とギリシア
 覚書
 第一章 自然神秘主義の主体
 第二章 自然神秘主義的体験――絶対否定的肯定
 第三章 オリュンポスの春翳
 第四章 知性の黎明
 第五章 虚妄の神々
 第六章 新しい世紀――個人的我の自覚
 第七章 生の悲愁――抒情詩的世界観
 第八章 ディオニュソスの狂乱
 第九章 ピンダロスの世界――国民伝統と新思想
 第十章 二つの霊魂観
 第十一章 新しき神を求めて――形而上学への道
 第十二章 輪廻転生から純粋持続へ

第二部 神秘主義のギリシア哲学的展開
 序文
 第一章 ソクラテス以前の神秘哲学
  ディオニュソス神
  クセノファネス Xenophanes
  ヘラクレイトス Herakleitos
  パルメニデス Parmenides
 第二章 プラトンの神秘哲学
  序
  洞窟の譬喩
  弁証法の道
  イデア観照
  愛(エロース)の道
  死の道
 第三章 アリストテレスの神秘哲学
  アリストテレスの神秘主義
  イデア的神秘主義の否定
  アリストテレスの神
  能動的知性
 第四章 プロティノスの神秘哲学
  プロティノスの位置
  プロティノスの存在論体系
  一者
   「流出」
   神への思慕

「著作集」刊行にあたって
主要人名索引



井筒俊彦 神秘哲学 02



◆本書より◆


「新版前書き」より:

「ギリシア哲学のほかにも私は様々な主題に主体的な関わりをもち、いろいろなものに手を出して、結局雑然として取りとめのない人間になってしまったことは我ながらあきれ返るばかりだが、神秘主義という名で知られている精神的現象の内蔵する哲学性、神秘主義的意識の次元における哲学的思惟というようなことにたいする関心だけは始終かわらず守り続けて来たらしい。」
「本書も今言った神秘主義と哲学の関係を、ギリシア哲学の発展史という一つの具体的な事象の中に探求しようとした作品である。だから表面的には一応ソクラテス以前からプロティノスに至るギリシア哲学史の体裁を取ってはいるが、本当はギリシア哲学を研究しようというのではなく、ましてギリシア哲学史の叙述を目的とするのでもなく、より一般的に、形而上学的思惟の根源に伏在する一種独特の実在体験を、ギリシア哲学という一つの特殊な場で取り出して見ようとした拙い試みである。」
「果して、この本が最初出版されたとき、理性的なギリシア哲学をこれではあんまり「神秘化」しすぎる、とさる斯界の大家が洩らされたとか。その通りだ。たしかにそういう面もある。だがしかし、ギリシア的思惟の底には、少くとも密儀宗教的な神秘体験のパトスが渦巻いていることもまた事実であり、このパトスの地下の声に耳を傾けることもギリシア哲学にたいする正しいアプローチの一つではあると私は今でも確信している。」



第一部第一章より:

「悠邈(ゆうばく)たる過去幾千年の時の彼方から、四周の雑音を高らかに圧しつつある巨大なものの声がこの胸に通って来る。殷々(いんいん)と耳を聾せんばかりに響き寄せるこの不思議な音声は、多くの人々の胸の琴線にいささかも触れることもなく、ただいたずらにその傍らを流れ去ってしまうらしい。人は冷然としてこれを聞きながし、その音にまったく無感覚なもののように見える。しかしながら、この怖るべき音声を己が胸中に絃ひと筋に受けて、これに相応え相和しつつ、鳴響する魂もあるのだ。
 私は十数年前はじめて識った激しい心の鼓動を今ふたたびここに繰り返しつつ、この宇宙的音声の蠱惑(こわく)に充ちた恐怖について語りたい。かつてディールスの蒐集したソクラテス以前期断片集を通読した最初の日から、まだ何事ともさだかには識別し難いままに、そこに立罩(たちこ)める妖気のごときものが私の心を固く呪縛した。私は本書に於いて、この妖気の本体を究明し、その淵源を最後まで辿ってみたいと思う。
 ソクラテス以前期の哲人達の断片的言句に言い知れぬ霊気が揺曳し、そこから巨大なる音響が迸出して来るように思われるのは、彼らの思想の根柢に一種独特な体験のなまなましい生命が伏在しているからである。すべての根源に一つの宇宙的体験があって、その体験の虚空のような形而上的源底からあらゆるものが生み出されて来るのである。彼らの哲学はこの根源体験をロゴス的に把握し、ロゴス化しようとする西欧精神史上最初の試みであった。彼らについては「はじめに思想があった」のではなくて、「はじめに直観があった」のである。あらゆることのはじめに有無をいわさぬ絶対的体験があったのである。私はこの根本体験を西洋神秘思想史の伝統に従って「自然神秘主義」 Naturmystik と呼ぶことにしたい。自然神秘主義的体験とは、有限相対な存在者としての人間の体験ではなくて、無限絶対な存在者としての「自然」の体験を意味する。人間が自然を体験するのではなく自然が体験するのである。自然が主体なのである。(中略)ここでは自然は一つの形容詞ではなく、主語であり、絶対的超越的主格である。それは宇宙万有に躍動しつつある絶対生命を直ちに「我」そのものの内的生命として自覚する超越的生命の主体、宇宙的自覚の超越的主体としての自然を意味する。
 ミレトスのタレスに始まるソクラテス以前期の哲学・自然学を、生命のない屍としてではなく、生気横溢する姿に於いて捉えるためには、人は先ず自ら進んでこの溌剌たる生命の流れの中に躍入し、言説を絶する自然体験の端的を直証しなければならない。自らも彼らと同じ直観をもって宇宙の幽邃な秘義に徹入し、彼らと同じ体験によって霊覚の境涯に転身しなければならぬ。こうしてはじめて人は言説以前のものが、いわばおぼつかない足取りで一歩一歩言説(ロゴス)の世界に入って来る微妙な過程をあますところなく観ることができるであろう。
 本書は古代ギリシアの自然学の発展を平面的歴史的に叙述しようとするものではなく、身をこの一種独特な世界観生成の渦中に投じ、西欧哲学史の発端に蟠踞して全宇宙を睥睨する巨大な哲人達の自然体験を親しく追体験し、もってギリシア哲学の発生の過程を主体的に把握しようとするものである。すでに主体的把握である以上、それがきわめて主観的であることは言をまたない。そしてもし客観的であることが一般に学的認識の根本条件であるならば、このような主観的叙述は学ではあり得ないかも知れぬ。しかしながら、事いやしくも神秘主義にかんするかぎり、徹底的に主観的であることこそ、かえって真に客観的である所以なのではなかろうか。いわゆる客観的態度はここでは何ものをも齎すことがない。神秘主義的体験を外面から観察してこれを客観的に捕捉しようとするとき、すでに神秘主義の生命はいずこへか消逸して、そこにはもはや死した形骸のほか何物も見出されないからである。(中略)神秘主義的体験にたいしては、いたずらに「客観的」に、その周囲を反転することをやめ、自らその体験の渦中に飜入し、内部から主観的に主体的にこれと同一化するのが唯一の正しい途である。こうしてはじめて神秘主義はその幽玄な秘奥を人に開示するでもあろう。すなわちここでは真に主観的であることが真に客観的である所以なのである。」
「イオニアの自然学に始まりアレキサンドリアの新プラトン哲学に至るギリシア形而上学形成の根基には常に超越的「一者」体験の深淵が存在している。この神秘主義的体験は個人的人間の意識現象ではなく、知性の極限に於いて知性が知性自らをも越えた絶空のうちに、忽然として顕現する絶対的超越者の自覚なのである。人がもしこのギリシア的神秘体験を識得しようと欲するなら、先ず自ら経験界の彼岸に飜転し、自然神秘主義の主体とならなければならぬ。「似たものは似たものによって、等しいものは等しいものによってのみ」認知されるという考え方は、たんにプラトン認識論の原則であるのみならず、古い昔からギリシア人のあいだにひろく行われていた特徴ある思想であるが、この原則は背後に一種の超越的直観を予想するとき、はじめて最も充実した意味を発揮する。そしてソクラテス以前の哲学思想もまた、まさにそれに類似する精神にたいしてのみ自己の核心を開顕するきわめて特異な体験の所産なのである。今ここにこの「似たもの」の体験をもつ人があって、ソクラテス以前期諸家の断片集を繙く機会をもつならば、必ずや彼はあらゆる論議を超脱して、じかに己が胸に迫って来るある不思議な力を感得し、言いしれぬ興奮と歓喜とを覚えるであろう。このような人にとっては、ソクラテス以前の自然学者は、まさしくニイチェのいわゆる「巨人たち」なのであり、またひとりこのような人だけが、時代と場所との間隙を越えてこれらの巨人たちと面々相対し、膝を交えてこれと語り、彼らの雄渾な体験の窮玄処に参入することを許されるのである。」



第一部第八章より:

「ディオニュソス! 人々この恐るべき神の名を喚べば、森林の樹々はざわめき、深山は妖しい法悦にうち震う。秘妙な忘我の風が全地を覆い、人も野獣も木も草も、あらゆるものは陰惨な陶酔の暗夜に没入し、野性の情熱が凄じく荒れ狂う。全ては流動、全ては激熱、全ては狂騰、全ては灼熱の歓喜。この放恣な野性の沸騰は、かの彫塑的ヘラス精神にたいして、まさしくローデの言葉通り外来的異国的要素であった。しかしながらこの純異国的信仰がひとたび襲来すると、それはあたるべからざる急勢をもってギリシア全土を北から南へ席捲し、伝襲的国家宗教の反抗を粉砕しつつ、駸々としてギリシア精神内に浸透し、内面からこれを完全に変貌させることによってついにギリシア精神の本質的要素と化するまでは止まなかったのである。アジアの蛮神ディオニュソスは、こうして完全にオリュンポス神族の一員となりすました。ギリシアの神々のうちで最も若い神と、ヘロドトスによって記録されたこの神をホメロス、ヘシオドスはまだほとんど知らなかった。」


第二部第一章より:

「ディオニュソスは己が帰依者に永遠の生命を、久遠のいのちを保証し、「新しき人」となる道を教えた。しかもこの神は、その祭礼に参与する信徒達に、永遠の生命を親しく体験させたのである。狂燥の限りをつくし、凄愴目を覆わせるような野蛮な手段によってではあったが、この暗い祭礼の醸し出す異様な狂憑の痙攣のうちに沈淪する信徒達は、小我を脱却して大我に合一する法悦を直験し、肉体の繋縛を離れた霊魂の宇宙生命への帰一還没を自ら直証することを許された。彼らは永遠の生命に触れ、新しき人として甦生した者の言慮を絶する至福を体験した。ホメロス・ヘシオドスに由来する従来の貴族的で芸術的な国民宗教が、その永い伝統の威力をもってしても到底拮抗できなかったディオニュソス宗教の絶大なる魅惑の秘密はまさにこの点に存した。」
「紀元前六世紀に於けるディオニュソス信仰の興隆は、まさしく全ギリシア的現象であった。ここに冥闇と渾沌の「夜」の精神がいわゆるアポロ的清澄の光明とならんでギリシア精神の本質的要素となったのである。理性と美の象徴とまで称えられるこの叡知的で芸術的な民族の血管中にも、こういう野性の黒い血が混流していることを人は忘れてはならないであろう。そして、それはたんにギリシア民族一個の問題ではなくて、実にヨーロッパ精神そのものに関わる精神史的事実なのである。」
「ディオニュソス宗教のギリシアに於ける隆盛は同時に西欧神秘主義の発端を劃するものである。無残にも引裂かれた生肉と、滴り落ちる生血の匂いも凄まじい蛮神ディオニュソスの手ずから、西欧的人間は神秘主義の洗礼を受けたのであった。この神の狂暴な祭礼を通じて、西欧的人間は初めてエクスタシス(霊魂の肉体脱出)及びエントゥシアスモス(神の充満)と称する特殊な体験を味識し、かつこの体験に於いて、感性的物質的世界の外に、「見えざる」真実在の世界が厳存する事実を親しく認知したのであった。」



第二部第二章より:

「一体、愛の道にせよ弁証法の道にせよ、それらの道によって形成される神秘主義的実存の進展方向は自己の外であった。それは上への道であり外に向っての道である。窮極の目的地は、天涯の彼方、悠邈として眼路はるかな辺りに存する。(中略)死の道の方向はこれとまさに反対である。そこでは、人は自己の外に出るのではなくて、自己の内に入るのである。外に向って散乱しようとする念慮の蠢動を制止し、外部への一切の扉窓を閉じて、心の眼を内部に振り向け、深く深く霊魂は自己の底なき底に沈潜して行く。それは上昇ではなくて、下降であり、その道は外への道ではなくて、内面への道、深みへの道である。魂が自己を自己の内に向って集定し、自己の底深く専注して行くこと、この魂の自己沈潜がすなわち魂の浄化であり、「死の実践」なのであった。」
「魂は聖なる神の似像であり、魂の源底には神の面影が宿っている。さればこそ、人間の精神は他の何物にも依拠することなく、ただひたすら自己自身の内面深く沈んで行くことだけで、絶対者探究の業を実現できるのである。プラトン的に言うならば、久遠の実在としてのイデアの世界は、遠く仄かな記憶となって魂の底に忘却されてひそんでいる。この観点からすれば、イデア界は人間を天外高く隔絶する超越的彼岸の世界ではなくて、かえって人間の心の中に隠蔽され埋没している内在的世界といわなければならない。イデア認識は一種のアプリオリである。魂は元来、神的でありイデア的なものであって、その本質上イデア認識はそこに始めから本源的に内具しているのであるが、肉体の溷濁に妨げられて、その記憶をほとんどまったく忘却している。故に、魂を真実在の認識にまで駆動しようと欲するならば、要はそれから肉体の曇りを払拭し、魂をしてその本来のイデア性に還してやればいい。換言すれば、感性界の混淆錯雑のうちに没溺し、神的世界を忘れ果てている魂を引き上げ浄めて、ふたたび記憶を新たにしてやればいい。失われた記憶を甦生させ、これにふたたび溌剌たる活動の充実を与えること、それが死の道としての哲学である。すなわち哲学はここでは魂の「憶起(アナムネースィス)」を意味する。」





























































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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