ラディン/ケレーニイ/ユング 『トリックスター』 皆河宗一 他 訳 (晶文全書)

「しかし、なにも失われてはいない。(中略)外的には忘れていても、内的にはまったく忘れてはいないのである。」
(C・G・ユング 「トリックスター像の心理」 より)


ポール・ラディン
カール・ケレーニイ
カール・グスタフ・ユング 
『トリックスター』 

皆河宗一/高橋英夫/河合隼雄 訳 
晶文全書

晶文社 
1974年9月25日 初版
1989年8月10日 15刷
309p 索引xiv 
A5判 丸背紙装上製本 カバー
定価1,980円(本体1,922円)



本書「訳者あとがき」より:

「本書は、ポール・ラディン Paul Radin の THE TRICKSTER - A study in American Indian Mythology (『トリックスター――アメリカ・インディアン神話の研究』、一九五六年)と同書の独語版 Der Gottlische Schelm (一九五四年)を訳出したものである。第一部から第三部までは英語版、ケレーニイ、ユングの論文は、無削除で正確度の高いドイツ語版によっている。」
「さらに本訳書には、文化人類学者山口昌男氏による「今日のトリックスター論」をつけ加えている。」



ラディン トリックスター


カバーそで文:

「トリックスターとは、その自由奔放な行為ですべての価値をひっくり返す神話的いたずら者、いわば文化ヒーローとしての道化である。
 本書は、アメリカインディアン、ウィネバゴ族のなかで語りつがれてきたおびただしいトリックスター物語を、人類学者ポール・ラディンが収集し、これに、カール・ケレーニイ、C. G. ユングによる神話学的、心理学的分析を付してなった。多彩な知性の協力によってトリックスター像の解明を試みる独創的な書物である。
 創造者であると同時に破壊者、善であるとともに悪であるという両義性をそなえて、トリックスターはまさに未分化状態にある人間の意識を象徴する。そして、既成の世界観のなかで両端に引きさかれた価値の仲介者としての役割りをになう。トリックスターのかもしだす痛快な笑い、諷刺、ユーモア、アイロニーは、多次元的な現実を同時に生き、それらの間を自由に往還して世界の隠れた貌を顕在化させることによって、よりダイナミックな宇宙論的次元を切り拓く、すぐれた精神の技術である。
 われわれは今日の文化を考えるうえで、秩序にとらわれない自由な精神と思考の飛翔を可能にする、この道化的機智を無視してすぎることはできないであろう。」



目次:

予備的ノート (ポール・ラディン)

第一部 ウィネバゴ・インディアンのトリックスター神話
 Ⅰ ウィネバゴ族トリックスター物語群
  「トリックスター物語群」のためのノート

第二部 補足的トリックスター神話
 Ⅰ ウィネバゴ族ウサギ物語群
  「ウサギ物語群」のためのノート
 Ⅱ アシニボアン族トリックスター神話の要約
 Ⅲ トリンギット族トリックスター神話の要約

第三部 神話の特質と意味 (ポール・ラディン)
 Ⅰ テキスト
 Ⅱ ウィネバゴ族の歴史と文化
 Ⅲ ウィネバゴ神話と文学的伝統
 Ⅳ ウィネバゴ族ウサギ物語群とその同類
 Ⅴ ウィネバゴ族トリックスターの肖像
 Ⅵ ワクジュンカガに対するウィネバゴ族の態度
 Ⅶ 諷刺としてのワクジュンカガ物語群
 Ⅷ ワクジュンカガと他の北アメリカ・インディアン・トリックスター物語群との関係

第四部 神話的あとがき――ギリシア神話とトリックスター (カール・ケレーニイ/訳: 高橋英夫)
 Ⅰ 第一印象
 Ⅱ 文体
 Ⅲ 類似点
 Ⅳ 本質
 Ⅴ 相違点

第五部 トリックスター像の心理 (C・G・ユング/訳: 河合隼雄)

解説 今日のトリックスター論 (山口昌男)

訳者あとがき (皆河宗一)
索引




◆本書より◆


「神話の特質と意味」(ラディン)より:

「ウィネバゴ族は、たくさんの霊を信じていた。その輪郭が漠然としているものもあったし、はっきりしているものもあった。大多数は動物として、あるいは動物のような生き物として描かれていた。これらの霊の主な特徴は、望みどおりのどんな形でも、動物であれ人間であれ、生物であれ無生物であれ、自由に取ることができることだった。これらの超自然的生き物たちに、人間は、かならずタバコがつくさまざまな種類の捧げ物をした。」
「霊と神と人間との関係は、ひじょうに人間的なものであった。すべての子供は、男であれ女であれ、九歳から十一歳までの間に断食をし、どの点から見ても、一生涯のいかなる危機的状況においても頼みとすることのできる、守護の霊というべきものを得ようとつとめた。この思春期に守護的な、保護的な霊を獲得することは、それが多くの他のアメリカ・インディアンの部族の特徴であったように、ウィネバゴ族の文化の基本的な特徴の一つであった。ウィネバゴ族の考えによれば、それが得られなければ、人間はすっかり錨をなくしてしまい、もっとも露骨な、もっとも残酷な形で、自然の、そして社会の出来事に左右されてしまうのだった。彼らが断食の効能を信じなくなり、霊がもはや彼らに姿を見せてくれなくなったとき、ウィネバゴ族の文化は急速に崩壊していった。」

「ワクジュンカガと北アメリカの他のあらゆるトリックスター英雄に付随する手柄話の類似性は、まったくおどろくばかりである。(中略)まさしくこの事実のために、ウィネバゴ族の神話物語群と他の部族のそれとの間の明白な相違は、特別な重要性をおび、説明が必要とされるのである。」
「この物語群は、他の版では見られない出来事からはじまる。つまり、ワクジュンカガは部族の酋長として描かれ、四日それぞれ違う日に、戦いの包みの宴を開いている。彼はもてなし役で、したがって最後のどんじりまで残っていなければならぬのに、女と寝るために儀式をほうり出しているように描かれているが、それは戦いの包みの宴に参加する者にはぜったいに禁じられている行為である。四度目の日には、彼は最後まで残り、宴に参加した者全員にボートでいっしょについて来いという。岸を離れるやいなや、彼は引き返してボートは無用だとたたきこわす。この愚かな行為に、連れの何人かは去っていく。そこで彼は歩いて出かけるが、しばらくすると、戦いの包みも矢筒もこわしてしまい、とうとうだれもかれもそばを離れ、ひとりきりになる。ひとりきり、つまり、人間と社会に関するかぎりでは。自然の世界とは、彼はなお密接に接触している。彼はあらゆるものを弟と呼ぶ、そうわれわれのテキストは語っている。彼は彼らを理解しているし、彼らも彼を理解している。
 これは明らかに序論であり、その目的は明白である。ワクジュンカガは反社会化されなければならず、人間と社会とのきずなを断つものとして描かれなければならない。(中略)おそらく語り手は、ワクジュンカガは完全に人間の間の世界と縁のないものとして、次第に無定形の、本能的な、統合されない人物から、人間の輪郭を持ち、人間の肉体的特徴を予示するものに進化していくものとして描くべきだ、と決めたのであろう。」
「次につづく手柄話は、ワクジュンカガがどんな人物かを明確に語っている。(中略)彼は、裏切って老いたる野牛を破滅におとし入れ、きわめて残忍な方法で彼を仕止める。彼には倫理的価値は少しも存在していない。それでは、彼はどういうふうにその野牛を仕止めるのか? ただ片方の手、右手を使ってである。次の挿話は、どうして彼が片手だけしか使わなかったかを示している。彼はなおも無意識の中に生きており、精神的には子供で、それがここでは、右手と左手の争いによって象徴されているが、その争いで彼の左手はひどく傷つけられる。彼自身は、それがどうして起こったのかほとんどわかっていない。「どうしてこんなことをやったんだろ?」とたださけぶだけである。」
「次の挿話でも、彼はやはり特殊化されていない、本能的なワクジュンカガである。彼は四人の子供を連れた人に会う。この子供たちは、死なぬように、ある方法である時刻に食物をあたえなければならない。要するに、秩序の原則を認めなければならない。ところが彼は、そんな原則など知らない。父親は、ワクジュンカガが自分の指令にしたがわなかったために子供たちが死んだら、おまえを殺すぞ、と彼に警告する。けれどもワクジュンカガは、自分が空腹なものだから、あたえられた指令にしたがわず、子供たちは死んでしまう。たちまち父親が彼におそいかかる。ワクジュンカガは内陸の世界、つまり、宇宙をあちこち追いまわされ、内陸を取りかこむ大洋に飛びこんではじめて、死をまぬかれる。」
「ここでわれわれは、ワクジュンカガがまったく錨をなくした状態にあるのを知る。彼は人間や社会から独立しているだけでなく――少なくとも一時的には――自然の世界や、同じように宇宙からも孤立している。(中略)作者がここで意図したこと――怒った父親、追跡、大急ぎの逃走、大洋につかること――は、本能的な生活を送る人にはどんなことが起こるかの説明と見てもいいだろう。
 けれども、ここにはまたもう一つの問題がふくまれている。おびえるということは、ウィネバゴ族の象徴主義では、意識の目覚め、現実の感覚、まさしく良心のはじまりを示すのがふつうである。(中略)ここでの重要な点は、自分の失敗と愚かさに対する彼の反応である。「そうだとも」そう彼はいう。「みんながおれのことをワクジュンカガ、間抜けたやつと呼ぶのは、このためなんだな。みんなのいうとおりだ」」
「「まったく正しいことだ、おれがワクジュンカガ、愚かなやつと名づけられているのは! こう呼ばれて、おれはほんとうにワクジュンカガ、愚かなやつにさせられているんだ!」」
「彼はいまや、完全な孤立と正体の欠乏から姿をあらわし、自己とまわりの世界を意識したものとして示されることになる。(中略)そして彼は、どうして自分がワクジュンカガと呼ばれるのか理解しはじめた。ところが彼は、まだ自分の行為の責任を認めてはいない。」

「彼はつねに古い原始的な自我のままでいる。」

「ワクジュンカガが(中略)ほんとうの自己をあらわしたとき、(中略)ウィネバゴ族の物語群ではふつうそういう場面では、彼がいたずらをされた人たちの狼狽をあざ笑っているところが描かれる。ところがここでは、彼は逃げ出してしまう。理由は明らかである。状況はあまりに多くの困難にみちている。あまり多くの禁忌が破られている。あまり多くの人びとの感情が無視されて来たし、あまり多くの個人が恥をかかされて来た。」
「人はこの気違いじみた雰囲気からさっさと抜け出さなければならない、と語り手は感じているらしい。(中略)彼は、ワクジュンカガを逃げ出させたばかりでなく、突然、自分が何をやっているかを彼に悟らせてもいる。(中略)彼は突然、善良な市民として、まったく社会的になった個人として示されている。(中略)それがわれわれがここで扱っているワクジュンカガであるというただ一つの徴候は、このエピソードの最後の三つの文の中に見出される。「地球をまわって人びとを訪ねることにしよう。ここにとどまっているのは、もううんざりしたからな。もとはおれは平和にこの世をさまよい歩いたものだ。ここではごたごたばかり起こしてるだけだ」 これらの言葉にわれわれは、さまざまな義務をともなう家庭化と社会への彼の抗議を聞くのである。」

「最後の場面で、われわれはなおも彼のもう一つの肖像にぶつかる。われわれは彼を神として、われわれの物語群において完全に無視されている彼の性質の一面として、また恐ろしいまでのトリックスターとして、老成していくトリックスターとして、地球上で最後の食事をとる、デミウルゴスに近いものとして見る。岩のてっぺんに石の釜をおいて腰を下ろして食事をしている彼が描かれている。彼はその岩に、釜、尻、睾丸などの跡を残して、その最後の食事を永遠に不滅のものとしている。彼はそれから出発するのだが、そのようなものとして生殖力のシンボルであり、宇宙全体と関連しては人間のシンボルであるから、彼はまず大洋へ飛びこみ、彼が管理する内陸の世界、地球創造者の世界のすぐ下にあるそれへと登っていく……」




こちらもご参照下さい:

グリオール+ディテルラン 『青い狐 ― ドゴンの宇宙哲学』 坂井信三 訳
ケレーニイ/ユング 『神話学入門』 杉浦忠夫 訳 (晶文全書)
山口昌男 『道化の民俗学』 (ちくま学芸文庫)






































































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