プロチノス 『善なるもの一なるもの 他一篇』 田中美知太郎 訳 (岩波文庫)

「なぜなら、すでに満足すべき状態にある者が、何で変化を求めよう。またいっさいを自己のところに所有している者が、どこへ転出を求めよう。むしろすでにこの上なく完全な状態にあるから、この上の増加さえも必要としないのである。」
(プロチノス 「三つの原理的なものについて」 より)


プロチノス 
『善なるもの一なるもの 
他一篇』 
田中美知太郎 訳
 
岩波文庫 青/33-669-1 

岩波文庫 
1961年12月16日 第1刷発行
1986年11月6日 第3刷発行
159p
文庫判 並装 
定価300円



プロティノスの主要論文二篇(のちに「世界の名著」プロティノス他の巻に一部改訳の上収録)。訳者による50頁に及ぶ長文解説(「プロチノスの著作・人物・時代」)が付されています。


プロチノス 善なるもの一なるもの


帯文:

「新プラトン派の祖プロチノスの代表作二篇。ヨーロッパ神秘思想の源泉と目されるその哲学と人とを知らんとする人々の必読の書。」


目次:

はしがき (1948年)

善なるもの一なるもの
三つの原理的なものについて


解説

あとがき (1961年)




◆本書より◆


「善なるもの一なるもの」より:

「かくて、われわれの求めているものは一なるものであって、われわれが考察しているのは、万物の始めをなすところの善であり、第一者なのであるから、万物の末梢に堕して、その根源にあるものから遠ざかるようなことがあってはならない。むしろ努めて第一者の方へと自己を向上復帰させ、末梢に過ぎない感覚物からは遠ざかり、いっさいの劣悪から解放されていなければならない。(中略)そして自己自身のうちにある始元にまで上りつめて、多から一となるようにしなければならない。ひとはそれによってやがて始元の一者を観るであろう。」

「まことに、万有を生むものとしての、一者自然の本性は、それら万有のうちの何ものでもないわけである。従って、それは何らかのもの(実体)でもなし、また何かの性質でも量でもないわけである。それは知性でもなければ、精神でもない。それは動いているのでもなければ、また静止しているものでもない。場所のうちになく、時間のうちにないものである。それはそれ自体だけで唯一つの形相をなすものなのである。否、むしろ無相である。なぜなら、それはいっさいの形相以前であって、運動にも、静止にも先んずるものだからである。」

「かのものは何ものからも離れてはいないが、またしかしいっさいのものから離れているのである。従ってそれは現にあるけれども、しかしそれを受け容れることが出来て、それに自己を適合させるだけの用意があり、一種の同化作用によってそれにいわば接したり、触れたりすることの出来る者のところでなければ、それは現在しないのである。その接触には、かのものから由来し、かのものと類を同じくする能力をうちにもっていて、それによって、その能力がかのものから来った時と同じ状態にある場合、かのものの本性で観られ得るかぎりは、すでにこれを見ることが出来るのである。」

「つまりそのような知性に先立つ驚異すべきものがすなわち一者なのであって、それは存在ではないのである。(中略)本当をいえば、一者には合う名前が一つもないのである。しかし何らかの名前で呼ばなければならないとすれば、これを共通に一者というのが適当であろう。(中略)それは知性を存在性へと導くものであって、それの本性はおよそ最善なるものの源泉となるがごときものであり、存在を生む力として、自己自身のうちにそのまま止まって、減少することのないようなものであり、またそれによって生ぜしめられるもののうちに存在するということもないものなのである。」

「われわれのいう一者は、他者のうちに存在するものでもないし、部分に分けられるものの中に含まれているものでもなく、また最小者の意味において不可分なのでもないからである。なぜなら、むしろそれはあらゆるものの中の最大のものだからである。尤もその最大というのは大きさにおいてではなく、能力においてなのである。」
「またそれを無限のものとして考える場合においても、それは大きさや数がきわめつくされないからというよりは、むしろその能力が捕捉すべからざるものであるということによるのでなければならない。」
「それはなお神以上のものなのである。すなわちそれは、自分だけであるものなのであって、何ものもこれに外から加えられることのないものなのである。」
「すなわちかのものは、あらゆるものの中でもっとも充足的かつ自足的なものであるからして、不足分を他に求めるようなことの何より少ないものでなければならない。」
「もし本当に何か自足的なものがなければならぬとすれば、一者こそそれでなければならぬ。なぜなら、ひとり一者のみが自己自身に対しても、また他に対しても不足を訴えたり、求めたりするようなことのないものだからである。すなわちそれは、自分がただ ある ためにも、また よくある ためにも、何ら他に求めるところのないものであって、自分がそこに座を与えられるために何かを必要とするようなことも決してないものなのである。なぜならば、自分以外のものに対して、それらの存在因となっているものが、自己の正に ある ところのものを他から授けられてもつということはないし、またその よく あるということにしたところで、一者にとって一者以外の何がそれであり得ようか。(中略)また一者にはいかなる場所も必要がない。それは座を与えられることを必要としないからであって、そのようなことを必要とするというのは、自己自身を保つ能力のないことを意味するのであり、座を与えて貰わなければならないものというのは、座が与えられなければたちまち転落する物量であり、精神のないものなのである。(中略)しかし最初にあるものが、それ以後のものを不足分として求めるということはない。そしていっさいの最初をなすもの(始元)は、いっさいのものに不足しないのである。」
「かくて一者にとっては、それが求めなければならない善というものは一つもないのである。また従ってそれは何ものをも欲しないのである。」

「これに触れることの出来る者のためには、それは現にそこにあるというかたちで存在しているのであるが、しかしそのような接触の能力をもたない者に対しては現在しないのである。(中略)別のことを考えたり、別のところに注意を向けたりしていたのでは、どんなものにしたところで、それを知るということは出来ないのであって、知られるものが純粋にそれだけで捉えられるためには、知られる当のものには、余計なものは何もつけ加えてはならないのであるが、ちょうどまたこの場合もその通りなのであって、精神のうちに他の事物の印影を保有していたのでは、その印影が作用するから、かのものの直知は不可能となることを会得しなければならない。(中略)精神は、いやしくもそれが第一者によって充実され、照明されるためには、それの妨げをするようなものが一つでもそこに潜んでいてはならぬとすると、いかなる形相も有することのないものとならなければならない。そうすると、あらゆる外物から身を引いて、内部への全面的転向を必要とすることになる。すなわち外物のいかなるものへも偏倚することなく、万事何ごとについても関知することなく、(中略)ついにかのものの直観のうちに自分自身を忘れるところまで行かなければならぬ。そしてかのものに合体して、いわばそれとの交わりの如きものを充分に尽した後に、帰って来て、もし出来るなら、他の者にもかしこにおける合体交合の模様を伝えるようにしなければならない。(中略)あるいはまたしかし、政治上のことは自分の仕事とするには足りないと考えて、自分の遺志で、かしこに止まるのもさしつかえない。かのものを見ることが多ければ、ちょうどまたそのような気持になるであろうから。ひとのいうように、それはいかなるものに対しても、その外にあるものなのではなく、むしろあらゆるものとともにあって、それと合体しているのであるけれども、ただ必ずしもすべてのものがそれを知っていないだけのことなのである。それは自分からもとめて、かのものの外――というよりは、むしろ自分自身の外に逃げて出ているからなのである。」

「物体は物体によって妨げられて、相互に共同することが出来なくなるけれども、物体でないものは、物体によって分けへだてられるということはないのである。また従って、それらが互いに離ればなれになるのは、場所の上のことではなくて、分別(相異)と差別によるのである。従って相異(分別)がそこになければ、それらは互いに異るところがないのであるから、直接お互いのところにあるということになる。するとかのものは、分別相異を知らない一者であるかぎりにおいて、いつも直接そこにあるわけであり、われわれは分別(相異)をもたない場合においてのみ、直接そこにあるわけである。」

「われわれの存在は、われわれがかのものの方に傾きさえすれば、それだけ存在度が多くなるのであって、その存在をよき存在たらしめるものもまたかしこにあるのである。そして存在がかのものから遠ざかれば、それだけで存在度は少くなるのだる。かしここそ精神のいこい場なのであって、いっさいの邪悪から清められたその場所へ馳けのぼることによって、精神は邪悪を脱するからである。精神が知性にめざめるのもそこにおいてであり、もろもろの悩みを受けずにすむのもそこにおいてなのである。否、真実の生というものもそこにおいてこそ生きられるのである。なぜなら、現在の生、神なき生というものは、実は生命の影に過ぎないのであって、かしこの生を模したものなのである。」
「精神はかしこに生ずることによって、自分自身が本来あったところのものになるからである。」

「精神がかしこに到達し、かのものを分有することになると、その時は生活が一変して、そのような生活状態におかれることによって、真実の生命を賄(まかな)ってくれる者が直接その場にいることを知るようになり、もはやそれ以上何も必要としないようになる。否、むしろ反対に、他のいっさいのものを脱ぎすてて、ただそれひとつだけに立止まらねばならなくなる。すなわちわが身に纏う、その余のいっさいの残りものは、これを断ち切って、そのものひとつだけにならなければならない。」
「かくて、そこに見ることが出来るのは、見ることが許されるかぎりの、かのものであり、また自己自身なのである。その自己自身は、知性的な光明にみたされて、ひかり輝く自己自身であり、あるいはむしろ光そのものとなって、きよらかに、軽やかに、何の重荷もなく、神と化したというよりは、むしろすでに神であるところの自己自身なのである。」

「かくて、見る者は見られたものと(中略)直接に一つになっていたのであるから、(中略)むしろ自分と一つになっているものというべきであったろう。従って、かのものと交わりつつあった時にひとが何者となったか、もしその記憶があるならば、ひとは自己自身にかのものの面影をとどめて、もっていることになるであろう。ところで、その場合ひとは、自分自身がまた一体者となっているのであって、自己のうちには、自分自身に対しても、また他についても、何らの相違も含んでいないものだったのである。すなわちその場合の彼には、何の動きもなかったのである。激しい感情はむろんのこと、他に求める欲望も、そこまで登りつめた彼のところには存在しなかったのである。否、言論も、何らかの知るはたらきも存在しなかったのである。もしそこまで言う必要があるならば、まるで自己自身でさえもなかったと言ってもよいであろう。」

「それはすなわちこの世の他のいっさいからの解脱であって、この世の快楽をかえりみぬ生活なのである。自分ひとりだけになって、かのものひとりだけを目ざしてのがれ行くことなのである。」




こちらもご参照下さい:

『世界の名著 続 2 プロティノス ポルピュリオス プロクロス』 (責任編集: 田中美知太郎)































































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