ゲルショム・ショーレム 『ユダヤ神秘主義』 山下肇 他 訳 (叢書・ウニベルシタス)

ゲルショム・ショーレム 
『ユダヤ神秘主義
― その主潮流』
 
山下肇/石丸昭二/井ノ川清/西脇征嘉 訳 
叢書・ウニベルシタス 156 

法政大学出版局 
1985年3月30日 初版第1刷発行
1989年10月25日 第3刷発行
xii 490p 索引・文献・注134p
四六判 丸背クロス装上製本 カバー
定価4,944円(本体4,800円)



本書「訳者後記」より:

「本書はゲルショム・ショーレム Gershom Scholem の主著であり、彼の名を世界的なものとし、国際的に(中略)評価の高い Die Jüdische Mystik in ihren Hauptströmungen, Rhein-Verlag u. Alfred Metzner Verl. Frankfurt a.M./Berlin, 1957 の全訳である。」


ショーレム ユダヤ神秘主義


目次:

ヘブライ語の字母の転写表
ドイツ語版への序
英語版第一版への序より

第一章 ユダヤ神秘主義の一般的特質
 本書の意図。
 神秘主義とは何か。
 神秘的経験のパラドックスな性質。
 歴史的現象としての神秘主義。
 神話、宗教、神秘主義。
 宗教的価値の神秘主義的解釈。
 ユダヤ教のポジティブな内容によるユダヤ神秘主義の感化。
 隠れたる神とその性質に関するカバリストの理論。
 セフィロース。
 トーラー。
 カバラーと言語。
 神秘主義と歴史世界。
 宇宙創造説と終末論。
 ユダヤの哲学とカバラー。
 寓意(アレゴリー)と象徴(シンボル)。
 ハーラーハーとアッガーダーの哲学的ならびに神秘主義的解釈。
 カバラーと祈祷。
 カバリストの思考における神秘主義的要素。
 ユダヤ教の中心部における神秘主義の復活。
 ユダヤ神秘主義における女性的要素の欠如。

第二章 メルカーバー神秘主義とユダヤのグノーシス
 ユダヤ神秘主義の第一期。
 著作の匿名性。
 ミシュナー教師の秘教。
 玉座神秘主義。
 黙示録と神秘主義。
 ヘハロース書の文学。
 ヨルデ・メルカーバーとその機構。
 伝授の条件。
 魂の忘我的な上昇とそのテクニック。
 魔術的要素。
 上昇の危険。
 聖なる王としての神。
 メルカーバー神秘家の讃歌。
 シウール・コーマー。
 エノク、メータトローン、ヤーホーエル。
 宇宙の帷。
 グノーシスのアイオーン思弁の残滓。
 『創造の書』。
 妖術。
 メルカーバーの道徳的再解釈。

第三章 中世におけるドイツのハシディズム
 ドイツにおけるハシディズムの台頭。
 神秘主義の伝統とドイツのユダヤ民族。
 『敬虔者の書』。
 ハーシード・ユダとその弟子。
 ハシディズムの終末論的性格。
 ハーシードの新しい思想、禁欲、不動心(アタラクシア)、利他主義。
 神の愛。
 修道僧的キニク主義のユダヤ的表現。
 ハーシードの魔術的力。
 ゴーレム伝説。
 祈祷の秘密。
 オカルト的実践。
 ハーシード的贖罪観。
 ハーシード的神表象。
 神の内在。
 カーボード、神の栄光。
 フィロのロゴス説の痕跡。
 玉座に坐したケルービーム。
 神の聖性と偉大さ。
 祈祷の目的。
 宇宙的原型(祖型)。

第四章 アブラハム・アブーラーフィアと預言者的カバラー
 カバラーの出現。
 カバリストのさまざまなタイプ。
 カバリストの自制と自己検閲。
 幻視と忘我。
 神秘的合一のユダヤ的形態デベクースの概念。
 アブラハム・アブーラーフィアの生涯と作品。
 忘我的な知に関する彼の理論。
 「組合せの学問」。
 純粋思考の音楽。
 預言の神秘的性質。
 預言者的カバラー。
 忘我の本質としての神秘的変容。
 神秘主義的プラグマティズム。
 「実践的カバラー」と魔術。
 アブーラーフィアの教義とその後の発展。
 アブーラーフィアの一弟子の自伝の翻訳。

第五章 ゾーハル その一 書物とその著者
 ゾーハルの問題。
 ゾーハルの文学的性格と構成。
 ゾーハル「文学」の全体は二つの部分、主要部とラヤー・メヘムナーとから成る。
 ゾーハルの主要部は一人の著者の作である。
 統一性の証明。
 ゾーハルの言語と文体。
 本書の舞台。
 文学的構成の原理。
 ゾーハルの本当の典拠とにせの典拠。
 典拠の扱い方。
 一定のカバラーの教義に対する著者の特別の好みと、他の教義の拒否。
 シェミットースないし宇宙の発展の統一に関する教義の欠如。
 作品におけるいろいろな発展段階。
 ゾーハルの最も古い構成部分であるミドラーシュ・ハ=ネエラーム。
 ミドラーシュ・ハ=ネエラームが書かれたのは一二七五年と一二八一年のあいだで、主要部は一二八一年一二八六年のあいだ、そしてラヤー・メヘムナーとティックーニームは一三〇〇年頃である。
 著者の人物の問題。
 モーセス・ベン・シェムトーブ・デ・レオン。
 彼が著者であることを示す古い証言。
 モーセス・デ・レオンとヨセフ・ギカティラ。
 モーセス・デ・レオンのヘブライ語の著作とゾーハル主要部との比較。
 これらすべての著作の著者は同一人物である。
 モーセス・デ・レオンのその他のカバラー的偽書。
 モーセス・デ・レオンのヘブライ語の著作中に見られる、ゾーハルの著者が彼であることの隠れた示唆。
 モーセス・デ・レオンの精神的発展とゾーハル起草の動機。
 偽書は宗教文学の正当なカテゴリー。

第六章 ゾーハル その二 ゾーハルの神智学的教義
 メルカーバー神秘主義とスペインのカバラーとの相違。
 隠れた神ないしはエン・ソーフ。
 セフィロース、神性の王国。
 トーラーの神秘主義的解釈。
 セフィロースの象徴的理解。
 カバリスト的象徴表現の若干の見本。
 神秘的有機体としての神。
 無と存在。
 セフィロースの最初の三つの発展段階。
 創造と、その神との関係。
 神統系譜と宇宙創造説。
 ゾーハルの著者の汎神論的傾向。
 創造の本来の性質。
 カバリストの思考における神秘的な諸形象。
 性的象徴表現の問題。
 シェキーナーを神における女性的要素ならびに神秘主義的な「イスラエル共同体」としてとらえる新しい考え方。
 人間とその堕罪。
 カバリストの倫理。
 悪の本性。
 ゾーハルとヤーコプ・ベーメ。
 ゾーハルの霊魂論。
 神智学と宇宙創造説と霊魂論の統一。

第七章 イサアク・ルーリアとその学派
 スペインからの追放とその宗教的な結果。
 メシア主義に至る途上のカバラー。 
 カバリストの黙示録的宣伝。
 新しいカバラーの性格と機能。
 その中心地、パレスチナのサーフェード。
 モーセス・コルドヴェロとイサアク・ルーリア。
 彼らの人格。
 ルーリア派のカバラーの伝播。
 イスラエル・ザールーク。
 ルーリア派の教義の特性。
 ツィムツームとシェビーラーとティックーン。
 創造の二重の過程。
 創造の出発点たる、神の自己自身の内への退却。
 この教義の意味。
 原初の破局ないしは「容器の破裂」。
 悪の起源。
 ティックーンすなわち調和の回復の理論の二つの様相、人格神の神秘主義的誕生と人間の神秘主義的行為。
 神智論的世界と神に対するその関係。
 ルーリアの体系における人格神論と汎神論。
 メシア主義の神秘主義的再解釈。
 神秘主義的祈祷に関する教義。
 カッヴァーナー。
 宇宙における人間の役割。
 ルーリアの心理学と人間学。
 シェキーナーの追放。
 聖なる火花を助け上げること。
 輪廻の教義とサーフェードのカバラーにおけるその位置。
 ルーリア派のカバラーの影響。
 追放と救済の偉大な神話。

第八章 サバタイ主義と神秘主義的異端
 一六六五―六六年のサバタイ主義の運動。
 カバラーのメシアであるサバタイ・ツヴィーと、その預言者ガザのナータン。
 サバタイ・ツヴィーの病気とナータンにおけるその神秘主義的解釈。
 反律法主義的行為の擬似秘蹟的性格。
 新しいメシアの人格に適応したルーリア派の教義。
 サバタイ・ツヴィーのイスラム教への変節後に生じた運動の異端的転回。
 ユダヤの歴史に対するサバタイ主義の意味。
 ユダヤ人の意識の革命。
 異端的カバラーと啓蒙主義との関係。
 サバタイ主義のイデオロギー。
 逆説の宗教。
 救済の歴史的神秘主義的様相。
 サバタイ・ツヴィーの背教後の救済の崩壊。
 サバタイ主義とキリスト教。
 サバタイ主義に対するマラノの心理学の影響。
 メシアの必然的背教の教義。
 反律法主義の問題。
 サバタイ主義の穏健な形式と過激な形式。
 神秘主義的ニヒリズムと、罪の聖性の教義。
 新しい神観、第一原因すなわち理性の神と第一結果すなわち啓示の神。
 
第九章 ポーランドのハシディズム、ユダヤ神秘主義の終局
 十八世紀のポーランドとウクライナのハシディズム、ならびにその問題性。
 カバリストとハシディズムの文学。
 カバラーの大衆運動への変化。
 サバタイ主義崩壊後のカバリストの発展の二者択一。
 神秘主義の異教的形式への回帰、ラビ・シャーローム・シャルアビー。
 その大衆的側面の深化、ハシディズム。
 カバラーのメシア的要素の排除。
 サバタイ主義とハシディズム。
 ラビ・アダム・バアル=シェーム――隠れサバタイ主義の預言者。
 サバタイ主義とハシディズムにおける新しい型の指導者。
 神秘主義的な覚醒運動。
 ハシディズムの新しさは何か。
 ハシディズムの本来の独自性と関係があるのは神秘主義的神智論ではなくて神秘主義的倫理である。
 ハシディズムの本来の性質から生み出されたツァッディーク主義の人物崇拝。
 教義に代る人格。
 ツァッディークないし聖者の像。
 生きたトーラー。
 人間共同体の中心としての聖者の社会的機能。
 ハシディズムにおける神秘主義と魔術。
 ハーシードの伝説。

訳者後記 (山下肇)

訳注
原注
参考文献
索引(人名・事項・書名・用語)




◆本書より◆


「第一章 ユダヤ神秘主義の一般的特質」より:

「ところで、このように著しい抑制の姿勢と対照的なのが、まったく異常なほどポジティブな、言葉にたいする評価である。あらゆる流派と動向のカバリストたちが、言葉というものを単に人間同士の相互理解のための不完全な手段と見るだけではないという点で、たがいに一致している。聖なる言葉ヘブライ語は、ちょうどたとえば中世にとくに愛好された言語理論にも似て、彼らにとっては、慣習のなかから生まれ因襲的性格をもつ言語ではない。まさにヘブライ語が彼らにとってそうであるように、最も純粋な本質としての言葉は、世界の最も深い精神的本質とつながりあい、別の言葉でいえば、ある神秘的な価値を有している。」

「その本性上非社会的なものである神秘的諸傾向は、にもかかわらず現実の歴史のなかで十分にしばしば、(中略)共同社会のための形成力を示したのである(中略)。
 神秘主義の探究者のひとりヨーゼフ・ベルンハルトが次のように言っているのは正しい。「歴史的に不動なものを求めかつ告知する人びとほどに、歴史的な運動を生みだしたものがいるであろうか?」



「第三章 中世におけるドイツのハシディズム」より:

「とりわけ真のハーシードを形成するには、『敬虔者の書』にも現れているように、三つの物がある。すなわち、この世の事物からの禁欲的な離反、完全な心の平静、極度に押し進められた原則的な利他主義、である。」
「禁欲的な方向は、たとえばヴォルムス出のエレアーザールによる古いミドラーシュの解釈にきわめて特徴的に現れているような、陰鬱な、しばしばかなりペシミスティックな人生観に基づいている。生まれたての子は、誕生前に天の教場で習得したあのかぎりない知識を、自分の守護天使の諭しによって全部忘れてしまうのだ、と『子の創造のミドラーシュ』は語る。だが、とヴォルムス出のエレアーザールは問う、「どうして子供は忘れてしまうのか。」「そのわけは、忘れてしまわぬことには、子供はその深い認識のために、この世の歩みをよく考えたばあい気が狂ってしまうにちがいないからである。」知識は想起、アナムネシスであるという、古いプラトン的理念があのミドラーシュの根底にもあるわけだが、なんと奇妙に変形されていることか。ここでは楽観的な世界観は、終末論的なパースペクティブでのみ是とされている。人間は、と上記のラビ・エレアーザールは大胆な比喩を用いて言う、両端を神と悪魔が引っ張り合っている一個の物である。そして最後はむろん神のほうが引っ張り勝つのである。」
「ハーシードはそのほかにも、侮辱や辱しめに惑わされることなく耐えねばならない。」
「キニク派の遺産は賞讃や非難にたいする全き心の平静であり、これは非常にしばしば神秘主義の歴史において、神秘主義的な道を歩むための条件としてあげられる。(中略)まったく同様の趣旨をパレスチナ出身のスペインのカバリスト、アッコー出のイサアク(一三二〇年頃)が述べている。「神との結合の神秘デベクースにふさわしいと認められる者は、平静心の神秘に到達する。そして平静心をもっている者は、孤独の神秘に到達し、そこから聖霊に、そして預言に到達する。だが、平静心の神秘についてラビ・アブネルがわたしに次のようなことを語った。あるとき、卑俗な知恵を好む者が隠者たちのひとりのもとへ出むいて、弟子にしてくれと頼んだ。すると隠者は彼にこう言った。『おまえは〈ものごとに動じないたち〉かね、どうじゃね?』彼は答えて、『先生、あなたのおっしゃることを説明して下さい。』隠者が言うには、息子よ、二人の人間のうち、ひとりがおまえをほめ、もうひとりがおまえをののしったばあい、おまえの目にそのふたりは同じに見えるかね、どうじゃね? 彼は隠者に答えて言った。たしかに、わたしはほめてくれるひとからは満足を覚え、けなす者からは苦痛を感じます。だからといって、わたしは復讐心が強くも、執念深くもありません。すると師は彼に言った。息子よ、家に帰るがよい。おまえが平静心をもたず、自分の受けた非難をまだ感じるようでは、おまえには自分の思考を神と結びつける正しい素質がないのじゃ。」」

「十四世紀のカバリスト、アッコー出のイサアクもこう語っている。「わたしはドイツのあるハーシードの話を聞いたことがある。彼は学者ではなかったが、誠実で素朴な男だった。あるとき彼は祈祷の言葉が書かれた羊皮紙のインクをうっかり拭き消してしまった。その祈りの文句のなかには神の名も含まれていた。このとき彼は、神の名の名誉をそこなうようなことをしてしまったとさとって、こう言った。『わたしは神の名誉を軽んじてしまった。だからわたしは自分自身の名誉も気にしないことにしよう。』そこで彼は何をしたか。毎日祈祷の時間に教区民たちが会堂に出入りするときに、彼は戸口の地面に身体を横たえ、大人も子供もそれを跨いで通った。ところがいま、ひとりが故意にか、うっかりしてか、彼の身体を踏んづけてしまった。すると彼は狂気して神に感謝した。地獄の罪びとにたいする裁きは十二箇月続くというミシュナーの言葉に基づいて、彼はまる一年間そうしつづけたのである。」」



「第四章 アブラハム・アブーラーフィアと預言者的カバラー」より:

「アブラーフィアは、ホクマス・ハ=ツェルーフ、すなわち「文字の組合せの学問」とみずから名づける全教義を打ち立てた。それは文字とその組合せの助けを借りた方法論的な瞑想への教示である。ひとつひとつの文字、あるいはそれらの結合は、それ自体「意義」をもっている必要はない。むしろ逆に、意義をもたぬことがそれの長所なのであって、それらの字母はしばしば何も意味していないように見えるためにかえってわれわれの注意力をそらすことができないのである。もちろん、アブーラーフィアにとってそれらは全然意味がないわけではない。なぜなら彼は、世界の本質は言語的な性質のものであって、いっさいのものは全創造のなかに啓示されている神の偉大な名にたいしてもっている関与によって存在するのだとするカバリストの理論を採用しているからである。」
「アブーラーフィアにとって問題なのは、方法論的な瞑想訓練によって人間の魂のなかに特別な状態を、すなわちいっさいの感覚的な対象から離れた純粋思考の調和的な運動のようなものをつくり出すことなのである。アブーラーフィア自身はつとにこの彼の新しい教義を音楽にたとえているが、それはいわれのないことではないのである。(中略)組合せの学問は純粋思考の音楽である。音楽における音階に相当するものは、ここではアルファベットの序列である。」



「第六章 ゾーハル その二」より:

「悪の本性に関するゾーハルの諸理念も、同様に、神秘主義的思弁と神話的遺産のこうした特異な結合から生まれている。ウンデ・マルム、つまり悪はどこから、という問いは、この中世のユダヤ教グノーシス派の思考と同様に、古いキリスト教グノーシス派の思考にとっても重要な問題であった。心的素質が同じであるばかりか、幾多の歴史的つながりによっても古代のグノーシス派と連関しているカバラーの神智学派にとって、悪の起源と本質に関する理論は思想の真の眼目をなすものである。」
「ゾーハルそのもののなかには、悪の由来と本性の問題に答えようとするさまざまな試みが現れている。それらに共通しているのは、解答の内容というよりむしろ、解答の目的、すなわち悪を積極的(ポジティブ)に存在するものとして説明することである。ゾーハルの著者にとっては、形而上学的悪、存在するものすべての不完全性の問題と形而下的悪、世界における苦悩の本質の問題と人間の行為における道徳的悪とはひとつのものである。」
「しかしながら、悪の究極的根拠はもっと深いところにある。それは――しかもこのことはゾーハルにとって本質的なことであるが――神そのものの示顕またはセフィロースのひとつのなかに存在しているのだ。これについては簡単な説明が必要である。神的諸力の全体は均衡を保って調和しており、これらの力や属性はどれも、それが爾余のいっさいのものと結合し生きた関係のなかにとどまるかぎり、神聖にして善なるものである。このことは、とりわけ悪の最も深い根拠をなす属性、つまり神の内とみもとにある厳正なる正義、審判、厳格という属性にも妥当する。神の怒りは神の左手として、神の右手と呼ばれる慈悲と愛の特性と親密な関係を保っている。一方は同時に他方を自己の内に含んでいなければ、自己自身を表すことができない。こうしてこの厳格さのセフィラーは、神の内で燃え上がりながらもたえず慈悲によって鎮められ抑制される、大いなる「怒りの火」とみなされる。しかしこの火が燃え過ぎて、暴発して外部へ向かい、慈悲との結びつきから離れると、それは神性の世界を突き破り、徹底した悪と化して悪魔の背神的世界になるのである。
 ここで看過しえないのは、否定しがたい魅力的な深い意味をそなえたこの教義が、後のドイツの偉大な神智学者ヤーコプ・ベーメ(一五八五―一六二四)の諸理念のなかにきわめて注目すべき類縁関係を見出したことである。(中略)彼もまた悪を、神のうちにある怒りという暗い否定的な原理とみているが、この原理は神的生命という神智学的有機体のなかではもちろん永遠に光へ変ずる。それどころかさらに、概してこう言うことができる。あらゆるキリスト教の神秘家のなかで、ヤーコプ・ベーメは、ほかならぬその最も本源的な原動力においてカバラーとの最も密接な類縁性を示す人物である、と。(中略)彼はセフィロースの世界を、こう言ってもよければ、彼独自の立場からもう一度発見したのである。」

「悪が実在的に、人間とはかかわりなく世界構造から、あるいはより適切に言えば神の生命の過程から理解されねばならないというのは、本質的にグノーシス主義的な見解である。ゾーハルは悪を隠れた生命そのものの有機的過程から生じた一種の残滓または廃棄物のようなものとして理解することをとくに好んでするが、このことはまさしくグノーシス派の見解と関連している。このように神をひとつの神秘的有機体として把握することから実に大胆な結論を引き出すこの思想は、多くの形象で表現される。たとえば、樹木が樹皮なしには存在しえず、人間の有機体がたえず純良な血から「悪い血」を排泄するように、悪魔的なものはなんらかの点で神性の秘密そのものから発生するという。」
「悪の化身であるサマエル、つまり「左側」そのもののなかにも、神の生命自体から発する火花が燃えている。いっさいの生あるものの内部にその暗黒面として生き、それらを内部から脅かす悪魔的背神的なもののこの不気味な反世界にたいして示すゾーハルの関心は、異常なほど強い。」



「第七章 イサアク・ルーリアとその学派」より:

「ルーリアは彼の理念を、古代のグノーシスの神話を非常に生きいきと想起させるようなかたちで述べた。だからといって、彼がこのような関係をなんとなく意識していたであろうというのではない。しかしこの思考の内的構造は疑いもなく、グノーシス派とのきわめて緊密な類似性を示している。」
「元来ルーリアはまったく合理主義的な、かなり自然主義的いっていいくらいの考えから出発している。神の本質がいたるところにあるのに、いかにして世界が存在しうるのであろうか? 神は「すべてのなかのすべて」であるのだから、この具体的な場所に神でない別のものがいかにして存在しうるのだろうか? 神の本質がすべてに浸透しているのであるから無というものはまったく存在しえないのに、いかにして神は無から創造することができるのだろうか? ルーリアはこれにたいして、ひとつの考えをもって答えている。(中略)ルーリアは言う。世界の可能性を保証するためには、神は自身の本質のなかに、自分がそこから退去してしまった領域、言い換えれば神が創造と啓示において初めてそこへと歩み出ることができる一種の神秘的原空間を作らねばならなかった、と。無限なる本質エン・ソーフのすべての行為のうちで最初になす行為はしたがって、これが決定的なことなのだが、外部へと歩み出ることではなく、内部へ歩み入ること、つまり自己自身のなかへ退くこと、思い切った表現を用いることが許されるなら、「自己自身から自己自身のなかへの」神の自己交錯なのであった。だからエン・ソーフは、自己の本質ないしは力の最初の流出を自己自身のなかから産み出す代わりに、逆に自己自身のなかへ降下するのであり、自己を自己自身のなかへ集中させるのである。しかもこのことを創造の始め以来繰り返し行ってきたのである。」
「このように神が自己自身の存在のなかへ退くことをわれわれは、神自身がその全能から一層深い孤独のなかへ「亡命する」とか、自己を「追放する」とかいう表現で解釈したい気がする。このように解釈されるならば、ツィムツームという理念は、考えられるかぎり最も深い亡命の象徴、「容器の破裂」よりももっと深い象徴となるだろう。あとで取り扱うつもりの容器の破裂においては、神の存在の一部が自己自身から追放されているが、それにたいしてツィムツームは自己の内部への亡命とみなしうるであろう。」

「ルーリアは人間の課題を、人間の精神の原形態を回復することにほかならないと説明することによって、単純ではあるが効果的に規定した。この使命はひとりひとりに定められている。というのは、魂はすべてもともとそのような原形態を潜在的にもっているからである。それはもちろん、その魂のなかにすべての魂が含まれていたアダムの堕罪以来そこなわれ、品位を失っている。あらゆる魂のなかのこの魂から火花が四方八方に散らばり、諸事物のなかに沈降したのだった。それらの魂の火花を再び取り集め、その正当な場所に運び上げて、人間の精神的本質を、本来神によって意図されていたとおり純粋なままに再生することが肝要なのである。トーラーが要求したり禁止したりする行為のなかで――ルーリアによれば――人間の魂のなかにある個人的な精神的原形態のあの復旧過程が遂行されるのである。」
「堕罪以前の人間は全世界を包括し自己のなかにとらえている宇宙的な原存在であり、その精神的な位階は、メータトローン、すなわち天使のなかの最高位者の位階より高くさえある。」
「諸世界は落下し、アダムは堕落する。すべては乱され、そこなわれ、ルーリアがそう呼んでいるように、「微小状態」に入り込む。原罪がより低いレベルにおいて容器の破裂を繰り返す。その結果は再び、何ものもそれがあるべき所にとどまらず、それがあるべきようには存在せず、それゆえ何ものもその正当な場所に存在しないということである。すべては追放のうちにある。シェキーナーの精神的光は悪のデモーニッシュな世界の闇のなかに引きずりおろされる。その結果は善と悪の混合であり、この混合は、そこから光の要素を取り出しそれを以前の位置に連れ戻すことによって、再び分離されなければならないのである。」

「個人の魂はすべて、それがその精神的回復をなし終えるまでのあいだだけ、個人的存在をもっている。(中略)神の掟を全うした魂は輪廻の法則から解放され、その至福の場所において、すべての事物の全体的回復の際にアダムの原魂に接合されることを期待する。しかし魂がこの課題をなし終えないかぎりは、魂は輪廻の法則の支配を受ける。(中略)異質な存在形式の獄(ひとや)へ、つまり野生の動物や植物や石へ、魂及び魂の火花がこのように追放されることは殊の外身の毛のよだつ追放を表している。魂および魂の火花はそのような追放からどのようにして救済されるのだろうか? ルーリアはこれにたいして、ある種の魂はもともと人類の祖アダムの精神的身体のなかで占めていた場所に応じて親和性をもっている、という教義でもって答えている。彼によれば、魂の親和性というものがあり、それどころか、或るやり方で動的な統一を形成し相互に連関し合う魂の家族というものすら存在する。これらの魂は低い存在の深淵に落ち込んだ自分のグループあるいは家族から発する火花をも、敬虔な行為によって再び引き上げ、より高い存在形式への再上昇を可能にしてやることができる。魂の秘密の親和性とその結果として生じる魂の共感の教義は、ルーリアにとって聖書の多くの物語に一条の光を投ずるものとなる。このことによって真の世界史は、魂と魂の家族の変転と関係の歴史を書くことができるようなものであるだろう、と。」



「第八章 サバタイ主義と神秘主義的異端」より:

「もはや救済は諸民族の支配下に置かれた奴隷状態からの解放だけをさすのではない。それは創造全体の核心部における本質的変化なのである。救済は隠れた世界や現れた世界のすべてを貫くひとつの過程である。なぜなら救済とは、容器の破裂とアダムの堕罪以来その内部に存在しつづけているあの大きな汚点からの回復、ティックーンにほかならないからである。救済は諸世界の構造の根本的な変化を可能にし、かくしてこれらの世界は統一状態へ戻り、それらが堕罪以前に占めていた位置へ復帰する。救済はこのように本質的には神殿の破壊とともに始まった外的追放を終らせるというよりは、つとに楽園からの追放とともに始まっていたあらゆる被造物の内的追放に終止符を打つのである。カバリストたちは救済における歴史的政治的要素よりもはるかに救済の精神的本質を強調したのだ。」








































































関連記事
スポンサーサイト
プロフィール

ひとでなしの猫

Author:ひとでなしの猫
ひ-2-改(ひとでなしの猫 2 改訂版)

◆「樽のなかのディオゲネス」から「ねこぢる」まで◆

難破した人々の為に。

分野: パタフィジック。

趣味: 図書館ごっこ。

好物: 鉱物。スカシカシパン。タコノマクラ。

将来の夢: 石ころ。

尊敬する人物: ジョゼフ・メリック、ジョゼフ・コーネル。

最近の記事
カテゴリー
ブログ内検索
リンク
フリーエリア
netakiri nekotaroの最近読んだ本