井筒俊彦  『超越のことば ― イスラーム・ユダヤ哲学における神と人』

「だが、通常、現実には、アートマンは決してアートマン=ブラフマン的純粋性において機能してはいない。純粋性どころか、アートマンは様々な機能次元で、様々な側面から かぶせ を被って自己疎外を起こし、アートマンならざるもの(非アートマン)に変質し、ブラフマンとの本源的同一性を完全に喪失した非本来的状態に堕在している。」
「このようにして数限りない非アートマン的属性が私に かぶせ られ、私はそれらの寄託された属性の背後に己れのアートマン的本性を覆い隠されていく。本来は不変不動、無記名である私は、変転常ならぬ浮動性を帯び、記名的な我、つまり公共的に名前が記載された主体、「個我」、としてしか機能しなくなる。」



井筒俊彦 
『超越のことば』

― イスラーム・ユダヤ哲学における神と人

岩波書店 
1991年5月28日 第1刷発行
v 474p
B6判 丸背紙装上製本 カバー
定価3,400円(本体3,301円)



本書「あとがき」より:

「本書が主題とするイスラーム・ユダヤ宗教思想のコンテクストにおいて、「超越のことば」とは、唯一絶対の超越者、人格的創造神、の自己顕現を意味する。」
「神が人に語りかけ、人はそれを神的秘密の暗号として受けとめる。
 受けとめられた暗号は、解説されなければならない。ここに「超越のことば」の解釈学的プロブレマティークが生起する。」



本書は論文集ですが、第Ⅲ部には、岩波新書『イスラーム哲学の原像』がまるっとまるごと収録されています。
カバーは背ヤケ(褪色)しやすいタイプです。


井筒俊彦 超越のことば


帯文:

「神の言語行為とはなにか
神のことばとして語り出される
神秘的体験の諸相を明快に説き明かす
碩学の思索の結晶」



カバーそで文:

「神が語り、宗教が始まる。神のことばは、預言者を通じて人々に語りかけられる。神の言語行為として下された啓示は宗教の核となり、歴史的に展開して特有の文化を創造する。イスラーム・ユダヤ哲学、そして古代インド哲学における神の言語行為へと迫る碩学の思索は、唯一絶対神に帰依した諸民族の心性をあますところなく描きだした。」


目次 (初出):

Ⅰ 言語現象としての「啓示」 (「岩波講座・東洋思想」第4巻『イスラーム思想2』 1988年、所収)
Ⅱ アヴィセンナ・ガザーリー・アヴェロエス「崩落」論争――『哲学の崩落』と『崩落の崩落』をめぐって (同上)
Ⅲ 存在と意識の深層――イスラーム哲学の原像 (『イスラーム哲学の原像』 岩波新書、1980年)
 序
 第一部 イスラーム哲学の原点――神秘主義的主体性のコギト
  第一回講演
   1 問題の所在
   2 スーフィズムと哲学の合流
   3 スーフィズムと哲学の歴史的接点
   4 アヴェロイスとイブン・アラビー
   5 神秘主義とは何か
   6 自我意識の消滅
   7 ナジュムッ・ディーン・クブラー
   8 シャーマン的世界とスーフィー的世界
   9 意識構造モデルの基体としての「魂」
   10 二つの霊魂観
   11 スーフィー的意識の構造
   12 スーフィー的深層意識と唯識的深層意識
  第二回講演
   1 意識の変貌
   2 観想のテクニック
   3 ズィクル修行
   4 イマージュの湧出
   5 「神顕的われ」と「神的われ」
   6 神的第一人称
   7 スーフィズムと哲学的思惟
   8 意識零度・存在零度
   9 意識と存在の構造モデル
   10 哲学的主体性の成立
   11 存在世界の段階的構造
 第二部 存在顕現の形而上学
   1 序
   2 存在概念と存在リアリティー
   3 アヴィセンナの存在遇有説
   4 形而上的実在としての存在
   5 意識の変貌
   6 表層意識と深層意識
   7 意識の「ファナー」と「バカー」
   8 存在の「ファナー」と「バカー」
   9 人間の三段階
   10 存在の自己顕現
   11 存在顕現の構造学
Ⅳ 中世ユダヤ哲学史における啓示と理性 (「岩波講座・東洋思想」第2巻『ユダヤ思想2』 1988年、所収)
Ⅴ マーヤー的世界認識――不二一元論的ヴェーダーンタの思惟構造をめぐって (「思想」787号(1990年1月)、所収)

あとがき
初出覚書




◆本書より◆


「言語現象としての「啓示」」より:

「では、詩人とジンの結びつきは、一体、どのようであったか。第一にそれは、非常に親しい、個人的な関係だったということである。」
「詩人アーシャーと、彼のジン、ミスハルとの関係の密接さについては、アーシャーの詩作そのものが証言している。ある時、彼は他部族の詩人から攻撃を仕掛けられた。勿論、詩による攻撃である。彼個人に対する攻撃か、彼の部族に対する攻撃か、いずれにしても、その頃のアラビア社会の通念としては、自分が敗北すれば、それはただちに彼の部族そのものが面目を失うことになるのである。しかも当時のアラブにとっては、韻律に乗る詩的言語は、剣や槍や弓矢よりも恐ろしい武器だったのであり、歌合戦は実際に干戈を交える合戦より、はるかに決定的なものとされていた。ところが、いま、攻撃を仕掛けられたアーシャーは、敵のコトバに応じることができない。コトバが全然出てこないのだ。彼は苛立ち、不安と焦燥にかられる。だが、彼には自分の不能の原因がわかっていた。彼のジン、ミスハルが、どうしたことか、姿を見せないのだ。ということは、詩のコトバの流れ出すべき源泉が閉ざされてしまったということである。敵の攻撃に対して強力な詩をもって闘うことのできない事情を、彼は次のように詩をもって(引用者注: 「詩をもって」に傍点)説明する。「経験浅い初心者というわけでもないこの私だが、閉じこめられて動きもとれぬ。ただ、ミスハルがコトバをくれさえすれば、即座にものが言えるのに。互いに友情篤い仲間どうし。ぴったり気の合ったジンと人との結びつきだのに」、と。」



「存在と意識の深層」より:

「だがしかし、さまざまな東洋思想の伝統は、ただそれ自体として、歴史的、文献学的に研究されているだけでは、あるいはたんに学派的、宗派的に有難がられているだけでは、現代の世界に生きる価値を喪失していくほかはないと思う。現代には現代の生きた問題がある。現代思想には、現代に生きる人間としてのわれわれの実存に直結し、そこから自然に湧き上がってくる問題があり、またそれに対応する独特の視座があるはずだ。このような現代的人間の切実な関心において、現代の視座から、東洋の思想伝統を、まだまったく摂取されていないイスラームやユダヤ教の思想まで先取りしながら、批判的に考究し、採るべきところは採り、捨てるべきところは捨てて、そこに新しい東洋思想の、未来に向かっての地平を開いていかなければならない。」
「もっとも、こういう「東洋」の把握のしかたそのものが問題だと思われる向きもあるかも知れない。」
「こうなればもう、「東洋」をどう受けとめるかは、個人個人の意識の問題である。そしてこういう観点からすれば、私が上に述べたことも、私自身の「東洋」意識にもとづいた、結局私だけの今後の仕事のプログラムにほかならない、ということになるだろう。だが、それは私にはどうにも仕様がないことなのだ。主体的、実存的な関わりのない、他人の思想の客観的な(引用者注: 「客観的な」に傍点)研究には始めから全然興味がないのだから。」

「まず私は神秘主義の顕著な、そして決定的に重要な一つとしていわゆる現実、あるいはリアリティーの多層的構造ということを考えてみたいと思います。現実、リアリティー、すなわち存在世界が多層的構造であるという意味は、文字どおりそれが一重ではないということ。われわれがふつう現実と呼びかつそう考えている経験的世界は、実は現実、あるいは存在の外側、表側あるいは表層であるにすぎないのであって、その下にいくつもの層が重なって垂直的方向に広がって、存在領域の多層的構造をなしている、とそう考えます。現実の深部、あるいはより正しくは複数でいくつかの深層を認めるといったらいいと思います。現実の目に見える表面の下に垂直に重なっているいくつかの存在領域、下にいけばいくほど暗くなっていきます。つまりわれわれの通常の認識器官である感覚や、知覚や理性ではとらえられないものになっていきます。そしてわれわれがもしこの方向をどこまでもたどっていけば、真の暗闇のなかに踏み込んでしまいます。そしてこの全体、明るい白昼の光に照らし出された表層からいちばん下の底知れぬ暗黒の領域までを含めてその全体を現実、リアリティーと考えるのです。それが神秘主義の最も初歩的な、そして最も顕現(けんげん)的な現実ヴィジョンであります。
 しかし、もちろんこれだけではありません。これだけではまだ神秘主義にはなりません。神秘主義をして真に神秘主義という名にふさわしいものとする第二の特徴があります。それは現実がいちおう客観的にいま申しましたような多層構造をもつというだけではなくて、それを見る人間、それをそれとして認知する人間の側にも主体的に意識が同じような多層構造をもっていると考えるところにあります。つまり意識のほうにも表層から最深層に及ぶ垂直に重なった領域の広がりがある。しかも、客観的現実の多層と、主観的意識の多層とのあいだに、一対一の対応関係が成り立っていると考えます。つまり簡単にいえば、浅い表面的意識では現実の浅い表面だけが見える。意識の深層には現実の深層が見えるというわけです。
 ただしここでは一応、意識と現実、つまり主体と客体とを区別し対立させて考えましたが、この区別はあくまで理論的説明の便宜のために常識的な主客の区別を利用しただけのことでして、神秘主義本来の立場からすれば、本当はこんな区別があるわけではない。主体的世界と客体的世界という二つの存在秩序がはっきり区別されるのはまったく表層的事象であって、深部に入って行くにつれてこの区別は薄れてゆき、最後には全然なくなってしまう。これはおよそ神秘道にたずさわる人なら誰でも知っている実際の経験的事実でありまして、このような立場から、ひるがえって省みれば表層においてすら、実は主客の別はもともとなかったのだということになるのであります。」
「意識と現実とがいま申しましたように互いに対応した多層構造であるとしますと、意識の深い次元が開かれないかぎり、現実の深い次元はぜんぜん見えてこない。ところが、意識の深層というものは、われわれが自然の心の働きをそのまま放置しておいたのでは、ふつうの場合なかなか開けてこないのです。感覚や知覚や理性にもとづくわれわれの心の認識形態というものは、実に根強い、しぶといものでありまして、簡単にその支配を脱するということができるようなものではない。この心の生来の傾向を変えるためには、無理にもそれを強力にねじ曲げなければならない。そこで特別な修行とか、修道とかいうことが必要になってくるのです。
 方法的組織的な修行によって意識のあり方を変える、これが神秘主義の第三の大きな特徴であります。」
「四方八方に散乱しようとする心の動きを抑えて、老子がいっていますように肉体の窓や戸口を全部閉ざして、つまり外に向かい、外界の対象を追いかける心の動きを抑えて、意識の全エネルギーを一点に集約し、経験的次元で働く認識機能、つまり感覚・知覚・理性などとはまったく異質の認識機能の発動をうながそうとする。こうして開かれた意識の深層意識的認識機能が活発に働きはじめた心のあり方を、伝統的に観想とか瞑想とかふつう呼んでおります。西洋でいうコンテンプラチオ(contemplatio)、仏教でいう三昧(さんまい)(samadhi)の境地であります。」

「自我意識の消滅、これこそコンテンプラチオ実現の第一条件であります。自我の意識、経験的実存の中心点としての自分という主体の意識、それがきれいさっぱり拭い去られなければ、コンテンプラチオという状態は絶対に実現しません。」
「一般に神秘主義の立場から言いますと、このような経験的自我は偽りの自我にすぎない。(中略)だからそんな偽りの自我の見る世界とか、現実とかいうものも偽りの世界、偽りの現実であって、本当にある(引用者注: 「ある」に傍点)ものではない。この偽りの自我の妄想的形姿が消えれば、たちまちその回りに広がっている世界も消えてしまう。小さなランプの光は消えて、(中略)あたりは真の闇になる。存在的にはまったく何もない無になってしまう。すべてが意識的には闇となり、存在的には無になってしまう。
 しかし、神秘家の経験によれば、実はこの闇こそ本当の光であり、この無こそ本当の存在の充実であります。小さな光はなくなるかわりに全存在、全宇宙が煌々(こうこう)たる光の海と化すなどとよく申します。煌々たる光の海というのはもちろんひとつの比喩ですが、それは偽りの自我およびその対象が全部消えて無に帰してしまったあとの無そのものが、そのまま自覚となり覚体と化して実現した状態を比喩的に言い表わしたものであります。これが真我、真のわれ、真の主体として自覚されるのです。」

「イスラームの伝統においても事態は本質的にこれとまったく同じことでありまして、修行の道としてスーフィズムは、やはり自我の消滅ということに中心をおいて展開します。修行によって、修行の深まりとともに偽りの「われ」の意識が消滅する。「われ」が消えるとともに、「われ」に対立するものの世界が消える、その無の漠々たる空間に真我が現われて、それに対応して真実在が、つまり現実、あるいは存在の真の姿が現われてくると考えます。」

「神秘主義的実在体験にもとづくイブン・アラビーの形而上学的ヴィジョンにおいては、いっさいが存在零度から始まって、しだいに自己限定、自己分節を重ねながら、現象的多者の成立に至る、無から有へのダイナミックなプロセスとして形象化されます。これはまたイスラーム信仰者としてのイブン・アラビーの宗教的表象においては、絶対不可知の神が、つまり自らをまったく見せない「隠れた神」 Deus absconditus がしだいに自らを開顕して「現われた神」 Deus revelatus となるプロセスでもあります。この見地から彼は存在の無から有への展開の過程をタジャッリー(tajalli)、つまり神の「自己顕現」と呼びます。」
「このようにして、イブン・アラビーの形而上学的ヴィジョンにおいては、われわれの世界はゼロ・ポイントにおける存在、つまり存在零度の絶対無限定者が、「有無中道の実在」と称する根源的アーキタイプの柔軟に変転する鋳型を通って、つまりイスラーム的にいいますと、神の意識の内部分節を通過することによって、つぎつぎに自己限定を重ねながら、あたかも大海の岸辺に打ち寄せる波のようにつぎからつぎに、一瞬ごとに新しく立ち現われてくるダイナミックな存在の自己顕現、タジャッリーの絶えることのない永遠の過程として理解されるのであります。始めから終わりまで終始一貫して「存在」と呼ばれる宇宙的エネルギーの自己顕現のシステム、それが「存在一性論」という名称で世に知られるイブン・アラビーの神秘主義的哲学であります。」



「マーヤー的世界認識」より:

「そもそも「マーヤー」は、ヴェーダにまで遡る古い語(ことば)であり、人格的絶対者、神、すなわち宇宙万有の主宰者、としての「梵(ブラフマン)」の創造的機能の巨大な力が、この「マーヤー」という語の意味領域の中心部を占める。ただし、創造力とはいっても、(中略)むしろ存在世界、存在的事物事象を仮現(引用者注: 「仮現」に傍点)せしめる能力としての了解への傾向性が圧倒的に強い。このことについては、古サンスクリットでの「マーヤー」(maya)の通俗的意味が、魔術、幻術、妖術、手品などであり、このオカルト的能力を行使する専門家(魔術使い、幻術師)などが通常、「マーヤー師」(mayavin, mayin)と呼ばれていた事実が示唆的である。ウパニシャドにおいて、宇宙を主宰する最高神(Isvara)は、まさにこの意味での「幻術者」(マーヤー師)と考えられ、この名称をもって呼ばれている。
 このような古代的神話形象の世界像においては、マーヤーは当然、神自身の不可思議な能力、「あたかも幻術師が幻術(マーヤー)によっていろいろな事物事象を幻出させるように」(シャンカラ)、神が、我々の現象世界を、我々の目の前に現前させる宇宙的幻力を意味する。「マーヤー」は神の(引用者注: 「神の」に傍点)、世界現出能力(maya-sakti)である。
 聖典すなわちヴェーダとウパニシャドに淵源する神話形成的思惟のこの次元では、従って、いわゆる現実(引用者注: 「現実」に傍点)世界の事物事象の虚妄性はもとより、現実世界それ自体の虚妄性を創り出し、我々にそれらをあたかも文字どおりの現実あるいは実在であるかのごとく思わせるのは、まさに、ほかならぬ神そのものの幻力であるということになる。逆に我々人間の側からすれば、「幻術師」である神に騙されて、偽りの世を、偽りと気づかずに、そこに生まれ、生き、死んでいくわけである。
 いわゆる存在は、根源的欺瞞であり、その欺瞞的存在世界現出の責任は万有の主宰者である神そのものにある。この責任は、やがて不二一元論の哲学的進展とともに、人間意識の側に移されていく。つまり、人間意識の本源的構造そのものの内に、存在のマーヤー的多者性現出の機能が、始めから編み込まれていると考えるようになっていくのである。」

「不二一元論のテクストにおいては、「マーヤー」は様々に言い替えられている。(中略)それらの中でも、特に決定的重要性をもつ同義語の第一として、adhyasa をここで取り上げる。
 我が国のインド思想専門家は、普通、「付託」などと訳しているが、原義的には何か(A)の上に何か別のもの(B)を据える、かぶせる(引用者注: 「据える」「かぶせる」に傍点)ことである。Aの上にBを重ねかぶせれば、Aの本当の姿形は見えなくなって(中略)Bが表面に現われてくる、あたかもそこにあるものはAではなくてBであるかのように。
 「何か(A)を正しく認識せず、(誤って)別の何か(B)をそれのかわりに認知してしまうこと」というのが adhyasa にたいしてシャンカラの与えた一番簡単な定義だが、この意味では、「付託(かぶせ)」現象は我々の生活経験において、いつどこででも起こる、起こり得る、きわめて卑近な事態にすぎない。いわゆる「見間違い」「聞き違い」など対象の五人はすべてそれの具体的ケースであって、べつに「付託」とか「マーヤー」などということごとしい名称を持ち出すまでもないと考えられるかもしれない。不二一元論者たちが好んで使う例としては、夕闇の中で道路上に横たわる縄を蛇と見間違えたり、一条の水の流れと見間違えたりする場合や、それに類する知覚判断の誤りはすべてそれである。」

「それまでA(例えば縄)はB(蛇)の属性をかぶせ(引用者注: 「かぶせ」に傍点)られ、Bに陰覆されて表面に見えていなかった。Bの被帕(ベール)が取り払われると同時に、Aの形姿があらわになる。命題的に言うと、「これはBだ」という判断が取り消され否定されて「これはAだ」という新しい判断がそれに取って替わる。この新しい判断は、新しい経験に基づいて生起する。(中略)新しい経験に基づく新しい判断によって、今まで正しいと思っていた判断が取り消され、いわばキャンセルされるのだ。この「取り消し」を badha といって、不二一元論哲学の枢要な術語である。」
「なぜ「取り消し(バーダ)」が不二一元論において、それほど重要な術語的役割を果たすのかといえば、それはこの哲学では、「取り消し」可能か不可能かが、実在度の判定基準をなすからである。およそ、何らかの形で取り消され(引用者注: 「取り消され」に傍点)得るものは、それを取り消すものにくらべて実在度が低い。そして不二一元論では、それを「マーヤー」の一般的定義とする。なまの感覚・知覚にせよ、判断にせよ、概念にせよ、取り消し可能なものは全てマーヤーであるという。これが「マーヤー」という語(ことば)の正しい定義なのであって、幻想、幻影、虚妄、その他これに類するものは、全て上述の意味において「取り消し可能なもの」の通俗的な表現にすぎない。」

「「これは縄である」という命題は、それが真であるならば、たしかに「これは蛇である」という「付託(かぶせ)」命題を取り消すに足るだけの実在度をもっている。(中略)だが、この種の命題の取り消し不可能性は、どんな新しい経験をもってきても決して二度と取り消されることはあり得ないというような絶対性をもつものではない。
 「取り消し可能」とか「取り消し不可能」とかいっても、我々の現象的世界の事態としては、いつどう変わるかわからないのだ。
 このように浮動的な個々の誤認とそれの修正可能性不可能性は、不二一元論哲学(引用者注: 「哲学」に傍点)の真の関心事ではない。「これは蛇である」に対立する「これは縄である」のような、相対的な取り消し不可能性ではなくて、絶対的に(引用者注:「絶対的に」に傍点)取り消し不可能なものを、この思想は探求する。いったん覚知されたら、もはや他のどんな経験によっても絶対に取り消され、取って替わられることのあり得ないもの、そのようなものが見出されなくてはならない、そしてそのようなものの立場から我々の経験世界の一切が隅から隅まで見なおされなくてはならない。」
「この哲学体系においては、上述したところに従って、他のいかなるものによっても絶対に取り消され得ないものが、最高度の実在性をもつとされることは当然であろう。最高度の実在性をもつ、というよりむしろ、それはそれ自体が最高の存在リアリティなのであって、そのような意味に了解された絶対的存在リアリティが、すなわち不二一元論のいわゆる「ブラフマン」である。
 どんな経験によっても、いかなる他のものによっても絶対に取り消されることのあり得ないもの、それは唯一無二、ブラフマンである。ということは、ブラフマン以外の一切(引用者注: 「一切」に傍点)が取り消し可能なものであるということにほかならない。個々の判断の間違いやそれの個別的修正が問題なのではない。我々が認識主体的に経験するありとあらゆるものが、ただひとつの例外もなしに間違いであり嘘である(引用者注: 「間違い」「嘘」に傍点)。全存在世界が無数の「付託(かぶせ)」の多重多層的に錯綜する糸の織り出すひとつの巨大なテクスト(テクスチュア)なのだ。」

「全てはブラフマンであり、ブラフマンに対して「他のもの」は存在しない。換言すれば、いま我々の目の前に現象している森羅万象、世界、「他のもの」は全て本当はブラフマンそのものにほかならないということである。我々が何を見、何を経験しても、結局、ブラフマンを見、ブラフマンを経験しているのである。ただし普通の場合、我々はそれらが例外なしにブラフマンであるということに気づいていない。全てはブラフマン体験であるのに、我々はブラフマンならざる「他のもの」を見たり聞いたりしているものと思いこんでいる。そういう目で見られた世界がマーヤーである。「世界は偽」とは、その意味である。
 「偽」(mithya)とは、単なる非有とか無とか、あるいは夢まぼろしであるとかいうことではない。不二一元論の立場から言うと、我々の意識に現象する世界はマーヤーではあるが、全くの無ではない。なぜなら現象的存在の底には、ブラフマンという実在的基体(adhisthana)が伏在しているからである。ただ我々は、ブラフマンをブラフマンとして正しく見るかわりに、いつもそれを取り消し可能な形で、つまり非ブラフマン的な、事物事象の形で、見ているだけのことである。(中略)いわゆる客観的世界とは人間意識の本源的、原初的機能によって作り出された存在のかぶせ(引用者注: 「かぶせ」に傍点)組織なのである。」

「外的世界をそのような形で現出させる人間的主体性そのものが、実は、一種の、内的「付託(かぶせ)」の所産だったのである。外的世界の出現より先に、ブラフマンの真相を覆い隠してそれをマーヤー的世界に変える認識主体の意識それ自体がはじめから根源的にマーヤー化されている。主体がマーヤー化されているからこそ、それはブラフマンをマーヤー的にしか見ることができないのだ。
 本論の最初の部分で私は、宇宙的真実在、窮極の存在リアリティであるブラフマンが、人間の内部では「アートマン」という名を帯びて実在していることを指摘した。少なくともそれが不二一元論の立場であり、この立場ではアートマンはすなわちブラフマン(アートマン=ブラフマン)なのである。だが、通常、現実には、アートマンは決してアートマン=ブラフマン的純粋性において機能してはいない。純粋性どころか、アートマンは様々な機能次元で、様々な側面からかぶせ(引用者注: 「かぶせ」に傍点)を被って自己疎外を起こし、アートマンならざるもの(非アートマン)に変質し、ブラフマンとの本源的同一性を完全に喪失した非本来的状態に堕在している。
 このように様々なかぶせ(引用者注: 「かぶせ」に傍点)に犯されて自己本来の面目を忘失した非アートマンを、術語的に「個我(ジーヴァ)」という。それを我々は、普通、自分の主体性であると考えている。」

「このようにして数限りない非アートマン的属性が私にかぶせ(引用者注: 「かぶせ」に傍点)られ、私はそれらの寄託された属性の背後に己れのアートマン的本性を覆い隠されていく。本来は不変不動、無記名である私は、変転常ならぬ浮動性を帯び、記名的な我、つまり公共的に名前が記載された主体、「個我」、としてしか機能しなくなる。」





























































































































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ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

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