ヴァールブルク 『蛇儀礼』 三島憲一 訳 (岩波文庫)

「空を見上げるということこそ人類にとっての恩寵であり、また呪いでもあるのです。」
(アビ・ヴァールブルク 『蛇儀礼』 より)


ヴァールブルク 
『蛇儀礼』 
三島憲一 訳
 
岩波文庫 青/33-572-1 

岩波書店 
2008年11月14日 第1刷発行
204p
文庫判 並装 カバー
定価560円+税
カバー: 中野達彦
カバー写真: ヴァールブルクとホピ族の踊り手。



訳者解説より:

「本書は、アビ・ヴァールブルク(中略)の、「クロイツリンゲン講演」と言われる講演の再現されたテクストの翻訳である。」


Aby M. Warburg: Schlangenritual ein Reisebericht
図版(モノクロ)多数。


ヴァールブルク 蛇儀礼 01


カバーそで文:

「ドイツの美術史家ヴァールブルク(一八六六-一九二九)が見た世紀末(ファン・ド・シエクル)アメリカの宗教儀礼。蛇は恐怖の源か、不死の象徴か。プエブロ=インディアンの仮面舞踊や蛇儀礼は、やがてギリシア・ローマやキリスト教の蛇のイメージと交錯し、文化における合理と非合理の闘争と共存を暗示する。」


目次:

蛇儀礼
 ――北米プエブロ=インディアン地域で見たさまざまなイメージ

ドイツ語版解説 (ウルリヒ・ラウルフ)
〈訳者解説〉 ハルツ・アテネ・オライビ (三島憲一)



ヴァールブルク 蛇儀礼 02



◆本書より◆


「蛇儀礼」より:

「食糧確保という社会的行為は、こうして見ると分裂(スキゾ)的です。つまり、魔術と技術の両者が合体しているのです。
 論理的思考による文明と狂信的で魔術的な狙いがこのように同居している事態は、プエブロ=インディアンたちの置かれている独特な文化的混合状態、あるいは移行状況によるところが大きいのです。(中略)魔術とロゴスの中間にある彼らが、状況に対処する手段は象徴なのです。獲物をつかみとるだけの人間(Greifmensch)と思考する人間(Denkmensch)との間に、象徴によって魔術とロゴスを結びつける人間がいるのです。象徴的な思考や行為というこの段階を示す例が、プエブロ=インディアンたちの舞踊でしょう。」

「動物に対するインディアンたちの心のうちの態度は、ヨーロッパ人のそれとはまったく異なります。インディアンたちは動物を人間より高次の存在と見ています。なぜなら、動物はまさに動物であるというその完璧なあり方によって、人間という弱い存在よりもはるかに高い能力を持った存在となっているからです。
 動物へと転成しようとするこの意志の心理的分析に関して、私は、まだこの旅に出る前に、インディアンの心の理解をめぐる論争の最前線にいる経験豊かなフランク・ハミルトン・クッシングから得た示唆が、個人的に大きな衝撃となり、蒙を啓かれました。(中略)彼は煙草を吸いながら、あるインディアンが彼に「なぜ人間が動物より高等だと言えるのか」と述べたときの話をしてくれました。インディアンはこう言ったのです。「アンテロープを見てごらんなさい。走っているだけだが、走るのは人間よりはるかに上手ではありませんか。あるいは熊を考えてください。力そのものではありませんか。人間はなにかがほんのちょっとできるだけです。ところが動物はそのままで完璧な存在です」と。」

「動物を通じて自然と一体化しようというこの魔術が最高に高揚した形態は、オライビとワルピのモキ族に見られる、生きた蛇を使った踊りです。」
「ここでは、踊り手と生き物が魔術的に一体化するのです。そして驚くべきことに、インディアンたちは、いっさいの生き物の中でもっとも危険なガラガラ蛇を暴力をまったく使わずに操って、蛇の方が従順に(中略)この何日間か続く儀礼をともにするようにもっていくのです。」
「ワルピの蛇儀礼は、模倣によって動物になる変身儀礼と、流血の生け贄との間に位置します。というのも、動物は模倣の対象でなく、はっきりと儀礼に加わるからです。しかも生け贄にされるのでなく、(中略)人間に代わって雨乞いをする立場として登場するのです。
 というのもワルピの蛇舞踊は、蛇自身に代願を強要する踊りなのです。蛇は、夕立の訪れが期待される八月、一六日間続く儀礼のために低地の砂漠で生け捕りにされ、地下礼拝所(キヴァ)で蛇氏族およびアンテロープ氏族の首長たちの世話を受け、その間、独特の儀礼を受けます。」
「儀式の頂点は、インディアンたちが(中略)蛇をつかまえて運び出し、使者を派遣する目的でその蛇を草原に放つシーンです。」
「インディアンが三人一組で蛇のいる藪に近寄ります。蛇氏族の大司祭が藪から蛇を引っ張り出すと、顔に色を塗り、刺青をし、臀部に狐の皮をまとったもう一人のインディアンがその蛇をつかんで尻尾を口に入れます。彼の肩をつかみながらついて行く二人目のインディアンは、羽根のついた棒を振って蛇の注意を逸らします。三人目は、(中略)もし蛇が口から外れたらつかまえる役を担っています。蛇舞踊は、このワルピの狭い広場で行われますが、その時間は三〇分ちょっとです。こうしてすべての蛇が楽器のガラガラという音にあわせて、運び出されます。踊り手たちはその後蛇を速やかに草原に持っていき、放ちます。蛇たちはすぐにどこかへ消えていきます。」
「ワルピの人々の神話についてわれわれが知るところによれば、こうした蛇崇拝は、彼らのコスモロジーの中での出祖伝説にさかのぼります。ある伝説ではティ=ヨという英雄についてこう語られています。ティ=ヨは、皆が渇望している水の源泉を見つけるために地下への旅に出ます。ティ=ヨの右の耳には、いつも見えない雌の蜘蛛がいて、彼のお供をしています。(中略)ティ=ヨは、地下の王様たちが支配している地下礼拝所(キヴァ)をいくつも通って、西と東にある二つの太陽の家を過ぎ、大きな蛇の地下礼拝所(キヴァ)に至ります。そこで彼は、天気を司るための魔法の「バホ」を授かるのです。伝説によるとティ=ヨは、この「バホ」を携え、二人の蛇娘をつれて下界から地上に戻ります。そしてこの二人との間に生まれた子供たちは、蛇の形をしています。この子供たちは危険きわまりない生き物で、最後には、部族全体が住む場所を変えざるをえなくなります。こうしてこの神話には、蛇は、天気の神であると同時に、部族の移動を引き起こす祖先動物としても組み込まれることになります。
 今述べた蛇舞踊で蛇が生け贄にされることはありません。蛇は聖別され、さまざまな模倣舞踊の働きによって雨乞いの使節へと変身させられ、送り出されるのです。そして、死者たちの魂のいるところに戻り、稲妻と化して空に雷雨を引き起こすのです。」
「インディアンたちの宗教的魔術がこのように原初的に展開するさまを見て、普通の人なら、これはヨーロッパのまったく与り知らない未開の荒々しさを示す独特の原始的な習俗であると、思うでしょう。しかし実は(中略)われわれのヨーロッパ文化のまさに揺籃の地であるギリシアにおいて、今見たインディアンたちのそれを上回る激越で不可思議な儀礼習慣がいたるところでなされていたのです。
 例えばディオニュソスの儀礼は、官能の頂点を極めた放埓なもので、マイナデスの娘たちは両手に蛇を持って踊り狂いました。そして彼女たちはいわば冠飾として頭に生きた蛇を巻きつけていたのです。そして、(中略)神に捧げるべく、片方の手に持ったこの動物を生きたまま引き裂くのです。狂乱の中でのこの血なまぐさい生け贄こそは――今日のモキ=インディアンたちの踊りと対照的に――マイナデスの宗教舞踊の頂点であり、その本来の意味なのです。」

「古代のペシミスティックな世界観における魔神(デーモン)としての蛇と反対に、人間に対してやさしい、古典的美しさを伴った喜ばしい蛇にようやくめぐりあえるのが、アスクレピオスの像です。古代の医術の神アスクレピオスの療しの杖には蛇がその象徴として巻きついています。彼には、(中略)世界の救い主に備わる雰囲気があります。」
「この世を去った魂の神であるアスクレピオスの高貴で清澄な姿は、蛇が棲息している地下の世界に根を下ろしていました。この神に対するもっとも古い崇敬は、蛇の姿への崇敬だったわけです。この杖にまつわりついているのは、アスクレピオスその人に他なりません。つまり、この世を去ったアスクレピオスの魂そのものが蛇の姿を取って生き続け、このように現れ出ているのです。というのも、クッシングのインディアンたちならば、蛇というのは、いつでも飛びかかってきて、無慈悲にも一咬みで人間を殺しかねない、あるいはすでに殺してしまった存在ということになるでしょうが、実はそうした存在であるだけでなく、みずから脱皮することで、身体がいわば生ける鞘から抜け出すようにして、自分の皮膚を捨てて、再び新たに生命を存続させるそのさまを、蛇はみずからにおいて体現している存在なのです。蛇は大地の中に這い込むこともできれば、そこからまた新たに姿を見せることもできるのです。死者たちが安らぐ地の底の冥界から帰還するゆえに――また脱皮して新たな皮をまとうこともあいまって――、蛇は不死のシンボル、病と死の苦しみからの再生のシンボルとなるのです。」



「ドイツ語版解説」より:

「ヴァールブルク本人はまずはハンブルクで、その後はイエナの私立病院で数週間、いや数ヵ月にわたって激しい苦しみを経験したのち、一九二一年四月半ばにクロイツリンゲンにあるルートヴィヒ・ビンスヴァンガーの精神病院に赴いたようである。」
「一九二三年春に病状が好転してくると、ヴァールブルクはビンスヴァンガーに対して、病院の医師や患者たちの前で講演をしてみたいと申し出た。(中略)こうして本書にある北アメリカのプエブロ=インディアンについての講演会が一九二三年四月二一日に開催されることになった。」
「講演のもとになったのは、ヴァールブルクが三〇年近く前の一八九五年から九六年にアメリカ合衆国の南西部諸州を旅した際の観察や経験である。」

「このクロイツリンゲン講演のいくつかの箇所で、ヴァールブルクは、蛇が人間にとっては「もっとも恐ろしい動物」で、原初的な恐怖を引き起こす存在であると示唆している。」
「ムントクーアによれば、まさにそれゆえに蛇崇拝は、動物崇拝の最古の形式の一つであり、それを引き起こすのは恐怖なのである。(中略)インディアンの魔術的な宗教儀礼における蛇崇拝は、ヴァールブルクにとって、原始の思考のかなり深い層から発する、いわば象徴形成の根に由来するものと見えた。(中略)象徴形成が限りなく困難なとき、それどころかほとんど不可能に見えるときにこそ、象徴を作ることがもっとも必要だということであろう。不快感を引き起こす蛇の特性を象徴へと変換することで多少ともその不快感を縮減できるならば、それによって不安という領野を「思考の空間(Denkraum)」へと組み替えたことになる。その点でオライビのインディアンたちは、いかに魔術的思考にとらわれているように見えようとも、(中略)ヴァールブルクから見れば、啓蒙のもっとも初期の英雄たちなのである。」
「インディアンの蛇舞踊は、実用目的をいっさい持たない芸術的楽しみの行為ではない。具体的な結果をもたらすための魔術的儀礼なのである。インディアンは蛇の中に(みずから呼び起こしたい)稲妻の力を肉化させ、舞踊を通じて蛇と結体し、そのことによって、結果として望みの雨を降らせる原理にみずからなろうとするのだ。」
「ヴァールブルクは、このクロイツリンゲン講演で、血まみれの生け贄から、純化された啓示宗教に至る宗教的な昇華のプロセスを描いている。しかし同時に、旧約聖書の「青銅の蛇」に話が及んでいることを鑑みれば、この昇華のプロセスもまたいつ逆転するか分からないと彼が見ていることも明らかである。(中略)治癒の神の姿を取った青銅の蛇は、本来克服されたはずの動物崇拝が、聖書の章にまたしても忍び込んでいることを示している。それどころか、この話は聖書を通じて中世の神学や聖像学にまでつながっているのだ。つまり、この青銅の蛇は、抑圧された未開の世界が生き続け、回帰することの証しなのである。アテネ、エルサレム、オライビはみな親戚関係だというのである。」
「ヴァールブルクは象徴の「両極性」という言い方をするが、(中略)蛇こそはきわめて両義的な含みを持った象徴で、(中略)蛇は死の危険であり、「不死のシンボル、病と死の苦しみからの再生のシンボルとなる」。蛇はそれ自身のうちに死と再生のこの二つの可能性を宿していて、どちらが十全に展開するかは魔術の力によって決定される。破滅と治癒という蛇の象徴が宿しているこの二つの可能性を、ヴァールブルクは、片方をラオコーンの姿のうちに、もう片方をアスクレピオスのそれに見ている。(中略)同時にヴァールブルクは、彼の思考の中の相反する両極(中略)を、この二人の姿を通じて表現しようともしている。その両極とは、アゴーンとセラピー、すなわち闘争と治癒である。
 クロイツリンゲン講演は、病人が、自分の力で病を癒した(あるいは癒せる)ことを証明すべく行ったものである。(中略)講演は自己治癒のプログラムの一部であり、同時にまたプログラムそのものでもある。ヴァールブルクは何年も悪霊(デーモン)との戦いを続けてきた。そして今や勝利はすぐそこまで来ていた。彼はみずからがその犠牲となった不快感を引き起こす蛇の力の象徴化をあえてはかったのだ。恐怖の権化である蛇についての講演はそのためである。人間の合理性に対するもっとも厳しい脅威を表す蛇の象徴を、彼自身の理性(ratio)の試金石としたのだ。この講演のテーマになっているインディアンたちは、いわば仮面であって、ヴァールブルクはこの仮面に隠れながら、不安を象徴のうちに封じ込めることの意味を述べるという、きわめて危険な企てを果たそうとしているのだ。クロイツリンゲン講演はその意味で治癒のためのプログラムであるだけでなく、文字通りの闘争の書なのである。」
「ヴァールブルクは、どちらか一方が最終的な勝利を収める「究極の戦闘」があるとは考えていなかった。個体の歴史においても、系統発生の歴史においても、そういうことは信じていなかった。魂の原始的あり方および、魔術に潜む嫌悪感の力というものは、最終的に克服したり、排除したりできないことは一度として疑わなかった。理性(ratio)と非合理的な力との緊張関係は、彼から見ると解消できるものではないのだ。」
「「この講演は、治ることのない分裂病患者の告白として精神科の医師のアーカイヴにしまっておいてください」。」

「この講演で論じられているのは、最終的には、人間の文化が持つ運命とでもいうものである。つまり、血まみれの生け贄から「真似を通じてのミメーシス的感情移入」を経て、感性と恐怖の独裁的支配から離脱した純粋な思考へと進む、厄介な、そしていつなんどき逆転するか分からない運命的歩みが扱われているのである。しかし、またこの道はあまりにも前に突き進みすぎると、技術に操られた新たな未熟状態へと陥りかねない。ヴァールブルク個人の治療のプログラムであると同時に、普遍的な治療のプログラムでもあるこの講演の欄外のメモで、彼は、人間の苦悩が文化によって、そして文化の中で、癒されうる可能性を否定している。(中略)彼は、悲劇的=ペシミズム的な異教世界に魅せられ続けていた。
 象徴の獲得とそうした象徴の一時的な打破という、いっさいの治癒を知らないこの悲劇的ドラマこそ、ヴァールブルクがわれわれにこのテクスト(中略)を通して突きつけるものである。」











































































































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◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

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