C・G・ユング 『心理学と錬金術』 池田紘一・鎌田道生 訳 全二冊

「悪は善と同じ程度に考量されなくてはならない。悪といい善といっても結局は、観念における行為の延長ないし抽象以外の何ものでもなく、両者は共に人生の明暗現象の一部を成すものに他ならないからである。つまるところ悪を生じえない善も、善を生じえない悪も存在しない。」
(C・G・ユング 『心理学と錬金術』 より)


C・G・ユング 
『心理学と錬金術Ⅰ』 
池田紘一・鎌田道生 訳


人文書院
1976年4月15日 初版発行
1984年11月15日 重版発行
324p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,500円
カバーデザイン: 松味利郎



C・G・ユング 
『心理学と錬金術Ⅱ』 
池田紘一・鎌田道生 訳


人文書院 
1976年10月20日 初版発行
1984年10月15日 重版発行
402p
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価2,500円
カバーデザイン: 松味利郎



「凡例」より:

「本書は Carl Gustav Jung: Psychologie und Alchemie, (=Psychologische Abhandlungen V) Zurich 1944 の全訳である。底本には第二版(一九五一年)を使用し、傍ら全集版を参照した。大部の著書であるので翻訳出版にあたっては上下二巻に分けた。」


本文中図版(モノクロ)計270点。


ユング 心理学と錬金術 01


第Ⅰ巻 目次:

凡例

初版まえがき
第二版まえがき

第一部 錬金術に見られる宗教心理学的問題
第二部 個体化過程の夢象徴
 第一章 序
  一 考察材料
  二 方法
 第二章 初期の夢
 第三章 マンダラ象徴
  一 マンダラ
  二 夢に現れるマンダラ
  三 宇宙時計の幻覚
  四 個我象徴について

図版出典一覧
錬金術テクスト集成一覧



第Ⅱ巻 目次:

凡例

第三部 錬金術における救済表象
 第一章 錬金術の基本概念
  一 序
  二 錬金術作業過程の諸局面
  三 目的像とその象徴
 第二章 錬金術作業の心的性質
  一 心的内容の投影
  二 作業に対する精神的根本態度
  三 瞑想と想像
  四 魂と肉体
 第三章 作業(オプス)
  一 方法
  二 物質に宿る霊
  三 救済の作業
 第四章 第一質料(プリマ・マテリア)
  一 質料(マテリア)の名称
  二 創造されざりしもの(インクレアトゥム)
  三 遍在性と完全性
  四 王と王の息子
  五 英雄神話
  六 隠された宝
 第五章 賢者の石とキリストのアナロジー
  一 再生
  二 宗教的解釈のための諸証言
 第六章 宗教史に見られる錬金術象徴
  一 象徴の母体としての無意識
  二 範例としての一角獣のモチーフ
 エピローグ

訳者あとがき (池田紘一)

図版出典一覧
人名索引
事項索引




◆本書より◆


第一部より:

「「執着」は医者にとっても患者にとっても望ましいものではなかろうし、それを生に対する消極的態度と見ないことには、訳の判らない、いや堪え難いものであるかも知れない。ところが実際にはそれは、消極的であるどころか逆に積極的と評価されるべき「執着」であるかも知れないのだ。なるほど「執着」は一方では極めて扱いにくい代物であり、しかもこの困難は見たところ克服し難いもののように思われるが、しかし他方ではまさにこの困難のゆえにこそ、全神経を集中して、一個の人間全体をもって応じよと要求しているところの、比類なき状況を示してもいるのである。患者は無意識裡に一貫して、究極的には解決不可能な大問題を追求しており、他方医者は、その技術のありったけを駆使して患者の追求を助けようとする――これが「執着」の示している状況の真の姿ではあるまいか。「わが術の求めんと欲するは全き人間なり」と昔のある錬金術師は言い放っている。追求されているのは、他ならぬこの「全き人間 homo totus」なのだ。医者の努力も患者の追求も、より一層偉大であると同時に未だ可能性としてしか存在していない人間、隠れている、まだ顕在化していない「全き人間」を目指しているのである。全体性への正しい道はしかし、――まことに残念なことに――避けることのできない迂路や迷路から成っている。それは「最長の道 longissima via」であり、真直ぐではなく、ヘルメスの蛇杖さながらに反対の極と極を結びつつ曲りくねった道である。その迷宮(ラビュリントス)にも似た紆余曲折を前にすれば何人も恐怖のあまり後込みせずにはおれないような道である。そしてこの道の途上で、人々が「めったに出会うことのない」と形容したがるあのさまざまな経験が生まれるのである。めったに出会えないのは、それが非常な努力を要するからに他ならない。なぜならこれらの経験が要求しているのは、世間の人々が最も恐れているもの、すなわち全体性だからである。」

「読者諸賢は私の説明の仕方にグノーシス派的神話の響きがあるというので腹を立てないでいただきたい。なんとなれば、われわれが今ここで問題にしている心理学的領域は、他ならぬグノーシス(Gnosis・真の認識)の源泉なのであるから。キリスト教の象徴が伝えようとしているのはグノーシスであり、無意識の補償作用の意味するところはいよいよもってグノーシスに他ならないのである。神話素(Mythologem)はこのような心的過程を物語る最も原初的な、最も本来的な言葉であって、いかなる知的表現といえども神話的な像の豊かさと表現力とに較べれば、それに近づくということはあってもその域に達するということは絶対にない。無意識の補償という心的過程に見られるのは根源的な諸像であって、従ってこれを最も的確に表現しうるのは神話におけるような象徴的な言葉以外にない。」



第二部より:

「しかし人間は自分で考えるだけの能力と尊厳をそなえている存在であり、自分自身の心のうちに何ものかを生み出す萌芽を宿している存在なのである。心の中で人知れず生起していることを辛抱強く観察することは必ずや有意義であって、もし心が外や上から規制されることがなければ、そこに人間にとって最も重大にして貴重なことが生起するのを見ることができるだろう。私は人間の心で生起する事柄に対して深い尊敬の念を懐いているので、密かな自然の摂理に要らぬ手出しを試み、それを妨げたり歪めたりするような真似はしたくない。」


第三部より:

「ところでここでちょっと、私の個人的な見解を挟むことをお許しいただきたい。プロテスタントとして人間は無価値な罪深い存在だと教えられていた私にとって、奉献の言葉の中の次の文句を初めて読んだ時の驚きは大きかった。それは私にとって正真正銘の一大発見であった。すなわち、「おお神よ、人間という価値ある存在を、神異を以って創造し給うた神よ Deus, qui humanae substantiae dignitatem mirabiliter condisti」と「われら人間の一部となる価値を御みずからに認め給いし御方 qui humanitatis nostrae fieri dignatus es particeps」とがそれである。これはまさしく人間に、いわば超越的な価値ないし尊厳を与えるものに他ならない。いや、この称揚の言葉の中にはそれ以上のものが隠されているように見える。なぜなら神自身が人間の一部となる、すなわち人間の本性を分け持つ価値をみずからに認めている(dignatus est)以上は、人間もまた神の本性の一部を分け持つ価値をみずからに認めることができるからである。いやこれはある意味では司祭が、犠牲の秘儀を遂行する際に、キリストの代りに自分自身を犠牲として奉献するという形ですでに実行していることなのだ。そして会衆もまたある意味では、聖体化した肉体〔聖餅〕を食べることによって、それゆえ神の実質を内に取入れ神性を分有するという形で、これを実行しているのである。
 司祭が聖別の文句を唱えることによって聖変化を惹き起し、かくしてパンと葡萄酒から成る被造物を、その物質的な不完全状態から救い出す。これはどこから見てもキリスト教的発想とはいえない。これはまさしく錬金術的発想である。カトリックの立場がキリストの現存と、この現存が人間に及ぼす救済作用とに重きを置くのに対し、錬金術師は物質の運命と物質の救済の顕現とに関心を寄せる。というのも、物質の内には神の魂が閉じ込められ救済を待っているからだ。その際、閉じ込められた神の魂は「神の息子」という形態をとる。錬金術師にとって、まず第一に救済される必要があるのは人間ではなく、物質の中に沈降しまどろんでいる神性なのである。彼らが自分自身のことを考えるのはその次である。すなわち第二番目に初めてこういう希望を洩らすのである。変容した物質が万能薬(パナケイア)として、「メディキナ・カトリカ medicina catholiaca 〔全的救いないし万能薬〕」として、卑俗な金属や「病める」金属のような「不完全な物体」に効き目を発揮するごとく、自分自身にも霊験をもたらしてくれますようにと。それゆえ錬金術師の関心は、神の恩寵による自己の救済にではなく、物質の闇からの神の救済に向けられているのである。そしてこの奇蹟の業(オプス)を実行することによって、この業にそなわる治癒的な力が副次的に錬金術師自身の上にも及ぶのである。」
「神聖な秘密を内包する物質は到る所に存在する。人間の肉体の内にも存在する。それは手軽に、安価に手に入るし、どこででも見出すことができる。この上なくけがらわしい汚物の内にさえ見出すことができる。それゆえ「作業(オプス)」はもはや儀式としての「オフィキウム〔聖なる務め〕」といったような生易しいものではなく、まさしくあの救済の業なのである。この業(オプス)はかつて神自身がキリストを通じて人類に対して成し遂げたものであった。これは錬金術師の救済作業のいわば模範であったのだ。この救済の業がいまや、聖なる術を授けられた哲学者によって、「聖霊の贈物 donum spiritus sancti」すなわち自己の純粋に個人的な「業(オプス)」として受けとめられる。純粋に個人的な業という点は錬金術師たちの強く主張するところである。マイアーはたとえばこう言っている。「他人の精神によって、そして金を払って雇った他人の手によって作業を行う者は、真理からはほど遠い結果しか得られないであろう。逆にまた実験助手のように他人に仕える者も決して女王の神秘に分け入ることはできないであろう」。」
「事実、錬金術師たちは徹底した独立独歩の人々であって、石(ラピス)に関する発言の仕方もひとりひとり異なる。弟子を持つことは滅多になかったし、直接の伝授という形態も非常に少なかったように見受けられる。同様にまた、秘密結社やこれに類する仲間組織の存在した証拠も殆ど見当らない。各人はただひとりで実験に従事し、孤独に堪えねばならなかった。」













































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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