ルクレーティウス 『物の本質について』 樋口勝彦 訳 (岩波文庫)

「従って、肉体にとって必要なものは僅少にすぎなく、それも、それぞれの苦痛を取りのぞいてくれるものでさえあればいいのだ、ということがわかる。」
「柔い芝草の上に、小川のほとりに、高い樹の枝をひろげた下に、殊に天候がほほ笑(え)みかけ、一年の季節が緑の草に花をむすばせ、露を含ませる頃に、仲間をつどい、長々と横たわり、費用はかけずに、楽しく体を休めることは出来るのだから。」

(ルクレーティウス 『物の本質について』 より)


ルクレーティウス 
『物の本質について』 
樋口勝彦 訳
 
岩波文庫 青 340/6440―6442

岩波書店 
昭和36年8月25日 第1刷発行
昭和45年12月30日 第7刷発行
330p
文庫判 並装
定価★★★



T.C. Lucretius: De Rerum Natura


ルクレーティウス 物の本質について


帯文:

「雄大な叙事詩風六脚韻にエピクロス的自然観を盛りこんだ哲学詩。古代思想の異彩たるこの派の原子論的唯物論の無比の文献である。」


目次:

まえがき 

第一巻
第二巻
第三巻
第四巻
第五巻
第六巻

解説




◆本書より◆


「第一巻」より:

「まず第一に、全くあい異なる二つの本質、――即ち、物質なる本質と、物がその中に位置を占めるところの場処〔空虚〕なる本質――が存在するという点が、明らかとなった以上、その各〃は、いずれはそれ自体独立して、純粋に存在しているのは必定である。即ち、われわれが空虚と称する空間になっている場処には、物質は存在せず、また物質が占めている所には、絶対に空虚なる空間は存在しない。従って、原子とは強固にして、空虚を持たないものである。さらに、被造物の体内には、空虚が含有されているが故に、その空虚の周囲を原子が、とりまいているに違いない。」

「この原子は、外部から打たれて、打撃を加えられても、分解することが不可能であり、かつ内部から滲透されて、くずれることも不可能であり、その他如何なる方法を以てしても、打撃によって動揺することもあり得ない。(中略)何故ならば、空虚を含有しないものは砕き得ないし、破壊することも、切断することによって二つに分割することも不可能であり、その上、万物を破壊しつくす水も、滲透性の寒気も、侵蝕(しんしょく)性の熱も、受けつけることがあり得ないのは、明らかである。(中略)であるから、原子は、(中略)強固にしてかつ空虚を含有しないものである以上、これは恒久的なものであらねばならない。(中略)私が先に説いたように、何ものも無からは生じ得ず、かつ一旦生じたものは、無に帰し得ないが故に、万物がそれぞれ最後の瞬間において、還元し得るところの、しかして新しいものを再生せしめうる素材となり得るところの、不滅性をそなえた原子がなかったとしたならば、無限の過去から今まで、永代をへて保存されて来て、物を新たに再生させる力を持ち得る筈がない。」

「ところで、間々重要となる点は、同じ原子が如何なる原子と、また如何なる状態で一所に保持されているか、如何なる運動を相互に与え合うか、また受け合うか、ということである。すなわち、同じ原子が天空を、海を、地を、河川を、太陽を、形成していることもあり、同じ原子が穀物を、樹木を、動物を、造ることもあるが、ただし、他の原子との混合の仕方が異なっていて、異なった活動の仕方をしているからである。」



「第二巻」より:

「おお 憐む可き人の心よ、おお 盲目なる精神よ! 比の如何にも短い一生が、なんたる人生の暗黒の中に、何と大きな危険の中に、過ごされて行くことだろう! 自然が自分に向って怒鳴っているのが判らないのか、外でもない、肉体から苦痛を取り去れ、精神をして悩みや恐怖を脱して、歓喜の情にひたらしめよ、と? 
 従って、肉体にとって必要なものは僅少にすぎなく、それも、それぞれの苦痛を取りのぞいてくれるものでさえあればいいのだ、ということがわかる。また、よしんば豪奢(ごうしゃ)な臥台(がだい)を幾つもならべることができ、時には満足を覚えることがあろうとも、たとえ夜毎の酒宴を明るく照らすために、燈火を右手にささげている青年たちの立像が、幾多金色燦然(さんぜん)として家中に飾られているようなことはなくとも、客間が銀に光り、金に輝くようなことがなくとも、または鏡板をはめこみ、黄金を張った天井が、手琴の響を返えしていなくとも、これ自然そのものが要求するところのものではない。
 これとは違い、柔い芝草の上に、小川のほとりに、高い樹の枝をひろげた下に、殊に天候がほほ笑(え)みかけ、一年の季節が緑の草に花をむすばせ、露を含ませる頃に、仲間をつどい、長々と横たわり、費用はかけずに、楽しく体を休めることは出来るのだから。」

「素材なる原子はすべて跳ね飛ばされているのだ、ということを一層よく理解を深めてもらうのには、宇宙に底がないということ、従って、原子には休止する場処がない、ということを想起して欲しい。これは私が既に充分説明をつくし、明確な理論をもって証明したところであるが、空間には終局もなく、限界もなく、あらゆる方面から、あらゆる方向へ、無限に拡がっているからである。この点が明らかである以上、こういうことは疑問の余地がない、即ち、原子には深い空間中にわたって、全く静止が許されていないということである。それどころか、寧ろ間断なき、かつ変化きわまりない運動に駆りたてられ、或るものは押されて、大きな間隔を以て跳ね返っているものもあり、或るものは打撃を受けて、狭い間隔内で飛び跳ねているものもある。
 そして、比較的緊密な結合に終結して、狭い間隔内で跳ね返っている原子はすべて、夫々個有な形態に結合をとげ、固い岩石の基とか、恐ろしい鉄の物質とか、その他これに類する物質を構成している。(中略)この外に、宏大なる空間の中を遊飛している原子も多いが、これは物を形成する結合から排(しりぞ)けられた原子とか、迎え容れられても、運動を共にすることが何処でも不可能であった原子である。」

「太陽の光線が暗い家の中へさし込む時、観察してみたまえ。多くの微細な物質が種々な工合に、空間を、光線を浴びて、騒然としているのを見るであろう。あたかも永遠の闘争にでもあるかのように、一瞬の休止もなく、群をなして戦い、格闘し、競(せ)り合い、頻繁に出会ったり、別れたりして飛んでいるのが見えるであろう。これによって、物の原子が宏大なる空間の中で、間断なく飛び廻っている様が想像できる。正にこのように、些細なことが大きな問題の例証を、知識への糸口を、与えて呉れることがあり得るものである。
 太陽の光線を浴びて、混乱の状を見せているこれらの物質によく注意をとめて見ることは、次の理由がある故に、更に一層有意義となる。即ち、このような渾沌たる物質の運動が、実は原子にもまた、眼にこそ見えないが、隠れひそんでいるということを示しているからである。さし込む太陽の光線の中では、多くの物質が眼に見えない打撃を受けて運動を起し、進路を転じ、彼方此方とあらゆる方向に跳ね返されては、再び戻ったりしているところが見えるであろう。この不規則な運動は、疑いもなく、原子から起っているものである。即ち、先ず第一に、原子自身が動く。次に小さな集合からなる謂わば原子の群に最も近い物質が、原子の眼に見えない打撃を受けて動く。この小さな物質自身は、次に又、やや大きな物質に運動を起させる。このようにして、此の運動は原子から起って、徐々に大きくなって行き、その結果、太陽の光線に当って我々に識別出来るあの物質が運動するようになり、我々の感覚にも判る程に現われて来るのであるが、如何なる打撃によって、これが起されるのかは、はっきり眼には見えない。」

「この問題に関して、こういう点もまた君に理解して貰いたい。即ち、原子は自身の有する重量により、空間を下方に向って一直線に進むが、その進んでいる時に、全く不定な時に、又不定な位置で、進路を少しそれ、運動に変化を来らすと云える位なそれ方をする、ということである。ところで、若し原子がよく斜(はす)(訳者による註: 「ここでは declinare と動詞で云っているが、名詞ではclinamen を用い、エピクーロスの「斜傾運動」 κίνησις κατά παρέγκλισιν のラテン訳である。原子の斜傾運動はデーモクリトスの説には全くないもので、エピクーロスが考え出したものである。この斜傾運動はエピクーロスの原子論には重要な要素になっている。」)に進路をそれがちだということがないとしたならば、すべての原子は雨の水滴のように、深い空間の中を下方へ落下して行くばかりで、原子相互間に衝突は全然起ることなく、何らの打撃も生ずることがないであろう。かくては、自然は決して、何物をも生み出すことはなかったであろう。」

「さて、注意して呉れたまえ。次に万物の原子には一体如何なる種類があるか、又形態には如何なる差異があるか、その多様な姿は如何に変化に富むか、を知って貰おう。ほんの少数が同型を具えていると云うわけではなく、おしなべて原子はすべてがすべてに一々類似してはいないのである。」
「こういうことも亦、(中略)注意して記憶にとどめて置いてしかるべきことである。即ち、その姿が我々の眼に見られる物で、何一つとして唯だ一種類の原子のみから成り立っている物はなく、種々なる原子が混合して成り立っていない物は、全くないということである。そして、力や能力を自身の内に多く保持している物はすべて、それだけ多種類の原子、即ち、形態の種々なる原子を内蔵していることを示している。」

「素材の原子が多く、充分間に合い、空間も即座に間に合い、何ら妨げとなるものも、その原因もない以上、物が生み出され、形成されなければならないことは明らかである。それに、現にもし原子の量も莫大であって、生命を有するものが一生を費しても数えつくすことが不可能だとすれば、又この世界で原子が結合させられたと同じように、他の如何なる処ででも、原子を結合せしめ得る力と自然があるとすれば、他の空域にも丸い大地が幾らでもあり、種々な人類や、野獣の子孫が在ると認めなければならない。」

「以上のことをよく理解し、信じてくれるならば、直ちに自然は自由であり、傲慢なる主人に左右されることなく、自然自身すべて自由勝手な独立行動をとっているものであって、神々とは関係がないということが判ってくるであろう。」




こちらもご参照下さい:

『エピクロス ― 教説と手紙』 出隆・岩崎允胤 訳 (岩波文庫)




































































































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難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

ハンス・アスペルガー・メモリアル・バーベキュー。

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