『エピクロス ― 教説と手紙』 出隆・岩崎允胤 訳 (岩波文庫)

「わたしは、決して、多くの人々に気に入られたいとは思わなかった。なぜなら、一方、何がかれらの気に入るかはわたしにはわからなかったし、他方、わたしの知っていたことは、かれらの感覚からは遠くへだたっていたからである。」
(エピクロス 「断片その二」 より)


『エピクロス
― 教説と手紙』 
出隆・岩崎允胤 訳
 
岩波文庫 青/33-606-1 

岩波書店 
1959年4月25日 第1刷発行
1978年12月10日 第15刷発行
203p 索引・文献12p
文庫判 並装
定価☆☆(200円)



本書「解説」より:

「本訳書におさめた三つの『手紙』(中略)と『主要教説』とは、(中略)エピクロスの哲学を理解するための基本的なテキストである。エピクロスはきわめて多作であったと伝えられるが、その著作の大部分は今日残っていない。しかし、以上の四つの著作がとにかくディオゲネス・ラエルティオスの『著名な哲学者たちの生涯と教説』(略して『哲学者伝』)のなかに残されたのは、幸いであった。」
「それら四つの著作のうち、第一の『ヘロドトス宛の手紙』は、エピクロスの弟子たちのあいだで『小摘要』と呼ばれていたもので、かれの哲学の主要な原則を論じている。第二の『ピュトクレス宛の手紙』は天界・気象界の事象を扱い、第三の『メノイケウス宛の手紙』は神々、死、快と苦などにたいする正しい態度について述べたものである。(中略)さいごに『主要教説』は神々、死、快と苦、真理性の標識、正義の本質を取扱った四十個の断片をあつめたものである。」
「一八八八年にウォツケは、ヴァチカンの写本(十四世紀のもの)中に、(中略)『エピクロスの勧め』と題される八十個の箴言の集録を発見した。本訳書中に『断片その一』としておさめたのは、これであり、倫理的な事柄に関するものである。
 『断片その二』としておさめたのは、後にギリシア語で著作した人々の書物のなかに引用されなどして残っているところの・エピクロス自身のものと信じて差支えないと思われる・章句である。」
「さいごに『エピクロスの生涯と教説』と題して本訳書におさめたのは、ディオゲネス・ラエルティオスの前述の書物の第十巻の記述である。」



エピクロス


帯文:

「原子論的唯物論哲学者エピクロスの現存する全著作を収録。彼の説く快は刹那的快楽主義でなく肉体の健康と心境の平静にあるとする。」


目次:

凡例

ヘロドトス宛の手紙
ピュトクレス宛の手紙
メノイケウス宛の手紙
主要教説
断片(その一 その二)
エピクロスの生涯と教説


解説
文献
索引



◆本書より◆


「ヘロドトス宛の手紙」より:

「(a)まず第一には、有らぬもの(ト・メー・オン)からは何ものも生じない、ということである。なぜなら、もしそうでないとすれば、何でもが何からでも任意に生じるということになって、種子などは全く必要でないことになるだろうから。(b)もしまた、ものが見えなくなったとき、それはそのものが消滅して有らぬものに帰した(全くなくなった)とすれば、あらゆる事物はとうになくなってしまっているはずである、なぜなら、それらが分解されていったさきのものは、有るものではないのだから。(c)さらにまた、全宇宙は、これまでもつねに、今あるとおりに有ったし、これからもつねに、そのとおりに有ろう。なぜなら、それが転化してゆくさきのものは、ないのだから。というのは、全宇宙に入りこんで転化をひき起すことができるようななにものも、全宇宙の外部には、ないからである。」
「さらに、全宇宙は〈物体と場所と〉である、けだし、物体の有ることは、感覚それ自身が万人のまえで立証していることであり、そして不明なものについては、前述したように、感覚にしたがい思考によって判断せねばならない、また、かりに、空虚とか空間とか不可触的な実在とか呼ばれるものが有らぬとすれば、物体は、それの存するところをも運動するところをも、もたないことになろう、しかもわれわれの感覚には、明らかに物体は運動するものとして現われているのに。ところで、物体と場所とのほかには、それ自身全き独立の実在として捉えられ、他の全き実在の偶発性ないし本属性として言われるのではないようなものは、(中略)考えることすらできない。さらにまた、物体のうち、或るものは合成体であり、他のものは合成体をつくる要素である。そして、これらの要素は、――あらゆるものが消失して有らぬものに帰すべきではなく、かえって、合成体の分解のさいには、或る強固なものが残存すべきであるからには、――不可分(アトマ)であり不転化である、つまり、それらは、本性上充実しており、どんなものへも分解されてゆきようがないのである。したがって、根本原理は、不可分な物体的な実在(原子)でなければならぬ。」

「なおまた、不可分で稠密(ちゅうみつ)な物体(原子)、つまり、合成体がそれから生じそれへと分解される要素は、さまざまな形状をもっており、その相違の仕方は、われわれの理解を絶するほどたくさんにある、というのは、もし形状の相違が限られていてわれわれに理解しうるほどであるとすれば、同形の原子どもが集まったところで、それからは、合成体に見られるこれほどたくさんの相違が生じることは不可能だからである。そして、おのおのの形状ごとに、類似の原子の数は無条件に限りなくあるが、形状の相違の仕方の点では、無条件に限りなくあるというのではなく、ただ、われわれの理解を絶するほどたくさんあるというだけのことである。」
「また、原子は、たえず永遠に運動する、或るものは〈垂直に落下し、或るものは方向が偏(かたよ)り、或るものは衝突して跳ね返る。衝突して跳ね返るもののうち、〉(a)或るものは遠くへ運動して相互にへだたり、(b)或るものはさらにそのまま跳ね返りの状態を保ちつづける。この後の場合は、(α)跳ね返り合う原子どもが絡み合っているために、原子が、跳ね返ったのちただちに、その運動を曲げられるとき、あるいは、(β)跳ね返り合う原子どもが、そのまわりを、絡み合っているほかの原子どもによって囲まれているときに、起るのである。そこで、(a)まず、跳ね返った原子が相互にへだたるのはなぜかというと、空虚はそもそもおのおのの原子を分けへだてることを本性とするのものであって、原子の運動にたいしては抵抗することができず、ためにこうした結果をひき起すのである。また、(b)跳ね返った原子が跳ね返りの状態を保ちつづけるのはなぜかというと、原子の絡み合っている状態が衝突による原子の相互分離を許すだけ、それだけ、原子のもつ堅さが、衝突のために原子を跳ね返らせるからである。そして、これらの運動には、始まりというものがない、なぜなら、原子と空虚とがその原因だからである。」
「さらにまた、世界は限りなく多くあり、その或るものは、われわれのこの世界と類似しているが、他のものは、類似していない。なぜなら、さきに説明したように、原子の数は限りなく多くあり、それは、きわめて遠いかなたへでも運動してゆくからである。じつのところ、世界がそれから生じそれによってつくられうるようなそういう原子は、一つの世界なり、あるいは、限られた数の世界なりをつくるために使い尽されたこともないし、また、互に類似しているかぎりの世界なり、あるいは、それとは類似していないかぎりの世界なりをつくるために使い尽されたこともないのである。したがって、世界が限りなく多くあることの妨げとなるものは、全く存しないのである。」



「メノイケウス宛の手紙」より:

「死は、もろもろの悪いもののうちで最も恐ろしいものとされているが、じつはわれわれにとって何ものでもないのである。なぜかといえば、われわれが存するかぎり、死は現に存せず、死が現に存するときにはもはやわれわれは存しないからである。」

「快が目的である、とわれわれが言うとき、われわれの意味する快は、――一部の人が、われわれの主張に無知であったり、賛同しなかったり、あるいは、誤解したりして考えているのとはちがって、――道楽者の快でもなければ、性的な享楽のうちに存する快でもなく、じつに、肉体において苦しみのないことと霊魂において乱されない(平静である)こととにほかならない。」



























































































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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趣味: 図書館ごっこ。

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